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検索結果: 2038件

様々な思想の中でどの道に進めば良いのか

こんばんは。 以前に質問させて頂きましたが、またこちらで質問させて頂きます。 私は現在、社会人をしながら様々な哲学や思想について勉強してきました。 勉強をする理由は、様々な思想がある中で、真理(正しいこと)を知りたい、あるいは自分の納得できる考え方を見つけたいと強く思ったです。 そして、これまで学んできた中で、仏教の考え方(特に空の思想)が最も真理に近いものだと考えるに至りました。 これ以上は、学問ではなく座禅などの修行をしないと真理は分からないと思っています。 しかしながら、修行の道に踏み出すことにもためらいがあります。 理由としては ・社会人としての現実の生活があり、それを捨てて修行の道に入ることは現実から逃げているのと同じではないかと考えること。 ・出家して何かしら悟りのようなものを開いたとしても、後の生活がつまらないもののように予測してしまうこと。 ・仏教の教えが一番真理に近いものだと思うが、自分が惹きつけられる思想が他にあり、そちらの教えの方が自分が納得できるのではないかと考えること。 (具体例 三島由紀夫から西部邁先生に連なる保守主義、フライトからラカンに連なる精神分析、キルケゴールやカントなどの実存主義的哲学、大本開祖の出口王仁三郎に代表されるスピリチュアリズム) これらの理由があり、様々な思想のどれにも惹きつけられて、どれかに決めて一歩を踏み出せていないのが現状です。 また、仏教の教えの中でも様々な考え方がありますが、私は最近ご活躍されている南直哉和尚の本に非常に納得させられることが多いです。 特に、この前出版された「超越と実存」という本の中の、親鸞と道元についての文章には深く納得させられました。(どちらも、超越的存在を排除しつつも、実存を受容するための思想として紹介されていました。) しかしながら、批判をする方もいます。 このように、様々の思想の中で混乱しているのが現状です。 お坊さんにお伺いしたいのは、「私の文章を読んでどう思われるか、私はこのままでいいのか、それとも何かを変える必要があるのか」ということです。 現在、28歳ですが、17歳から今までずっとこのような思想的混乱状況から抜け出せていません。 このまま人生が終わるかもしれないと思うと発狂しそうです。 何でも良いので、何かアドバイスを頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 15
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辛いときにやること

八方塞がりで身体共に心がストレスでどうにかなりそうです。 これまで、それでも自分に御褒美を与えて乗り越えたり 楽しいと思うことを自分で探したり他のコラムや教訓めいたもの 偉人達の名言、お坊様達の悟りなど読み漁り気を紛らわし なんとか生きて来た部分もあります。 でももう数年もこんな状態だと自分でもおかしいと思います。 私はもっと幸せになってもいいのではないか 自分で自分を不幸にしてないかと思っても現実は上手くいかず ストレスを酷く感じるようになりました。 これ以上ないどん底を何度か体験し、どん底ならあとは這い上がるだけだと希望を持ち、自分はもっと幸せになってもいいのではないかと 周りを見て疑問を持つようになりました。 ネット:いい人もいるけど数えるくらいで悪意を向ける人も同数かそれ以上いると思っている。心当たりなく、勘違いを勝手にされ、発言も気をつけていたのに向けられる敵意に疲弊し希望も努力もズタズタにされ悔しい。自分に落ち度はなくても変な人に目をつけられやすい 仕事:年配者のモラハラパワハラに耐えながら最初は苦痛で私生活にも支障が起きてたがネットの件があり「あっちよりはましだ」ときつかった期間も乗り越えた。でも毎日がしんどくて辛い。時々叫びたくなったり泣きたくなったりする。周りは笑ってるのに自分だけが笑えず楽しいと思うことがない 家族:姉がどうしようもなく自殺を盾にして金銭を要求しているのを見るたびに死んでくれた方がましかもしれないと最初は引き留めてたのが呆れてしまって救いようがなく、姉のせいで睡眠障害に陥ってしまった。ギャンブル狂になった彼女を助けてあげてという人がいたら、その人が助けてあげて欲しい。むしり取られる一方の家族を見ると 真面目に生きてる人間が不真面目に生きてる人間によって不幸にされてるのが許せない 男性:怒鳴れば言うことを聞くと思ってる人が許せない。 偏見持ちの父を許してない部分がある それらと毎日付き合っていくうちに頑張ろうという気持ちも砕けて 全部やめてしまいたいどこか遠くに行きたい自分が先に死んだ方が もう苦しくないのではないかと思うけれど、それを許さない自分もいます。 美味しいもの食べて母をいっぱい喜ばせて猫と暮らして 幸せに平穏に暮らしたいだけなのですが 生きるって難しい。良いストレス発散ってありませんか 煙草は吸いません

有り難し有り難し 47
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自殺したくない!!辛い人生を全うするには!?

ご質問させて頂きます。ハルソラと申します。 私は38才男性です。 私の人生は実に辛きことが多く、それは学業不振、対人親子関係不全、うつ病、自律神経失調症、職を転々、数年間引きこもりなど生きる事がまさに地獄そのものだと感じていました。 そんな自分を変えようと20代から格闘技、仏教と禅の学び、座禅、仕事の資格取得など少しずつでも努力し、決定的なのが36才の時に行った四国歩きお遍路と秩父、阪東その他の巡礼によって人生観が良い方向に一変し、生きる事に喜び、感謝、希望を見出して、私の生きる地獄は終焉を迎えたかに思えました。 が…最近、人に騙され200万円もの負債を負わされ、しかも就職も思い通りにならず生活が困窮し、再び生きる事が地獄になってしまい、いっそ死にたいくらいの想いに襲われています…。 自殺したらダメだとは分かっています。仏教では生きる事は魂の修業であり、お釈迦様も自殺する事を戒めたと聞きます。また自殺した魂は現世で苦しみ、来世ではさらなる重荷を課せられる。どんな人生であれ、最後の瞬間まで全うする事が大切だと…。 執着するな!いまに徹して生きろ!生きてさえいれば!菩薩の救いを信じろ!穏やかな心を保つことが悟りだ!等々…より良く生きるために学んできた智慧を必死に心に念じる一方、今後さらに状況が悪化したら死んでしまいそうな自分とのせめぎ合いがあります。 もし今回の苦難を乗り越えても、また新たな苦難が来るのが人生ではないかと思います。どんな苦難に見舞われようとも、どんなに惨めであろうとも、それでも人生を全うするにはどの様に考え、また行動したら良いでしょうか? 死そのものが恐ろしいのではなく、自殺してしまって不浄の魂となり苦しむ事が恐ろしいです。 未熟で気骨に欠ける私にどうかご回答よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 27
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2022/09/03

無欲すぎる

無欲すぎることに悩んでいる25歳社会人(8月末退職)です。 新卒で入社した会社を8月末で退職し、次の仕事を探している段階なのですが「やりたいこと」「働く上で興味があること」がなかなかでてこない状況で、自分について考えてみることにしました。   小学生のころから「おこづかいあげる」と言われても「いらない(今の私には必要ないから)」と言って断るので家族から驚かれるような子供でした。 また年頃の友達は「かわいくなりたい」「痩せたい」「メイクしたい」「おしゃれしたい」といった欲から自分磨きに励んだりしていましたが、私は友達のように熱心に自分に向き合う人間ではありませんでした。   私は他人のためなら頑張れたり行動したりできるタイプの人間でした。困っている人は助けたいし、私を頼ってくれた人には全力でこたえたいと思っています。究極の利他主義で友達からは「お人よしすぎる」「自分の利益を考えた方がいい」と言われる始末でした。   確かに、他人に時間を割きすぎて自分を顧みる時間がなく心身が疲れてしまったり、もう少し自分のことだけを考えてもよいのではないかと思うことが時々あります。でも誰かの為になっていることが巡り巡って自分の幸せにもなっていると思います。   長くなりましたが、なかなか自分のこと「だけ」を考えて損得感情をもったり、自分自身に興味や欲望の「矢印」が向いていないのではないかと思っています。 人間は煩悩が誰しもあり、その煩悩を取り去ることが悟りへの道だと思いますが、私はそぎ落としてもいないのに欲望の熱がほかの人より低いと感じます。年を重ねてそぎ落とされ悟るのであればよいと思いますが、25歳の段階でこの具合だとこれからの人生に彩りがなくなってしまうのではないかと感じます。   「お金を稼ぎたい」「キャリアアップしたい」「誰かのために働きたい」こう言った「欲」は良い欲だと個人的には思います。「欲」がないと指針がなく、熱もなく、前向きに頑張る原動力がなくなってしまうからです。   相談する相手が違うと言われればそうかもしれませんが... 欲を見出すにはどうしたらいいのでしょうか? それともこの無欲の状態は人として健全な状態なのでしょうか? 難しいことを聞いてしまって申し訳ありませんが、できるだけ多くの方のお考えやご意見をいただければ幸いです。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 12
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妻との信仰のすれ違い

 現在、専業主婦の妻と1歳の子どもと3人で暮らしています。  私の妻は5年以上前に不安神経症になり寝込んで苦しんでいた時期があり、妻の知り合いから、ある神社を信仰していて神様のお告げが聞けるという女性を紹介してもらい、妻の病気のことをはじめとして、人生相談にずっとのってもらっていました。その女性と知り合って、神様からお告げに従い生活していくと、妻の病気も治り、家庭の状況も改善していきました。お金も取らず、とても親身になって面倒を見てくれるので私たち夫婦もとても頼りにしていました。  しかし、我が家に子どもができてから、その女性から「先祖の悪い因縁から子どもの命が危なく20歳まで生きられない」「今の子どもの魂は人間ではないので魂を入れ替えないといけない。」「子どもを救うためには親が欲を捨て、罪をお詫びして徳を積み悟りを開く必要がある」「早く悟らないと、子どもが将来犯罪者になるか家族のうちの誰かが命を落とす」と神からお告げがあったと言われ、妻が、何とか子どもを救わないといけないと信仰にのめりこんでいきました。それに対して、私も疑問をどこかで持ちながらも、今まで信仰してきたこともあり、また、その女性や妻を裏切ることもできず最初追従をしていました。しかし、次第に妻が子どもが普通の子でないことを探すことばかりに集中するようになり、母子関係も煮詰まるようになりました。 また、その女性や妻から「私の信仰が足りず、いつまでも悟らないから子どもがいつまでたっても救われない」と私が責められるようになり、耐え切れず一度子どもをつれて家を飛び出してしまいました。  その後、自分が信仰についていけない思いを伝え、その女性と距離を一旦置くことを私が妻に提案したところ、妻は原因不明で寝込んでしまいました。妻は私がその女性と距離を置いたことが原因であり、早くそのことを悟って神様とその女性にお詫びをしないといけないと言ってきます。  私の中ではその信仰に対して疑問を持っており、妻の思いに素直に従うことができません。かと言って妻の言動を私が否定すると、妻は怒り、体調がどんどん崩れて寝込んでしまいます。もしかしたら、このままだと家庭が破綻してしまう状況にもなりかねず、どうすべきか悩んでいます。

有り難し有り難し 19
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心が停止したとしか表現できない感覚

心についての相談だったのですがカテゴリに一致する項目がなかったので「その他」へ投稿することにしました。 六時間ほど前から「心が停止した」としか表現ができない不思議な感覚に見舞われています。 この正体とメカニズムがわかる方のご意見を伺いたいのです。 切っ掛けは私の(現時点での)人生最大の恩人であり、愛しい人でもあり、愛という確信は無いけれど愛のような感覚を学ばせてくれた尊敬する男性に、私があまりにも寄り掛かりすぎてしまい彼が自殺願望を抱くほどまで精神衰弱になってしまったため…、元気になってほしいあまりに「私にプロポーズしてくれた男性がいるの。あなたは何の心配なく私を強く押し返しても、私をキャッチしてくれる存在がいるんだよ」とまだ伝えるつもりではなかった話を彼に話してしまったんです。 私の話を聞いた途端に、彼の瞳にみるみる生気が甦ってくる様がありありと私には伝わりました。 嫌というほど…伝わってしまいました。 ふわりと嬉しい気持ちが込み上げてきました。 久々に瞳に光がある彼の顔に出会えたからです。 その彼とは無言で解散し、数分後には自分に異変が起きていました。 心だけが停止しているんです。 意識ははっきりしています。 落ち込んでもいません。 身体機能も正常で、冷静です。 ただ普通の冷静ではなく奇妙な冷静さではあります。 いつもの自分であれば、彼の反応に怒ったり泣いたりと何かしらの「心の波」が生じるんですが、波どころか心が扉を閉めてしまったかのように、何の反応も返さないのです。 波が立つ立たないの次元ではなく…、本当に表現が見つからず申し訳ないのですが 「心が停止」してしまいました。 今ならば目の前で鬼が斧を降り下ろしてきても恐怖しません。 だからといって死にたいわけでも死にたくないわけでもなく… 「無」というか「透明」というか… いえ、そこに「有る」んですけど「無い」んです。 初めての感覚すぎて本当に説明ができません。 脳の意識上でわかるのは「彼が元気になりそうでよかった」「両想いになりたいという私の希望は叶わない」「これ以上の我が儘はまた彼を不幸にする」の三点です。 ネット検索で「悟り?」かと勘違いしそうになりましたが、私は今、どうなっているんでしょうか?

有り難し有り難し 11
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愛を気持ち悪いと思ってしまう

色々な映画や小説で純愛や恋について扱われますが、いつも不思議に感じます。 正直気持ち悪いなと思います。人間醜いものなのに美化して、悦に入ってるなと。愛する人と他の女性との違いはあるのか。一夫多妻制が当たり前の時代だったら、当然のように他の女性に興味を持つのではないか。そう思ってしまいます。 自分は女性を特別好きだと思ったことがありません。不純で最低ですが可愛いな、綺麗だな、やりたいなと常に女性を見るたびに思います。自意識が行き過ぎて少し話しかけられただけで自分のことが気になっているのでは?と色々な妄想をしてしまいます。 そんな女性を性的な目でしか見れない自分のことを気持ち悪いし、最低だと自覚しているので女性には自分から話しかける事はありません。というか、自意識が邪魔して話しかけられません。性的な目で見るなと言われても無理です。考えるより前に見てしまうので。 でも、それとは裏腹に日々性欲は増していき、どうにか女性と親しくなりたい、付き合いたいと思ってしまいます。このジレンマで悩まされています。 仏教では悟りを得るために性欲を抑制しますよね。どうにか性欲を抑える方法はないでしょうか。 これに加えて家族愛も気持ち悪いなと思います。出産とは自分が描いた理想的な家庭像をなぞるためのもので、幸せになるためのツール、エゴでしかないと思っています。産むも産まないも産む人の判断です。ペットショップで高額なペットを飼うのと一緒です。人間に遊ばれるためだけに交配させられ、生まれてきます。 自分が不登校になった時の親の反応を見てそう感じました。息子の感情を度外視して、世間体を気にするあたりです。親というのは息子が理想の優等生だった時と劣等生になった時でこうも対応が変わるのかと驚きました。 とはいえ、人間関係が嫌いなわけではなく、息が合う友人と話す時間は心地良いです。お互いに尊重し、お互い心地良い、でも少し互いに見下しあっているという引いた距離感も好きです。 仏教では愛についてどう考えているのでしょうか?また、人間関係(主に恋愛関係)においてどう考えていけばいいでしょうか?もしくは、性欲を抑える方法などあるのでしょうか?

有り難し有り難し 7
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身に覚えのない嫌がらせ

かなり長文ですが、どうぞよろしくお願いいたします。                                     これまで、泥棒と言われて急に解雇されたり、やってもないのに、患者さんをいじめて暴力を振るったと言われたり、親しかった友人に急に陰険だったんだねと言われたりいました。全く、身に覚えがありません。病院では、医師に、あんたは救急車を呼ぶな迷惑だと言われたり、婦人科に行けば、もう花は終わったなと言われたり、妊娠した時は、何も症状がなかったのに、子宮内容除去術をしないといけないと言われて、手足を白い布で縛られて、「この蛾の幼虫め!」と言われながら手術され、手術後は抗生物質も2日分しかもらえず、だらだら出血し病院に受診すると、子宮に綿球を4ついれられ、その一週間後に受診した時、超音波検査で子宮筋腫が4つ出来てると言われ、近くの踏切あるから自殺されたら困るからなあ、今度は産ませてやるよと言われました。今もたまに不正出血したりして、下腹部は押すと痛みがあります。それから、車で事故に遭わせられたりもしました。警察に電話すると、NHKのトラックで行きますと、ふざけて2回も同じことを言われました。自宅の周辺に他県のごみ袋が落ちていたり、留守にすると廊下は土足で歩いたように汚れていて生活用品が盗まれています。これは日常茶飯事です。聞こえるように「足をなくしてやる」と言われた日の夜に自転車も2台盗まれました。もっと酷いことをされた被害者や、お釈迦様のことを考えて、私も悟りの道を歩ませていただいているんだと思い、どんな状況でも忍耐と理性を失わないようにしてきました。 私に向けられたこのような身に覚えのない憎しみや怒りは、どのようにしたら清めてあげられますか? できればすべての人に、苦しみを取り除いてあげたいです。 お読みいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 14
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死は存在しない

もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。

有り難し有り難し 12
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無常観と向き合いたい

昔から断続的に、無常観に由来する虚しさに襲われます。 研究が上手く行った時、恋人と互いを大切にできた時、音楽で満たされた時、古典を読んで古人と共感した時、夕焼けや木漏れ日など身の回りの自然に感動した時、幸せを感じることは多いし、上手く行っているときは自分が本当に幸せで、信じられないくらい恵まれていると思えて、自分を取り巻く全ての人や、私に恵みを与えてくれた運命か何か、すべてに感謝しています。 しかしそのようなポジティブな気持ちは長くても一月も続きません。何か上手く行っていないことをきっかけに私はまた、無常観に捉われるのです。 結局人は皆死ぬし、文明も人類も滅びるのに、自分はなぜ何かを残そうとしてもがいているのだろうか。究極的には人は孤独で、全てをわかり合うことはできないのに、なぜ時に寂しくなりまた傷つくのだろうか。全て消え行くのになぜ生きるのか、自分の行為1つ1つには何の意味があるのか。 私の虚しさは、もし、一神教の神を信じることができたら、私の悩みは救われるような気がします。善悪を教えてくれ、自らの行いを見て報いを与えてくれる神の存在を信じられれば(そんな単純ではないかもしれませんが)。しかし、そのような価値基準と人格を持った神を、私は信じることができないと思います。 私は人智を超えたものを否定しているわけではありません。たとえば、個人の力ではどうしようもない巡り合わせは存在して、それを運命と呼びうると思います。 しかし、私が科学者であることと関係があるかもしれませんが、それらは価値判断とは無関係なニュートラルなもので、人間に喩えられるような心を持っているとは思いません。ですから、自らを神に任せることで苦しみから解放される、という類の救いは私には訪れない気がします。また、そもそも、人智を超えたものも、全ての価値も、結局人間の心が生み出した共同幻想である、という考えから自由になることはできません。するとやはり虚しくて辛くなります。 なんでも構いません、このような私が、無常観から逃れる、もしくは無常観と向き合うヒントをいただければと思い質問させていただきました。 悟りを得る具体的な行動や、東京都文京区に住んでいるので、具体的な法話や修行のご案内もぜひお願いします。この質問をきっかけに、長年の悩みに前向きに取り組めたら嬉しいです。

有り難し有り難し 20
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専門学校を辞めたいです。

私は今年から社会人になりましたが、高校在学中にやりたいことに挑戦したいと会社に通いながら専門学校に通う事に決めました。 しかし、専門学校にいった初日で辞めたいと思いました。 私は幼い頃から生きることに意味や価値が欲しいと強く思っていました。 しかし、ずっと意味を見つけられず、生きることに全くと言っていいほど執着を持てずにいました。 しかし中学生の時に、自殺未遂なんて当たり前の人達が集まるサイトを閲覧するようになり、少し経った時にある1人の方が「死のうとしたけど死ねなかった」と書き込みをされていて、そしてまた別の誰かがその人に「死ななくて良かった。生きていてくれてありがとう。」と書き込んでいるのを見て、自分でも知らない内に泣いていて、涙が止まりませんでした。 その時に生きていればいつか私を必要としてくれる人に出会えるかもしれないと思い、その時初めて生きることに執着を持ちました。 それから中学生の時にやりたいと思える仕事を見つけ、この仕事だったら誰かに必要とされる、価値ある人になれると思い目指すようになりました。 そして前述に書かせて頂いたように専門学校に通う事になりましたが、初日を終えて、理屈ではなく悟りとでも言うのでしょうか、私には慣れないと漠然と思いました。 中途半端ではなく本気でなりたいと思っていました。しかし今まで臆病者で自分のやりたいことを言い出せず初めてそれを口に出し、挑戦した結果が今回の専門学校でした。 しかし、やめたいと言っても学費などは後から返すつもりではいましたが既に親に払って貰ってしまっている事とたった一回行って辞めたいなんてことを言うのはかなり気がひけます。 幸い学費はあまり高くありませんが通う時の交通費がばかになりません。辞めるなら早く辞める方が交通費的にはとても良いのですが僅か一日で辞めるというのは、親からすればよくない気持ちだと思います。 一日通って帰ってからあまり良くなかったんだろう事に母は気付き、学費は仕方ないけど、交通費的にも辞めるなら早い方が良いよって言ってきてくれました。 私はどうしたら良いのでしょうか。 長文、支離滅裂な文章で申し訳ありませんがご回答頂けると幸いです。

有り難し有り難し 41
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心を中々開けないです

私には遠距離ですが好きな人(片思い)がいます。その人は年がかなり上で同じ仕事で、とてもストイックに頑張っている人です。 最初は仲が良かったのですが、段々その人が自分のことを好きじゃないのか?とわかってきたころに怖くなって仕事のこととかこつけて喧嘩してしまい、現在は疎遠になっています。 連絡先をお互いブロックしたのですが、その人のブログを見るとやっぱり私のことは好きなんだろうなと薄々気が付くようなことが書かれているときがあります。 自分も本当はその人に愛されているような気がするし、悪い人でないことも知っているのですが、中々心を開くことができないで、一時期占いに頼ったり、「こんなすごい人が私を好きなわけない」と自分の最初出会った頃の直観を否定してしまいます。 今自分にできることは、その人と同じ今の仕事をこなして夢に向かって頑張ってから会える機会を待つしかないのですが、やっぱり時々どこかで夢と恋の両立が難しく挫折を感じ、その人を恨むことすらあります。恨みすぎて縁切寺にも行ったのですが「そんなことで縁切りするよりも和合しなさい」と言われてしまい縁を戻すためにお寺で願掛けしました。 彷徨っている中で仏教経典を読み、「八、夫婦はともに、一つの教えによって心を養うようにしなければならない」という箇所で、悟りを開いた夫婦が知恵を同じくすれば、後の世にもまた、同じく一つの心で生きることができるであろう」という箇所にピンときて、(そういやこの人とは前世で会ったような気がするぐらい懐かしい感じがした)と直観で感じたはずなのに、どこかで「前世の責任なんて果たす必要ない」とまた本心とは裏腹な気持ちになったり、「やはりそのぐらい信念を持って生きないと本当にしたい仕事も恋も上手くいかないだろう」という気持ちになって、悩みます。 恋愛相談のカテゴリーなのに仕事の話も出てきて申し訳ないのですが、その人と出会ったことによって大きく人生が変わっていった良いことも沢山あったにもかかわらず、今の自分は素直になれず天邪鬼なところがある気がしてなりません。どうしたら苦しい時でも心を開いて仕事も恋も頑張ろうと思えるようになるでしょうか? ちなみに前回のお悩みは解決して、親とは仲良くやれてます。ありがとうございました。

有り難し有り難し 2
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禅と念仏

こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。

有り難し有り難し 25
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2022/10/16

自分、危ない奴だなって。

 いつもお世話になっております。訓練所をやめることになりました。 原因は、暴力行為と暴言です。距離感が掴めず、距離を詰めてくる男性 メンバーさんに対し嫌悪感を抱き物を投げつけてしまったり、 「私は常識的、あなたたちは非常識。どうして、こんな奴らと一緒に されなきゃいけないんだ」 という、謎めいた慢心を抱き、暑い日もジャケットまで着てスーツで 通所、口を開けば彼らに皮肉…  距離が近い人に対して不快感を抱くのは健常な方も同じだと思う のですが、物を投げるなどの暴力行為は異常でしょう。  また、振出しに戻りました。その間支援者さん同士で会議があった のですが、少々行き違いがありました。その行き違いから、昔、前任の 主治医に騙された事を思い出し、「話が違うじゃないか!」と大泣き しました。そうかと思えば、悟りを開いたような気分になるなど、 不安定です。  こちらも、健常な方にもトラウマというものはあるでしょうが、 命や身の安全に関わることでもない限り、ここまでパニックには ならないでしょう。  また、騙された、というのはどういう事かというと、当時は別の 訓練所に通っており、その間に入院をしたのですが、「退院したら、 訓練に復帰できる」と言われ、安心して入院。退院してみたら、 「復帰は認められない」と告げられました。  訓練所でも言われた病名を、今の主治医に告げました。 「あなたは、診断名で判断したがる。しかし、診断名は、医療者が 使うもの。診断名を見てはいけない。状態を見るように」 と言われました。 「私が病気を勉強するのは、伊達にじゃない。その病気の症状と照合 して、治したいからだ」 と私は告げました。  しかし、主治医から褒め言葉も貰いました。以前に比べると、短絡的な 考えが少なくなり、周囲に対する疑心暗鬼な敵愾心も薄れたきたとの ことです。時間はかかるが、少しずつ治していこうと言われました。  病名ではなく、状態を見る。身体疾患なら容易でしょうが、認知や 判断力が歪められる精神障害では、至難の業です。どうすればよいの でしょうか。  自分が怖いです。今に、何か取り返しのつかない事をしでかすのでは ないか…  先生方のご高見を拝聴したく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 4
回答数回答 1
2022/03/02

生老病死

 数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。  ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。  そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。  般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。  生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。  「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。  即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。  従って仏教の救いは死後にあることになります。  しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。  それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。  そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略

有り難し有り難し 19
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猫のために死ねないと思うのは欲ですか?

先日こちらでお言葉を頂き、冷静になれ、自分を取り戻す事が出来ました。ありがとうございました。 色々と考える中で、以前 住職さんに頂いたお言葉で疑問に思った事がありますので教えて下さい。 二十歳の頃、四国八十八箇所を1人で回ってきました。その際にどこのお寺か覚えていませんが いつ死んでもいい様に生きなさい 死を恐れる生き方をしてはいけません というお言葉を頂きました。 アレをやってない、まだ生きたい、遊びたい、食べたい、こういう欲が死を恐れさせるから〜と言うお話でした。 ハッキリ言いますと 私は今死んでもいいです。 死にたいのではなく 今 突然交通事故に合って死んでしまっても人生に悔い無し、幸せでした。 もちろん死ななくてもいいです。 いずれ訪れるものなので仏様が決めた結果なら、どちらでも受け入れます。 と思う反面、飼っている猫がいます。 私が死んだら一人ぼっち 猫の面倒は誰が見るのだろう… など考えたら、今死んではいけない!と思ってしまいます。 これは欲になるのですか? そうなるならば、家族がいる人間は 『いつ死んでもいい』 と言う気持ちには一生なれないのでは無いでしょうか? どんなに考えても答えが出せませんでした。 教えて頂けませんでしょうか?

有り難し有り難し 7
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