ハスノハ書籍本をリビングに置いてます。子ども達と何気ない会話の中でハスノハの本を見ながら自分だったらどんな質問するかな?こんな下世話な事をワザワザ質問してもいいのかなぁ?と呟いてる子どもがいて 「仏様ってB型っぽいね」…すみません。あまりにもショーもない子どもの質問に お坊さまなら、なんと回答してくださるかなと思ってしまいました。大学受験を控え、日本史や倫理の教科書を毎夜✏一所懸命と励んでるのだから、たまには柔らかい?こんな質問にも付き合ってあげようと「AB型っぽくない?」とだけ答えておきました。日本人は血液型に拘りすぎてると言われるけどタイプ的に括りは、なんとなくアルアル血液型…と思う場面もありそういえば、あたしが通っている坐禅の仲間はO型がやたらに多いんですお坊さまはお話しする方3人とも…B型なのです。 たまたまなのですが、、、最後に子どもが仏様は血より濃い違うものが身体に流れてるんじゃない?…と あまりにショーもない質問となりました。こんなですが仏教系大学を一般入試する子どもに幸あれ!です (/-\*) ハスノハで親子の会話を楽しみつつもっと深く話せるようでありたいなとなりました。 質問者:男性18歳…呟き
仏教の本質とはどのような教えですか? 宜しくお願い致します❗
こんにちは。浄土真宗を学んでいる者です。僕はこれまで阿頼耶識というのは無意識のことだと理解していましたが、どうやら無意識は「意識」のカテゴリーに入るみたいですね。では魂なのかと考えましたが、魂は我の絶対化なので諸法無我という考えに反しています。そこで、ある本を見つけ阿頼耶識というものは「業を保管する意識だ」という記述を見つけました。しかも、業というのは永遠不滅だということですが、一体どういうことなんでしょう?魂と何が違うのか分かりません。永遠不滅というのも、諸法無我の法則に反してはいないのでしょうか?どなたかとても分かりやすく解説お願い致します。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
今、絶対に許せない人がいます。 もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。 仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?
はじめまして、悟りについていくつか疑問があるので教えて下さい。 お釈迦さんはどうやって悟りを開いたのでしょうか? お釈迦さんは悟りを開く前は苦行をしたり様々な修行法を試しましたが、 最終的には瞑想によって悟りを得たのでしょうか? 悟りを開くと何か特殊な能力が手に入りますか? 悟りを開いたとはどうしたら分かるものなのでしょう? 悟りを開いたお坊さんは次にどうするのでしょうか? お坊さん以外に、この質問に正しく答えることができる人がいないと思う(教えてgooでは正確な回答が返って来るとは思えない)のでお願いします。
即身仏について本を読んでいます。その中で、「3年3ヶ月後に掘り起こす」や、「地面より3m下に埋める」など、数字の3をよく目にします。仏教には、この数字の3に何か特別な意味があるのですか?もしあるとしたら、どのような意味がありますか?また、意味があるとするならば、宗派によってその意味は変わってきますか?ご回答、宜しくお願い致します。
仏教で言えば許し、許す、許されるとはどのような心のあり方ですか?
うちの菩提寺は京都の浄土宗のお寺です。 毎年、彼岸会の葉書に「施餓鬼料金 一霊5000円」と書かれたものが送られて来ます。 霊魂を否定する仏教において「一霊」とは何ですか?
親が老いて体が動かなくなり、認知症になり、死んで行くのを看取る苦しみ。 そして、同じ様に自分も老いて行く事が分かっていながら何も出来ない苦しみ。 なので、時の過ぎるのがとても怖いです。 「一日一生」と分かっていますが、生きてきて46年。 無駄にしてきた時間を思い返し、もう若くなく、社会では「初老」 人生を社会でやり直すには必要とされない年齢となり、思い描いてい た自分の像と、現在の自分とのギャップに苦しんでいます。 仕事はしていますが、自分のしたい事ではありません。 すれば良いと言われるかもしれませんが、年齢を考えると事業に失敗する事が恐ろしいです。 でも、したい。 「老い」も怖いのですが、「思っていた事をしないうちに老いる」のが怖いのです。 今は、高齢者の方を見ても、死んで空き家になった家を見ても、老い 始めた両親を見ても「怖さと不安」がこみ上げてきます。 この苦しみを受け入れる心構えを教えて下さい。
最近、坐禅に興味を持ったものです。 恥ずかしながら十年間引きこもりで、障害年金で暮らしています。 井上貫道師の著作を読み、坐禅に興味を持ち、その弟子筋にあたる方に電話面談を予約しようとしたのですが、自閉症ゆえ、極度の人見知りが発生して、キャンセルしてしまいました 只管打坐と言っても、ただ坐るのが難しく、参禅は必須と聞いております けれど、田舎住みなので近くに寺もなく、本当にハッキリした方につくのは難しそうです。 坐禅をしたい理由は、お釈迦さまの見た光景をこの目で見たいというものです。 けれども坐禅は諦めるしかないのでしょうか? この本があれば大丈夫、というのもないと思いますし、電話で気軽に坐禅を訂正してもらうというのも、忙しいお坊さんには無理ですよね… 長文失礼しました
先日夫が自殺しました 毎日泣いて苦しいです 立ち直れるのだろうか?と不安です 自分も後を追いたいと考えてしまいます 自殺した人は天国に行けない、成仏できないとネットや友達から言われました それはそれでかわいそうだと感じました お坊さんのお考えを聞きたいです
ハッキリ言うと 死にたいです。 自分には悪い性格というのがあって、我慢が出来ない 正直に本当のことを言ってしまう(相手にとって嫌なことでも) その性格が子供のころからず~と続いていて、あるとき ADHDという言葉を見かけて検索してみると 自分の悩んでいた問題がそれに当てはまることを知りました。 頭がいい訳でもなく、人とトラブルになりやすいです。 友達もハッキリ言うと自分の悪い性格のせいでいません 仕事をしていても 人との会話が苦手で問題ばかりで辞めてしまう どうしてもうまくいきません ハッキリ言って致命的なくらいに 人は自殺をすると罪という言葉が根強くあって死にたいという気持ちの反面 死ぬと地獄に落ちるのではと怖くてなかなか出来ないでいます。 自分は死後の世界について インターネットを利用して沢山調べました。 臨死体験、前世さまざまな事例について 今では人は死んでも魂というものがあると関心はしていますが今悩んでいる死にたい気持ち(自殺)がどうしても怖くて仕方ないです。 かといって自分の生まれ持った悩みは一生変えられません どうしたらいいのかという答えは間違いなくないでしょう 死んで人生をもう一度生まれ変わりでやり直したいのに どうしていいのかまったく分かりません 世の中を見てみると 戦争、貧困と不幸な人、そうでない人がいますが 動物の世界は喰うか喰われるかの命にかかわる世界 自分はそれを見ると、まだ不幸じゃないんだと思う時期もありました。 だけど自分の持つ悩みが自分を苦しめている現実からは逃げることは出来ません
お坊さんの皆様は安部総理が掲げる安保法案に ついてどう思いますか? 率直な意見が聴きたいです。
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
はじめまして、すもももと申します。3年前に大学を卒業して以来、自分の進路が定まらず、最近はもう挑戦する気力もなくなってきました。 新卒で入社した会社には人間関係で悩み、より自分の個性を活かせる研究職を薦められ大学院に進学しました。 しかし、研究室の雰囲気に馴染めず、すぐに不登校になりました。辞めてはいないものの、アルバイトを転々とし、いまは大学院を辞めて就職か、留学か、結婚して身を固めるか、大学院に通い続けるかで悩んでいます。 結婚は付き合った彼とかんがえていますが、早くも結婚式の方向性の違いからすれ違いしてしまう予感がしています。 何にも向いてない可能性も高く、無駄に生きて精神力やお金を消費するよりも、好きな場所で好きにいなくなれたら楽だし、それが一番な気もします。 とりとめのない質問ですみません。わたしはどのように、この先の進路を決めていったらよいでしょうか。
10年ほど前、職場やプライベートの過度なストレスから パニック障害→鬱となり、仕事ができない状況になって職を離れました。 それまでは、フルタイムでバリバリ働き帰りは終電、 帰宅後や週末も時々在宅や出先で別の仕事をかけ持つなど 無茶もしていた時期もありました。 それくらい動けていたのが突然何もできなくり、愕然としました。 投薬治療で少しずつ動けるようになってきたものの、未だに完治とならず 相変わらず波がありゆられながらギリギリで過ごしています。 それまでの様な生き方、暮らし方はもう出来ない状況です。 そんな中、自分の生き方を振り返りながら、 ふと子供の頃から生き辛さを感じ続けていた事に気づかされました。 そこで、色々と勉強(通信制で通学もある大学で)を始め、 数年前に(明治維新以降ではなくそれ以前の仏教の考え方)仏教の 教えに触れる事ができ、そこから色々と(亀の様な歩みではありますが) 物事の捉え方を修正できてきている実感ができるようになってきました。 授業だけでは物足りず、参考文献など少しずつ読みながら独学を進めております。 最近は、どこかのお寺で勉強会などがあるなら行ってみようか? と考えてみたりするようになりましたが、 宗派にとらわれずにお坊さんから学ぶ術はないのだろうか? という疑問が湧いてきております。 今後学んで行くために何か良いアドバイスがいただければ幸いに存じます。
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます
最近、身近な人の死に接する機会が増えました。 友人や親戚の訃報に接し、「やがて自分も死ぬのだ」と死について意識するようになりました。 しかし、理屈では「死から免れない」「生まれたものは必ず滅する」とわかるのですが、自分は「まだまだ死にたくない」という気持ちが沸々と湧いてきます。 事故にでもあわない限り、遅かれ早かれ必ず死の間際を迎えると思います。そのとき、自分はどうしているのか想像がつきません。 宗派によっても死生観がことなると思いますが、死をどのようにして受け入れていったらよいのかご教示賜りたいと存じます。 よろしくお願い申し上げます。 合掌
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。