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hasunoha 問答検索結果 : 「比べる」
検索結果: 3593件

私が○○さんの為にしている努力(自分磨き)の方向性。

こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。

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「蜘蛛の糸」について

私は、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という作品が、昔からいろいろに解釈できて、ずっと不思議に思っていました。 最初に読んだとき(子どものとき)は、 ①カンダタは莫迦だなあ、自分ならきっと、みんなと力を合わせて、みんなで極楽にたどり着くのに と思った ちょっと時間がたって(思春期) ②どうせ私もカンダタと同じだろう、きっと誰でもエゴが勝ってチャンスをだめにしてしまうに違いない と思った またしばらくして(反抗期) ③お釈迦様って何様なんだ!(お釈迦様だけど。)教養もなく悪人として生きてきたカンダタを、カンダタが成功しそうにない極限状況で試すなんて。助ける気なんかもともとないじゃないか、この話に正解も救いもないじゃないか と思った また少しして(青年期) ④カンダタが蜘蛛の糸を見ても登ろうと思わないくらい達観していたら、もしくは落語の江戸っ子のように、「一度地獄に落ちた身分の自分が、いまさら蜘蛛の糸などにすがってたまるか」と居直っていたら、お釈迦様は確実にカンダタを助けていたのかも と思った そして今(中年期) ⑤芥川が絵本として子供向けに書いた以上、一周回って、①の子どもらしい慢心(カンダタを通した戒め)が作者の意図した一番素直な読ませ方なのでは とも思う そこで質問です。 カンダタが確実に極楽に上がるためには、どうすればよかったのでしょう。 回答者陣のお坊様方は、自分の仏教に関するすべての見識や体験をふまえたならば、助かりたいカンダタに何とアドバイスしますか? それともこれは、カンダタはどうやっても助からないというお話なのでしょうか? その他、この作品に対してどう解釈しますか?

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死んだ後、地獄へ行かないために。

40代、無職、独身、天涯孤独(両親は母親はがんで病死、父親は借金苦で自殺)彼氏も友達もおりません。 学生時代もいじめられて孤独、会社も仕事もできずくびになって以来 引きこもりです。 どこをどうひっくり返しても、幸せだって思えた瞬間もありませんし 体験も皆無です。 無理に幸せと思おうとして生きてきましたがもう ネタ切れです。幸せは考え方次第、ともいいますが本当に、全く ないんです。もし死んだとしても、(孤独死か餓死でしょう、全く相談できる人も理解者もいませんので、たった独りの自分だけの力でどこまでできるかわからないので)悲しんでくれる人もおりません。 この辺信じてもらえないことが多いですけど、本当です!! 餓死=自殺扱いですよね? このサイトで必ず自殺者は地獄へ行く訳で ないというのを読んで少し心が軽くなりましたが、私でも大丈夫でしょうか、、、。必ず地獄送りでないのなら、精一杯できることやって みようかなという気持ちになってきました。 死ぬこと自体は全く怖くないし、この世に未練もありません。 ただ死んだ後まで、もう苦しみたくないだけなのです。 生まれ変わることにも抵抗ありません。 今の自分が消えてくれるなら万々歳ですから。

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いじめを無くすのは不可能

こんにちは。いつもお世話になっております。 ゆうりです。 教員採用試験の面接対策も始まり、日々あれこれと追われて、てんてこ舞いな毎日を送っております。 その面接対策で、「いじめ」について考える機会がありました。 私は、そういうのを引きつけやすい体質なのか分かりませんが、以前スケープゴートTの話を相談させて頂いた通り、それに関することについてよく遭遇してしまいます。 いじめの原因はそれぞれです。 ・むかついたから。ストレス発散のために、弱者をしばいた。 →喧嘩っ早いのは、困りものです。 ・自分を高めるより、人を蹴落とす方が楽だと気付いたとき、「お前勉強しても(努力)無駄だよ(笑)」 →成績の良くない私の、実体験です。進学校に多く見られる気がします。また、これを皮切りにスケープゴートが発生することも少なくないような気がします。学習障害がある生徒については、これに一番気を付けるべきでしょう。 いじめを無くすのは不可能。 これは、学校は社会の縮図であるからでしょうか? 誰が、作った言葉でありましょうか? 難しいこととは、確かに思いますが、それに白旗を揚げる大人(先生)が世の中に多過ぎるのではないかと思います。 先生としていじめの場に遭遇した時、その場に応じた(正攻法みたいな)対応は確かにございます。ですが、いじめは増える一方です。 いじめを無くす為の正攻法でいじめがなくならないのは、これには、なにかが足りないからだと思います。 いじめを無くすのは難しいのは言うまでもありません。それは、私たちが人間だからです。 いじめを撲滅する。 その為に心はどうあるべきか。単に教育上の単純作業の正攻法ではなく、人の上に立つ、人をつくる職に就く者としてその心はどうあるべきか?身の振り方はどうあるべきか? 質問させてください。 お手数をおかけしますが、宜しくお願いします。

有り難し有り難し 65
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進行系の苦しみを減らしたい場合

生まれ持ったスペックの中で、いかに楽しく幸せに暮らしていくのか工夫して生きていこうとするのが仏教というアドバイスをいただきました。 私は、楽しむ事が出来ません。 またプラスでそのスペックのせいで苦しみが永続的に続いています。 それらは例えば価値観に対する苦しみもあります 価値観や考えを変えれば変わる価値観もあります、今の大半のハスノハの悩みはそうでしょう。 でも今現在を苦しめさせる何かでもあります。障がいとか、やりたくない仕事とか、仕事のストレス、後悔やら、攻撃的な人間関係やら(イジメとか)、身体の苦痛やら。 それらって楽しむとか以前に一緒に共存したりできないし価値観を変えても苦しいのは苦しく仏教でどうこう出来るものじゃないと思うのです。 そんな中でこういう苦しみは仏教的にはどうやって対処してるのですか? 思考を変えて身体の苦痛やらも改善できるほどのものなのですか? 貴方は選択ミスで、今からお坊さんを辞めて毎日ウンコ食べる仕事をしてくださいと言われてそれを永続的に繰り返さなきゃならないです、ウンコを食べる仕事は辛いです。 ウンコを食べる仕事は性格上向いてないです。 周りのウンコ食べてる同僚達はフルシカトで人間関係でも苦しんでいます、ウンコ食べる仕事はかっこ悪いし恋人もできないです、ウンコ食べる仕事をしていることに後悔を感じています、全部選択ミスで起きた仕事選択です。詰将棋の状況です。 ウンコ食べる仕事をするのに無駄に学歴が高いですあんなに勉強したのに、高い学費払ったのに。 辞めたら履歴書が汚れて、下痢を食べる仕事しか残ってないです。 私はウンコを毎日食べています。 価値観を変えたら幸せなのですか? そんな中で毎日価値観を変えるだけで幸福になるんですか?

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出産後について

私は現在、妊娠9ヶ月なのですが実母から「出産後は実家に帰ってきて、1ヶ月でも2ヶ月でもいて良いよ。」と妊娠6ヶ月の時に言われました。私は母子家庭で、母は実家に帰らず子育てし、土木関係の仕事をしています。正直私が実家に帰るのが、負担になるのでは?と思い、母から帰ってきて良いよと言われるまで、帰る事は考えていませんでした。しかし、主人からも実家に帰る事を進められ母に「本当に帰って良いの?」と聞くと「良いよ。」と言われたので、主人にも産後は1ヶ月帰る事にしたと伝えてました。しかし、今月のお盆中に帰郷した際に母から、「嫁に行ったんだから、1ヶ月も実家に居てはダメ。と彼氏が言ってるから3週間にして。」と言われました。母には10年以上交際している彼氏がおり、母の彼氏は離婚経験者で子供が4人います。しかし私から見たら、父親ではないし2人が籍を入れても、父親には思えません。子供を育てたという点では、尊敬できますが元から2人の交際には興味なく、2人が幸せなら良いです。それなのに彼氏の余計な一言と、意見を変える母に腹が立ち、「3週間って誰が決めたの?産婦人科の先生が1ヶ月は休んで下さいと言っても3週間なの?それで無理に動いて何かあったら、2人のせいだからね。」と言いました。その際母は、私があまりにも怒るので、「1ヶ月休んで良いし、3週間とは決めてないよ。」と言われました。しかし、結局2日いただけで早々と帰ってきました。主人に不満をぶちまけると、「産後は辛いだろうから、うちの実家(義理の実家)に帰るでも良いし、うちの両親は喜ぶよ。」と言われました。しかし、義理の実家に帰るのはこちらが気を使い、疲れは取れません。私の母も、孫が産まれるのは嬉しい様で、「ここに布団敷いて、ここに寝かせて〜」などとは話しています。母の仕事は夜勤もあり、夜勤が続くと面倒見る事はできないから3週間にしてと言われました。最初に産後1ヶ月帰ると決めていた時には、母の仕事も夜勤の予定ではなかったのですが、どうしても母と彼氏を許せない自分がいて、悔しくて泣いてしまいます。出産した事も母に報告したくない気でいます。私が産後どうなるかは分かりませんが、ある程度の休暇は必要だと思います。実家に甘えたいとは思いませんが、私が考えすぎなのでしょうか?

有り難し有り難し 77
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障害のある子を授かる意味

前回の質問でも書きましたが、私には難病を持つ息子がいます。 息子は遺伝子の突然変異が原因といわれ、親自身には非はないとお医者さんに言われています。しかし最近思います。では、なぜ息子は障害を持って生まれてきたのか。私がどうしても女の子が欲しくて、3人目女の子授かるよう願ってしまったから?(結果男の子でしたが)これまでの行いや前世での行いが悪かったから? 私の周囲には、人を振り回したり悪口言ったりと人を傷つけたりしてる人がいます。でもその人は元気な子を産み、幸せに育てています。私も気づかぬうちに人を傷つけたりしてきたかと思いますが、悪口など言わないようにしているし、めちゃめちゃ悪いことをしてきたとは思えません。なのになぜ、私の元には元気な子を授かれなかったのでしょうか。 また、よく子供は天で親を選んで産まれてくるといいます。息子も私を選ばなければ丈夫な体で幸せになれたかもしれないし、もしかしたらあまりに私が子を願うあまり神様が無理に私のお腹に宿したのではなどいろいろ考えてしまいます。 障がいのある息子を宿したことは、私への罰なのでしょうか。それとも何か意味のある運命なのでしょうか。他の人ではなく、私が選ばれた差は何なのでしょうか。 お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 143
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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
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