あるお寺に予約を取り、悩み事を聞いていただくことになりました。 お布施が必要だと思いますが、どれくらい包めばいいのでしょうか? 時間は 9:30〜11:30くらいまで。 何もわからないもので…、アドバイス頂けたらと思います。
質問が2つあります ①仏教では輪廻転生と言う考え方で生まれ変わると言われていますが 人口の増減についてはどう考えているのでしょうか? 今の日本の人口は1億人を超えていますが 奈良時代 大宝律令ができたころは310万人~320万人ほどだったようです。 日本史の教科書では 昭和初期の満州事変が始まった頃のことを 日本は中国人4億5千万人を敵に回すことになった と書かれていますが 今は中国の人口は軽く10億人を超えています 同じ国籍だけに輪廻転生するとは限らない 世界規模で考えるべきとしても 現在世界の人口は70億人程度いるようですが 1世紀に前に比べても数倍になっています もっと言うなら 数万年前の ~~原人 とかいたころはどうなのか? とか いろいろ説明がつかないことばかりです。 昔の 江原啓之さんが出てくるような心霊番組はテレビでやらなくなりましたが (便乗した霊感商法 悪徳商法がはびこるようになるとか、輪廻転生を信じた人が人生をやり直すために自殺するケースが出たなどの理由で弁護士などがテレビ局に抗議したそうですが) 当時の番組では江原さんは輪廻転生を言っていて 「あなたの前世は~」と言う話になると 全て人間であり、他の動物だったケースは見たことがありません。 しかし 全ての人間が また人間に輪廻転生をするとすると 個体数の関係で辻褄が合わないことになります。 これは仏教ではどう考えているのでしょうか? ②私は亡くなったら全て「無」に帰す 霊魂も輪廻転生もないインチキだ と言う考え方は好きではありません。 それは 大切な肉親を亡くし時点で「永遠の絶縁」を意味するからです。 死ぬことは怖いとは思いませんが、肉親と未来永劫絶縁になると想像するほうが怖いです。 霊魂や輪廻転生を完全否定する宗教家の方もいるようですが、肉親を亡くしたら情なんて捨てろ と考えているのでしょうか?
仏教の本質とはどのような教えですか? 宜しくお願い致します❗
はじめまして。 毎年この時期になると学校がどうしても辛くて、梅雨だからかな?と思っても、明けたからといって気分は変わりません。 中学の頃不登校気味になったことがあります。理由はわかりません。 ですが、学校へ行くと無意識のうちに腕に爪で傷をつけていました。家では頭を打ち付けていたりもしていたらしく、親に止められたことがあります。 その時は自宅で療養し、2年の3学期に復帰しました。 去年も遅刻は数回しましたが、なんとか持ち堪えました。 今回はそうもいきそうにないです。 おなかは空いているのだろうけれど食欲がなく、1週間で2〜3kgは落ちました。 何もやる気が湧かなくなり、好きだった芸人さんの動画さえ見ても笑えなくなりました。 学校ではよく笑うと言われてますが、いつも笑うたびにすごく疲れてしまいます。 表情を作るのにも疲れました。 今は一週間くらい欠席、遅刻が続いています。悲しくなくても涙が出て、嫌なことがあっても自分の中で考えて、結局また腕に傷が増えていきます。すぐ治るのでそこまで気にしてはいません。 以前と比べてぼーっとすることが多くなりました。何をしても楽しくありません。なんで生きてるんだろう?と1日考えることもあります。自分が何をしたいのかもわかりません。 学校がしんどいです。ノートを取る時以外はほとんど自傷行為をしてしまいます。それは、授業が終わってからはっとして見て気づきます。 中学の時精神科に通っていた経験がありますが、その先生には毎回のように怒られ、毎回泣いていました。合わなかったのかもしれません… これから先、将来の夢もなく、この学校で高卒の資格さえ取れるかわかりません。 生きがいってなんですか。 私はどうやって生きていけばいいですか。
仏の教えを感じさせる日本の歌(JPopでも童謡でも演歌でも構いません)ってありますでしょうか? 歌のタイトル、アーティスト名、できればその歌を象徴する仏語を教えていただけますと聴く際の参考になります。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
勤め先の会社にはお稲荷さんがあります。 1年に一度、お坊さんが来てくださり 線香をつけて、お経?を唱えています。 お稲荷さんに、お坊さんが来ていることに すごく疑問を感じます。 調べてみると、神仏習合の関係?と出てきますが なぜなのかあまり理解ができません。 詳しく解説していただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
うつ病を患って、22年になります。 その間、離婚、両親の死、交通事故等、最近では、大阪北部地震にあい、被害を受けました。 今年の3月下旬ごろから、うつ病が悪化し、辛い日々を過ごしています。 身の回りの何もかもが、できなくなり、廃人のようになってしまっています。 お寺にお参りに行くのが好きで、動ける時は、お参りに行って、よい治療効果があるのですが、今は動けず、お参りにも行けません。 生きるのが辛くて、死ぬことも考えます。 離婚した時から、尼寺に入りたいと思っていましたが、その後、交通事故にあい、膝や腰が悪くなり、正座もできません。 年齢も50を超えていて、うつ病も患っていますが、心身を病んだ人間でも、出家得度はできるでしょうか? 心身を病んだ人間でも、受け入れてくれる、お寺を探しています。
外国の仏教と日本の仏教の違いって何ですか? チベット仏教とかテーラワーダ仏教とか色々聞くんですけど日本とは何が違うんでしょうか?
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
自分は浄土真宗徒で、信心を得るためにお聴聞や念仏をしています それとは別で、精神を患っていて、薬を減らすために瞑想をしています 個人的に瞑想は生命力がわいてくる気がして好きなのですが、瞑想をして疑いがなくなるということはないのでしょうか つまり瞑想をして作った「自力の信心」「ニセ信心」のようなものを「如来から賜る信心」と勘違いしてしまうことはないのでしょうか 今はぽつぽつと疑いがわいているような状態で、信心は得ていないと思います 瞑想のおかげで(せいで?)疑いがなくなり、それで信心決定できたと思っても、3年後に瞑想をやめたら疑いが湧いてきた、ということになると困ります 個人的には聴聞も念仏も瞑想もしたいのですが、どうしたらいいのでしょうか
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか
こんにちは。 昔、芥川龍之介の書いた『蜘蛛の糸』という小説を読みました。 お釈迦様がガンダダが救おうとして結局救われないという話だったと思います。 しかし今思い返すとあの話は少し変だと思いました。 あの話ではお釈迦様は極楽浄土にいて、そこから糸を垂らしてガンダダを救おうとします。 しかし仏教では解脱したら輪廻が終わり、無に還るだけだと説いているので、浄土にお釈迦様がいるのは場違いです。 そして調べてみると極楽浄土というのは阿弥陀仏の浄土なのでお釈迦様がいるのはやはりおかしいそうです。 またお釈迦様が人を物理的に助けるというのもおかしな話です。 お釈迦様は神様ではありません。(仏教的には神さまよりも上の存在(?)) あくまで現世で弟子たちに教えを残しただけです。 この作品は日本人に誤った仏教感を植え付けていると思いませんか? もちろん作品の演出だと言えばそれまでですが、日本で古くから信仰されている宗教だからこそ日本人は仏教を正しく認識する必要があると思います。
幼なじみの父親が亡くなりました。 小さい時からかわいがってくれたおいちゃんです。 葬式の日程を聞くと 家族葬だから遠慮して欲しいと返答。 おいちゃんの仕事、友人関係も断るとのこと。 最後にお別れがしたかったのですが 別の意味で涙が出ました・・・ 最近、こういうの多いんですか?
お坊さんは幽霊や霊魂が見えたりするのでしょうか?もし見えてしまったらどうしたらいいですか?
悟ったら毎日どんな感じですか? 悟ったら毎日たのしいですか? たのしいだと つまらないが対極について回るから たのしいというより 静かな感じですか?
キラキラネームや流行などで通常では読めない名前の子どもが増えていると聞きます。また、名付けの由来もなく、ノリや単純に目立つとの理由のみで名前をつける後先も子どものことも考えられない親も増えていると聞きます。 昔の人はお坊さんに名前をつけてもらったなどという話を聞いたことがあります。こんな時代だからこそ是非お坊さんに名前をつけていただきたいという親もたくさんいると思います。 今も依頼すればできるものなのでしょうか? お寺にアポイントなしで訪問し、突然、子どもに名前をつけてくださいと依頼するにはハードルが高すぎる気がするのですが、本当につけてほしい場合はどうすればよいでしょうか?
このままで良いのか、 ご意見を伺いたくご相談申し上げます。 僧侶の妻ですが、男遊びがやめられません。 出会い系を利用して知り合い、 お付き合いは基本お一人の方とですが、 やりとりは数名おられてキープしているような状況です。 お相手には寺院の者であることは秘密にしています。 そもそもはセックスレスだったからなのですが、 そのほかにも寺院以外の事業展開のストレス、拡大に伴い夫である住職がほぼ不在、義母の入退院と介護、義妹との不仲などが同時にのしかかり、ある日プチンと切れてしまいました。 いろんな男性に刹那的にでも優しくしてもらえることで、精神のバランスをとっているような状態です。 うつになり死にたくなるよりはマシ、と正当化しています。 不邪婬戒を侵していることは自覚しています。 毎日の本堂でのご奉仕中に心が痛むこともあります。 それでも仏様はわたしを見ていてくださる、と思いながら、表の顔と裏の顔をそれぞれ生きています。 性欲を満たすために始めたことなので、 とてもやめる気持ちが起こりません。 夫は全く気づいておらず、わたしも積極的に夫とスキンシップはしています。 このようなわたしに、ご意見をいただけますでしょうか。 よろしくお願いします。
こんにちは(=゚ω゚=) 長年漠然と解決しないものがあり、単刀直入に質問をさせて頂きますm(__)m 『お坊さんとは一体なんなのでしょうか?』 職業としてあるが、お医者さんとは違い体に触れて治療はしない。 話によると事業者の税金は非課税。国民でない? いろいろ人生の相談にのってくれるが、近所の年長者とも違う。 悪い行いをしては善くないと諭すが、もちろん警察ではない。 いろいろ知っているが、哲学者などとも異なる。 誰にでも分け隔てなく門戸を開いている。 毎日毎日、修行やお経を上げているが、相撲のように、儀式や観戦のようにお客を湧かすわけでもない。 法律にある、『個人の思想の自由』を良い形で具現化し続けているもの? となると要は『宗教』なんでしょうが、究極の自己満足の生き方?それとも、やはり修行を死ぬ(一般的な意味で100歳の肉体)までやりたいマゾヒスト? もし、ある一定の地域(日本として)の全員が仏教をしたならば、そこの人々は桃源郷になるのでしょうか?ロボットを創る人も、パイロットも、芸能人も、ウェイトレスもいなくなるので、生活が戦国時代ぐらいになるイメージですが。 でも、そうなると、助ける人がいなくなると、お坊さんはすることがなくなる? 思い付くままに箇条書きにしていますので、僕の偏見や間違いもあるかと思います。すみません。m(__)m 大変失礼と思いましたが、ずっともやもやしていたので知りたいです(。-人-。) よろしくお願い致します(^-^)