祖母 北海道生まれ・地元で死亡 ↓ ①父→子 相談者・桜雪 父は北海道生まれで現在関東在住。 病気の為、外出は出来ません。 相談者・桜雪も関東に在住していましたが、結婚を期に北海道へ。 ②叔母①・北海道・地元で死亡 ③叔父・北海道・地元外で死亡 ④叔母②・軽度精神障害者 北海道・地元で施設暮らし 祖母が生前叔母②の為に、お世話になっているお寺に葬儀費用として叔母②の名義で100万円を支払っておりました。 所が、叔母の面倒をみていてくれた叔父が亡くなり 叔母の面倒は相談者に。 相談者の家系は相談者以外に子供がいず、お墓の管理も遠距離で出来ない為に、ゆくゆくは墓じまい予定です。 叔母のお葬式も施設でやる為に、葬儀費用はかかりません。そこで返金を要求したいのですが、どうやら住職さんは嫌なご様子です。 一度も住職さんとはお会いした事なく、失礼になったら申し訳ないので、とりあえず返金内容の件はは伏せて、お会いしてご相談したい事があると電話で伝えた所、なぜか逆ギレされ声色恐ろしい口調でマシンガントークのようなお説教をされてしまいました。 弁護士さんにも相談し、住職さんは私共に返金義務があるとの見解を頂いておりますし、叔母名義の領収書も現存していますから、トラブルなく返金して頂きたいのですが… 難しいのでしょうか? お答え辛い内容で…大変失礼な質問だと承知の上なのですが、ご教示よろしくお願い致します。
こんばんは。ハスノハに入って一か月とちょっとくらいの初心者です。初めての仏教本(いきなりはじめる仏教生活)を読み終えて、二冊目に何を読もうか考えています。もう少し詳しく知りたいのですが、お薦めの本がありましたら、よかったら教えてください。 初めての本は教科書みたいに始めから一つ一つ説明してくれるというより仏教の特徴を紹介してくれた感じでした。何回読んで考えてもわからない章はあったけれど(特に禅の章が難しかった)、仏教の特徴が前よりわかってきました。どの宗派でいこうというのはまだ決めていなくて、詳しいのがいいけど難しいのは無理かもという、好みのうるさい注文ですみません。 追伸 すべての事が繋がって影響し合って今の状態が一時的にあるという考え、最初は想像もできなかったのですが、少しわかり始めてきた気がします。すべての原因がどう影響してこうなったのかはわからないけれど、何となくそういう仕組みになっているのかなあ、ぐらいですが….。
何度かここにお世話になっております。 中学生の頃から自分の存在意義が分からないのと将来への不安からずっと死にたいと思っています。 しかし日に日に一分一秒でも早く死にたいという思いが強まるばかりです。 鬱なわけではないんです。 よく食べ、よく寝て、よく笑っているとは思います。 ただ早く死にたいのです。 早く解放されたいんです。 ポジティブな死です。 病気や事故で亡くなられた方には大変失礼ではありますが、自殺以外でどうにか早く死にたいです。 愛を注いで育ててくれた両親にも申し訳ないです。 生きたいと願うのがよくて、死にたいと願うことはいけないことでしょうか。 なぜ私は生きているのでしょうか。 最近職場の人が事故で亡くなりました。 なぜ私ではないのか。 なぜ善良で人望もあるあの人が亡くなって私が生きているのでしょうか。 私はブスで優しくもないし、なにか社会に役立てることもありません。 生きる価値などこれっぽっちもありません。 有事に命をかけて人を守ることができたならば初めて自分に価値が生まれるのではと思いこの職に就いたのに現実はスマホをいじりながらただ1日が過ぎるのを待つばかりです。 なんのために生きているのでしょうか。 仕事を辞めたいのにお金もなく勇気もなく、この田舎では転職活動すらままならない環境です。 なにも楽しくない。 こんなに楽しくない生活を続けることになんの意味があるのか。 価値のない私が生きていることになんの意味があるのか。 もう早く死んで全てから解放されたい。 将来への不安、存在意義の追求、全てのことから解放されたい。 日本でも安楽死をさせてくれればいいのに。 あー早く死にたーい。 生きることから解放されたーい。 文章がめちゃくちゃでなにが言いたいのかもよくわからないですね。 すみません。
こんにちわ。私は3年ほど前、自分の人生を振り返った時にいくつかしてはいけないことをしてきたことを認識しました。例えば、小学生や中学生の頃友達をからかっていたこと。暴力をふるったわけではありませんが、やられた側からすればとても辛いことです。他にも中学生の頃、人生で一番後悔していることをしていました。当時はやった直後に後悔をしてやめようと思った程度で反省はしていませんでした。そして三年前に今までのことを振り返った時に、すごく罪悪感を感じました。過去の自分が、今の自分の善悪の基準で許せないことをしていました。謝罪、償いができることならまだ救われたかもしれませんが、いくら反省をしたところで、迷惑をかけた人に何もすることはできません。私の自己満足です。もちろん、反省をしてそういったことはしないと決意はしています。そうして考えているうちに、ニュースで見る悪いことをしている人、捕まっている人を見ると自分もあの人たちと同じなんだな、むしろバレないで今に至っているので罪を償っていない悪人だと思いました。それ以降、事あるごとに自分のしてきた事を思い出して罪悪感を感じます。そして、自分によくしてくれる人、友達、家族に申し訳なくなります。自分はそんなことしてもらえるような人ではないと思ってしまいます。もし、自分がこういう悪いことをしてきたということを知ったら、そもそも私と関わろうと思わないのではないか、私はいい人のふりをしているのではないかと思います。過去にこだわるのは良くない、今をよりよくしなければとは思いますが、どうしても自己嫌悪から抜け出せません。というよりも、逃げてはいけないと思います。人は過去や痛みを忘れるもので、常に辛いわけではありませんが、事あるごとに思い出しては落ち込み、またそれが和らぎ、を繰り返して生活しています。何かアドバイスいただけると幸いです。長文を読んでいただきありがとうございます。
禅に興味を持ち始め、禅に関する本などを読んだり、このサイトにもよく見にきます。 こうして仏教と触れていくうちに、自分の雑念などそういったものに振り回されないような生き方を身に付けたいと思うようになりました。 しかし、だんだんとその雑念というものを振り払うというのが、自分の大切な感情を無視しているように思えてならなくなり、何か大事なものを見落としてしまいそうな気がしてしまうのです。 なんともまとまらない文章になってしまいすみません。一体どうしたら良いのでしょうか
先日、母が交通事故に遭い、京都の薬師如来様をお祀りしているお寺で祈祷していただきました。以前から疑問に思っていたのですが、神社は二礼二柏手一礼と知っていますが、お寺は同じではないのでは?と思いました。そもそも神道と仏教という事点で違いますよね?お寺の正しい参り方をお教えいただけませんでしょうか、また母の見舞いに行ったとき、すがる思いで薬師如来様の真言唱えているのですが、厳しい修行を積んだお坊さんでもないのに口にしていいものでしょうか。いろいろと無知で申し訳ありません。
はじめまして。唯と申します。 私はクリスチャンの両親に育てられ、 形ばかりですが、洗礼も受けました。 今は、教会に行くことも殆どありませんが、 子供の頃は、 クリスチャンとしての躾を受けました。 何か悪い事をすれば、お説教され、 どんなに悪い子だったかお祈りをさせられて、 それからお仕置きを受けました。 好きな物を食べる事を禁じられたり、 外出禁止や、時にはとても痛い思いもしました。 事の善悪を教えて頂いた事には感謝しています。 年齢的に、自分で自分を律する立場になった時、 気が付いた事がありました。 それは、 自分が犯した罪を告白し赦しを乞う事はしても、 十分な『反省』が出来ない、しない、と言う事です。 お仕置きされて、お仕置き嫌さに悪い事をしていなかっただけだと、気付きました。 牧師様に尋ねても『祈りなさい』と言われただけでした。 機会があり、ほんの少しですが仏教の教えに触れる事がありました。 『慚愧』について聞いた時、 益々、反省の出来ない自分に落胆し、それから、 どうしたら反省の出来る自分に変われるかを、 考え続けています。 仏教における『罪』の意味や、『反省』するための考え方など、教えて頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。
浄土真宗(西本願寺)です。 菩提寺から、墓檀家には月参りを義務付けると言われました。 理由は、ある檀家が行方不明となり、墓維持費も徴収出来ず、無縁墓トラブルで警察沙汰にまで発展したため、無縁墓対策としてとの事でした。 何かズレているように思えてならないのですが。 月参りをすることで、檀家との繋がりが絶対的なものになるとは思えません。 そもそも、墓を放り出して行方不明になるなんて、寺との信頼関係が出来ていなかったからでは!? 月参りの意義が分からなくなりました。 月参りが出来ないのであれば、墓仕舞いをするようにとまで言われています。 後継ぎがいませんので、墓仕舞いも考えないといけないのですが、まだまだ先の事と思っておりましたので、今回の寺からの発言に不信感がつのっております。 私は、毎日家族が仏壇に手を合わせる事が一番だと思っています。(言い換えれば月参りは必要ないと思っています。) それだけではいけないのでしょうか?
祖父のお骨について相談させて下さい。 私は現在結婚をして家を出ています。 実家とは折り合いが悪くほぼ、連絡を取っていません。 先日義実家の用で納骨堂に行った際に、私の祖父が入っていた納骨堂が建て直しされた事が分かりました。 2年前に建て直しをするから遺骨を一旦引き取る旨を実家は知っていましたが引き取らず、そのままにしていた様です。 現在は本堂の隅に置かれている状況ですが、今年中に引き取らないと処分されてしまうそうです。 その為実家に連絡を取ってみたのですが、あいまいな返事しか返ってこず、多分そのままにするつもりの様です。 私と祖父は血が繋がっていませんし、結婚をして家を出ているので私側でお墓を買ったり納骨堂を新たに買ったりする事は金銭的にも厳しいです。 実家も散財ばかりしているので新たに納骨堂を買ったりする事ができないと思っています。 永代供養か共同墓地を考えていますが、直ぐにはお金を出せない状況なので、一旦遺骨を家に保管しお金が貯まったら永代供養、あるいは共同墓地…と考えています。 しかし、実家では遺骨を引き取りたくないの一点張りです。 もう、どうしたら良いのか分からず困っています。 どうが、ご助言頂けないでしょうか…
私は 現代医学では治すことのできない 病を抱えた娘を出産しました。第一子ということもありとても本当に可愛いくて大切な存在であり私の人生の全てでした。そんな愛しい娘が 懸命に生き 0歳と4ヶ月4日という短い生涯を終えました。 出産前から 我が子が短命であるという宿命を抱えて産まれてくることが分かったいたので覚悟は出来ているつもりでした。いざ娘が天に召されてから 毎日涙が止まらず 寝付けない日々が続き 精神的にも肉体的にも いっぱいいっぱいです。 娘のことを思うと 母である私が1日でも早く立ち直ることが 彼女にとって安心できる事なのだろうとは思っているのですが もう 出来ることなら娘のそばへいきたくて仕方ありません。 今 何を生きる糧として生きていけば良いのかも分かりません。 どうしたら良いのでしょうか。
あるお坊さんのサイトを見た時、こんなこんな考えがあるのかと思った事があります。 「ヘビに食べれそうになっていた猫を助けた人が称賛されている。食べ物を奪われたヘビの気持ちはどうなのか、人間が他の生き物の生き死にを決めていいのか」 この考えを見て、猫を助けるべきだったのかそうでないのか、答えは無いと思いますがお坊さんの考えを聞きたいと思って質問させて頂きました。
精神的苦痛から、婚約していた僧侶と別れ、今も行き場の無い憤りに苦しんでいます。 深い傷に苦しんでいた私を救ってくれたのが出会いのきっかけです。出会った頃の彼は本当に優しく、仏様のような人だと思いました。在家の私は寺へ嫁ぐ不安もありましたが、そんな彼だからこそ迷いもなく、親も説得して決心を固めました。 その後、彼はまるで別人のように変わりました。変わったのではなく「ただ本質が露わになっただけ」と、彼自身言っていました。 プロポーズ時に彼が綴った誓いの言葉の数々は即放棄され、弱音も愚痴も全て求める雛形どおり受け止め労うことを強要し、強烈な人格否定されたり、過去を執拗に責め続けられたり、結婚という大きな決断も、二度も無かったことにされたり…。とにかく「俺のものさし」に合わせろと、私に変化を求め続けました。 でも彼にとっては、傷つけられて辛いのは自分、間違っているのも悪いのも常に私です。彼のものさしで見ることの出来ない私が、傲慢で狭量な人間。別れた後も「私に傷つけられた」と周囲に話していると知りました。 常に阿弥陀様を背にしていると言いながら、目の前の彼は自己愛と正当性の塊でした。 ですが僧侶の彼は僧侶的で、様々な活動をしているためメディアに出ることも多く、世間的評判も高く、人々から称賛されます。皆、彼の纏う誠実そうな雰囲気と容姿に、人格者に違いないと思うそうです。今も彼は何事も無かったかのように僧侶をして…。私が精神的な病と戦っていることは何も知りません。 一度は苦しみから救われたはずの信頼していた人に深く傷つけられ、もう何を信じればよいのかわかりません。これまで、毎日苦悩し、自分自身と向き合い、ありのままの彼を受け止め、彼の求める阿弥陀様のような人間に近づけるよう、私なりに必死で努力をしてきました。深い愛情があったから。彼には全く満たされなかったとしても。見えない努力も愛情も何一つ意味をなさなかったことが、ただ虚しくてやるせない。 今は、彼へのご恩や感謝の念が憎しみに変わってしまうことが怖いです。 僧侶も人間だというのは理解できますが、僧侶の時と本質に大きな乖離があっても、何の呵責も無いのでしょうか? 僧侶って何なのですか? 人を深く傷つけても、阿弥陀様はなんでも許してくれるのでしょうか?… 同じ僧侶の方はどう感じられるのかをお聞きしたいです。
私はうつ病療養のため実家で父(すでに退職)と二人で暮らしています。 父は日中韓問題の動画(一個人の感想や考察を動画配信しているもの)を見ることが趣味です。相手国への嫌悪の感情が動画内容や肉声にたっぷりと含まれていてとても嫌な気持ちになります。リビングのPCでそれを見ているので、耳をふさいでも、食事中も、自室に移ってもその音声の端々が聞こえてきて穏やかではいられません。 嫌だと、折に触れ何度も言いましたが、本気にはしてくれませんでした。ついに先日怒って泣いて訴えました。父に真正面から喧嘩を吹っかけたのはこれが初めてです。深刻さはそこで初めて伝わったでしょうが、やはり理解は得られませんでした。 私は『動画そのものの視聴をやめろとは言っていない、中韓に対して意見は全くないし真偽も興味ないが悪意の乗った声を聞くことが泣くほどつらい、だからその類の動画を見るときはイヤホンをしてほしい』といった旨を論点がズレそうになる度に何度も主張しました。 ですが父は『悪意の乗った声が嫌であることが理解できない、動画内容は正しい(ニュースや学術論文でもないのに)から悪意なんてない、イヤホンは耳が痛くなるからしたくない』とのこと。 精神的に健康ではない状態だから悪意の感情がとても響く、外でそのような出来事にあっても受け流すしかないが、家では悪意の刺激を受けないようにコントロールしたい。色々な例え話をして説明しましたが納得はできなかったようです。 ただただイヤホンをして欲しかったのですが、妥協案が見つかりませんでした。 父は結局のところ、何もせずに家にいる私の要求を聞き入れたくないのだと思います。朝起きて三食食べて家事を少しやれたら上出来、と感じていたのですが、もっと努力が必要だったのかと悲しくなり、無力感を感じました。 自分が外出する時間を増やせばいいのだろうと思いましたが、まだなかなか頻繁には外出できません。不眠の影響で昼夜逆転したり日中怠いことが多いのが一番の理由です。週1~2回数時間かけての散歩がせいぜいです。 家にいるのがやっとの病状の中、家の中でコントロール不能な嫌なことが不定期に起こる場合、私はどのような心持でいればいいのでしょうか。なにかご教示頂けたら嬉しいです。
彼がなくなりました。 仕事のノイローゼからきたうつ病による自死でした。 恐らく衝動的なもので、だから、自殺だとは思ってません。 病死だと思っています。 ですが、亡くなる直前に電話したのは私で、もしかしてそれが彼の自死に最後の一押しをしてしまったのではないか、私と電話しなければ今も生きていてくれたのではないかと後悔ばかりです。 後追い自殺も正直考えましたが、色々な仏教のお話を読んで何とか踏みとどまっている途中です。 また彼が亡くなったのが受け止めきれず、仕事が手につかなくなり辞めて実家に帰ってしまいました。 遠く離れているのですが、彼の為にできることはありますか? 宗派で何か違うのでしょうか? 彼の家は高野山真言宗でした。 彼の供養のために、彼が早く楽になれるように私にできることを知りたいです。
回答率99.9パーセントを誇るお坊様さすがです 毎回私の質問に答えてくれてありがとうございます それではまた輪廻転生について質問です 前回の質問で人が輪廻転生するのはその人の業によってと聞きました それはこの世に借金があって返済しなきゃいけないんですよね でも最初に作られた人間はこの世になんの業も残してないのになぜ借金を返済するためにこの娑婆の世界へ生まれるのですか?
こんばんは、わたしは今、大学で勉強をしながら、コンビニでアルバイトをしています。 しかしこの頃「理不尽ではないか」という内容で怒られて今でも腑に落ちません。 わたしの店舗の入り口の外にはゴミ箱が設置してあります。そのゴミ箱には「家庭ゴミの持ち込みはご遠慮願います。」と表記されています。 ゴミ箱がいっぱいになっていたのでゴミを集めに行こうと店を出たらすぐに、男性がカバンから取り出したチューハイの缶を捨て始めました。5本も6本も。 わたしはその男性にお声掛けをしました。 「こちらに表記してありますように、家庭ゴミを持ち込んで捨てるのは禁止させていただいています。」と。 男性はこう答えられました。 「このチューハイはこの店で買って家で飲んで貯めて持ってきたものだ、何故この店で買ったものをこの店のゴミ箱に捨ててはいけないのか。」 わたしは反論されるとは思っておらずに気が動転してしまい、家庭ゴミがどのようなものを指すのか分からなかったので、社員さんに指示を仰いで来る為、お待ちください、とお伝えし、バックルームに戻りました。 社員さんは「次回からはご遠慮頂くように。」と言っておられたので、 男性の元に戻り、その旨を伝えたのですが納得されず、社員さんに対応して頂くことになりました。 わたしはバックルームで待っていたのですが、戻ってきた社員さんに「一緒に謝罪しに行こう」と言われました。 実際に謝罪をしましたが男性は ・「お待ちください」と強制されたこと ・自分で判断できないなら声をかけるな ・これらは全て家庭ゴミではない ・別に謝られたいわけではない と言って帰られました。 社員さんは「あれは書いているだけで、実際に声をかけると面倒なことになるから無視しろ。」 と注意されました。 正直、家庭ゴミを捨てる人がいないか、いちいち見ていられません。 それでも、そういう行為を行う人は減らないので、見かけたときはお声掛けさせて頂く、ということにできないのか。 などいろいろと考えました。 家族や友人に相談をするも「社会は理不尽なものなんだ。そういうことばかりだ。」と最後には言ってました。 間違っている人に正しいことを伝えてはいけない世の中なのでしたら、どう我慢すればよいのでしょうか。 どう自分を納得させればよいのでしょうか。 返答をお待ちしております。 長文失礼いたしました。
前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 はじめて質問致します。 自分は3人兄弟の次男で上に兄、下に妹がいます。上の兄の事ですが、独立してバツイチで結婚(子供無し)してますが、9年前に亡くなったのですが、今だ、納骨せずに手元に置いて居ると、最近知りました。このままの状態で、供養出来るのでしょうか⁉ 早々に供養したいのですが、良きアドバイス宜しくお願い致します。
毎年お盆が来ると、仏様が普段どこにいるのかが気になります。 お盆の時のみ迎え火、送り火などをして仏様を迎え送りますが、その他の日はどこにいるのでしょうか?? 宜しくお願い致します。
先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。