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hasunoha 問答検索結果 : 「 煩悩 」
検索結果: 3775件

人間はなぜ修行しなければ悟れないのか?

ご質問させて頂きますハルソラと申します。 私は禅の思想に感銘を受け、座禅修行を念頭に日々の生活を送っております。 多数の書物やお話から理屈では「なるほど悟りとはこのようなものか」と理解しつつも、お坊さまはご存知の通り、頭の理解でどうにかなるものではなく悪戦苦闘の日々です。 そこで私はふと思いました。なぜ人間はこんなに修行しなければ悟れないのか?…と。 昔、文鳥を飼っていた事がありますが、文鳥は悟っていると思いました。 すべての行動が「作為なく自然体で、ありのまま」なのです。 例えば、指で突っつくと怒るのですが、次の瞬間に手のひらを差し出すと、怒っていた事はすっかり忘れて手のひらに乗って機嫌良くしているし、 晩年は羽の力も衰えて全く飛べなくなりましたが、そんな事を気にしたり落ち込んだりする様子もなく、シャカシャカと素早く走りいつも通りのご機嫌なのです。 動物植物などはそのように「ありのまま」生きている(…と思う私の推測ですが)のに何故に人間は長い間たくさんの修行をしてやっと悟れるか、あるいはそれでも悟れない、という言わば面倒な存在なのでしょうか? お坊さま方もお忙しい中まことに恐縮ですが、ご教授よろしくお願い致します。

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乞食と喜捨に関する考え方

こんにちは、托鉢や乞食に関して、周囲の理解を得たいです。 私は地方都市に住んでいるのですが、街中でよく托鉢を行う人を見かけます。 お財布にゆとりのある時には小銭程度ですが、托鉢を行う方にお分けする事もあります。 …しかし、基本的に一緒に居る連れにはいい顔をされません。 「仏教には喜捨という概念があって、捨て去る事を有り難いと思う、そういった機会を与えてくれる事に感謝するっていう考えがあるんだよ」と説明はするのですが、あまり納得してもらえません。 私は小額で人の為になれれば嬉しい、そんな程度の考えで托鉢をなさる方に施しをします。 ですが、連れには大体の場合、「ああいうのはホームレスとかが僧侶などに変装してやっている。何も知らない人の善意を踏みにじる行為だからそんなものに手を貸すなんて」という具合の反応を返されてしまいます。 連れの言いたいことはわかります。ですがそもそも喜捨に関しては相手が誰だろうと関係ないものと認識しています。 しかし、それを連れに言ってしまうのまるで大事な連れを分からず屋扱いしてるような言葉になってしまいそうな為、いつも「小銭でも喜ぶんだからいいだろ」と終わらせます。しかしその言葉もまた托鉢をしてる方を、私が悦に入るための道具扱いしてるようであまりいい気分ではありません。 ところで私は敬虔な仏教徒ではありません。 人の為にどうのというのも、昔やっていたボーイスカウト活動にて「困っている人を助ける機会は善行を積む機会を頂ける」という考えを持っているからです。(この辺りは喜捨と似ているかもしれませんね) そのせいもあって、あまり詳しい仏教的な教えなどは語れなくもあるのです。 長文乱文になってしまいましたが、要は人は助け合うべきものであり、自分もいつホームレスの方々のようにモグリの托鉢や乞食をせねばならなくなるかわからない以上、誰かに何か出来る時はしておくべきだと思うのです。 こういった考え、仏教的な価値観を持たぬ身近な人に、角を立てずにわかってもらうにはどうしたらいいでしょう? わがままな話ですが、友人は大切なので「アイツは変わり者だ」と思われて距離を置かれるのも、「なんだか面倒くさいヤツだ」と思われて距離を置かれるのも嫌なんです。 支え合いこそ人類の本質にして美徳、そして自己のためでもあるのだとただわかってもらいたいのですが……

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私の信仰について

今回は非常に個人的な悩みとなります。 私は最近、仏教について調べたり、考えたりして、一種の信仰心を持つようになりました。(他人には一切信仰を公言してません)他人が悲惨な目にあったニュースを見聞きしたり、電車の人身事故があった時などは、心の中で南無阿弥陀と唱えるようにしてます。(宗派とかはよくわからないので、とにかく心で唱えるようにしてます)ただ、この教えはどの宗派かはわかりませんが、南無阿弥陀を唱えると、仏様が極楽浄土へ連れて行ってくれるという話を聞いたので、正直、他人のためではなく、唱えることにより自分が死後、安らかな場所に行けるように唱えていると考えてしまいます。 そこで2つ質問があります。 1 心の中で南無阿弥陀と唱えるだけでも良いことですか?また、他人に亡くなった方に対して唱えることは良いことなのでしょうか? 2前述したように、南無阿弥陀と唱えることは、自分が死後安らかに過ごせるようになるためであり、それは他人の為ではないという考えが少なからず自分の中にあります。純粋に他人の為に仏教に信仰心を持つにはどうすれば良いのでしょうか? この先は質問と関係無く、ただhasunohaのお坊さんへの感謝と自身の信仰に関する話です。 いつも悩みを聴いてくださり本当にありがとうございます。1人では考えきれない事を今までお坊さん方は真剣にアドバイスしてくださり、以前あった私の死にたいという気持ちも随分と楽になりました。本当にありがとうございます。また、このサイトがきっかけで、宗教とは非常に遠かった私の中に信仰心が生まれました。正直、極楽浄土や地獄、仏様など、目に見えない世界に関しては半信半疑です。しかし、過去の仏陀やお坊さん、そして現在のお坊さんなどが人々の為に幸せや平穏を願った。そして今も願っているという事実は変わりません。そしてその事実が現実に対して言いようのない不安に駆られていた私にとって光です。誰かの幸せの願う心の存在こそ私の救いです。皆さんの考える仏教への信仰とは全く違う形かもしれませんが、私は仏教をこのように信仰してます。 そしてこれからも、お坊さんのように誰かの幸せを願う人でありたいです。質問とは関係はありませんが、この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。

有り難し有り難し 21
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10年の罪悪感

先日も投稿しましたが書き切れなかった分、今回また投稿させていただきます。 10年前に大切な人を自殺で亡くし、それ以降 罪悪感が自分の中から抜けずにいます。 当時の自分は他の好きな趣味に夢中で、彼女が出していたSOSサインに気づかぬ振りをしていました。まだ自分も10代後半だったので、人が簡単に死ぬ訳ないと思っていました。 亡くなる3日前に、会う事が出来ないと言うメールが来ましたが それをイラっとして無視してしまい、3日後に御家族から亡くなったとの連絡が来ました。 あの時折り返しの連絡をしていれば、SOSサインをちゃんと受け止めいてあげればと今でもずっと後悔しています。 御家族には、いつもと違う様子に気づいていた事を結局言えませんでした。 言い訳に聞こえてしまうかもしれませんが、その出来事から自分に自信を無くしてしまい 自分と関わってしまうと不幸になってしまうのではないかとか考えてしまい、お互いに気持ちが通じ合う関係になる人がいても 人を見殺しにしてしまった自分が幸せになっていいはずがない、自分はその罰を受けなければいけないのに物事が上手くいっていいはずがないと思い 自分から一歩離れてしまったり、良いことが続くと逆にとてつもなく怖くなってしまいます。 何かうまくいかない事を、罰だとして彼女の死を盾に言い訳してしまっているような自分にも すごく腹が立って自己嫌悪に陥ってしまいます。 こんな自分が嫌でしかなく、前を向いて生きていく 自信を持つ方法も自分にはわかりません。

有り難し有り難し 20
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実家依存の妻

実家依存症という言葉を最近知りました。 その傾向がある妻との生活について相談したいと思います。私の妻は一人っ子で、とても大切に育てられてきたようです。7年前に結婚して私の家で私の実母と同居していました。子供もできて、しばらくは普通に生活していましたが、私と私の実母が職場に行っている間は自分の実家に子供を連れて戻り、夕方に帰ってくる生活になりました。私の実母の退職後は、自分の実家近くの幼稚園に子供をいれ(私もそれでいいよと許してしまっていました)、ますます実家に行くようになりました。 いわゆる嫁姑問題もあって、妻も私の母の言動全てをいちいち悪くとってしまっているので(実母にもきつい面が確かにありますが‥)、私のうちにいたくなかったのでしょう。実母に対する愚痴も嫌になるくらい聞かされて、夫婦喧嘩も何度もしました。夫にも話を聞いてもらえないと思ったのか、子供を連れて出て行ってしまいました。 その後、子供のことを考えて私も家を出ました。夫婦と子供の三人の生活が始まりましたが、やはり妻が頼るのは実家と自分の親類です。私は別居先から職場へ仕事に行き、時々実家へ行っていますが、妻は別居後も、自分の親類にだけ子供を預けて用を足したりしています。妻の、自分の親族とだけ上手くやって、うちの親類とは絶縁状態になっても構わないというような生活ぶりにものすごく嫌な感じを受けるのです。 実家は寺院なので、私がいないと困ってしまいますから、いずれは寺で生活できればと思っていますが、妻も「私も一人っ子だから実家は私しか頼る人がいない」と言って、実家に行っては、楽しく過ごしているようですし、実家のことをしてる時の妻は本当に生き生きしています。私の仕事のことや寺を守って行くことを考えてくれている様子はないようです。 子供を第一に考えてこの生活を選びましたが、このままでは私の気持ちが萎えていってしまい、いずれ最悪のことになってしまって子供にかわいそうな思いをさせてしまうことにはなりはしないかと案じています。

有り難し有り難し 38
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「人生」という長期的な考え方が出来ません。

自己紹介欄にも書いたのですが… 「人生をどう長期的に考えたらいいのか」が、これまでもずっと分かりません。 大切な人を悲しませないため、自分の本当にやりたいことをやるため、自分の感謝の気持ちを恵まれていない人に奉仕するため…など色々あるかと思いますが、どれも私には響いてこないのです。 これまでどれだけの時間を懸命に生きるために考え、実行してきたかは分かりません。 どれだけの本を読み、精神科に行って相談し、服薬し、友達に相談し、瞑想をしてみたり、自殺未遂をしたり…。 でもどれもこれも、「人生」という長期志向に至るための答えを与えてはくれませんでした。 「空の思想」も知っていますし、自分がどういう存在であるかという確証を持たずとも、誰かの気持ちの媒体となるような存在であることもいいのかもしれません。 ただやっぱり私としては、生きる目的や価値観など、一定の不動なものがないと、生きていく意味が分からず苦しいだけなんです。 不安定な感情に自分が振り回され、それを自分の大切な人に影響したりすることは、これこそ絶対に許せないこと。 自分の傾向として、「絶対という思想」「二元論的な考え方」「一人称の思考」「リラックスという感覚の欠如」「思考・行動でのバランス感覚の欠如」があります。 これらにはそれ相応の対応や生活の改善を行っていますが、それでも根源的な答えには結びつかず…という状態です。 友達からは、「結局いつも同じ所(同じ悩みや考え)に帰ってきてるよ」と言われますが、本人としてはそれが理解できていません。 それに、「深く考えすぎる」「(周りに対して)緊張している/頑張ってる」ともよく言われますが、深く考えない方がおかしいのではないかという考えは変わりませんし、緊張している云々は単に「警戒心」なんです。 結局は、人を信頼できていないことが原因と思いますし、父親との確執による自分の半分の遺伝子への嫌悪や、母親の共依存傾向への反発など、家庭環境が今の自分を構成させていることも分かっています。 でももうこれ以上、そこに原因を求めて被害者意識でいるのはうんざりなんです。 御託を並べているように感じられるかもしれませんが、上記のような状態をなるべく緩和出来るような教え・ご意見を頂けないでしょうか? わがまま・独りよがりかも知れませんが、宜しくお願い致します!!

有り難し有り難し 32
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2024/04/27

他人に心を開けずひとりぼっちです

人に妬まれることに不安を感じます。 それゆえに他人との会話でどこまで自分を出せばいいかわからずいつも聞き手になってしまい、自分のことがわからなくなりました。 私はある分野で能力があると認められ周りから褒められる機会が沢山ありました。 元々自信がないタイプなため自分が褒められているのを第3者視点で見て他人から妬まれていると思ってしまい、自分を出すことに引け目を感じます。 他人と会話する時自分のことを話すと自慢と捉えられるかも、と思ったりナルシストだと思われたくなくて自分のことを話すのが極端に苦手です。 そのため自分のやっている分野、活動に自信が持てません。 他人が自分を攻撃する人のように見えてしまったり自分の殻に篭りがちになり、自己開示できなかったり対人関係をどのように築けばいいかわからなくなってしまったみたいです。 これから1人で生きていく時に誰とも関われずひとりぼっちになってしまう予感がしています。それがとても怖いけれど他人との関わりも怖く堂々巡りです。挑戦も怖いです。最近はもうこんな人生辞めたいとまで思ってしまっています…もっと自信があればもっと活動的になれて友達もできるんだと思います。 本当は自分の能力を正しく認めたいのですが、注目されるとものすごく怖くなってしまい、謙虚なのか卑下なのかわからない状態になり、自己アピールも難しいです。 会話の時はひたすら聞き手になっています。 聞き続けるのが辛いと思う時もあり、自分を出せたら違うのかなと思う時もあります。 長々と申し訳ございません。 このような質問はお坊様から見るととてもくだらないものかと思いますが、お坊様が考える正しい人間関係はどのようなものでしょうか? そしてこれは疑問なのですが妬まれることが怖いのは傲慢なのでしょうか。 またこのような私が自分をどの程度出せば良いと思いますか?

有り難し有り難し 13
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2022/11/19

怨憎会苦 これからの人生どう向き合うか

以前にも相談させていただきました。定年をまじかに迎えいい年齢かつ、20年以上も前のことですが、心がいまだに揺れ、かき乱されます。アドバイスも何度も読ませていただきましたが、相談させてください。 20年近く前に親族と争い(法的)になりました。耐え難い苦しみ、憎しみの末、争いは決着しましたが、残念な事にその後両親が亡くなりました。死との因果関係は分かりませんが私としては心労が原因となったと思っています。 争い後、親族とは断絶し、自分も家族を持ち月並みな暮らしをしています。親族は健在のようです。顔も見たくありませんが、近隣に住んでいることもありまれにみることもあります。心がみだれます。 既に長い年月が経過しこの間自分も色々な人生経験をしてきました。妻子供と普通の暮らしをしていますが、ふと当時の事を思い出す事もあり、まだ親族に対する憎しみが消えません。亡き両親は、憎しみは雪解けのように時間が解決するといっていましたが、そうでもないようです。怨憎会苦、それほど長くない残りの人生このまま憎みを抱きながら行くのでしょうか。許せると思う日は来るのでしょうか。亡くなった両親はどう思っているのでしょうか。引っ越すのは現実的ではありません。自分の人生に意識を向けようと努力はしておりますが、「心構え」についてアドバイスをいただければと思います。

有り難し有り難し 40
回答数回答 2