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検索結果: 276件
2022/03/22

全世界同時安楽死ガスがあったとして

 これは過激な提案であり、思考実験であり、私の望みです。  私の望みは、ありとあらゆる生命が、一瞬で、同時に、何の苦しみもなく死に絶えることです。私はこの世界に心底失望しており、肉体という物質からの脱脚を強く望んでいます。五感と意識を手放し、何も感じなくなりたくて仕方ありません。  自殺してもこの世界がある限り、また生まれてしまう可能性から逃れられません。それに絶望して、「何もないこと」を希求するようになりました。  人間は「全世界同時安楽死ガス」を開発するためだけにここまで進化したと思っている部分があります。  全生命の生殺与奪権を一部の人間が握ることになる点、自然に続いている生命を人為的な手段で終わらせる点、今まで誰もそんなことを言わなかった点を除けば、私の提案は遠い未来に訪れる太陽の消滅や阿弥陀様のもたらす救いと同質ではないでしょうか? 「存在しない」以外の希望がどこにも見当たりません。  生命の本能は他を侵害することにあります。人間だってその本能から逃れられていないばかりか、「自分を大切にしたい」という欲望のままに他者を排除する時代です。  今まで見て見ぬふりをすることでうまいことやっているように見せかけてきた沢山の苦しみが「多様性」や「人権」という言葉のもとに噴出し、その結果は今まで以上の苦しみの再生産です。  善意なんてものは、もともと神話の遺物でしかありません。  何かを犠牲にしなければ社会は成り立ちません。  ならば、全て消し去ってしまった方が良いとしか思えません。 「全生命同時安楽死ガス」が間違っているのだとしたら、私はどうすれば 良いのでしょうか?

有り難し有り難し 123
回答数回答 5

10代の自分の煩悩について

あまり人には言いにくいことなので、どうしようか悩んでいた時にこのサイトに辿り着きました。 お恥ずかしい事なのですが...私は「ボーイズラブ」、いわゆる男性同士の恋愛を描いた作品が好きです。 ちなみに私自身は同性愛者ではありません。 私がボーイズラブを知ったのは小学5年生のときでしょうか...その頃は同性同士の恋愛があるという事はボンヤリと認識していましたが、自分には関係のないことだと思っていました。 なので余計に、「ボーイズラブ」という概念に衝撃を受けたのでしょうね。 同性愛者として悩んでいる方には本当に申し訳ないのですが、漫画や小説といった作品を読んでいるうちにすっかりその世界にハマってしまったのです。 私はまだ学生で、しかも受験生なのですが、やはり未だにボーイズラブが好きで、暇があれば漫画を読んだり同性愛についての考えに耽ったりしてしまいます。 勉強に身が入らないことも多々あります。 世間では私のような者を「腐女子」と呼ぶのですが、腐女子はあまり良く思われておらず、蔑まれる対象にあります。 しかし私は同性愛者の方々を冷やかしたりしている訳ではなくて、純粋にボーイズラブが好きなのです。 私は自分自身がとても恥ずかしいです。 人にも自分が腐女子だとは言えません。 でも、腐女子はやめようと思ってやめられるものではないのです。 もうどうしたら良いのか分かりません。 私はこのまま自分に正直に生きていて良いのでしょうか。 長々と申し訳ありません...

有り難し有り難し 2504
回答数回答 1
2021/10/30

四十九日

9月に主人を亡くしました 亡くなり葬儀まで3日間、我が家で夫婦水入らずの時を過ごし、その後家から運ばれる時には寂しくて辛くて、もうすぐ大好きな主人の顔を見ることも触れることもできないという事実に絶望でした 荼毘にふし、遺骨を祭壇におき、御花と御供え(お菓子や飲み物)を毎日して、毎日お話したりしてました。 葬儀が終わり、周りの家族が私にかわり四十九日法要の手配や納骨の手配をしてくれました。(先祖代々のお墓があり、そこに納めます) 四十九日法要のやり取りや、仏壇等の準備をしている時は『主人の為に』と少し前向きになれていた気がします ですが、お墓に名前が彫りおわりましたと写真付きの連絡をもらい、それを見た瞬間に 『あと1週間で主人が家からいなくなっちゃう』と悲しくて涙がとまらなくなりました お墓に掘ってある名前が、主人の新たな家の表札の様に思えて、もう私と一緒にいないんだという気持ちになりました 納骨なんてしたくない ずっと私の側にいてほしい だけど、四十九日法要の為にみんな動いてくれていて、あと1週間なのに今更納骨したくないなんて言えません (手元供養で小さな骨壷やペンダントはあります) 御墓に納めた後は、主人はもう側にいないのでしょうか? とっても優しい主人だったので、私が悲しんでいたら、前向きに生きれなかったら、主人は成仏できないのでしょうか? 主人の為に前向きに成りたいと思う気持ちはありますが、何をしていても虚しくて早く主人のもとへ行きたいと日々思います (自殺願望はありません) 私はどんな心持ちで四十九日法要を迎えたらいいのでしょうか 私は主人の為に何かしてあげれますか? 長々と読み辛いことと思いますが、よろしくお願い致します

有り難し有り難し 33
回答数回答 3

母親を包丁で刺そうとしました

20代の無職です。母親を包丁で刺そうとしました ごはんを作ってもらってる身ですが、おかずが少ないしもっと買ってきてよと言ってから口論になり(当然ですが)包丁で「てめえええ」と寸前までいってしまいました 目の前で振りかぶったとこまでいって人生を不意にする気かと思い、止まりましたが怒りは止まりませんでした。包丁をしまって母親を壁にたたきつけ思いっきり爪を立てて顔を握りしめ「てめえがむかつくんだよお」と罵倒しました 気が落ち着いて母親を放してから離れると母親が 「いつまでも自分の思い通りになると思ってんじゃない」 と言ったので頭に血が上って悪態をついた後、部屋に戻りました。 それから部屋で自分がなんて危険でひどい人間なんだろと思うのと このままじゃ殺してしまうかもしれないという思いがあります。 しかも殺してもまあいっか、死刑になってもいっかという思いがあります 以前友達に相談したときも、それなら家を出てって一人で暮らしてけばいいじゃんと言われました。しかしやんてらんね、めんどくせってそういう気にもなってません。本当にひどい人間だと思います 自分の両親は小学校の時に離婚して母親のもとで育てられました。 3人兄弟だったのですが兄は10年前に自殺してます。妹は仕事しながら一人暮らししてて立派にやってます。 父は以前までたまに会ってましたが仕事をやめて引きこもるようになってからあってません。母親を殺したいと相談したことがありますが「なにが親を殺したいだ!」と一喝してそれだけです。 母親はとにかく口が悪く別れた父、別れた後面倒を見てくれた両親、周りの人間の悪口をいつもいってます。僕自身も小さいときから母親に対して文句を言うと、「じゃあッ出てって」「もう面倒みない」と いったり、ものにあたったり投げつけてなにも聞きません と言ってる僕も幼稚園は全くいかず、無理やりつれてかれた学校でもろくに勉強もせず、遊んでばっかでした。 一番むかついたのが「ゲームしか友達いないの?」「がりがり」「だらしない」といった罵倒で(事実もありますが・・)今でも恨みを晴らしてやりたいと恐ろしい想像してしまいます。 僕自身もろくでもないですがなにか救われるような言葉お願いします

有り難し有り難し 85
回答数回答 3

なぜ自分が生きているということが尊いのでしょう

虐待の末に、親に子供が殺されてしまったニュースを見聞きします。 悲しい、切ない気持ちと共にいつも思うことがあります。 「幼くして散った命でも、この子にとっては幸せだったんじゃないか」と。 私は児童虐待の生き残りです。 暴力で、言葉で、態度でズタズタに傷つけられて育ちました。 幸い良い人と巡り会い、結婚し、主人の実家とも実の家族のように接してもらえています。 心療内科に通い、もう怯えたり自分を責める必要はないんだと、先生と話し合いながら、病気の治療を進めています。 怯えながら、憎みながら生活していた昔を思うと、本当に幸せな生活です。 悲しいことも悔しいことも、もう叶えられないかもしれないこともありますが、幸せなんだと思います。 ただフラッシュバックなどで苦しい時、よく思うことがあります。 「今の幸せが全部チャラになったとしても、この世に生まれてきたくはなかった」 理不尽に虐げられて生き抜いても、大人になってしまった以上、自分でなんとかしなくてはいけないという更なる理不尽。 苦しい中を生き抜いて、まだ戦わないと安らげないのなら、この命は最初からない方が良かったと感じます。 そして冒頭に戻ります。 虐待の末に命を落としても、その先に待ち受ける苦しい人生を思えば、その方が幸せなんじゃないかと。 社会は無慈悲で無理解です。 自分に責がなく精神疾患を背負っても、大人になっていればその責を本人に負わせます。 精神疾患を持っているが故に業務が滞っても、自分達と同じように仕事ができないことを責めるというケースはよく聞く話です。 「与えられた命は大事にしないといけない」そんな言葉は聞き飽きました。 望まずして与えられた命、希望の持てない、真っ暗闇な自分の未来。 なぜ、私が生きていることは尊いのですか?

有り難し有り難し 86
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2021/05/03

兄が自死したことについてです

5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 2

10歳の娘が霊や魂に対して過剰に意識して困っています

10歳の娘長女になります。 4月に入り新しいクラスになり 少し元気がありませんでした。 お友達も変わったし 少し緊張しているのかと思っていました。 先日 娘から話をして来ました。 同じクラスになったお友達が心霊などに興味があり 自分は凄く恐くて そのお友達が心霊のお話をしたり本を読んだりしているのを聞こえてしまったり 目にしたりしてしまう。 その子は呪いとか色々信じていて 嫌いではないのだけど その子がそういう事に興味があるから 自分がその子に触れてしまったりその子が自分の物に触れたりすると悪い物が付いてしまって 不幸が訪れるかもと それ以来 娘は毎日学校から帰宅するとシャワーを浴びて全て着替える様になってしまいました。 そのお友達は呪うと人は死んでしまうとか不幸が訪れるなど本を読んで話している様です。 そんな中、私の親類で祖母の親友なのですが 祖母が早くに亡くなり私を孫の様に可愛がってくれたおばあちゃんが亡くなりました。 家族も同然なのでお葬式に両日 子どもたちと出席しおばあちゃんにお別れをしました。 その数日後 おばあちゃんは 私が呪いをしてしまったから亡くなってしまったんだ。と言い出しました。 8歳の時におばあちゃん 死んじゃう。と思ってた。と 8歳の時以前におばあちゃんとは 結婚して転勤もあり少し疎遠になっていて名前すらも出していませんし 娘にも教えていなかったのに フルネームを言って思ってた。と 私からも主人からも そんな事はないょ。と色々お話しているのですが その時は理解して また数日経つと 霊が恐い 友達に嫌な事されたら 心の中で死ねば良いのにと思ってしまう。その子が死んでしまうかも。 死んでしまったら私のせいだ。 おばあちゃんも私のせいで死んでしまったかも。 きちんと話しているつもりなのですが 理解していないのかもと悩んでいます。 昨日は私のせいでみんなが死んでしまうのなら 私が死んでしまった方が良いのかもと。泣 どうしたら良いか分かりません。 普段の生活はいつもと変わらず 笑顔もあり 昨日はお風呂に歌を歌いながら入っていました。 学校から帰宅直後が少しおかしい気がします。 どなたか良い方法など教えてください。 お寺にもお伺いしたいのですが 子どもが4人おりまして 主人も忙しくほぼ休みがありません。 近隣でしたらお伺い出来ます。

有り難し有り難し 33
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2022/01/01

「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 63
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お寺変えるべきか悩んでます…

昨年長男である旦那が正式に墓守に。 去年墓経時に棚経もお願いしても連絡なし棚経も来てもらえず。 今年も盆前墓経時に棚経をお願いしてて、連絡なしで7月末にポストに名刺だけあって夜に連絡をしたら「棚経に行ったけど不在だった」と。 連絡もなく来て不在と言われても共働きで常に家に居るわけじゃないし、日時を指定してもらってその日は電話を切りました。 棚経は午前中との約束だったので、義母も9時前には我が家に。10時過ぎ確認も兼ねてお寺に電話。 「住職が他所回ってるから午前中は無理、午後に行く」と。 11時半過ぎに電話がかかってきて「午後は施餓鬼があるから棚経は無理。お寺来たら一緒に棚経のお経あげてあげてもいいけど?」 去年はお願いしても無視、 今年は連絡もなく勝手に来てその後約束した日時は来れず、上からの物言い。 何のための約束か⁈と旦那も義母もブチ切れ。 実は仏壇開きもやってもらえるまで2年かったという経緯が。 元は旦那の祖母が檀家、義父と曽祖母の位牌を義母が管理をしてました。(祖父は祖母が勝手に集合墓地に遺骨を巻いてしまいこの時は位牌なし) 当時、義母の再婚があり長男である旦那はまだ未成年。墓守は無理で、出来る歳になるまではお寺に位牌を預ける形をとりました。 5年前に祖母が他界。その際叔父が別宗派で葬儀、納骨もしないまま2年。叔父の方から祖母の位牌と遺骨をそっちでどうにかして欲しいと連絡があり、これをきっかけに成人した結婚もしたと旦那も墓守を決意。菩提寺になるお寺で祖母の戒名と祖父の相談、位牌の引取りをお願いしました。 はじめはお寺も対応が早く、 叔父から位牌遺骨引取り→その日のうちにお寺へ行く事ができて、4人の位牌も早くに受け取る事ができたのですが… その後からはぐだぐた。 お寺へ行ったのが秋の終わり。 これから寒くなるから納骨は春先、その時に仏壇開きも、との事。 春になりでも連絡はなく、こちらから連絡。納骨当日はその日別の方の納骨があってそのついで?な扱い。 仏壇開きも仏壇等を揃えた状態でお願いしてましたが、納骨以降仏壇開きの連絡なし。墓前法要の度に直接話しても「また連絡する」の繰り返しで、我が家が引っ越す話をしてやっと返事がもらえて漸く…な流れ。 こんなに適当なら同じ日蓮宗の別のお寺さんに変えた方がいいのか?と思ってしまうのですが…。

有り難し有り難し 40
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
回答数回答 14

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