はじめて質問させていただきます。 大学生です。わたしには付き合って7ヶ月になる彼氏がいます。 先月よりわたしの実家で同棲をしているのですが、先日彼氏が元恋人と浮気をしていることが発覚しました。 以前から頻繁に元恋人から連絡きていて、疑ってはいたのですが、彼氏が恋愛相談を受けているだけで何もない。と言っていたため、信用していました。 しかし、先日本人にLINEを見せてもらったところ、そこには『会いたい』といったような趣旨のメッセージが。3ヶ月も続いており、しかもLINEを送ったのも会いたいといい始めたのも彼氏からでした。 彼氏は泣きながら『もうしない。連絡先も消す。お前が一番だ。』と言っています。しかし、彼が帰省していた間わたしに電話をかけてきたのはこちらから頼んだ2回のみ。対して元恋人には頻繁にかけていました。 彼氏を信用したい。温もりを失いたくないという甘い自分と利用されているだけだから早く別れなければと思う自分に板挟みで今、とても心苦しいです。 いまかなり、つらいです。 向き合うのがこわく 『信用』すると理由づけをしてずっと見て見ぬ振りをしてきました。 彼氏と向き合うにはどうしたら良いでしょうか。 また、みなさんがよいと思われる方向、個人的見解をお教えいただけたらと思います。
31歳独身女性です。 最近6歳年下の彼氏が出来ました。 すごくかっこいいわけではないですが、わたしが持っていないものをたくさん持っている人です。 私から積極的にアプローチして、「僕でいいなら」という形でお付き合いがスタートしました。 付き合えたことはすごく嬉しいのに、「彼はまだ若いし、きっと結婚のこととか考えてくれないんだろうな」とか SNSでの彼の言動に憂鬱になったり(私は彼をフォローしていません) なんだか自分の感情の動きが卑しくて、辛く悲しくなります。 周りは結婚・出産・家や車を買うなど人生を順調に進めているのに 私は独身・・仕事で成功しているわけでも誰かに熱烈に愛されているわけでもない。 冷静に考えれば周りの人たちだって何かしら悩みを抱えているのだろうし、 私だって側から見れば若い彼氏がいて、趣味も充実してて、幸せなはずなのに なんだか満たされない気持ちなのはなぜでしょうか。 幸せってなんなんでしょうか。
こちらで戒名を載せていいものか悩みましたが、どなたかアドバイス頂けますでしょうか。 先日、最愛の実母が亡くなりました。長い長い闘病生活、長くはない命と分かっていながらも素直になれず困らせたり、もっと何かをしてあげればよかった、の後悔ばかりの日々を送っています。 私達(姉がいます)に父親はいません。母の葬儀が人生初の葬儀(幼少期に祖母がなくなりましたが記憶に薄いです)となり、姉が喪主となり2人で右も左も分からないまま、ただ母の旅立ちをしっかりととの思いで通夜告別式を執り行いました。 準備段階での事です。母に戒名を頂くために、母の両親を連れ、ご先祖様のお墓のあるお寺の住職さんに戒名のお願いしました。しかし、住職さんはお年を召してるのか全くこちらの話を聞いて下さらず、ただただ同じ事を繰り返し言うのみ。遠方だったので、一度戒名をつけて頂きたいと電話で伝えた際に姉がうまく伝わっていないと思う、と言うので心配になりいざ出向いてみるとすでに戒名が決まっていました。電話で伝えたのは名前と歳のみです。 私達はお恥ずかしながらあまり知識がなくネットなどで調べるのが精一杯です。戒名とは、俗名から一字、人柄から一字、というのは間違った情報でしょうか? 母の戒名は、瑞雲蓮花妙○○大姉霊位、です。○○の部分には母の俗名がそのまま入っています。意味を伺っても、読み方しか教えてくれず、母の両親に訴えても、もう決まったみたいだから、と。 もちろん、頂いた戒名に不満があるわけではありません。ただ、人柄なくして戒名がつくのか、どういった意味合いなのかが知りたくて投稿させて頂きました。 よろしくお願いします。
嫌な出来事や負の感情も、無理に消そうとせずに受け入れて自分を知る(向き合う)事で、自分はダメな人間なのか等 ネガティブな気持ちが出て来てきたら… それでも心を穏やかにして自愛に意識を向ける(自分を大切に、自分を愛する)と良い。 と… 聞いた事がありますが、ネガティブな気持ちも受け入れながらも自愛をする… という事を私は上手くできずにいます。 お坊さんなら、こういう時はどのように自分を愛するように気持ちを持っていくのでしょうか?
仕事がうまくいきません。 ありがたいことに、みなさん期待して任せていただいていたのですが、ある先様では力が足りず、ある先様ではタイミングが合わず、しまいには信用を無くしていく始末です。 自分はこんなに仕事ができなかったのかと、気力をなくし嘆いているばかりの毎日です。 声をかけていただいたお客さんや周りの人にも顔向けできず、時間ばかりが過ぎていきます。 どうすればよいのか、なんでも結構ですのでアドバイスいただければありがたいです。 よろしくお願いいたします。
毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。
私は母と二人暮らしなのですが、とても苦しいです。少し冷たい態度をすると、ろくでもない人間だ、そんな風に育てた覚えはない、口論になればすぐに出て行け縁を切ると言われます。普段はなんの変哲もない仲のいい親子だとは思うのですが、それは仮面なのではないかと感じます。 大学を卒業し、仮面部分な仲良しな面はもうなく、いままで以上に関係は険悪になってしまっています。そんななか、自分を変えて成長したく、初めて自分から家を出ると話をしました。ですが金銭的な問題があり、今お付き合いしている彼の部屋へ同棲する形になってしまうことも伝えました。母はやりたいならやってみなさい、でも縁は切る。そう言って聞きません。離れて暮らす父にも、いままでの恩返しの気持ちがないのか、親不孝だ、家を出るな、今まで通り家のことをやって母を支えろと言います。 自分でも、人として間違っていることをしていることはわかっています。今まで育ててくれていた両親を裏切る行為だと、親不孝だと。でもこうでもしないと家から出ることは今後できないのではないかと感じてしまい、素直に家に戻ると言えませんでした。 家庭環境の問題なので、言葉でうまく説明できませんが私は今のこの状況から抜け出して、離れて暮らすことによって今まで見えてこなかったものを自分の体で経験したいと思っています。事あるごとにでていけと言われるのはとても疲れてしまいました。 私はこれからも我慢をし、父の助言を聞き入れ家を出ることを辞めるべきでしょうか。
今年成人したものです。 私は幼い頃から上手く人間関係を築くことができません。人から聞いた話などから相手に対して裏切られたと感じたり、不信感を抱くと話し合いで解決するのではなく相手と距離を置いていました。距離を置くのもほぼ無視するような形で明らかに相手を傷つけてしまうものでした。この傾向は最近まであり、本当に情けなく、後悔しています。中学生・高校生時代にそれぞれで相手にしてしまったことを思い出しては自己嫌悪になっています。なぜ周りの友人は上手く人間関係を築けているのにいつまで経っても成長できていないのだろうと思っています。また、自分も人を傷つけた経験があるのにも関わらず、小学生時代に傷付けられた経験を乗り越えることができていません。いじめのようなものがあって、標的が何度か変わり、私が標的になった時のことです。クラスの半数以上の男女に悪口を言われていたり、暴力に近いことをされました。仲良くしてくれていた友人がいたのでその当時は完璧に心が折れることなく、やり過ごしていたのですがふとした瞬間に今でも当時の記憶が蘇り、トラウマのようになっています。現在は当時仲良くしてくれていた友人以外との交流は断ち切っていますが地元が同じであったり、友人との会話に出てくることから度々思い出しては苦しくなります。 人を傷つけてしまったことがあるのに過去にされたことを未だに乗り越えられずにいる自分がもどかしく、嫌悪感しかありません。自分でいるのが辛くなります。 今、自分にできることはこれ以上誰かを傷つけないことだと思い、これまで行ってしまったことを繰り返さないように意識していますが、人と関わったり、傷つけてしまうかもしれないのが怖くなり、現在通っている学校ではあまり関わらないように一定の友人以外の交流を止めてしまいました。生きにくいというかなんとなく前に進めていないような感じがします。前に進むためにはどのようにしていけば良いのがアドバイスをいただきたいです。
とあるお坊さんが釈迦は自殺について原典から観ると「自殺しても人生の負け犬で、来世も不幸になることでしょう」と説いたと仰っていますが、本当に釈迦はそのように説いたのでしょうか?
以前自分が少し眼を話した隙に、車の事故で子供を亡くした友人がいます。今でも苦しんでいるようなので、どのように声をかけて励ませばよいか悩んでいるのですが・・・ 魂や輪廻転生といったもののお話ができて、説明できると少しは気が楽になるのではと思うのですが、お答えいただける方、いらしたらご回答をよろしくお願いいたします。
分別をしない無分別で見た世界こそがあるべきままの世界の姿だと教わりました。 ああその通りだなと思うのですが。 分別をはさまずに無分別だと生活すらできません。 この無分別の知恵を生活に生かすにはどうしたらよいでしょうか?
初めての質問です。 日々お忙しい中すみません。つたない文章ですが、読んでくださるとうれしいです。 私は今大学受験を控えています。美術系の大学を受けるために日々努力しています。 勿論絵を描くのは好きなのですが、気持ちが足りないせいかあまり夢中になって取り組めず、思うように結果が出ません。 もう、『才能が無い』と割りきって、諦めた方が良いのでしょうか。 しかし、今まで周りの事に無関心だった私は、色んな事に挑戦したり新しいことに取り組む事をしてきませんでした。 だからか、私に出来ることが絵を描くことしか残されていません。私から絵を描くことを取ったら、ほぼ将来への道が閉ざされてしまうのです。それに、今までしてきたことは何だったのか、と自己嫌悪に陥ってしまいます……。 『ほぼ』というのは、他にも興味のあることはあるにはあるので、いっそのこと、そっち方面に路線を変えた方が良いのではないか、と思ってきたからです。 人生、間違った選択をしてしまったためにそのあとずっと苦しむ様なことはなるべくしたくありません。 どんな事が自分に向いていて、合っているのかまだ分からないのです。 苦しんででも1度決めた道を突き進んだ方が良いのか、諦めて比較的楽しく過ごせるであろう方に進んだ方が良いのか、どちらが良いのか悩んでいます。 合っている道=楽しい ではないのかもしれませんが、今の私には何が正しいのかわからないのです。正しい答えなんてないのかもしれませんが。 長々とすみません。へんてこな文章になってしまいましたが、ここまで読んでくださりありがとうございます。喝やアドバイス、もらえると嬉しいです。
(編集部より。利用規約により投稿の一部を編集しています。) はじめまして。この歳になってお恥ずかしい質問かと思われますがよろしくお願い致します。 仏教や、宗教を分かりやすく教えていただきたいです。 と、いうのも、義家族(親族含む)がある宗教を信仰しています。夫はそこまで深く信仰はしていませんが、心の奥には信仰心はあると思います。 私は、全くの無宗教です。 悪いイメージがあるとか人が悪いとも思った事はないですが、義両親には結婚当初入信して欲しいと言われました。実両親が、その宗教に対して良いイメージはないので入信を断わっています。 周りの友人、知り合い等からもイメージはあまりよくはありません。 先ずは、仏教と宗教を分かりやすく知りたいです。 よろしくお願い致します。
煩悩とは欲の事を示すのですか?自利? それなら「ひとの役に立ちたい」「優しくなりたい」も欲のうちに入りますか? よく、無の境地と言いますがなにも思い描かない心が無欲という事ですか? 今まで誰かの役にたてればと強く思い生きてきましたが 最近では違和感を感じます。他人の為にと願う気持ちも実は自利ではないのかと.... 無欲とは心にいっさいの願望を思い浮かべない事なのかと。仏教の解釈、お坊さんの解釈で結構ですので参考にしたいです。
仏師になろうと思い、本日届いた般若心経と金剛般若経の本を読みました。 そして私なりの解釈をしたのですが、間違った解釈をするといけないと思い、専門家の方々に聞こうと思いました。 私は赤子に戻って本を読んで思ったのは、「全ては空である。」です。 空とは無であり無限であることだと思います。 人間は苦しみを持ちますが、それはあると思うからあるのです。 本当はそんなものはありません。 さらに言えば自分というものさえありません。 とはいえ、世界が無なのではありません。 その逆に世界は無限です。 何故ならば、個がないのだから、他者も自分、万物も自分だからです。 全ての人々が他者も自分と思えば世界から苦しみがなくなります。 般若心経が呪文で終わっていたのが印象的でした。 頭でっかちになりがちな現代人に対する大変効果的な修行です。 金剛般若心経の「○○といったから○○ではない。それ故に○○である」の部分も興味深かったです。 確かに空となったらそうなります。 他者との視点と自分の視点の事象を、空としてとらえると面白い論理になると思いました。 総じて懐かしい感じがしました。 不思議なことに以前から知っていたような気がします。 人は誰しも生まれる前に仏の説法を聞いて生まれてくるのかもしれません。 私の般若心経の解釈はあっていますか?
お坊さんたちに4つ質問がございます。 どんなに難しい回答となってしまっても構いませんので(仏教を勉強して頑張って理解します)、何卒よろしくお願いします。 ① 人はなぜ、自分自身によって「よいもの・正しいもの」と判断したものを否定されると、自分という存在が否定されたのだと思ってしまうのでしょうか。 ② 人はなぜ、自分という存在が否定されたと思うと、反射的に絶望した感覚へと陥ってしまうのでしょうか。 ③ 人はなぜ、この「絶望した感覚」によって自ずと苦しんでしまうのでしょうか。 ④ 「諸法無我」という教えが仏教にはありますが、上記の一連の流れをリアルタイムで実際に感じている「その“感覚”」及び「主体」も「諸法無我」なのでしょうか。もしそうであるならば、どうすれば「その“感覚”及び主体は諸法無我である」と実感できるのでしょうか。
仏教の教えに全ては苦しみである、というのがあると思いますが、僕は普通に人生楽しいです。この苦というのは思い通りにならないという意味らしいですが、例えばテレビの電源をつけようと思ったらつけられます。この時点で一切ではないと思います。 そもそも一切皆苦であれば、自殺をすればいいのではないでしょうか?(自殺を推奨しているわけではありません)輪廻という前提がない現代日本で一切皆苦と言われても、「じゃあ死ねばいいんじゃない?」と思ってしまいます 僕はアンチではなく、仏教徒です。真宗の門徒なのですが、一切皆苦と言われるとひっかかってしまいます。
東京はお盆を迎えます。親族についてご相談させてください。詳細には書けませんが、かなり困った人です。 過去には、父母の相続について「やり方がわからない」等と言って放置し、弟と分けもせず、父母名義で送付される株式の配当金や優待券等を自分のものにしていました。次の相続が発生し、私とのやり取りとなりましたが、金融機関に「自分が全て相続することになった」と嘘を伝えて書類を作成した上、私には全く違う説明をしたり、必要な書類は送ってこないなど非協力的でした。 葬儀前から家で金目のものを探すなどする割に、入院費や葬儀費用はこちらに督促の連絡がきていました。法事に関しても、自分が施主となるものは行いませんし、参加もしません。今回も、相続に関する費用の支払いは後回しにされています。法事、各種支払いについては、仕事等を理由にしていますが、休みを取って遊んでいます。 逆に不思議なことに、本来受け取るべきものを受け取れる時には、些細なことで文句をつけたり、面倒がったりします。 金銭欲と自己保身のために、分けるべきものを分けなかったり、嘘をついたりといった状況を重ねてきたということだと思います。さらに、億を超える財産を受け取ったのに、もらえるもの、支払うものが気になるようで、既に終わっているものを調べたりしています。 周囲からは、そこまで面倒を見る必要はないと言われますし、私もそろそろ 精神的に限界です。 お盆にあたり、餓鬼事経などを読んでいると、この人について考えさせられます。お経では餓鬼が供養を求め、お釈迦様が供養の方法を弟子に教え、尊者や徳のある人々がそれに応え、功徳を廻向し、餓鬼が救われます。 仏教における施餓鬼供養や、現実でも不幸な境遇の人に寄付等で手を差し伸べることはまだ楽にできますが、このような人が身近にいる時にはどうしたらいいのでしょうか? 仏教の中で教えがあれば、また、お坊さまの意見があれば教えてください。
2日前、ここで相談させていただきました。回答をいただき、また少し前向きに頑張ろうと思っていたところでした。 今、進展がありました。元夫のメールで、「両親は返信を出すつもりは無いと言っていました。」と書いてありました。いまだに、元夫から体を求めてきたりや会いたいとメールがあるのです。離婚した今もずっと私の両親と元夫は月3回ほど交流をしているのも知っています。私は両親の状況が知ることができたらと思い元夫のメールは拒否していませんでした。今更ではありますが、両親には元夫がちょくちょく私にメールをしていることは言ってないと思います。でも、両親は私より元夫を信用していることは事実です。関係修復どころか話すらしてもらえないような気がします。絶望以外の言葉が見つかりません。。。
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。