お釈迦様が入滅の前に弟子のアーナンダに自灯明、法灯明を教えましたが、私は今の世の中こそ、この教えをとても大切にする必要を感じてます。 私は、この、自らを灯とし、他者を拠り所にしないという教えを自分の人生に課しています。自分を理解した上で自らを律して、自分の力で立っていることをとても大切にしているつもりです。 しかしながら、社会の中で多くの人と関わりますが、情報がありふれて混迷するこの時代に、他者との関わり方も形を変えて複雑で多様になる為、自らをよりどころに自らを灯すことも難しく感じることがあります。 そこで、法灯明、法をよりどころに、仏様の教えを学ぼうと考えておりますが、仏教の教えに頼ることは、自らを拠り所にすることになるのでしょうか?法とは、どのようなことを指すのでしょうか? 私は人生で、困難や逆境を前にした時に、自分に自信がなくなり、生き方に、選択に迷いが生じることがあります。誰かに頼らず、自らの意思で乗り越えようと思うのですが、何かの道しるべがほしくなる時があります。 法灯明として仏様の教えに頼ることに、自分が考えることから逃避する恐れを感じるのですが、法灯明の法について教えて下さい。 何の教えを、どのように学び、どのように自分に取り込むべきでしょうか?また、その方法について、何かアドバイスがあれば教えて下さい。
精神的苦痛から、婚約していた僧侶と別れ、今も行き場の無い憤りに苦しんでいます。 深い傷に苦しんでいた私を救ってくれたのが出会いのきっかけです。出会った頃の彼は本当に優しく、仏様のような人だと思いました。在家の私は寺へ嫁ぐ不安もありましたが、そんな彼だからこそ迷いもなく、親も説得して決心を固めました。 その後、彼はまるで別人のように変わりました。変わったのではなく「ただ本質が露わになっただけ」と、彼自身言っていました。 プロポーズ時に彼が綴った誓いの言葉の数々は即放棄され、弱音も愚痴も全て求める雛形どおり受け止め労うことを強要し、強烈な人格否定されたり、過去を執拗に責め続けられたり、結婚という大きな決断も、二度も無かったことにされたり…。とにかく「俺のものさし」に合わせろと、私に変化を求め続けました。 でも彼にとっては、傷つけられて辛いのは自分、間違っているのも悪いのも常に私です。彼のものさしで見ることの出来ない私が、傲慢で狭量な人間。別れた後も「私に傷つけられた」と周囲に話していると知りました。 常に阿弥陀様を背にしていると言いながら、目の前の彼は自己愛と正当性の塊でした。 ですが僧侶の彼は僧侶的で、様々な活動をしているためメディアに出ることも多く、世間的評判も高く、人々から称賛されます。皆、彼の纏う誠実そうな雰囲気と容姿に、人格者に違いないと思うそうです。今も彼は何事も無かったかのように僧侶をして…。私が精神的な病と戦っていることは何も知りません。 一度は苦しみから救われたはずの信頼していた人に深く傷つけられ、もう何を信じればよいのかわかりません。これまで、毎日苦悩し、自分自身と向き合い、ありのままの彼を受け止め、彼の求める阿弥陀様のような人間に近づけるよう、私なりに必死で努力をしてきました。深い愛情があったから。彼には全く満たされなかったとしても。見えない努力も愛情も何一つ意味をなさなかったことが、ただ虚しくてやるせない。 今は、彼へのご恩や感謝の念が憎しみに変わってしまうことが怖いです。 僧侶も人間だというのは理解できますが、僧侶の時と本質に大きな乖離があっても、何の呵責も無いのでしょうか? 僧侶って何なのですか? 人を深く傷つけても、阿弥陀様はなんでも許してくれるのでしょうか?… 同じ僧侶の方はどう感じられるのかをお聞きしたいです。
こんばんは、わたしは今、大学で勉強をしながら、コンビニでアルバイトをしています。 しかしこの頃「理不尽ではないか」という内容で怒られて今でも腑に落ちません。 わたしの店舗の入り口の外にはゴミ箱が設置してあります。そのゴミ箱には「家庭ゴミの持ち込みはご遠慮願います。」と表記されています。 ゴミ箱がいっぱいになっていたのでゴミを集めに行こうと店を出たらすぐに、男性がカバンから取り出したチューハイの缶を捨て始めました。5本も6本も。 わたしはその男性にお声掛けをしました。 「こちらに表記してありますように、家庭ゴミを持ち込んで捨てるのは禁止させていただいています。」と。 男性はこう答えられました。 「このチューハイはこの店で買って家で飲んで貯めて持ってきたものだ、何故この店で買ったものをこの店のゴミ箱に捨ててはいけないのか。」 わたしは反論されるとは思っておらずに気が動転してしまい、家庭ゴミがどのようなものを指すのか分からなかったので、社員さんに指示を仰いで来る為、お待ちください、とお伝えし、バックルームに戻りました。 社員さんは「次回からはご遠慮頂くように。」と言っておられたので、 男性の元に戻り、その旨を伝えたのですが納得されず、社員さんに対応して頂くことになりました。 わたしはバックルームで待っていたのですが、戻ってきた社員さんに「一緒に謝罪しに行こう」と言われました。 実際に謝罪をしましたが男性は ・「お待ちください」と強制されたこと ・自分で判断できないなら声をかけるな ・これらは全て家庭ゴミではない ・別に謝られたいわけではない と言って帰られました。 社員さんは「あれは書いているだけで、実際に声をかけると面倒なことになるから無視しろ。」 と注意されました。 正直、家庭ゴミを捨てる人がいないか、いちいち見ていられません。 それでも、そういう行為を行う人は減らないので、見かけたときはお声掛けさせて頂く、ということにできないのか。 などいろいろと考えました。 家族や友人に相談をするも「社会は理不尽なものなんだ。そういうことばかりだ。」と最後には言ってました。 間違っている人に正しいことを伝えてはいけない世の中なのでしたら、どう我慢すればよいのでしょうか。 どう自分を納得させればよいのでしょうか。 返答をお待ちしております。 長文失礼いたしました。
前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。
標題のとおりです。私は男性がすごく苦手で、人によっては恐怖心や嫌悪感を感じており、仕事にも支障が出るほどです。元々人見知りも強く、これまで女性としか接しない環境にあったこと、また、過去に同級生の男子から軽いイジメを受けていたことがトラウマになっているのだと思います。この数年で、かろうじて目をあわせて会話を成立させることができるようになったのですが、それでも距離を詰められるのは苦手ですし、ずっと目を見続けて会話をするのが苦痛で、話している間一瞬他のものに目をそらしてしまうことがあります。そのことが原因で先日お客様からこっぴどい苦情をいただきました(親の育て方が悪い、バチが当たれ云々)しっかり目を見て謝罪をした上で、親は関係ない旨をお話すると逆上され、ただただ怒鳴られ、自分の中でさらにトラウマになりました。しかしこの方、可愛い女性には目がなく彼女達には一切怒鳴ったり口汚なく罵ったりしません。また、この方以外にも女性を顔で選ぶ方が何名かいらっしゃり、あからさまな差別をします(○○さんは可愛いから、○○さんならいいといった感じです)男性にとってやはり女性は顔が全てなのでしょうか。そう考えただけで気持ちが悪くなり、ますます男性を嫌いになりそうです。どうすれば克服することができるでしょうか。(ps.恰幅のよい人や勢いのある話し方をする人、威圧的な男性が特に苦手です。好感をもっている男性や、全く平気である男性も一定数います)
回答率99.9パーセントを誇るお坊様さすがです 毎回私の質問に答えてくれてありがとうございます それではまた輪廻転生について質問です 前回の質問で人が輪廻転生するのはその人の業によってと聞きました それはこの世に借金があって返済しなきゃいけないんですよね でも最初に作られた人間はこの世になんの業も残してないのになぜ借金を返済するためにこの娑婆の世界へ生まれるのですか?
私はうつ病療養のため実家で父(すでに退職)と二人で暮らしています。 父は日中韓問題の動画(一個人の感想や考察を動画配信しているもの)を見ることが趣味です。相手国への嫌悪の感情が動画内容や肉声にたっぷりと含まれていてとても嫌な気持ちになります。リビングのPCでそれを見ているので、耳をふさいでも、食事中も、自室に移ってもその音声の端々が聞こえてきて穏やかではいられません。 嫌だと、折に触れ何度も言いましたが、本気にはしてくれませんでした。ついに先日怒って泣いて訴えました。父に真正面から喧嘩を吹っかけたのはこれが初めてです。深刻さはそこで初めて伝わったでしょうが、やはり理解は得られませんでした。 私は『動画そのものの視聴をやめろとは言っていない、中韓に対して意見は全くないし真偽も興味ないが悪意の乗った声を聞くことが泣くほどつらい、だからその類の動画を見るときはイヤホンをしてほしい』といった旨を論点がズレそうになる度に何度も主張しました。 ですが父は『悪意の乗った声が嫌であることが理解できない、動画内容は正しい(ニュースや学術論文でもないのに)から悪意なんてない、イヤホンは耳が痛くなるからしたくない』とのこと。 精神的に健康ではない状態だから悪意の感情がとても響く、外でそのような出来事にあっても受け流すしかないが、家では悪意の刺激を受けないようにコントロールしたい。色々な例え話をして説明しましたが納得はできなかったようです。 ただただイヤホンをして欲しかったのですが、妥協案が見つかりませんでした。 父は結局のところ、何もせずに家にいる私の要求を聞き入れたくないのだと思います。朝起きて三食食べて家事を少しやれたら上出来、と感じていたのですが、もっと努力が必要だったのかと悲しくなり、無力感を感じました。 自分が外出する時間を増やせばいいのだろうと思いましたが、まだなかなか頻繁には外出できません。不眠の影響で昼夜逆転したり日中怠いことが多いのが一番の理由です。週1~2回数時間かけての散歩がせいぜいです。 家にいるのがやっとの病状の中、家の中でコントロール不能な嫌なことが不定期に起こる場合、私はどのような心持でいればいいのでしょうか。なにかご教示頂けたら嬉しいです。
何となくなんですけど、悪口や愚痴が多い人はろくな目にあわず、悪口や愚痴を言わない人って好かれるし、何事も上手く行っているなと感じています。 悪口や嫌み、愚痴をコミュニケーションだと勘違いしている人もいますし、悪口仲間なんて言葉もあります。 悪口や愚痴はその人自身をマイナスにする、マイナスを呼び寄せる、だから上手くいかないのかなと。 仏教ではそのような考え方ってありますでしょうか?
こんにちは。 亡くなった人にもう一度会えるの方法が、なにかしらあるのではないかと考えてしまい、検索していましたら、そういう考えは仏教の教えに背くものとありました。 会えないのは当たり前なのに、少し悲しかったです。 やっぱり私が人生を全うするまでは、絶対に会えないのでしょうか。 はすのはでたくさんのお坊さんに助けていただきました。残された子供たちに主人の魂が宿っているというのもわかってます。でも、もう一度会いたいと思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょうか。主人の死を受け入れられてないからなのでしょうか。 同じ様な体験をされた方は、どの様に過ごされているのでしょうか。
いつも楽しく拝見させて頂いております。 最初は自分の悩みを相談しようとアカウントを取得したのですが、 他の方へのお坊さま達の、温かいお言葉を拝読させて頂いているうちに、 関係の無いはずの私まで励まされ、勇気付けられ、優しい気持ちにさせて頂きました。 特に聖人や仏様の行いを、物語の様に教えて下さる回答が好きです。 色々と己の身を省みる事が出来ます。 そこで厚かましいお願いとは思いますが、お坊様がたの好きな法話(?)を一つ教えて頂けませんでしょうか。 どうぞよろしくお願いいたします。
彼がなくなりました。 仕事のノイローゼからきたうつ病による自死でした。 恐らく衝動的なもので、だから、自殺だとは思ってません。 病死だと思っています。 ですが、亡くなる直前に電話したのは私で、もしかしてそれが彼の自死に最後の一押しをしてしまったのではないか、私と電話しなければ今も生きていてくれたのではないかと後悔ばかりです。 後追い自殺も正直考えましたが、色々な仏教のお話を読んで何とか踏みとどまっている途中です。 また彼が亡くなったのが受け止めきれず、仕事が手につかなくなり辞めて実家に帰ってしまいました。 遠く離れているのですが、彼の為にできることはありますか? 宗派で何か違うのでしょうか? 彼の家は高野山真言宗でした。 彼の供養のために、彼が早く楽になれるように私にできることを知りたいです。
前回のご相談のその後、 中期中絶をしました。降りてきてくれた子は女の子でした。とても小さな子でしたが、顔立ちも整った立派で愛らしい赤ちゃんでした。 赤ちゃんと最後の時間を過ごし、思い出作りをしました。週明けには最後のお別れをします。 パートナーと私に、無償の愛と沢山の事を身をもって教えてくれ2人に希望を残してくれた事から 希愛(まな)と名付けました。 分骨をし、希愛を想い、決して忘れない様、2人成長して生きます。思い出の品とお骨を小さな祭壇に置き自宅での供養をと思っていますが、やはりお寺さんで供養して貰うべきでしょうか? パートナーのご両親から婚約不履行、猛反対をされての現状ですので、お相手のご両親に内緒でお付き合いは継続している状態ですが、 パートナーも私も、気持ちの整理が出来ておらず、今後のお付き合いの果てに再度、結婚、妊娠という未来は絶望的な事、私の持病を完治に近い状態まで持っていき、認め、支え、尊敬できる存在になったら結婚したいと言ってくれていますが、パートナーのご両親に理解して頂く事は難しいとも考えています。相手は何れご両親の近くに住み移る事になるとも思いますし、私はご両親と上手くやっていける自信がないです。 中絶という結果と度重なる話し合いでパートナーのご両親に対して不快感しか抱く事が出来ず、二度と関わりたくありません。 時間が経てばまた違った考え方も出来るようになるかと思いますが、どの様な気持ちで過ごしていけば良いでしょうか。
私は過去20年間、人を傷つけて生きてきました。 もともとひねくれた性格だったので自分が正しいと疑わず、周りの気持ちを考えようとしていませんでした。 そのことに気づいたのは2年前です。 同時に、自分が最低な人間であること、してきたことの罪深さを実感しました。 それから私は今後一生自分のしてきた罪を償うつもりで生きていこうと決めました。 傷つけられても何も言い返さずに飲み込んだり、他人に積極的に奉仕したりしました。 またかつての恋人にもひどいことをしてしまったので、自分は恋愛をしてはいけない人間であり幸せになってはいけないと強く思っています。 しかし辛いことがあると、「自分は最低な人間だから」「好き勝手生きてきた報い」などと考えて激しく自己嫌悪してしまいます。 その度に布団に潜って落ち込んで、死ぬときの妄想などしています。ちなみに自殺願望はありませんが、いつ死んでもいいとは思っています。 最低な自分を知られたくないのでこんなこと誰にも言えません 私がお聞きしたいのは ・自己嫌悪に陥ったときどうすればよいのか ・以上のような生き方、考え方をどう思うか ・相談相手がいないときどうすればよいか です。 未熟な若造の悩みですがお付き合いいただけたら幸いです。
毎年お盆が来ると、仏様が普段どこにいるのかが気になります。 お盆の時のみ迎え火、送り火などをして仏様を迎え送りますが、その他の日はどこにいるのでしょうか?? 宜しくお願い致します。
感情がコントロールができません。 ひどく腹が立った時、私の中に住んでいて普段はおとなしく寝ているような虎か龍のようなものが出てきて、手がつけられません。 暴力を振るうことがありませんが、一人の時に暴言を吐いたりします。 ひどい時には1週間続きます。 また、面と向かって失礼なことを言われたりすると、耳が全ての聞く力を拒否して、何も聞こえなくなり、その場に固まってしまいます。 感情のコントロールを上手にする方法を教えてください
皆様ご多忙の中とは思いますが、目に留まりましたら、お話を聞かせていただけたら幸いです。 タイトルの言葉を、仏陀の最期の言葉として知ったのは、数年前に納棺師日記という本を読んだ時です。びっくりして一瞬時間が止まりました。最近ふとその言葉を思い出しまして、いい言葉だよなあ、と感動しています。 御釈迦様の時代にもきっと今以上にたくさんな悲惨な事や恐ろしい事があったと思うのですが、最期にそういう言葉を言われた、というのが、 この世の中、どんなに嫌で悲しい事があったり、様々な人間がいて争いごとが尽きず酷い現実があっても、「世界は美しく、人生は甘美である」という事は、 世の中に悪なんて存在しないんじゃないかな、性善説みたいなことだろかと受け止めてしまうのは、飛躍しすぎでしょうか。 あいにく私はこの言葉の背景や前後の言葉を知りませんが、その道のプロの方々が、どのように受け止めたり、とらえられているのかお話を伺ってみたいと思いまして、質問させていただきました。 沢山の方が質問されている中で、緊急性の低い内容でお手間とらせてしまって申し訳無いのですが、、よろしくお願いいたします。
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
以前にご相談させていただきましたが、実家の菩提寺との関係が良くなく離壇の方向で住職と話を進めています。 菩提寺は真言宗智山派です。同宗派でお寺を見つけることができればよかったのですが、兄が学生時代にお世話になった先生が浄土宗の寺で住職をしており、葬儀社の信頼も厚く今後はそちらでお世話になろうと考えております。 ご相談に伺ったところ、菩提寺との関係がきちんと解消されれば入檀は問題ないとのお話を頂きました。 問題は菩提寺です。離壇についてお話ししたところ『戒名を返すように』との趣旨の話をされました。 授かっている戒名を返すとはどのような意味なのでしょうか? 菩提寺の過去帳から名前を消すこと? 位牌の戒名も新しい宗派で新たに戒名を作って頂かなくてはいけないのでしょうか? 菩提寺としては離壇を避けたいとの考えから離壇引き留めの色々な話をしてきました。 色々とわからない内容だった為、一度話を持ち帰りました。 転派と戒名についてご教授よろしくお願いいたします。
先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。