子供が産まれ、小学校にあがるまでに家を買いたいと妻が言い始めました。 妻は私の実家で両親と同居は嫌なようなのです。 私の実家は田舎で私は長男なので両親は当然帰ってきて欲しいと思っています。 同居までは求めていませんが実家の付近に住んで欲しいと願っているのです。 また、土地もあるので、金銭的な面でも実家に帰った方が余裕が生まれます。 しかし、仕事の都合上、実家から1時間くらい離れた場所で住むのが通勤などには便利になります。 結婚するときに私は実家に帰らなくてもいいと思っていました。またそのことを妻にも話しました。 しかし、子供が生まれ親の気持ちがわかってくると帰らないことがいかに親不孝かを感じるようになりました。 妻と両親の双方が納得する落としどころというものはないのかと悩んでおり、相談するに至りました。 うまく説明できていないのでわかりにくいかもしれませんがよきアドバイスがありましたらお願いいたします。
宗教は自分の考えで選ぶ事が出来るのでしょうか? ある人から創価学会への入信を勧められています。 私の実家は禅宗です。違う宗派の家に嫁ぎましたが離婚しました。 この場合、実家の宗派に戻るのか?新しく自分で選ぶのか?判りません。その家に伝わる宗教は先祖と自分を繋ぐ絆のような気がするので新たに自分の代から変えるのは不安です。 自分で抱えきれないような悩みがある時,人はどうして乗り越えていくのでしょうか?
死にたい。 自分のことが嫌い、許せない。 だから自分を殺したい。
高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
私の宗派は浄土真宗なのですがもっと自分の考えに近い宗派があるのではないかと考えております。宗派を変えることはできるのでしょうか? また、宗派を変えるにはどうしたらいいのでしょうか?
(編集部より。こちらの質問は規約違反を含むため内容を一部削除、修正しています) 最近このような記事を見つけました。 (リンク削除) ●エラスムス大学(オランダ)の最新の研究によると、女性は男性に比べて知能指数が3.75ポイント低いことが分かった。 また、女性の空間認識能力は、男性に比べて著しく劣っているとのテスト結果が得られた。一方、記憶力のテストでは、女性のほうが男性よりも優れていた。 男女約900名のMRI検査をもとにした調査では、男性の脳は女性の脳よりも約14%大きいことが分かった● 私は薄々女に仕事は向いてないと思っていました。 前回お坊さんたちにコテンパンに叩かれましたがやっぱり納得いきません。 この記事はまさに私が正しいことを科学的に証明してくれています。 しかも最新の研究結果です。 (以下規約にもとづき削除、編集、非表示しています) 女はせっかく・・・ そうすれば少子化も解決するし日本経済も活性化します。 女に・・・ 男の・・・ この世の・・・ 優秀な女は(以下利用規約にもとづき全削除)
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。