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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3760件

愛欲について

ハスノハで学んでおります、ありがとうございます。相談でございます実は私は3年前受洗したキリシタンです。こちらに相談したいと悩んでましたが思いきって書き込みします。プロフにも詳細書きましたが有難い事に仏縁に恵まれ仏教も勉強しており仏様、法、お坊様とても尊敬しています。またマザー・テレサが『異教徒たち。彼らを尊敬しなさい』との言葉があり勉強しています。 尼さんの著作を読み愛欲、渇愛・慈悲を学びました。私は結婚する約束をしていた恋人に捨てられ、その後違う男に連続でデートDVを2回受けたり、それ以外でも他人の色恋沙汰に巻き込まれいじめにあったりしました。それから働けないくらい治らない病気になり自殺未遂、これではよくないと『恋愛という愛欲や渇愛・性愛ではなく、慈悲深い、無償の愛を見返りを求めない愛を学びたい』と考え教会に通いだしました。 そこで年下の男性がいて最初はとても親切にキリスト教関連の聖品をくださりキリスト教系の本を貸してくださりました。最初は『熱心に指導してくださって、私もあんな風に新しく来た人に親切にしたいな』と感心しておりました。しかし時間が経つと妙なのです。急にちゃん付けで呼び敬語で話さず私の座る席に本を勝手に置き貸してあげると言ったりとにかく贈り物も過剰になり、以前霊の話をしたら彼はオカルト趣味だったらしくオカルト趣味まで押しつけられそうになり何か嫌な予感がし、避けていましたが3ヶ月前ミサ後に神父さまに呼び出され『彼から申し出が。結婚を前提に付き合ってくれと』と言われました。ショックでした。前述どおり私が一番触って欲しくない地雷だったので。仏教の本で読みましたが愛と愛欲は違うと。『自分が好きになったから、あなたも自分を好きになって頂戴』と言われた気分になり愛欲だと思いました。よりによって無償の愛を説く教会でそんな事があり、お釈迦様は愛欲に関してかなり厳しくおっしゃられていたと聞き、イエスも性愛と無償の愛は違うと聖書の中よく説教していただけに『あなた今まで何学んでいたの』と憤ってしまいました。あれからショック悲しみ憤りと気まずさで教会に3か月行ってません。私は病気で中々外出するのが難しく体に無理をして教会に通っていましたが今は家か通院、福祉センター以外は引きこもり。体調面で家にいるしかないので悩みが渦巻いて困っています。お坊様ヒントをください。お願いします。

有り難し有り難し 22
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浄土の信徒とお不動さん。

いつもお世話になっております。 あるお坊さまから、阿弥陀仏さんとお不動さんでは教えもお誓いも全く違う事も伺いました。(阿弥陀様は、「すべて受け入れる」、お不動さんは「阻む物を追い返す」) 私の関わって来たお坊さま方はそれぞれ、 「左手の縄でもって無理やりにでも仏道に引き入れる」、「仏道を妨げる物を追い払う」という対極的な教えを説いています。 私は浄土宗の人間なので、あの寺の職員はお不動さんの教えにのっとって 「畑違い、出て行けや!」 的な行動をとったのかとも思いました。 遠い昔に法然上人が感じた肩身の狭さを知り、「女は成仏できない」と説かれていた事も知りました。 ですが、どうも私はお不動さんがその様な悪い神さま?には見えません。 あの細めた左目が、悲しそうに泣いているように見えるんです。 人によってはご気分を害してしまう様な質問かもしれませんが、 お不動さんはどんな想いを抱いて私たちを見ているのでしょうか。 国内の浄土宗寺院にも、不動明王をお祀りしている所があると聞きました。 なので余計混乱しています。 くだらない事かもしれませんが、 ご教授のほど、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 66
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6つの命

最近わたしは6つの命を奪いました。 毎年軒下に、ムクドリが巣を作って雛が巣立っていくのですが、 今年は、家の外壁工事の為、どうしても巣を移動する必要がありました。 家族はどうしたもんかねぇと言いましたが、 私は雛鳥を助けて、他の場所に巣を移動させてあげれば、 親鳥が必ず気付いて世話を続けてくれると思って、便利屋に巣の移動を依頼しました。 でも実際、そんなに甘いものではありませんでした。 巣の移動は非常に難しく、移動中に2匹死んでしまいました。 どうしても助けたかったので、動物園や花鳥園にアドバイスをもらい、 日中は、元の巣に近い位置に巣箱を設置したら、なるべく関与しないでということで、 1日外出し、夜帰宅して、巣箱を覗くと、見慣れない細いホースのようなものが見え、反射的に悲鳴を上げていました。 急いで巣箱を地面に降ろし、中身をひっくり返すと、お腹の膨れたへびが草むらに逃げていきました。 そして、藁の中に、1匹だけ動く雛がいたのです。嬉しさと悲しさと恐怖で涙がどっと溢れ出てきました。 その子は次の日、物凄い声量で鳴き、お腹が空いたと私を呼ぶようになったのです。 たくましく力強く鳴く姿に、野生の生きる力を感じました。 前日までは動物園に保護してもらい、親鳥とは離れ離れになるけれど、絶対に生き抜いてほしいと思っていましたが、 この姿を見て、もう少し家で様子を見て、親鳥と会える機会を狙おうと実家の母と話しました。 もともとインコと暮らしていたので、トリには縁もあったんです。 このように、本当に元気に鳴いて、目も開いて私を見るようになったので、少し安心して、 次の日は仕事に行くことにし、朝も見てきたのですが、ちゃんと動いていたし、私を見てくれたので、 また週末帰るからと家をでたのですが、これが最後の別れになってしまいました。 後から知ったのですが、私が1日お世話した日は、初夏の気温で、わたしが仕事にでた日は通常の春の気温だったようです。 春の気温はまだ雛鳥には寒く、動物園の方によると、野鳥を育てるのは本当に難しいと言われました。 なんで巣を移動させたんだろう、すぐに動物園に保護してもらい、絶対に生きられる環境を優先しなかったんだろうと、自分が悪魔に思えて仕方ありません。命は重いと知っていたはずなのに、雛の姿を思い出すと、自分はなんてことをしたのだろうと悪魔に思えます。

有り難し有り難し 27
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2024/02/01

消えない憎しみについて

こんにちは。24歳の女性です。 本日も宜しくお願い致します。 私には憎んでも憎んでも、憎み足りない人がいます。去年の話ですが、アルバイト先で休憩室が隣だったことをきっかけに話すようになった10歳ほど上の女性がいました。それからというもの、連絡先を交換し、一般的に言えば「仲が良い」とされる関係性だったと思います。 しかしながら、私は彼女との関係性が進むにつれて、自分が彼女の言葉に度々傷ついていること、不安に感じていること、嫌われまいと自分を偽っていること、心が疲れてしまっていることを感じており、そんな正直な自分の気持ちを見て見ぬふりし続けた結果、相手に対する憎悪が一年たった今でも肥大化しています。 その方の嫌悪点を端的に申し上げますと、 価値観を強制的に押し付ける、マウント(自分の方が上だ、と思うための手段として私を利用してくる)、発言のほとんどが人の悪口、自慢をする(異性にモテること、仕事ができること)、相手の一言一句を否定する、という点です。 さらに、私は同じ職場に好きな人がおり、その女性とその男性を含めて話すこともあるような関係性でした。私はその女性に、彼が好きなことを話していたのですが、「脈は感じられない」「諦めて合コンに行こう」「彼が好きなのはあなたではなく私(その女性)では?」「彼は思わせぶりだ」などといった意見を毎日のように浴びせられ続けました。 ただ自分の方が上だと主張したいだけでは、そのために弱い私を利用しているのでは、と気づいた時には手遅れで、その女性からの連絡を無視し、連絡先自体を削除した今もなお、怒りは消えません。 ただ、こんな女性のように歳を重ねたくはない、という反面教師として勉強させて貰った貴重な機会にはなりました。自分の嫌いな人、モノを理解するための教科書のようなものでした。 しかしやはり、怒り、憎悪、醜さ、相手への攻撃性、その相手を否定しようとするエネルギー、などがふつふつと湧いてくるばかりです。許すことなどできず、正直なところ、相手が死に至れば喜んでしまうほどです。 私はこのような感情とどのように対峙し、理解し、受け入れることができるのでしょうか。自分の心がどんどん悪に染まるような気がしてきて、とても怖いです。

有り難し有り難し 17
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元恋人のお坊さんが荒行に

私は以前、日蓮宗のお坊さんとお付き合いをしていました。 彼の人柄に惹かれて仲良くなり、 あとで彼がお坊さんであることを知りました。 お坊さんであるということに抵抗や偏見などはなかったのですが 私は日蓮宗ではないので、知識がまったくなく 日蓮宗のお坊さんが日頃どんなことをしているのか、 どんな生活をしているのかさっぱり分かりませんでした。 彼も優しい人だったので自分の辛いことや大変なことは あまり私には話しませんでした。 お付き合いをすることになってからも 遠距離だったためなかなか会うこともできず 当時私は土日休みの普通の会社員で 休みも合わずで会えない悲しさなどをぶつけてしまい すれ違いもよくありました。 そんななか、彼が荒行にいくことになり 別れることになりました。 そんななかでも彼は優しく 修行が終わればまた会おうと話してくれました。 いま今も彼を想い続けており どうしてもっと理解しようとしなかったんだと悔やんでいます。 彼のことは人としても好きで尊敬しているので たとえ元の恋人関係に戻れなくても また仲良くなりたいと思っています。 来月彼が修行を終えて帰ってきます。 私はどのように声をかければいいんでしょうか? 疲れているからそっとしておいた方がいいのでしょうか? またお坊さんから見て、 女性にはどのように支えてほしいと感じますか? 教えていただけると幸いです。

有り難し有り難し 41
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2025/06/16

彼の考え方、生き方についての疑問

本日デートがあり彼が約束よりも40分ほど遅刻したため待っていたところ、酷いナンパに会いました。恐怖感が強く、彼に「酷いナンパにあってる。怒鳴られたりする。助けて、どうしたらいい?今どこ?」など咄嗟に連絡しました。 返信は「まだつかなそう〜近くのスタバに行ってて〜」でした。 こちらはそんなテンションではないのに。 周りの人が声をかけてくれたタイミングで走って、細い道に逃げ込みお店に駆け込みました。 待っている間も恐怖があり「ここのお店にいるからできるだけ早く来て欲しい。待ってるよ」 と連絡をしました。到着した彼の第一声は 「お待たせ〜^ ^今日暑いね〜」でした。 不安で同じ気分にはなれず 「ごめん。。今はまだ怖い気持ちが強くてその雰囲気やめて欲しい。」 と伝えたところ無言で無視されました。 「なんでここのお店なの?夜ご飯?昼ごはん?まだ中途半端な時間じゃない?」 と言われて。逃げ込んだだけの私はとてもモヤモヤしました。 こーゆうことがあってまず、心配や、大丈夫?などの声掛けがないこと。私が真剣な時に彼は同じく真剣にはなってくれないこと。笑ってほしくないタイミングで笑うことなど少しずつ傷ついてしまいました。 このことを伝えた時の反応は 「んー心配とかできなくてごめんね?」 「でも俺も家でやることあったし、忙しかったんだから俺ばかり責められてもさぁ。」 「そーやって言われるのきついんだけど?」 でした。 前々から時間は決めていたし、彼が遅刻してもいいように時間に余裕を持って連絡もしていました。遅れて来てこの態度。。そして私を心配にはならないんだなと。複雑な気持ちです。 彼は別れたくない。結婚するなら君だよと。いつも言ってくれますが、突然モラハラ気質になったり、眠い時だけ対応が雑だったりと突然人が変わったようになります。私が生理前の時にはいつもぶつかってしまいます。 無理はしなくていいから、しんどい日は遠慮なく会えないと言っていいんだよ。と伝えたり、遅れるときは何をしていてどのくらい遅れそうなど具体的に教えてねとお願いしていますが。全てが苦手みたいです。 この先一緒に過ごしていけるのか不安でなりません。そのような人にどう合わせればいいのでしょうか。

有り難し有り難し 18
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人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 42
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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

有り難し有り難し 24
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私の信仰について

今回は非常に個人的な悩みとなります。 私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。 そこで2つ質問があります。 1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか? 2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか? この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。 いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。 そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

有り難し有り難し 21
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10年の罪悪感

先日も投稿しましたが書き切れなかった分、今回また投稿させていただきます。 10年前に大切な人を自殺で亡くし、それ以降 罪悪感が自分の中から抜けずにいます。 当時の自分は他の好きな趣味に夢中で、彼女が出していたSOSサインに気づかぬ振りをしていました。まだ自分も10代後半だったので、人が簡単に死ぬ訳ないと思っていました。 亡くなる3日前に、会う事が出来ないと言うメールが来ましたが それをイラっとして無視してしまい、3日後に御家族から亡くなったとの連絡が来ました。 あの時折り返しの連絡をしていれば、SOSサインをちゃんと受け止めいてあげればと今でもずっと後悔しています。 御家族には、いつもと違う様子に気づいていた事を結局言えませんでした。 言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、その出来事から自分に自信を無くしてしまい 自分と関わってしまうと不幸になってしまうのではないかとか考えてしまい、お互いに気持ちが通じ合う関係になる人がいても 人を見殺しにしてしまった自分が幸せになっていいはずがない、自分はその罰を受けなければいけないのに物事が上手くいっていいはずがないと思い 自分から一歩離れてしまったり、良いことが続くと逆にとてつもなく怖くなってしまいます。 何かうまくいかない事を、罰だとして彼女の死を盾に言い訳してしまっているような自分にも すごく腹が立って自己嫌悪に陥ってしまいます。 こんな自分が嫌でしかなく、前を向いて生きていく 自信を持つ方法も自分にはわかりません。

有り難し有り難し 20
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