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hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」
検索結果: 3024件

阿弥陀如来とイエス?阿弥陀仏の信じ方。

仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 51
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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 38
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「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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自分探しの旅について

私は2カ月前に大好きだった彼と別れました。 あの頃は、周りの方を大切に出来ず、彼に依存していました。別れた後このままではいけないと思い、自分の人間関係を見直しました。 最近になり、友達と遊んだり、趣味を楽しんだり、自分を変える努力をしてきました。 しかし、心は寂しく、不安や焦燥感があり、人と関わることに疲労さえ感じます。 私はもともと1人が好きで、人を信用していない一面があります。やはり、自分の根本にある性格は簡単には変えられない、人は簡単に変わらないという事を痛感しました。 今、私は、傍にいてくれる人、心を許せる人、愛しいと思える人がいません。 彼を失ってから、自分の存在意義や生きる目的はなんなのか、自分は何がしたいのか、何もみえなくなりました。 他人に依存せず、自分で何かを見出せる、自律した大人になりたいと感じています。 これからしばらく、1人旅をしようと思っております。今、四国の88箇所にも参っております。 自分と向き合い、自分を見つめ直すことを目的にしようと考えております。 考えがまとまっておりませんが、皆様の生きる知恵や自分とは何なのか、なんのために生きるのか、生かされているこの時間とどのように向き合っているのか、これから先の人生のために皆様のお言葉をお聞かせ願いたいです。 是非、よろしくお願い致します。 最後まで読んで下さってありがとうございます。

有り難し有り難し 65
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性欲とどのように向き合えば

このような質問をしてよいものか迷いましたが 悩みが深まるばかりでしたので、質問することにいたしました。 本当に汚い文章で申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。 お坊さんは、煩悩である性欲とどのように向き合っていらっしゃいますか? 私は大変悩んでいます。 大学生になってから1人暮らしを始めて性欲が強くなってしまい 2、3日に1度は自慰行為をしてしまいますし、 アダルトビデオ(AV)もみてしまいます。 しかし、人格形成のうえで良いこととは思えません。 できることなら自慰もAVもやりたくも、みたくもありません。 にもかかわらず、自然と性欲が湧き上がってきてやってしまいます。 このままじゃ駄目だと、ひたすら自慰やAV鑑賞を我慢したこともあります。しかし、寝れなくなったり、学業に集中することができなくなりますし、我慢することも違うように感じています。 それでいま、 「人として道を踏み外さないようにするために、性欲とどのように向き合えば良いのか」 ということで悩みが深まっていました。 そこでお坊さんにご意見をいただこうと思って質問いたしました。 人として道を誤らないために ・自慰行為はやめるべきなのか ・アダルトビデオをみることはやめるべきなのか あとは自由に性欲についてお答えいただければ幸いでございます。 ご指導のほどよろしくお願いします。

有り難し有り難し 2623
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努力をしても報われず、友人に嫉妬する

日々努力すること、そして結果に結び付かないことに疲労と焦り、嫉妬心を抱くようになりました。 最近Twitterから、趣味で小説を投稿しています。できる限り毎日書いて、投稿するよう努力をしています。 投稿するのだから、やはり誰かに認めてもらいたい、誰かに見て欲しいという気持ちがあり……。 けれど結果に結び付かず、自分がまるで空気のような存在に思える時があります。 最近、友人に嫉妬心を抱くようになりました。 相手は小説ではなく絵ですが、誰かに認めてもらえ、そして無邪気にそれを私に話す姿を見ていると、「私の小説なんて、書いても意味がないのでは」と思うようになりました。 それは今も続いており、日に日に強くなり、友人に対して強い嫌悪感を抱くようになりました。 「頑張って書いたところで、毎日書いたところで、誰も見てくれないのでは?」という不安な気持ちでいっぱいになります。 もうこんな嫉妬心に振り回される毎日が嫌で嫌で仕方がありません。 ですが、誰かに認めてもらいたいという気持ちを捨て去ることも出来ません。 全部が苦しいです。 どうしたら良いか分からず、毎日泣いています……。

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一般人でも悟りを開くことがありますか?

深刻な問題ではなく気になっている程度なのですが、質問をよろしくお願い致します。 仏門に入ったり修行を積んだりしていなくても、悟りを開くことはできるのでしょうか? 私は家庭環境の事情もあり、ほぼ天涯孤独な人生を歩んでいます。 病気・事故などで死にかけたこともありますが、その都度周囲の方々に助けてもらいながら約50年生きてくることができています。 その中で一つ一つの問題を自力で解決する中でたどり着いた結論があります。 簡単に表現すると、自身を取り巻く環境はすべて自分が決定している、というようなものです。 欲求をコントロールすることで環境は変えられ、安心安楽な生活を送れると考えています。 実際に一般的には余裕は全くありませんが、平穏・安楽な毎日を送ることができています。 仏教に関する教えなどを本で読むと、私にとっては当たり前の論理が展開されており、少々物足りない感じを受けます。 もちろん書物は一般向けの表現であり、実際はもっと複雑なものだと思います。 現在の生活環境で特に問題があるわけでもなく、自身の人生を全うすべき邁進する毎日ではありますが、この状態が悟りを開いた状態なのかどうかが最近気になっております。 仮に悟りを開いているとしても、論理的に理解できているだけでまだまだ体調の良くないときは欲が出てきたり、咄嗟に感情が表に出そうになることもあります。 まだまだ私の世界は狭く、もっと広い世界を見れば私の論理が通用しないことも出てくるとは思いますので見聞は広げていきたいと思っています。 悟りを開きたいという願望は特には無いですが、一般個人でも悟りを開くことができるのであれば、自分の意見に自信を持って周囲の人に助言をすることができるのでないかと考えています。(もちろん自分の意見として) これまでは、他者に不用意な発言をするのもある種の自己の欲求であることも判っておりましたし、天涯孤独という特別な環境に生活する個人の特殊な論理として自分の発言を控えていました。 しかしながら当然の帰結(私の理屈では)で悩み、怒り、ストレスを抱えている周囲の人の力になることも自身の存在理由なのかと感じることも増え、この度の問い合わせとなりました。 お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 87
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死ぬべき人はいますか?

私は、自分自身は死んだ方が良い人間だと思っています。 私は犯罪者ではありませんが、たくさんの人に迷惑をかけてきました。 税金をもらって仕事をしているのに、何も成果を出せていません。 恵まれた環境を提供してくれた両親、祖父母には、何も恩返しをしていないばかりか、結婚式でひどい思いを味合わせてしまいました。 奥さんには、要求されたことを提供できないばかりか、マイナス思考をぶつけて泣かせる始末。 私とさえ結婚しなければ、幸せになれたろうにと本気で思います。 皆さんにできるだけ早く人生を改善してもらうために、事故に見せかけた自殺により死亡保険を獲得し、分配することを考えています。 自殺について話した職場の同僚の中に、五万でいいからくれと言っていた人がいるので、お金を渡すよう遺言を残せば喜んでくれると思います。 私の死により、税金、食べ物、エネルギー等の無駄が減るのです。 マイナス思考に晒される人もいなくなります。 悲しむ知人はいるかもしれませんが、転校してから一度も合わない友人と同じ状況になるだけですので、一週間も経たずに元どおりになります。何も問題ありません。 いいことしかありません。 死んだ方が良いのに、国家や仏教が生きろと言うのは、 納税者、信者という名の奴隷を減らさないためではないでしょうか? ささやかな幸せという名の幻想で人々を騙しながら、せっせと労働させ、お金を納めさせる。これが国家の真実だと私は思います。 税金を無駄にし、価値を生み出さない自分はゴミでしかない。 それでも、生きなければいけない理由はあるのでしょうか? 親族を悲しませてはいけないのならば、親族を皆殺しにしてから、自殺すれば良いのでしょうか? そもそも、このように人に皮肉や挑発ばかりする性格だから嫌われるんです。 現在、死亡保険や死後に必要な手続き、お葬式の準備など、少しずつ進めています。 お坊さんからも死ねと言ってもらえたら、初めて自分を肯定できそうな気がします。

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どうか少しでも何かアドバイスを頂ければ幸いです。

お世話になります。 「中絶からの立ち直り方」と「水子供養の方法」についてアドバイスを頂ければと思い、御質問させて頂きます。 私は6年程前に中絶を行ってしました。 その頃、供養も行ってはおりましたが、平均そのお寺で供養するのは3年程で供養を終わらす方が多いと聞いたので、私も命日に1年に1度足を運んだきり3回行いその後放置しておりました。 そして当たり前ですが、年々、その自分のした罪の重さに、周りの友達が出産や子育てをしていく中で改めて取り返しのつかないことをした、親としての生きていく価値のなさ、この命の重さを年々理解し苦しくて苦しくて耐えきることができません。体が鉛のように重く、全身の硬直、手の震え、口から我が子の手が出てくるのではないかと思うほどの気持ちの悪さ、息苦しさ、怖さに押しつぶされだんだんと気力がなくなってまいりました。本当に闇の底にいるため、この世の人との差を感じまるで別世界で生きている気がしません。 安産祈願で有名な近所のお寺(中絶当初と同じところ)に再び足を運んでみましたが、夫婦仲良く妊婦姿、また子連れの家族の幸せそうなの中恥ずかしくく、また子供も違う所の方が喜ぶこではないか?水子さんが仲良くみんなで過ごせるお寺さんの方が良いのではないか?と思いもう一箇所別のお寺で供養を行っていただいてしまいました。 ところが「オンカカカビサンマエイソワカ」と唱えれば良いとお教え頂いたのですが、我が家は浄土真宗なのに何か違和感を感じる、先祖と違うところに行ってしまうのではないか…また我が子の霊は2箇所で供養もしてもらいさ迷っているのではないか…再びただただ罪を重ねているだけの自分に苦しく…また浄土真宗は三回忌すぎているし過去帳にも記載することができない…今後一体どうすれば良いのだろうか… 我が子の命の分までと精一杯人一倍生きなければと保育を勉強し試験を受けたりと、人の何十倍何百倍は努力して生きていこうと思い頑張ってきましたが、人間の体はやはり正直でもう気力がありません。死んでも償うことのできない罪を前にどのように前に進めばよいのか、立ち直り方がわかりません。自業自得ですが立ち直ることができません。 長々と本当に申し訳ございません。 またお忙しいところ申し訳ございませんが、お手隙の際にご回答頂ければ幸いにございます。 よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 48
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中年期のコンプレックスからの脱却ついて

皆様、こんにちは。 中年期のコンプレックスからの脱却、やるべきことへの向き合い方についての相談です。 私は身体的な特徴故、幼少より、親族をはじめ学校の先生・クラスメート、社会人になってからは職場の人にからかいを度々受けてきました。また変な先入観をもたれ、社内外でセクハラを受けることもありました。 そのため外見にコンプレックスがあります。(コロナ禍で生活が変わったこともあり、何の拍子か一時忘れていたコンプレックスが再燃してしまったという側面もあります。) 10年近く連れ添っている夫は人格者であり、私のことは「愛嬌のある姿をしている。朝見ると元気が出るし、夜見るとホッとする。存在自体が可愛い。」と言ってくれます。 加えて私の年齢が30過ぎということもあり、自分の身体云々よりも、他者や社会への貢献、内面の成熟に注力する過程にとっくに入っていると思います。 しかし今だ身体へのコンプレックスがあり、人間としての浅さに、我ながら呆れ、軽蔑の念さえ抱きます。 どうしたらコンプレックスから離れ、年相応に向き合うべきことに集中できるのでしょうか。 仏様の教え、お坊様方が実践されていること等ありましたら、ご助言いただけますと幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。 最後になりましたが、お盆が近づき繁忙期に入るお坊様もいらっしゃるかと思います。暑い最中ですのでお体を壊さないよう、お祈りしております。

有り難し有り難し 191
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