hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「自分 罪 」
検索結果: 3252件
2024/09/26

私の我儘で手紙を出していいか悩んでます。

父が自死して20年が過ぎました。 父が最期に私へ遺した言葉と真実が知りたくて叔父へ連絡をしたいのですが不安と迷いがあります。 当時私は小学生でした。父が亡くなるまで母と父は母の借金と男性関係でよく喧嘩をしていました。父の選択もこれが原因だと思っていました。しかし葬儀後のある日、母は私の目を見てはっきりと 言いました。 「お父さんが死んだのはアンタのせい」と。思いっきり殴られたようなショックを感じました。 父が失踪した日、私は校外学習がありました。父が「見に行ってやろうか?」と冗談で私に声をかけた事に恥ずかしさと反抗心で「うるさいよ」と父に言い家を出てしまいました。父はその日のうちに家出をし生きて帰ってくることはありませんでした。母は「だから私が父に冷たくしたせいで寂しくて家出した」と言いました。子供の私は母の言葉が全てでした。母がそう言うならそうなんだと父を死に追いやったという十字架を背負って今までも、今も、生きてきました。本当に後悔しています。だけど私も大人になり親となってわかったこと、例え原因が私でも父をそうさせた引き金は、私の言葉一つでは無いような気がしたからです。父のような人ならば子供を悪者に仕立てあげることはしないと思いました。そして葬儀の時に私宛の遺書を叔父は私が大人になったら見せてあげると言い今も見たことがありません。父の言葉を知りたかったので実家で暮らしの頃、隠れて何度か探しましたが見つけられませんでした。遺書は叔父が持っているのか、母が保管しているのか不明です。今知らないと真実を知る人が、いなくなったら二度と知らないままになると思い、叔父へ手紙を送ろうと考えました。母に聞くことができたら一番良いのですが、長年母から毒親行為で支配され、私から父について話すことはタブーであり、今までも真実を伏せられているので遺書を読みたいなんて絶対に言えません。こんな母なので親戚の連絡を無視し音信不通に。その後遠方だったこともあり連絡先もわからない状態でしたが、父の戸籍を調べることができたので私の昔の記憶を合わせて叔父へたどり着けそうでした。しかしあともう少しでという所で連絡して良いのかと迷いが出てしまいました。私の我儘で今更連絡を取り叔父に辛い記憶を戻してしまうことになります。 今まで音信不通の叔父へ突然手紙を送っても良いのか…。客観的な意見を頂戴したいです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

執着を手放すには

以前、流産と不妊について相談させていただいた者です。その節は心のこもった回答をありがとうございました。 ご回答やそれ以前の問答を拝見したりして、少しずつ落ち着きを取り戻していますが、なかなかすぐに元気にというわけにはいかず、まだやっぱりもがいています。 ところで、以前TVでストーカーのニュースを見ていたとき、「ストーカーの人が幸せになれるとしたら、それは執着を手放して、他の道を進んだときだよね」と、家族に話しかけて自分でもはっとしたことがありました。私もそうだ、と思ったからです。 たぶん私は子供がほしいと思うあまりそのことに執着しているのではないだろうかと気がつきました。繰り返し流産して、いったん手にしたと思ったものを何度も失ったことで、余計にそれが強くなってしまったのかもしれません。 なんとかこの執着を手放したいと思ってきましたが、なかなか難しいようです。もともとこんな気持ちが背景にあったので、こちらの仏教に関連したサイトにご相談させていただいたのかもしれません。 説明が長くなってしまいましたが、このような執着を手放すための心の持ちようはあるのでしょうか?ご助言をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 133
回答数回答 5

浄土真宗、曹洞宗、真言宗

すみません、タイトルはあるお坊さんから見られないようにするためのものです。 相談です。 私は在家出身ですが、運よく師僧に恵まれました。 その師僧と友人が、私が精神病で実家で自宅療養していることについて、私の病状もよく知らないで、障害者なのを言い訳して実家で自宅療養するな、独り暮らししろ、親が自立を許してくれないなら失踪しろ、成人したら失踪して親を困らせても構わない、と言ってきました。 実家を出て就職して独り暮らしするには、作業所の管理人や主治医の判断が必要になるのに、それを言い訳にするな、だの言ってきて。 自立しろというのはわかるんですが、そのために失踪して家族に心配かけても構わない、成人なんだから、とかおかしくないですか? 師僧も友人も上記のような意見で追い詰めてくるんです。友人のほうは子供扱いして罵詈雑言並べ立て、私は謝ったのに一切謝罪なし。 師僧いわく、本当の親孝行とは社会に貢献することであって親に心配をかけないことではないから失踪して家族を心配させてもいいんだそうです。実家で療養して働いておらず、社会に貢献していない障害者はみんな親不孝ということです。 障害者がみんな実家を出られるわけじゃありません、ひとによって病状が違うからです。 裏切られた気持ちで落ち込んでいると、裏切られたくらいで怒る私の器が小さいんだ、とも言われました。 ひとりで大泣きしました。この出来事のせいで最近まで治っていた幻聴が再発し、心もずたずたです。いまも泣きながらこれを書いています。 私が可笑しいんでしょうか? 皆さんどう思われますか?

有り難し有り難し 21
回答数回答 3

私には「否定」が受け入れられない

抽象的なタイトルで申し訳ありません。この質問は今現在起こっている、プロゲーマーの方の心無い発言が「炎上」所属チームとの契約を解除された出来事と周囲の方達の態度を見て思ったことです。 ここで明文化するのも憚られるので、大分端折って述べますが、そのプロゲーマーの方は「人権」を軽視した発言をした。 それだけではなく以前から、世間的な正しさ(これも抽象的ですみません)から逸脱した発言が散見されたようで、それらが積み重なった上での今回の炎上、契約解除という運びになった。 そしてそれを周囲の方達は「当然だ」というような態度でいる。 私の色眼鏡を通した言葉になってしまいますが「安易にその人がそこに居ることを否定することを肯定している」 確かに、よろしくない行為を働いたことは事実です。あまり素行といいますか人格が良いものではないと捉えられても仕方ないでしょう。 そこに対して、批判を受けるところ「まで」は当然だと私も考えます。、 しかしそれが「否定を正当化する」ところにまでは行き着かないのです。どうしても。 その人が「そこに居ること」「こう在ること」を「否定」して良い理由には絶対にならない、と考えているのです。 今、私が挙げた事例と近づけて言うならば「人格」や「素行」で「否定」して良い理由には絶対にならないと考えているのです。 でも、世間はどうも、そうではないみたいです。 私の拡大解釈かもしれませんが「はっきり言って私が異常ですらある」と言った様相です。 どうしてなのか。少し考えてみました。 結果、「周りは私ほど、否定の持つ力の恐ろしさを理解していないのでは」「否定を否定で返すことの恐ろしさ、虚しさを知らないのでは」と言う結論が出てきました。あまりにも周りを軽く見た解答になってしまったのですが…… でもそれほどまでに、私は「否定」ができない。できないし、「否定」を「向け合う」行為を容認できない。しかしそれは正常ではない。私は世間が間違っているとすら思う。 ……正しいのはどちらでしょうか。また、そう考えることの意味はどこまであるのでしょうか。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2

ある僧侶の死

前回の質問時に生じた質問です。 もう何年前のことだか正確に覚えていませんが・・・ある日のこと、前途ある若き僧侶が殺害されました。夜間、路上で危険行為をしていた青少年らを注意したところ、逆上した彼らに暴行され、その末に息を引き取ったそうです。 当時、この報道を偶然テレビで観ていた私はとてもショックを受けました。僧侶という特殊な立場の人が犠牲になったことや、私個人のそれまでの想いや経験とも重なったのでしょう。暫く、忘れられませんでした。けれども、年を経るごとに少しずつ忘れ、思い出すこともなくなりました。しかし、数年前にお坊さんが書いたあるエッセイを読んだ時、一気に思い出したのです。 そこには偶然にも、あの事件のことが書かれていました。もちろん、実名などの記載はありませんでしたが、私はフラッシュバックのように、当時、テレビに映し出されていた事件現場を思い出しました。どこにでもありそうな人気もまばらな夜間の風景、暗い夜道と街頭、街頭に照らされた白いガードレール、記事を読む女性アナウンサーの声。 筆者と被害者の男性は、修行道場で先輩・後輩の関係で、男性は修行を終えて実家のお寺に帰った後に急死。彼の父親であり、師匠でもある住職は、葬儀の挨拶の中で、こう述べたそうです。 「それでも、許さないといけないのでしょうかね・・・」 仏教の教えでも、何であっても、人は皆平等で、言動には大なり小なり理由があります。加害者となった青少年らにも、殺意があったかどうかはともかく、腹立ち紛れに暴力をふるった原因や理由がそれぞれあるでしょう。しかし、だからと言って許せるかどうかは、また別の話。けれど、許すか諦めるかしなければ、生きている限り、苦しみ続けなければならない。また、こういったことが二度と起こらないように、暴力事件の被害者の方々が活動しておられますが、その活動は別として、果たして、彼らに救いはあったのでしょうか。 「許す」って何なんでしょう。諦めたら救われるのか・・・ただ、どうしようもない「ままならぬのが人の世だ」と分かっただけではないのか・・・「救い」って一体、何なのでしょうか。

有り難し有り難し 71
回答数回答 4

許せない

何度か相談させて頂いてます。 ずっと思ってた事を書きます。 私の親族関係は、あまり仲が良くありません。 というか、父の姉と妹が嫌いです。 私が高校1年の時に父方の祖父が亡くなり、3年の時に祖母が亡くなりました。 きっかけはその辺りなのですが(それまでは私が小さかった事もあり、大人な付き合いぐらいで留まっていたのだと思います) 祖母が亡くなって、すぐに遺産でもめました。 大した金額でもないのに。 出て行ったはずの姉までしゃしゃり出てきて。 裁判もして。 その間の嫌がらせは色々ありましたが、長くなるので書きません。 そこから父の名義だったはずの家から私たち家族が出ていく羽目になりました。 その辺りから、父は鬱状態のような感じで 「俺はいつ死んでもいいんだ」とか言って糖尿病の薬や治療も辞めてしまいました。 毎日のように寝ている時に、夢で思い出してたのか怒鳴ってたり、苦しんでるようでした。 それから数年は何事もなかったのですが、 昨年、父の糖尿病が悪化して(最初は頑なに父も病院へ行きたからずでしたが、何も食べられなくなり入院させました)亡くなりました。 もちろん、あの姉妹にはその事は連絡しませんし、葬式に呼んだ他の親戚にも言わないでと言ってあります。 もうすぐ父の一回忌です。 その姉妹は、親戚に根回しして一回忌に行かないようにしつこく電話をしているみたいです。 親戚は嫌になって参加しないからと電話で謝ってきました。 その姉妹的には「私たちだけ除け者にして!」みたいな言い分だそうです。 全く理解出来ません。 父に何をしたのか、全く分かってないし。 母にも酷い事言って。 復讐したいとは思いませんが、 父と母が苦しんだ分は分かって貰いたいです。 思い返すだけで、 腹が立ちます。 これからどう思っていくのが 良いのでしょうか? 何かアドバイスをお願いします。

有り難し有り難し 62
回答数回答 2

『なぜ私だけが苦しむのか』

これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?

有り難し有り難し 35
回答数回答 2
2024/06/21

出家を発心。具体的にどう動く?

おかげさまで、出家を発心いたしました。特に(未だ道行浅く恐縮ですが)臨済宗に最も共鳴しており、同宗寺院での出家を希望しています。 諸行無常の中、この一念と一時を大事にし、怠ることなく具体的に動き出したいと思っていますが、いわゆる「在家」であり、どこかの檀家でもないため、稚拙な所からになりますが、以下質問に関してお知恵を頂戴できますと幸甚です。 1.どのようなきっかけから師僧と結縁できるのでしょうか?どう出家の決意を示せばいいでしょうか?(不定期で座禅会に参加させていただいているお寺がありますが、咄嗟にお話ししても相手にしていただけるものなのか不安です。また、生涯をかけて追随する師匠なので、より多くの方にお目にかかって吟味すべきではないかと浅はかながら考えておりますが、いきなり「出家したいですが」と門戸を叩くものでもないと思い。) 2.恥ずかしいお話ですが、かなり大きい刺青を入れており(いわゆる反社会勢力とは、無始より関わっておりませんが)、もはや出家とは無縁なのか、一縷ののぞみでも受け入れでくださる師匠と道場があるものなのでしょうか?(過去の業の当然の結果として多くで拒絶されることは覚悟しており、それにめげずに求道することこそ修行と信じていますが、一方で皆具仏性を信じ、衆生平等の救済を追求する大乗仏教であれば必ずご縁があることと願って止みません) 一方的な長文で大変恐縮ですが、何卒ご指導のほどよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 12
回答数回答 3

葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

有り難し有り難し 578
回答数回答 7

セックスフレンドは損だと思う。

以下、上品な話ではありません。 性行為を目的とした「セックスフレンド」や不倫(愛人関係)。私や私の友達の数人は、そういう関係を経験しています。 私は、愛人からは貰う物は少しは貰ったから、「玩具になってあげた」過去にも割り切れます。 けれど、世の中には「ケチな男」がいて、彼らは甘美な言葉で女性を騙すのです。(結婚相談所で独身と偽ったり免許証を偽装するなど、あらゆる手段をとって何とかセックスに持ち込もうとする)そして、何の対価も支払わずにSEXをしようとする。 私にはセフレがいましたが、たまに後悔するんです。「無料の風俗嬢みたいな事をやるより、もっと上手く搾取すれば良かった」と。不倫をしていた友達も「既婚者に無料で相手になるより、お金を貰えばよかった」と話しています。 男は高価な風俗店に行かず、何の責任も負わずに射精をすれば「ラッキー」で済みますが、女性は妊娠のリスクがあります。そして大多数の女は抱かれると男に情が湧くという面倒事も抱えているのです。 そこに愛などはない刹那的な関係において、貰える物は貰う事こそが、くだらない過去を「割り切る」事に必要なのではないかと思うのです。 かつて私に愛人がいた時、ある人に「そいつが金を払うだけマシだ」と言われた理由が最近やっと分かりました。愛人と同じく刹那的な関係にあるセックスフレンドは、女性からすれば「損」だと思うのです。 日本には「売春防止法」がありますが、善良な大人がどう騒いだって、現実には売春も不倫もあるのが世ですし、これからもそれは消えないと私は思います。 また、売春防止法は「売春が人としての尊厳を害し、性道徳に反し、社会の善良の風俗をみだすものである」ことが基本的視点らしいですが、私からすれば、「何言ってるの?売春だから人としての尊厳を害すんじゃなくて、お金も含めて得るものがなかった時に尊厳が失われるんじゃない」と思います。 刹那的な男女関係を割り切るために、対価(金銭など)を得ることが、なぜ駄目なのですか?

有り難し有り難し 151
回答数回答 6