このような投稿は以前もあったと思いますが、今も私は酷い陰口を叩かれます。 極め付けは、だってアイツが悪いんだもんといって自分らが言ってる事は間違ってないとまで言っています。 今の日本人の若者(私以外の)はすぐに悪口を言うし、なにか、失態をしたら、その人を死ぬまで追い詰めるようなのが、多いと感じます。先日は市役所に用事があったので行ってみたら、若い職員に下品、と言われたり顔も知らない女子大生くらいの人にキモいと言われるなどして大変、心苦しい生活をしています。 最近、そのせいか自分の表情すら暗くなって目も親から死んでるよと言われるくらいの深刻な状態になりました。 まわりはその様子を見て目が死んでるから人が寄ってこないと陰で言ってましたが、それに対して凄い憤りを感じました。 だって、お前ら若い奴らが言葉のナイフで散々傷付けておいてそれはないだろと思いました。 当然ですけど、人も生き物もナイフなどで体に傷をつけられたら血が出ますよね? それと似た様なもので、言葉で傷つけられたら、それも全然知らない沢山の人から馬鹿にされキモいと言われたら、その分、傷も身体の状態も悪くなるし、一週間程度悪口を言わなかったくらいで回復するものでもありません。 普通に目に見える傷で考えるならまだカサブタができ始めたなくらいだと思っています。 なのに、なんにも言わなくてもまだ死んだ目じゃん、結局アイツが悪いじゃんとそこからまた悪口を開始するとカサブタができ始めた段階でまた傷口を抉る様なことをすると?もうどうなるかお分かりですよね? 今度はもっと治りが遅くなるということです。 それくらい、言葉には強い力がある事を分かってもらいたいと思いながら日々を過ごしています。 死ね、とか人間として必要ない、とかキモすぎるとかどんな言葉もどれか一つ必ず言われます。 僕はこんな人生が嫌で嫌でたまりません。 ここから質問ですが こんな人生を送ってるので、仮にここから更に功徳を積んでいけば来世はきっと今よりいい人生が送れますよね? それから、私にキモいや人じゃないと言ってきた人は、来世できっと苦労しますよね? 長文で大変申し訳ございません。 ここまで読んでくれてありがとうございます。
空気を読もうとするの半分、相手に気に入られようとするの半分、変な気遣いをしてしまうことがあり、自己嫌悪や恥ずかしさでいっぱいになります。 先日、会社の先輩の送別会でカラオケに行った時、私以外は皆さん40〜60歳で、全体的に懐メロが続きました。 私は、カラオケでは男性ロックか懐メロぐらいしか歌わず、若い女性歌手やアイドルなど、流行りの歌をあまり歌えません。 そこで、年代を合わせた方がいいのかな?というのと、入ったばかりの職場の皆さんの前で強めの男性ロックは歌えないなぁというのと、以前同じような年代の方とのカラオケで懐メロを歌ったら受けが良かったのもあって、懐メロを歌いました。 すると、私が選んだ曲が古過ぎたらしく、少し白けた感じになってしまい…。 「この子、受けようとして懐メロ歌ってるけど、お寒い…」という空気になってしまいました。 前に飲んだ時は、スナックで、だから若い子の懐メロが許されていたのかもしれません…。 私も酔っていて、普段なら「それはあざと過ぎだろう」と思い止まれたし、皆さんも酔っていたし、それぞれ歌うのに夢中だったので、その場で気持ちが尾を引くことはなかったのですが… いつも、気を遣い過ぎて挙動不審なところがあって、しかもその気遣いは、それをして誰が喜ぶ?というようなものが多いです。 しかし、本当の私は粗暴なところがあって、そうして、人にどう思われるかを常に気を付けていないと、よく、非常識なことをしてしまうのです… どんな心持ちで、人と付き合っていったらいいか、もうよく分かりません…。 特に女性からは、細かく気を遣うことを求められているように感じます。 少しでも周囲と違ったり、気を遣えていないと、あの子は使えない、みたいな陰口をよく聞くので… でも、私はその人達が納得するように、上手く気を遣うことか出来ません。 私も女性ですが、もう、他の女性とは生き物として向いている方向が違う気もします… もう、疲れてしまいました…
お忙しい中、大変恐縮ですが質問させていただきます。 私は幼い頃(9歳、小学五年生でした)初めてのペットとしてウサギを一羽迎えました。はなちゃんと名付け、毎日毎日可愛がっていました。 ですが、次第にいじめるようになってしまいました。理由は手を噛まれて血が出たとか、そんな些細な事だったと思います。 数ヶ月たった頃、ついに私がしたことが原因で、はなちゃんは亡くなってしまいました。 その時、非常に後悔し、それからは毎夜心の中ではなちゃんに謝り続ける日々でした。 そして、もう私は生き物を飼ってはいけないのだと強く思いました。 それから10年ほど経過して、先の冬に犬を飼ってしまいました。 家に迎えて以来、噛まれても何をされても、以前のようなことは絶対に繰り返すまいと。新しく迎えた家族と向き合っています。 以前のようにすさんだ気持ちで接してしまうことはもうありません。 毎日しっかりとコミュニケーションをとり、しつけ教室で共に学んでいます。 しかし、そんな生活の中で、うさぎのはなちゃんの事を幾度となく思い、何でまた動物を飼ってしまったのか。はなちゃんを殺してしまったのに。 はなちゃんの事を考え泣いてしまうこともまた増えました。 今いる犬のことは、私と私の家庭でできることすべてを注ぎ育てています。 しかし、ふとしたとき、犬の無垢な表情を見て罪悪感を感じます。 殺人犯にそれと知らず飼われているようなものなのではないか、 はなちゃんのときどうして今いるこの子に接するように優しくしてあげられなかったのか、 と毎日のように悩み、迷い、後悔しています。 不安な気持ちは犬にもきっと伝わってしまっていますよね… 私はどうしたらいいのでしょうか。 長文、乱文、失礼いたしました。
昨年、17年間、私に寄り添い生きてくれた愛猫が亡くなりました。 本日は猫が亡くなった時のことについて伺いたく書き込ませていただきます。 ・看取りについて 猫の最期を看取ることができませんでした。 2時ごろに私が寝る際、「お姉ちゃんもう寝るね、大丈夫だよね」と頭をポンポンとして、隣の部屋に行きました。 次に目が覚めた4時ごろ、一応のつもりで様子を見に行くと亡くなっていました。 亡くなる2週間ほど前から獣医師のアドバイスを受けて、1畳くらいのスペースを囲い、その中にトイレもご飯も置いていたのですが、もしその柵がなければ死にたい場所を選べたかもしれません。 また、夢うつつの時に「ニャ、ニャ、ニャ」という声か聞こえていて、もしかしてまた痙攣を起こしているのかなと思ったにもかかわらず見にいきませんでした。 ふつうに朝見にいったら回復しているような気さえしていました。 でも一方で、今晩死んでしまうかもしれないという予感もあったのにどうかしていました。 その時にちゃんと行っていれば看取れたかもしれません。 かつては猫にべったりで溺愛していたのですが、産後は触れ合う時間が激減。我が子を愛でる度合いと反比例して、猫を愛でることが少なくなりました。猫の老いや病ときちんと向き合えず、育児、家事、自分のことばかりを優先して、ずいぶんと寂しい思いをさせてしまいました。 愛猫の死については後悔ばかりで、看取りについてもヤフー等の相談サイトをのぞきましたが、「看取れてよかった」という方もいれば、「猫は死ぬところを人に見られたくない生き物だから、看取られることを望んでいない」と書かれている方もいました。 そこで伺いたいのですが、看取らずに死なせてしまったことは愛猫にとって、やはり寂しいことだったのでしょうか、それとも看取られたくなかったのでしょうか。どちらにしても取り返しはつかないのてすが、教えていただければと存じます。
こんにちわ。 1週間前、20代後半の弟を自死で亡くしました。 遺書を残してあり、家族知人でずっと探していましたが、 森の中で、残念ながら首を吊っていました。死亡推定時刻から、48時間ほどはそこにいたようです。 知人が発見してくれ、通報を受けた消防と私が現場に駆けつけて確認しました。 一目見て、蘇生は不可能である事がわかりました。 死斑で変色した手足、硬直した手指、首に食い込むロープ、目に残った涙の痕、やってくるハエ達、かすかに漂い始めている死臭。 こういった現場は職業上、慣れていましたが、それでも、今でも鮮明に思い出します。ショックでした。 遺体を発見した次の日、弟の魂が安らかでいれるように、もうこれ以上苦しまなくていいよ、姉ちゃんと家に帰ろうと願いを込めて、山の中の現場に花と水を手向にいきました。 森はキラキラしていて、美しく、現場は倒木がうまいこと重なり合い、上まで登ってロープをかけて首を通した様子がありありと想像できました。 生き物や自然が好きな子でした。 最期の姿を思い出し、苦しかっただろう、辛かっただろう、なぜ気づけなかったのか、あの時ああすればよかった、守ってあげられなくてごめん、後悔は尽きません。 心配な事は、今でも弟が苦しんでいないかという事です。 自死は決して本人のせいではありません。弟は悪くありません。しかし、本人は自分が悪いと思い込んでいた状況で、首に紐がかかるときは苦しい思いもしたはずです。 弟のお骨の前でお線香をあげることや、現場に花や水をたむけることは、弟が安らかでいることの助けになるでしょうか。 今でも、森の中で1人で苦しんでいたらどうしようと、本当に心配です。 それとも、家に帰ってきてくれているのでしょうか。 長文、散文になってしまいすみません。 とにかく、弟の魂は今も苦しんでいないか心配していますがどうなのでしょうか。 弟の魂は私達を恨んでいるのでしょうか。弟の魂は今はどこにいるのでしょうか。 まだこの世にいて欲しいけど、ゆくゆくは成仏できるのでしょうか... もう、私が弟にしてあげられる事は何もないかもしれないけど、教えてください。 お坊さま、何か知恵を貸してください。よろしくお願いいたします。
私が12歳の時から16年間連れ添った愛猫を先日亡くしました。 長いですがきいていただけますか。 彼女は腎不全を患い、2年に渡り自宅で皮下点滴や投薬を続けていました。 元々は家族で可愛がった猫でしたが、両親もきょうだいも引っ越し、最後の1年は私が実家でひとり面倒を見ていました。 闘病と言えど穏やかなもので、坂道を下っては緩やかに持ち直す日々でした。が、ある時を堺にたがが外れたような食欲を見せます。欲しがるままに多めに食事を与えれば、翌日一日中下痢や嘔吐に苦しむ。かといって規定量の食事では満足できず、私が在宅勤務をしている横で、一日中大声で鳴き立てました。そんな日々が数ヶ月続き、私は疲れ、苛立ち、およそ生き物と暮らす人間がすべきではないひどい仕打ちを数回、行ってしまいました。 騒がしい日々は、思いのほか呆気なく終わりました。腎不全とは別の持病のために食事に口をつけなくなり、みるみる痩せ細り寝たきりになり、看取りに備え家族も駆けつけました。それまで何度も持ち直した気力もどこへやら、かかりつけ医の余命一週間の見立ての翌朝、家族全員が起きてきて囲むやいなや、ため息をつくように彼女は息を引き取りました。 人生で初めて迎えた猫でした。家に子猫がやってきたワクワクだとか、1人泣いている夜に布団に潜り込んできた温もり、予想外のいたずら(賢い子でした)、嫌な治療にも決して人間を傷つけるような暴れ方をしなかった優しさ、温かな思い出がたくさんあるのに、あのとき自分がしてしまった仕打ちばかりがフラッシュバックします。 保健所から家庭に迎えられ、猫の平均寿命を全うした彼女を不幸な猫と呼ぶ気はありません。ただ自分のことが許せないです。彼女にも許して欲しくない、むしろ罰して欲しいとさえ思います。彼女を思い出すたび悲しくて愛しくて自分が腹立たしくてもう気が狂いそうです。触れたくて見つめたくて呼びたくてたまりません。失って初めてなんてあまりにも莫迦だと思います。 以下ご相談です。 週末には弔ってくださったお寺からお骨を引き取ります。こんな煩悩の塊のようなぐちゃぐちゃな状態では彼女に顔向けできないと思う一方、晴れやかに「今までありがとう」だなんて白々しいと思うのです。 私はどんな心持ちで彼女を迎え、また見送ればいいのでしょう?
「また始まった」と思われるかもしれませんが、ここ数日の世界情勢に強い恐怖心を抱いております。資本主義社会や物質的世界に限界が訪れているのを感じ、奪い合いの果ての第三次世界大戦が遠くないもののように思えて仕方ありません。 それでいながら、神仏のご加護や救いを信じることもできません。もしそんなものがあったとしたら、この世界はここまでの惨状になってはいないはずです。そもそも、自然界の残酷な在り方を前に御仏のお慈悲をどうやって信じれば良いのでしょうか。 1人で考えていると袋小路に至るので、まずはこの世界がこれからどうなると感じていらっしゃるか、考えていらっしゃるか、率直にお聞かせください。私なんぞの絶望的な将来しかない世界が否定されることを望みますが、それに値する根拠がこの世界に無さすぎてどうしようもなくなっています。 私は、人類史の終わりがすぐ近くまで来ているかのように感じています。そうでなくても、今までの社会の維持はもう不可能で、奪い合うことでしか生きられない世界になっていると思います。これが思い込みだというのなら、今の世界情勢をどう捉えていますか? 恐らく私は老後を迎える前に戦争や災害に巻き込まれて死ぬでしょう。そう思いながら今まで生きてこられた、今もまだ生きている、ごもっともです。しかし、毎度毎度「もう終わりだ」思いながら生きてきましたし、その恐怖は軽減されるどころか更新され続けています。ずるくて欲深い人間が世界の操作権を握っている現状、どこにも安全地帯なんてありません。成仏できるなら、涅槃に至って物質世界から逃れられるなら良いのですが、結局はまた何か別の生き物の脳味噌が「自分」になって、物質世界で永遠に死と生を繰り返すだけです。本当は救われたいのに、物質世界の真実があまりにも強すぎて、仏教の教えこそ「人間が頭の中で作り出したもの」としか思えません。あまりにも無力。 自分の生活に集中するのが恐ろしいです。今の生活さえ世界から見ればかなり恵まれているという事実も、それさえ困難が避けられないという事実も、この人生が終わったらもっと過酷な世界に産まれるという事実も、物質世界の全てが恐ろしくてたまりません。けれど、ずっと同一の「自分」であるというのも無理かかかるので、いつかはまた餓鬼道や畜生道に生まれなければならないのでしょう。酷い殺され方をされる覚悟を持たなければ。
29歳から婚活を初めて34歳で結婚し、今は再婚を目指して39歳。過去の婚活や結婚の経緯は過去質問を参照してください。 最初は今回こそは反応がいいぞとぬか喜びし、1〜2回デートしたらだんだんLINEの返信が素っ気なくなり、取ってつけたようなテキトーな理由で交際終了を繰り返される10年に疲れ果てました。来年は40歳。現実的にあきらめないといけないタイムリミットが近づいてきているように思いますし、あまりに不毛なことに人生の時間を使い過ぎました。女性が憎いです。法蔵菩薩が極楽浄土に女性がいないようにするという誓願を立てたのは当たり前だと思います。あんな身勝手な生き物が浄土にいてたまるか。 遠くは(庶流の庶流の庶流のそのまた庶流のようなものですが)有名な武将の血を引き、近くは僕を可愛がってくれた祖父の血統を、家系を、なんとか残したいと神仏にも祈り、自分でも努力して足掻いてきましたが、願いを聞いてくれる神仏もおらず、その願いは叶わず僕は孤独死しないといけないようです。 食っていかねばならないので仕事はしますが、どうせ待っているのは孤独死なのになんでこんなしんどい仕事を頑張らなきゃいけないんだろう、有り金全部使って風俗店で豪遊してせめてもの女体への憾み(セックスのために結婚したいと言っているわけではありません)だけは晴らしてから川にでも身を投げて浄土に往生する方がさっぱりして良いかもしれないとすら思います。 まあ一生退屈しないだけの大好きな歴史小説と仏典が本棚に溢れているので、生きるとしたらそれを楽しみにしますが。 婚活を通してすっかりミソジニーになり、性格もひねくれ怒りっぽくなり、世を恨むだけの僕が生きる意味はありますか?
私に自我が芽生えたのは、今から8年ほど前であったと思います。 それまでの私はいつも何かに怯え、耳を塞ぎ、目を閉じる同然の生き方をしていたので、人と関わることもなく、世界の謎を紐解きもしませんでした。 私は尊敬できる友人たちや恋人たちに出会い、彼等と様々な世界を語ることで、また、様々な思想や書物に触れ、土地や歴史や文化に触れることで初めて人間となり、数年で一気に人生をまたいだようです。 お坊さまは、それぞれ形は違えど、仏門で人々を導いておられます。 導くとは、それぞれの人々が自分自身の力で救いを得るためのお手伝いのようなものではないかなと考えています。 私自身は、叫びだしそうなほどの恐れや苦しみの中にある時、いつも簡単な「答え」を知りたがりますが、ふと思い出すのは、「今この時も、能動的に(自らの意思と両足でもって)立って歩き続けなければ…」という、平穏で勇気満ちていた時の自分自身の決意で、 いつも先を歩いていく、ありとあらゆる先人たちの姿が救いになります。 私は、生きていくにつれ、自分自身と自分以外の人は別の生き物であり、別の生き方や考えをもっていることを知りました。 数年前、私はまだ人として世界を何も知らず、全ての他者の行動に憤ったり、悲しんだり、あらゆる問いを投げかけ続けました。 それは、全ての人と関わりを持っていたかったからのような気がしております。 対話すれば分かり合い、自分自身もその考えを理解できると思っていたのです。 そして、知人や家族やSNS上等の悩みや愚痴を目にすると、一緒に解決したいと思い積極的に相談に乗りました。 しかし、人は自分自身が救われようと望まなければ、救われることもできないと。 幸福とは、本人が望み、そして見つけなければ、ないのと同じことでありましょう。 そして、悩みや愚痴を持つ人々にそれを伝えたり、解決させるのは、容易なことではなく、膨大な時間や力を要します。 私には、本当に大切な友人以外の人々にはそれをしないように変化していく自分を見つけました。 そして、本当に心が通っていて、思想が似ていなければ、手助けもできないのです。 その変化を受け入れながらも、どこかで、その無力感が恐ろしいのです。 思春期がなかった私は、自分の変化が恐ろしいのです。 お坊さまは、どうして友人でも恋人でもない他人に手を差し伸べ続けられるのでしょう。
先日執念との向き合い方でお世話になりました。 また話を聞いていただけますでしょうか。 30過ぎて恥ずかしいのですがようやく自分を振り返って見つめています。 いつも感情が暴走して自分を客観視できてないのでは?と知人に言われようやくです。 そうしたら自分にとって生きづらい世の中であるなと自覚はしていたものの自分が一番正しいと思っていた世界はまったく違くて自分はひどい愚行を繰り返し、人や生き物に悲しみや迷惑ばかりかけていたのがわかりました。 そしてとんでもなく悪いことも。 むしろ悪人だなと捉えています。 過去の出来事は変えることができない。 それを認知しようとすればするほどどうしようもない罪悪感に覆い尽くされてしまいます。その出来事を認知できないのです。過去の経験があり今を生きなくてはいけないのはわかっているのですが認めれない完璧主義というのにも気づいてなかなか厄介な自分です。認知する事は今後の自分の行いで出来る事なのでしょうか? そして私はまだ診断は下りませんが精神科の先生から発達障害の可能性が強いと言われました。 このまま生きていても自分を変えることができずまた愚行を繰り返してしまいそうでそれがまた億劫とさせますが、たくさん考えた結果私は世の中のためになる事をしながら生きていきたいです。 しかし昔から私は何をやっても上手くこなすことが出来ず先生や親、人からずっと呆れ顔で匙を投げられています。 発達障害の事をたくさん調べる中色んな意見もあり、発達障害を言い訳にするなとか、 発達障害だから仕方ない事とか。 世の中にはいろんな捉え方がありますが、お坊さん達は愚行を繰り返さず、今を生きてこの世の為になる事をされていらっしゃいますが、愚行を繰り返し何も得意とせずのうのうと生きてきた自分はこのまま生きて世の中の為に何かしたいと考えることはおこがましく愚かな事では無いでしょうか? こういう事を考えるのは煩悩でしょうか? 努力をすれば出来る事すらもこなす事が困難な自分、過去の罪悪感に囚われている自分に世の中の為になる事ができるのだろうかという自己否定ばかりで情けないのです。 御言葉いただければ幸いです。
今年に入ってから一向に心が晴れず、沈んだ気持ちが上がってこないためにご相談させてください。 自分自身に自信がなくなり、嫉妬と無力感に包まれる生き物になってしまいました。 4年前の学生時代に、資格試験と就活の多忙な日々からうつ病発症→就職を断念してしまいました。 それから半年間養生していたのですが、あるときにやってみたかったが諦め続けていた「絵を描くこと」に挑戦してみることにしました。 はじめのうちは何をしたら良いのかもわからず苦しみつつも、気が付くと数年続き、TwitterというSNSでのフォロワー数も一万という大台を超えて、かつ絵の依頼や自分自身が出した作品をお金で購入してくださる方もいらっしゃられました。本当に嬉しかったです。 しかし、去年の春から絵を描くことが辛くなってきてしまいました。 (知り合いなど)世の中には絵を描くのが好きで、1日に12時間以上絵を描いていても楽しまれている方や、上達がとても早い方がいます。 物凄く魅力的な絵で私自身もその方々のことは好きで尊敬しています。 ですが、その一方で自分自身のなかで嫉妬や自己否定に近い感情や (その方々のように)絵に夢中になれない自分自身が嫌いになる感情がどこかで日々増幅してしまいました。 はじめは自分自身の捉え方の問題だと思い、何とか気をまぎらわそうとしました。 しかし今年の始め頃から、自分自身の絵が全く魅力的に思えずつまらない、絵を描くのが楽しくなく、楽しんでいる方々に酷く歪んだ感情を持っている私自身を自覚してしまいました。 その感情を他の趣味(テレビゲームやアウトドア)に費やして忘れようとするのですが、一時的に気分は晴れても絵は上手くならない(楽しくならない)とより一層気分が落ち込んでしまうばかりでした。 毎日絵を描きたいと思う時間も気力もどんどん減ってしまい、描かないと絵が下手になり評価も貰えなくなる…といった悪循環に陥り、言い様もなく無気力になってしまいました。 今はとにかく絵を描くのが辛いです。そして輝く楽しげな人達を羨む自分自身を酷く醜く思います。 仲の良い知り合いにも相談しました。しかし一向に気分と気力がこの2ヶ月戻る気配がなく、とても辛いです。 何か…この気持ちを整理するきっかけとなるお言葉を頂けないでしょうか。 お忙しいなかと存じ上げますが、宜しくお願い致します。
私は今春から専門学校に通う学生です 家族構成は母父(54) 私 妹の至って普通な核家族 父は自営業(祖父が創立した下町の小さな町工場) 年収は父と母合わせて350万円程、借アパートに住んでおり、持ち家は未だにありません 父は温和で優しい子煩悩な性格でした 最近になってから父がどうも被害者妄想や、小学生じみた思考、考え方で困っています。 第一に話を聞きません。 第一声は「言われる筋合いはない」 「もういい この話は終わり」 言いたい事は何も伝わっていません… 父は皿洗いをしてくれるのですが、好意でやってくれているのだと思っていたのに、「世間ではやらないのが普通、だからお前は旦那や彼氏が出来たら当たり前だと思うな」 つまり家事をしている俺は偉い と言いたいのでしょう… 娘の前でこのような発言をする父親に心底うんざりしました。 そして今日の出来事です。 父が炬燵で寝ていたのですが、手鏡を落としてしまい大きな音が鳴りました。 事故だったのですが父は「わざとか?」と怒っており、何が不快だったのかは知りませんが突っかかってきました。 私「わざとではないし、最近被害者妄想が酷いよ、血筋も有るし一度病院行ってきたら良いと思うよ(祖父 祖母共に脳の病を患っています)」 父『若いお前が行け!』 私「一度診断してもらった方がいいよ」 父『お前は考え方がおかしい!●精神病院に行っちまえ! (地元では有名な精神病院で重度の患者様が多い為、山奥に隔離されて作られている病院です)』 いつも通り話が通じないと思った私は、皿洗いを始めたのですが、 父『それも当てつけだろ!俺がやるからいいよ!』 私「何も言ってないよ…いい加減にしてよ、被害者妄想ばかりでこちらの気持ちは一切考えてくれないし、人の話を聞いてよ」 父『お前とはもう話さないし関わらないからな!頑張って学校行けよ〜!』 としまいには教育費払わないから逆らうな と。 カッとなって言い過ぎてしまった点もありますでしょうが、驚きました 一緒に暮らしているのも辛いですし、もう父が分かりません… 過度なスキンシップ→辞めて欲しい→喧嘩→スキンシップ のループです 男は寂しい生き物と言われても限度があります… 学習しない上に誰の話も聞かない父に困り果てています どうしたら良いのでしょうか、
私は今年で37歳になってまで、全くまともな人生を歩めなかったと思います… 小学生の頃、私は友達もできずに男子にいじめられて、勉強の成績もほぼ酷かったです… 中学生も酷い目に遭いました…男子は私を蹴ったり、汚い扱いされ、女子は3人組で「私たち、スリーピースだよねー♪」と言った後に、私を見てにらみつけて「何よワンピース!」 と嫌われていました…何もしていなくても、嫌われていました… そんな嫌われ者扱いされて辛い私は、唯一得意だったのと好きなことは、絵を描く事と生き物の事を知ることでした。 友達出来なかった私は、社会が底辺な私は漫画家になればいいかと思いながら、マンガ専攻の専門学校に通いました。 大学に行けなかったのは、私の学習能力が低いからと思って専門学校に逃げてしまいました…愚かすぎです… しかし、卒業後は過去の事で忘れられない人間不信になり、酷い心の人間嫌いと自分の自信の無さで正社員になる勇気はなく、学生の頃から全く働いたこともない私は、ろくでなしのニートになったり、数年やっっっと働けるようになったかと思ったら、コンビニ1年、100円ショップで9年だけのアルバイトがやっとでした… 現在の私は仕事の無いニート生活3年になろうとしています… 私はこれから何がしたいのかわからなくなり、仕事を探す気も行動も全くなくなり、残すところは死、犯罪、ホームレスの人生しかないと思ってしまいます… 今まで私が生きてきた人生は、本当に生き方を間違えてしまったんだと思っています… 自信があったら、行動力あったんだと思います。いじめられなかったら、成績もよかったんだと考えたりしてます。 小学生から明るく振舞って、勇気あったら、沢山いい思い出が出来ていたんだと毎日が後悔ばかりしています… 今行動に移したって、偉人からチャレンジすることは年など関係ないと言われても、結局は37歳の無駄に年を取った私は遅すぎたのです。 勇気のない臆病で、レール通りの正しい生き方をしなかった私は、このまま腐って死ぬだろうと考えてしまいます… 私って、本当に人生の失敗で不良品だなあと思っております…
お時間ある時の回答でいいです汗 表向きの質問は 余計なお世話(偽善)とは何なのか自分なりに考えてみると そもそも、自分と他人は思考全てが同じではなく各々が個として独立した思考を持つ存在であるため自分以外の存在にアクションを行った場合に必ずしも相手の望みと同一になるとは限らないと思います この食い違いが送り手、貰い手又は双方が善と捉えるか悪と捉えるかで偽善と呼ばれてしまう事があるのだろうと思います したがって、問題とされるのは偽善という行為では無く送り手、貰い手がその行為が悪と見なしてしまう食い違いが問題である為その食い違いが発生した際にいかにお互いが納得出来る様な形で迎えられるかが重要だと思われます 昨今の言い争い?ではこの偽善であるというのがよく散見されるがこれはお互いが歩み寄りの出来なくなった社会であるという一種の嘆きや諦めであり以前よりも問題が発生した時に表面上しか見る事の出来なくなった方が多いのかなとも思われます 他の存在に対して誰もが生きていれば必ずアクションをおこすものだが本当の問題に目を向け話し合う事もせずに表面上の事柄だけ見て嘆き諦めているそんな現実に何かもどかしさを感じてしまうのは僕だけなのでしょうか? という長ったらしい表向きのこじつけにも近い?(僕はそう感じてます)質問ですが何が言いたかったかと言いますと何となく偽善という言葉が流行るといい事し辛くなるしなんかやだなぁ何とかなんないかなぁ…です 因みにお坊さんのプロフィールに書いてるとある人にこの問いかけをしたら(笑、いいんじゃね別に、勝手な生き物だろ人間って、で、お前さんはどうする?)とだけ言われました たぶんこの質問凄くめんどくさい質問です汗 なるべく言いたい事を書いたつもりですが言いたい事が文章化出来てないかもです… ごめんなさいm(_ _;)m
「今の日本は傾いているから誰かを犠牲にしたい」という感情が蔓延している、ということを声を大にして言いたいのです。だから、私のような無能は人権を放棄しなければなりません。そもそも、労働に縛られている時点で普通に生きられている人間にも人権がないからです。 増税や経済的負担に対する抜本的解決がない以上、「障害者をガス室送りにしなければならない」「生産性のない人間をガス室送りにしなければならない」という思想が蔓延するのは必然です。価値のある人間しか生きることを許されないのです。 社会や世界全体への不信感が強烈で、もうどうにもならなくなっています。けれど生きるには労働しなければなりません。私を傷つけ苦しめ貶め殺すためだけの場所に入っていかなければなりません。そうしないと人権が買えないからです。 自分を殺さないと人権が買えない。けれど人権を買ったところでいつ足元が崩れるかわからない。自殺推奨活動のほうがよっぽど慈悲深く思えてしまうのですが。 こんなクソみたいな世界で、どうして自分を殺してまで生きるしか方法がないのでしょうか。どうして、不幸になるしかないこんな世界がいまだに続いているのでしょうか。この怒りをどうしたらいいのか全くわからないのです。 壁を殴ったらヒビが入る。そういう、自分のアクションに対して当たり前の反応が返ってくる、という経験が薄く、その度に苛立ちが募ります。自分が気にならない、話を聞いても何が悪かったのかよくわからないことで長々と詰められ、こちらの言い分は何一つ聞き入れられない。そういう不公平さの中で生きてきたので、何に対しても「自分を殺せばいいじゃない」としか思えません。だって、人間は自分以外の誰かが犠牲になることを望む生き物ですから。私は誰の犠牲になれば良いですか?私の代わりに誰が犠牲になってくれるのですか? どうせどう生きたって誰かに支配されたまま終わるのです。そうしないと人権が買えないから。現実を見れば見るほど嫌な気持ちだけが募ります。この世界に救いはない。あるのは泥のような絶望だけ。はーあ、努力とかくだらない。今まで言われてきた沢山の言葉に対する恨みが消えない。でも他人から見たら悪いのはぜーんぶ自分。やってられない。どうせ「悪いのは私でした」という反省のポーズしか望んでいないのだからロボトミー手術を受けなければ私はこの世界に生きる権利を与えられない。
この世界で生きる意味について聞きたいです。 私は親がいつも怒鳴りあう家で生まれました。父親は自分の思い通りにならなければ許せない人間で、いうことを聞かなければ暴力と金銭を振りかざします。それは自分に対しても同じなので黙って言うことを聞き、こんな男にはならないと誓いました。しかし、約束を守ってくれない母親や姉に私が普通の声で怒ると二人から父親のようだと軽蔑されました。彼女達もいつも大声で怒鳴りあうのに。その頃から「自我や感情を持ってはいけない」という思いが生まれ「親父のようになりたくないから、人の気持ちを優先するようにしよう」と決めました。 それからは家でも、学校でもピエロのように本気にならない人間を目指し、人から馬鹿にされても何を言われても「俺は怒らないし、正しく判断できる人間じゃない」と思って生きました。でも、高校の終わりごろから他人から求められる自分像を維持することが難しくなり、まともじゃない自分に自信を喪失してしまいました。 このままではいけないと思い、大学からカウンセリングに行きはじめ改めて原因が家族関係にあることに気づきました。そこで認知の歪みをなくせば「まともな人間」になれると思い、自分の認識や考えに疑いを持つようになりました。その中で、経済や歴史・宗教などを知り、「まともな人間」は作られたものだとそこでやっと気づけました。 ですが同時に、人は生まれてきた時点で他人や他の動物のポジションを奪う生物で、欲や自我をなくせないこと・自分は親より弱かっただけということを思い知りました。この世界では、もし大切な人が出来ても、自我がある以上相手を思いやるようで自分のことしか考えることはできません。自分が自分でいると、誰にでも平等にはできず昔の自分のように奪われる人を作りだします。 言いたいことを言い他人を別の生き物のように扱うサル山の大将のような人間が持て囃されます。俗にいういい人は基本的に特定の人達に優しい人です。それがこの世です。 ずっと苦悩し、皆幸せになる方法はないのか考え続け堪えてきましたが、知識や知恵がつく度それが不可能であることに失望するばかりです。もう疲れました。 きっと社会で生きていくには、世界を受け入れサル山の大将のように好きに生きるしかないんだと思います。だとすればこの世は地獄でしょうか?されたことを繰り返すしかないんでしょうか?
お世話になっております。同居の姑が軽く言った「(お金が)足りなくなったらちょうだい」の言葉がとても引っかかってしまっています。 以前の相談とほぼ重なってしまい恐縮なのですが、やはり納得がいかないのですね。 私と夫、娘、姑、その父の大舅で暮らしており、舅は他界。 亡くなってから税金の滞納が発覚し、結婚したばかりの私が元金を立て替えました。 お金については、年金暮らしの姑と大舅からはおそらく戻らない物と思っていますし、同じ家に住んでいますので自分の世帯の為でもあります。私たち夫婦も働いており、家事を姑に任せていますので諸々お互い様だろうと思って出しました。 しかし、現在第二子を妊娠中、家そのものも今後修繕が必要だろうし、自分たちの老後に子供に迷惑を掛けたくない等々物入りになるのは必須です。 そこに上記の発言で、正直図々しいと感じています。 姑は動物が大好きで、私が元金を立て替えた後に大型犬を購入しました。私は犬自体は好きですが、経済的に飼いたくはないと思っています。 これまで、「毛が気になる人が掃除して」、「(自分は)孫に何も買ってやれない哀れなおばあさん」「忙しい(散歩に一日2時間はかかります)」「うちは光熱費がすごい(犬の為に丸一日エアコン。私たち夫婦は仕事なので日中不在)」等の発言にモヤモヤしています。 姑にとって犬が社会との接点ですし、高齢の大舅の世話の癒しであることもわかります。 生き物なので、病気や怪我でお金が必要な時に助けないのも良心が痛みますが同時に理不尽です。 飼いたいのは自分なのだから、その分は稼げばいいのに。 私が自分で稼いだお金を一番使いたいのは我が子なのに…と。 実の親が何とか私たち実子に負担の無いようにと終活をしている姿を傍目に、血の繋がりのない嫁によく…と呆れてしまいました。 私の感覚で近いのが、「生活保護の方が娯楽の為にお金を借りる状態」です。 大切な夫、のお母様ですから邪険にはしたくありませんが、妊娠中の不安定もありこのまま不満を抱えていると爆発してしまいそうです。 犬は悪くないんですが、犬がいなければ…とか、お金のことばかり…と嫌になります。 心が軽くなるお知恵をお貸しください。
初めて質問させていただきます。 至らぬ点がございましたら、ご容赦願います。 私は都内でSEの仕事をしている会社員です。大学を卒業して、社会人になってから一度も彼女ができたことがありません。 その間、彼女をつくるために婚活パーティやマッチングアプリ、友人の紹介等で出会いの機会を得ようとしたのですが、いつも相手にされず、男としての価値のない自分は恋愛は諦めた方がいいのか悩んでおります。 自己評価ではありますが、私の顔は自他共に認めるブサイクで身長も165センチと男として価値のない生き物です。 今までの人生を振り返っても、周りからは「天然パーマが気持ち悪い」、「ブサイク」、「170センチない人は男として見れない」と言われ続け、マッチングアプリでは顔写真を交換したらブロックされ、婚活パーティで直接話すと距離を取られ、時々目を逸らされることもありました。一度だけですが、女性に告白したら泣かれることもありました。 少しでもマシに見えるように、ネット等に書かれている清潔感を意識し、服装や髪型にも興味を持ち、ジムにも通っているのですが、一切成果はないので最近は「どうせ誰にも必要としてもらえないなら清潔感を保つためのお金や時間が無駄」とすら感じてきました。 また、私自身、女性にガツガツ迫っているという意識はなく、いつも相手から遠回しに拒絶されるので正直辛いです。 卑屈なのは認めますが、もう生まれたときから卑屈だったのか、女性から拒絶され続け卑屈になったのかわかりません。 という話を友人にすると、「今まで彼女ができたことあるなら大丈夫」と気休めをいただけるのですが、私は今まで2人の方とお付き合いしたことはありますが、いずれも相手の浮気が原因で別れることとなったため、別の男と比べられたうえで自分は男として価値がないという事実を突きつけらるだけなので、追い詰められているようにすら感じてしまいます。 正直、女性と関わるのが怖いのですが、これからも気持ち悪いブサイクと思われながら諦めず恋活・婚活を続けることに意味はあるのでしょうか。 前を向いていれば、いつか幸せになれる等の回答はあまり期待してないです。 私の経験上、女性は口には出さずともブサイクには生きる価値がないと見下す方ばかりなので、幸せになれるイメージが想像できません。 自分で質問内容を否定してますね。 すみません。
おはようございます 朝からお疲れ様です。 私は幼い頃両親からごくごく軽度の性的暴行や虐待を受けていました。 今でも私の人格や感情、存在を否定することは日常茶飯事であり高い理想を求められています。 そしてプロフィールのこともあり、心が疲弊してきてしまいました。 ただ、両親以外の人間には恵まれていたようで、友人や恩師にすがりつつ日々を暮らしています。自決せずに済んだのは、彼らのおかげだと心から感謝しています。 色々考えを巡らすうち、 価値観は多様であり正義が悪であることもしばしば。 「正しい・間違い」「意味・価値」「感情」などは全て人間の「主観」であり人間が死にたえれば消えるもの。 そして人間とは宇宙から見れば星と星がスリ合えば消える存在で、その宇宙もただ存在するのみ。 ともすれば「主観」や生き物の命はもとから有ってないような微々たるもので、等しく意味は無くただそこに在るだけ、と思うようになりました。 本当のことは分かりませんが、死後は私の意識だけが残り、この美しい宇宙を自由に味わえればいいな、と期待しては待ちわびています。 種の存続や繁栄、記憶の継承が今多くの人間の目的なのでしょうが、興味がないので、心地よく生き、満足する状況で死を迎える準備をするために何が必要か考えればよい。社会には馴染むくらいでいい。 だから私は両親の期待全てに応えなくてもよいし、両親の対応に思いなやまなくてもいい。いつかは私が働きかけなくても消えてしまうものだから。 こちらに不都合がある、または効率よく物事を進めるときに必要であれば従順に振る舞うだけでいい。 と思うようになりました。 心が軽くなり、いっそう世界が美しく感じられました。 しかし、軽くはなりましたが、駄々をこねる幼稚で高圧的な両親へのやるせない気持ち、周りの人に親の代わりをさせてしまうことへの申し訳なさ、両親へ風俗のように媚を売らなければ外にも行けない状況は依然として残り、晴れやかとまではいきません。 感情を受け入れ昇華するのには時間がかかるものだから今はそんなもんなのでしょうか? この考え方で良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。
お世話になりますm( )m 昨日衝撃的なブログを読みました 男性は本能で浮気したくなる生き物と よく聞きますが 世の中の男性すべて奥さまをこんなに苦しめてまで 浮気したくなるものですか?? 理性のある男性はちゃんといますか? 私はシングルマザー歴18年で 彼氏も旦那もいませんが このブログを読んでとても悲しくなりました 年齢は39歳旦那、40歳奥さん 不倫相手は26歳で妊娠してしまっています 今それぞれ大変な修羅場を経験されておられます 奥様は大変気丈な方で 旦那さんと話合いやり直す方向で向かっています しかし葛藤したり苦しんでおられます 下がその方のブログです 悲しみの沼 2017-10-21 01:00:09 夜になり、時々深酒で酔いつぶれてしまった夫が背を向けて寝る。 ただそれだけのことなのに・・・ 何でなの? 若い子が良かったの? どうだった?肌がきれいで触り心地も良かったでしょう? 締まりも良かったでしょう? 気持ち良かった? またヤリたいと思って次を楽しみにしてた? 嫁の身体には飽きた? ダブダブな身体に欲情するわけない? 俺は嫁とヤル気ないのに、ヤル気出して近寄ってくるなと思ってた? 3人産んだ後のあそこはユルユルで気持ち良くなかったですか? イケませんか? 嫁への前戯なんて面倒くさかったですか? 排泄みたいなセックスはヤル気の無いサインでしたか? 自分は動かずマグロ状態、上に乗って動く嫁のことをどう思っていましたか? 今の私は痛々しく見えますか? 憐れに見えますか? 可哀想ですか? 俺がいないとこいつはダメになるだろうな…なんて思ってますか? 本当は私の片思いなのではないですか? 子どもや家にもれなく付いてくる嫁だから、嫁のご機嫌とりは仕方ない仕事となっているのですか? 私のことをどう思っていますか? ウザいですか? キモいですか? 本当は別れたかったのではないですか? 彼女の方が良かったのではないですか? 私のことが好きですか? それは愛ですか? それは恋ですか? それは情ですか? 私はあなたにとって何なんだろう… 闇が私を飲み込もうとする 悲しみの沼へ ズブズブと 引き摺り込もうとするんだ