今回地震のあった熊本に住んでいる者です。 自宅が倒壊したので避難所で暮らしていますが、同じ避難民の自分こそが被災者であり尽くされて当然という態度。あれが食べたいこれは嫌だこれが足りない次はいつ来るのかという声。物資が足りないと叫んでいるくせに腐らせて捨てる大量の食べ物の匂い。数が少なく配布はできないお菓子やお駄賃目当てで何かすることがないかと声をかける子どもの姿。 知らない人と同じ空間でずっと一緒にいるストレス。私自身ボランティアなどを何もしない代わりに配給も何も受け取らず日がな一日ぼうと過ごすこと。思い出したようにコンビニで買い物をしては吐くまで食べて仮設トイレへ駆け込み、すべてもどしてはまた食べ続けること。すべてが嫌で仕方がありません。 どこにも行けずこれから先どうすれば良いか、避難所が閉まる今週の土曜日からどこで暮らすのか、考えなければならないのに全く考えがまとまらず気がつけば一日が終わっています。耳鳴りや眩暈がひどいからと寝れもしないのに横になって、Twitterなどの心無い発言や、楽しそうなツイートを見る度に理由もわからず泣いています。 なぜ若者が動かないんだという視線を振り切って吐いては、ライフラインが何ひとつ復旧していないため善意の人たちがプールから手で汲み上げたバケツで吐瀉物を流すことも申し訳ない気持ちでいっぱいです。助けてください。どうすればよいのでしょうか。
私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。