こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
1ヵ月、遅くとも2ヵ月後までには死ぬことにしました。 それまでに身辺整理と、行ってみたかった場所へ最後に行こうと思っています。 テレビやオカルトコンテンツなどで、自殺はタブー、地獄へ落ちる。と何となく聞いた事があります。 私が私を殺してしまったら、死後は地獄へ行くことになるんでしょうか。生きてる間も、死んだ後も、私はずっと苦しいままなんでしょうか。
こんにちは。 『今』を大切にする方法が知りたいです。 私は毎日のように死後のことを考えてしまいます。 早く死にたいという気持ちで、早くあの世に行きたいから、がんばっているという感じで毎日を過ごしており、どこか苦しさを感じています。 『今』という時間を大切にしたい。 日頃から小さなことでも感謝できるように なりたい。 亡くなったあとのことを心配をするよりも、 『今』を大切にしたい、『今』という時間を大切に思いたいということは考えられるのですが、どのようにしたらいいのか分からないです。 数日前に神社に行き、おみくじを引きました。 おみくじの内容は『今を大切に』と記載されていました。 二度とない『今』という瞬間を大切にすることで、人生はより実り多いものになると神様に教えていただきました。 今、この瞬間、この時間を意識して生きる方法を探しています。 死後のことばかり考えるのではなく、『今』という時間を楽しく過ごせるようになりたいです。 よろしくお願いいたします。
死ぬことが怖くて、そのことだけが頭の中で渦巻いています。 死に至るまでの過程についてはそれ程まで怖くありません。 お迎え現象が私にも来てくれたら嬉しいなというだけです。 ただ、死が怖いです。 死んでしまうと自分の意識がなくなってしまう、愛する人と会えなくなるのが恐ろしいです。 死後の世界があると信じたいですが、自分の意識は脳があるからこそ成立しうるもので、死んでしまったら脳はなくなってしまいます。 そうしたら自分というものはなくなってしまうと考えてしまいます。 そう思うと死が恐ろしくて堪らないです。 80までいきたとしてもあと50年。 その50年があと50年しかないと考えてしまいます。 死が怖いです。 けれども、ずっと死を恐れて生きていくよりも死をポジティブに受け入れて生きたほうが人生を充実できのでは?と思っています。 ただ、死についてあまりポジティブな意見を見ることができません。 死についてポジティブな意見をいだけませんでしょうか。 また、死後の世界があるかどうかということにも意見を聞きたいです。
初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。
こんにちは。僕はこれまで浄土真宗の道を求め続けてきました。 そして、ある日ふと、俺って何も分からないな。と感じました。ソクラテスの無知の知ではありませんが、実際、浄土は何か分からない。死後のことなのかもしれないし、真理のはたらきのことなのかもしれない。ブッダが生きていたら答え合わせもできるだろうが、もういない。 だとしたら僕がいくら輪廻や浄土を解釈したとしても、分かったつもりになって終わりだと気付きました。 輪廻という概念も精神世界と解釈する人もいますし、方便と解釈する人もいます。しかし、本当に死後の世界だったら?という不安がどうしても拭えない。 僕には何も分からない。分からないものは分からない。そして、南無阿弥陀仏という呼び声を思い出しました。阿弥陀仏はどんな劣った衆生も救うと誓っている。 だとしたら、僕が今いくら仏教の教えを理解しようとしても、知識欲を満たすだけのことです。しかも分かったつもりになっているだけです。 そこで気付きました。阿弥陀仏は「そのままでいい」と呼び掛けていたんだと。「そのまま」がそのまま救いだということに気付きました。死後がどうとかではなく、「そのまま」に任せるしかないんだと。 これがいわゆる二種深信なのではないかと思っています。 僕は仏教の教えの全てを否定しているわけではありません。確実に分かる事実もあります。自分が極悪人だということ、因果律(無常、縁起)、南無阿弥陀仏、そして分からないということ。 今あるこれらの事実を大切に生きていければ、それでいいのではないかと思っています。 それとも、このような考え方は求道をやめた者のすることでしょうか?
僕は死後天国へ行きたいと思っています。天国に行くにはどうすればいいですか?逆に地獄に落ちないためにはどうすればいいですか?あとお葬式をしないと地獄に落ちてしまうのですか?
浄土真宗の門徒です(大谷派)。菩提寺のご住職が法要で「人は死んでから7日毎に生を受ける」「早ければ二七日、遅くとも四十九日には次の生を受ける」「そして浄土にお進みになる」と仰っていました。(きちんと理解できていないので厳密には違うかもしれませんが…) 少しかじった程度の自分の記憶では人は亡くなったらその場で成仏する(浄土にお生まれになる)、浄土真宗において霊魂の概念はない(なのでお盆には帰ってこずお盆はお救いくださる阿弥陀様に感謝をする日)、なので生まれ変わりもないと思っていましたが、聞いた感じだと自分の認識が違うようです。浄土真宗においての生まれ変わり、もしくは死後はどう考えられているのでしょうか。ご教授いただきたくよろしくお願いいたします。
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。
お世話になっております。 柴田秋です。 今まで3回質問させていただきました。 ・葬式を挙げてほしくない旨 ・想いを伝えるのに忍耐が足りない旨 ・忘却することに対する困り感の旨 すべてに共通しているものの一つに、曖昧さへの不安感があるように感じます。 つまり、下記のことなどが曖昧です。 少なくとも、私の認識の上ではそのように捉えています。 ・死後の世界 ・宗教、信仰 ・自分を含めた人の心 これ自体は私だけのものですが、コモンセンスとして、他の方にもそういったことはあるのではないかと思います。 3つのことを質問したいと思います。 1.僧職についておられる貴方でも、曖昧なことへ不安を感じることはある、または過去にはありましたか? 2.僧職についておられる貴方は、不安へどう対処する、または対処しませんか? ここでいう不安とは、一般的な不安全体としての意味です。 3.対処しないという方に向けてですが、それによって問題が起こった時、同感じ、何を心がけますか? または問題がおこりませんか? 僧職と言っても様々ですが、ここは仏教に所属していらっしゃる方への質問の場なので、仏教としての立場でのご回答で構いません。 以上、お手数ですが、お答えをいただけるとありがたく思います。 もし仮にご回答をいただけた場合、ご回答者の方が望まぬかぎり、それを見て何を感じたかは心のなかにとどめておきたいとおもいます。 ご回答していただいた行為そのものへのお礼は申し上げる心構えです。
先日ある方の講演会で、人生には縦軸に充足感と孤独感不満で横軸に病気貧困と成功名声。 いくら成功名声を手に入れても、本人には孤独感や不満感が顔の表情に出て、何故か満たされない雰囲気がある人になるくらいなら、たとえ貧しくても病気を抱えていても人生に充足感が出ている人になりたいとおっしゃいました。 おっしゃった意味はよくわかります。 私には勿論、地位や名誉も有りませんし、今迄生きて来て人に話せる事も何も無く、人生に充足感が全くありません。 そして今は仕事も辞め、親の介護を担っています。 人様には介護をしてると言いながらも、私の心の中は心配を掛けた親だから介護をしなくてはいけないと言う気持ちと、もういい加減にして欲しい、今すぐに親から距離を置きたいと言う気持ちがいつも交錯しています。 知り合いからご両親が介護する事無く亡くなられたと聞くと、「羨ましい」「どうして私ばっかり」などと思ってしまいます。 何事にも一生懸命やれば充足感は得られるものでしょうか? それはその人間性によって違うものでは無いでしょうか。 すみません文章がまとまっていませんが、よろしくお願いします。
時々不安になることがあります。悲しくなったり、寂しくなったり嫌なこともあります。もちろん時間を忘れるくらい楽しいこともありますが、、。みんなそうやって生きていて、死んでゆきます。そして何千年も経った後私たちは忘れられてしまうのでしょうか。自分の死後、誰も私のことを覚えている人がいなくなったら、私は無になってしまうのですか?まだずっと先のことだとわかっていても、すごくすごく怖いです。
去年7月に6年一緒に住んでいた彼氏が自殺しました。亡くなってから、毎日逢いたくて、寂しくて、日々泣いていました。 彼氏は、成仏したのか、まだ側に居てくれてるのかなぁ。とか色々考え、死後の世界の事や魂について知りたくて、何冊も本を読みました。でも、自殺した人の魂について書いてる本は、ほとんどなく、病死や年老いて亡くなった魂についての本が多いんです。何か、自殺した人の魂について書いてる本があれば、教えてもらえないでしょうか?自分でも、何をしたいか分からないんですが、そういう本を読んでると、彼氏を近くに感じれて安心するんです。何か、良い本があれば、教えてください。
現在大学生四年生です。ふとした瞬間に人は死んだらどうなるのかなと考え込んでしまいます。 死んでしまったら、今のわたしの意識は消えてしまいますよね。だとしたら今頑張っていることも、それを感じる意識がないのですから無駄なことになるのではないでしょうか。 わたしは、わたしが消えてしまうことがとてもこわいです。最近こんなことを考えてばかりで、がんばろう!と思っても、すぐ「頑張っても死んだら関係ないよなあ」と思ってしまい、怖くなって何もできなくなってしまいます。 恥ずかしいことに現在就活がうまくいっておらず、本当ならもっと努力をしなければならないのに、無意識にそこから逃避しようとしてこんなことを考えてしまうのかもしれません。 今考えなくていいことを考えてしまい頑張れない自分が情けないです。この悩みに区切りをつけて、また頑張れるようになりたいです。 破茶滅茶な文になってしまいすみません。
先日、最愛の母を真言宗で見送らせていただきました。 葬儀会館の方は『これからお母様は四十九日まで、家族で共に過ごされたお家や、ご自分の生まれ育った所、訪れた場所、数々の所縁のある場所を巡られます…』と、お話してくださいました。 四十九日までの、七日ごとの法要も辛さの中、こちらで皆様に教えて いただいたように個人の成仏の為にと出来る限り祈りお願いをしてまいりました。 そんな中、先日改めて四十九日までの『お裁』きにつて詳しく調べてみました。 その余りにも生々しく苦難の連続に思える道のりに、また故人への思いが溢れ出し、自責の念と共に今すぐ傍に行って助けてあげたいと思うようになりました。 そのように子供が後を追ってきたような親の魂は、更に惨い裁きを 受けてしまうのでしょうか? 稚拙かも知れませんが、このような裁きを受け苦難の四十九日の間に所縁の場所を巡るなど出来るのでしょうか? 『死』の時もあれだけ苦痛であったのに、『死後』もまたこのような 苦痛の連続だとは…あまりにも惨過ぎる気がいたします。 もうすぐ四十九日を迎えます…。 どのような気持ちで、どのような事を心掛ければ、少しでも故人の苦痛は和らぐのでしょうか?成仏させていただけるのでしょうか? 何度も同じような疑問をぶつけてしまっているかも知れませんが、どうかどなたかご教授お願いいたします。
前の家に引っ越したのをきっかけに どんどんと人が離れました。 身体も突然悪くなり、仕事先は無くなり、家族と仲違いしました。 軽度の知的障がいと発達障害あり、ただ軽度なので作業所に入ること叶わず 幾度も自殺に失敗して、結果ホームレス状態 毎晩男性に身体を売って今も続いてます そして、知人の霊感のある方に 27体、いる。生霊が3人。危ないよ。 といわれ対処はしていましたが もう疲れました 身体も重く食事もお金がなく取れず 体調が悪化する一方 ここで聞きたいのですが、自殺をすると何処へ行きますか?死後の世界は本当にあるのか 死んだ、うさぎにあえるのかな 身辺整理をしています 病院に罹りたくても、仕事の最中に犯罪に巻き込まれました。そのせいで身分証を移せず、病院は自費なので無理です お別れをするのに希望しか持たないけど少し怖いです もしご回答くださる方がいたらば、私は少し頭が弱いので、分かり易くお願いします。 死んだら煉獄?地獄?それでも、今よりマシなのではないかなっておもいます。 今週末の都合のいい日、死ぬ予定です、好きなこともできず飢えたままって虚しいですね なぜお金が必要で、必要な人に支援が回らないのか。考えることも出来ません。 せめて、誰かに許され肯定されたかった 悪霊のせいならば、悪霊を呪いたいくらいの気持ちです。
精神障害で自殺に追い込まれる程の苦しみぬいて自殺した人は死後どのようになるのでしょうか?又精神障害でなくても、自殺する人はそれほどの苦しんだ故に自殺に至るのに地獄や来世のカルマになるのでしょうか?あまりにもそれはひどく残酷に感じます。
人生とは?と聞かれたらどう答えますか? こちら40代男性ですが、この年代になるとある程度親しい人が亡くなったりすることがあり人生について考えることが非常に増えました。 先日も年の近い人が急に亡くなり何とも複雑な心境です。 人間ですから死ぬことは避けられませんがどう考えていけば良いか分からなくなってしまいました。 目の前のことを楽しめば良いという人もいますが時々虚しくなります。
我が家には特定のお寺とのご縁がありません。 そのため、私たち夫婦は、死後のお骨は納骨堂のような場所を考えています。 仮に主人のほうが先に亡くなったとして、そのときは身内だけでも集まってお坊様をお呼びして、戒名をいただきたいし、供養もしてあげたいと思うのです。 しかし、どういったお寺にどのようにお願いしたらよいものか、わかりません。 実家の菩提寺が鎌倉円覚寺派のお寺のため、亡き父の供養のための写経を、個人的に円覚寺まで出向いて毎月行っていますが、私にとってのお寺とのご縁は、せいぜいその程度です。 あとは、御施餓鬼や回忌などの法要で菩提寺にうかがう位でしょうか。 自宅近くにはいろいろな宗派のお寺がありますが、供養して下さるお寺をどのようにして見つけるのか。 なにもご縁のないお寺にどのようにお願いするのかも、全く分からないので悩みます。 何卒ご教授くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
昨日母が亡くなりました。いわゆる孤独死みたいな状況でした。きっと最後は辛かったと思います。かわいそうです とはいえ、私は仕事の日程とか諸費用とか手続きとかそんなことばかり考えています。あと趣味の大会の日程調整とか。 それなりには悲しいけどそれなりです。母の身になって考えればかわいそう、というだけで、私自身の悲しみとは違う気がします。もともとあまり関係が良好ではなく成人してからは不仲でした。しかし子供の頃には良い思い出もあるというのに。 自分自身にがっかりしてます。何でこんなに冷たいんでしょう。我ながらなんかおかしいんじゃないかと思ってます。 母の生前は苦しかったろうし寂しかったろうと思いますが、死んだらそれまでだなあと思うのが本音です。 浄土真宗の人だったので、仏様がいるとすれば阿弥陀仏が死後のことはなんとかしてくれるでしょ、みたいななげやりな気持ちもあります。母は駄目な人でしたが、そういう人でも、家族にろくに供養されなくても、阿弥陀仏はなんとかしてくれるって聞いてます。生前一度でも南無阿弥陀仏と唱えれば仏様との縁が結ばれて、すべての衆生を救いたい阿弥陀仏の本願によって西方浄土につれてってもらえるんですよね? もう私は供養とか関わり合いになるの嫌だ。 私もきっと一人で苦しい思いをしてのたれ死ぬんだろうなあと思います。