初めて相談させていただきます。 全てを我慢、我慢、我慢しながら、生きていく意味はあるのでしょうか? 私は現在20代後半で、入院中の身です。 10代前半から絶対に治らない不治の病に侵され、治療と入退院を繰り返してきました。 私の病気は国の難病に指定されているもので、全身の筋力が落ちていずれは寝たきりになるものです。 この病気の為に、好きに運動する事も出来ず、好きな食べ物を食べる事もできず、特に10代の頃は周りの友人が好きに過ごしている中、ひたすら我慢の毎日でした。 20代になり、病気も悪化し、今後の人生に楽しみを全く見出せない状態です。 何故、私はこのような不自由な身体で生まれたのでしょう? 何故、周りの一般の方のように当たり前に好きな物を食べ、好きなように運動できるような、当たり前の幸せが許されないのでしょう…? 正直、もう生きる希望がありません。このまま絶対に治らない病気と付き合って生きていくのは心が限界です… そして、そんな身体に生まれた自分が情けないし大嫌いです。毎日毎日、自分を殺してやりたいと思うくらい憎んでいます。 許されるなら、安楽死を望みたいです。 こんなドス黒い気持ちを誰にも打ち明ける事ができず、毎日自問自答しては絶望して泣いてます。 私には、こんな身体の状態でなお生きて行く理由が、意味が分かりません… 早く、一刻も早く死にたいです。
お坊さん方こんにちは。私の仏教に関する疑問にお答えください。 よく人が亡くなってから初7日や49日や1周忌、三回忌などありますが、その時亡くなった方の霊はどんな風になってるのですか??閻魔大王にずっと裁かれてるのですか? また、もう一つ気になってる事があります。 前に家族、親戚などが供養すると故人の霊が極楽に行けると聞いた事があるのですが、もし私がこの先結婚せず孤独死すると墓参りする人も供養してくれる人もいない事になります。なので私は極楽に行けないのでしょうか?? 質問が多くなりすいません。どなたか回答してくれると嬉しいです。
私は40代独身者です。 考え方や性格の関係もあって、人とのつながりを継続するのがなかなか難しく、社会的孤立の中でどうにか生きてます。 つながりのほとんどはネット上にしかないなか、わずかなつながりに依存しているのですが・・・・ つながっている人たちは、おおむね何十~何百人とつながりがあり日常的に連絡しあっているようで 自分よりは孤立はなさそうに見えます。人生が上手くいきだした方もいます。 年に数回、彼らと会う機会があり、その時にもそう感じます。「生きづらさ」での仲間たちです。 最近、その彼らたちと自分を比較して、非常に心が苦しくなることが増えました。 比較しても勝ち目のない人たちなのは分かっていますが、眠りから覚めると途端に比較が始まります。 自分が眠りから覚めなければよいのにと思ったりします もともと自死・安楽死や死後の世界にも興味があります。 ある著名者の方がこんなことを話しておられました。 「これまで多くの相談者が「死にたい」と口にし、助かっても「なぜ助けた」と苦しむ様子に向き合ってきた。 結論から言うと、それでも生きた方が良く、生きることを阻害する要因を減らすことに注力した方がいい。 つまり、死なない方がいい。生きやすさを求めて生き続けながらもがいた方がよい」 生きづらさの原因が自分自身にある場合、自己否定や寿命までの年月を思うと、耐えきれない思いに苛まれます。 私のような人は、案外少なくないだろうと思います。 先の著名者のような「生きやすさを求めて生き続けながらもがいた方がよい」考え方は、仏教でも同じような教えになるものなのでしょうか? ある書では、カルマというものがあり、死んで楽になることはなく死後も苦しみはついてまわるとありました。なにか関係ありそうでしょうか? 自分を変えることとは、高額な医療費や、生涯お世話にならなければいけない支援者と密接に関係があると思います。 そんなお金やコネはありませんが、訪ねてみるべき場所などあるなら行ってみたいとは思います。 よろしくお願いします
はじめして。大学生の女です。頭が働いていないので支離滅裂な文章をお送りしますが、お許し下さい。今私は人生のどん底にいます。今までも「自分はどん底にいる」と思った経験はありますが、それまでは必ず誰かが助けてくれました。しかし、今回は別です。すべて私が悪いと思うのですが、助けてくれる人や親友を失ってしまいました。 自分は根暗で悲観的な性格であるため、「この先生きてたってろくなことはない。生きることに希望も持てないし自殺してしまいたい」と思っています。自殺方法を色々と調べてみましたが、遺族に莫大な損害賠償請求がなされたり他人様に迷惑をかけたりと、「結局安易に逝ける方法はないんだな。どうしたらいいんだろうか」と自殺できずにおります。もう自分が嫌で嫌でたまらず、生きていたくありません。自分の性格が悪いことは重々承知しておりますが、過去のトラウマから他人と接することが怖くなってしまいました。 「自殺した魂は一生生まれ変われず、地獄にも天国にも行けない」と聞いておりますが、実際はどうなのでしょうか。また、私のようなクズでももう一度人並みの人生を歩めるものでしょうか。 お坊様、どうか私に喝を入れて下さい。親からは「あんたはただの甘えだ。精神病の奴の真似をしているんだろう。付き合ってられない」と見捨てられそうな状況です。動こうと思っても、頭痛や腹痛がひどく、布団から出ることができません。
長男は昨年大学受験を終了しました。第一希望には届かず、合格をいただいた大学に元気に通っています。 しかし、私の気持ちが一年たった今も整理がつきません。春になり今年も、誰々がどの大学に決まったなどと聞くと、気持ちがざわつき 嫉妬心でいっぱいになり、夜も寝られません。 自分でも馬鹿な考え方だとわかっています。 でもどうしても、他人と比べてしまい気持ちが晴れません。苦しくて辛いです。
例え何かを為そうとしても、何か努力をしようとしても、自分の人生を生きようとしても、いずれ戦争ですべて奪われます。だから、何を感じるのも苦しい。ずっと泣きながら生きています。 そして、死んでもまたこの世界に生まれてしまいます。自我とは物質的肉体に付随するものでしかありませんし、極楽浄土なんてフィクションの産物にしかすぎません。確かなものは死と絶望と残酷な営みだけです。もしも極楽浄土が本当に存在するならば、この世界中で起こっているありとあらゆる残酷な環境の中に生み出される命に説明がつきません。どうして、戦地や過酷な独裁国家の中に、まだ人は生まれ続けるのでしょう。いつかの自分がファーストペンギンとしてシャチに食い殺される可能性は、この世界が終わるまで永遠に付きまとい続けます。 だから、この人生も、今の平和も、「人類」という営みも、何もかも束の間の嘘でしかありません。この世界の本質は、破壊と暴力と残酷な営みだけです。私達は死んだ後、更に過酷な環境の中に産み落とされる覚悟をしなければなりません。そして、強制的にもたらされる死はもう目前にまで迫っています。 存在しているのが辛い。物質的存在から逃れられない自我が辛い。脳科学的に言えば極楽浄土なんて信じるのも難しい。なぜなら、超常的上位存在なんて本当は居ないからです。あるのは残酷な物質的営みだけ。 ・物質的世界や自我や人類の営みなどといったものは、全てが偶然の産物でしかない ・必然性や何かの意図が介入していないということは、どこまでも無秩序で残酷になるということ ・それでいながら、結局は物質世界から逃れることなどできない。死んでもまた他の生き物の感覚器官が「自分」になるだけ だから、ありとあらゆる平和や慈悲やぬくもりが嘘のように感じられ、「どうしてこんな世界じゃないんだ」と苦しくなります。愚かにも、嘘っぱちな温かいものを望み、「これらが尊ばれる世界であるべき」などと思ってしまいます。その度に、残酷な真実との落差に苦しくなります。何を為すのも、希望を持つのも苦しい。死ぬことで物質的世界から「本当に」解放されるなら、安心して生きられるのに。 どうして極楽浄土を信じられるのですか。こんな残酷な世界で。私は悪くない。世界が悪い。だってこの世界は本当に残酷だから。慈悲や幸福よりも破壊や暴力や不幸の方がずっと大きくて強い世界。
こんばんは。 ここ2年間で大事な人がみんないなくなりました。 それまでは恋人がほしいから積極的に行動ができていたし、それが楽しかったのですが立て続けに失恋をして自分の心がぶち壊れました。 去年長年好きだった人からたまたま連絡があり、久々に会いました。 以前好きだだったときは相手に彼氏がいたため諦めましたが、再会したときは相手には彼氏がいなくチャンスだと思いなんとか告白までこぎつけました。 結果は「他に好きな人がいる」と断られて失敗しました。ですが自分の中でまだ諦めきれずアプローチしましたが完全にむこうから距離を置かれて深く落ち込みました。 しかし、その後別な人と運良く付き合うことができ、今までの辛いことが忘れるくらい幸せでした。 しかし、短期間で相手から「自分の素が出せない」と振られてそこから完全に心が壊れました。 どれだけ相手を大切に思って行動しても、相手には伝わらず、逆に思いやりが相手に負荷をかける形になってしまうと思います。ここ最近の出来事から結局自分は幸せになれないと思い込んでしまい希望がもてません。 運良く出会っても結局縁を切られることが多く、周りの友人は人間関係が上手くいってどうして自分はうまくいかないんだと悩み、最近は被害妄想がひどいです。 これだけ頑張っても結局うまくいかないんだと思い、精神的に疲れました。 他人を信じることができなくなりました。自分はこの先一人で生きていかなくてはいけないのでしょうか? 支離滅裂な文章で申し訳ありません。
自分を守るために死を選ぶのもありだと強く強く思うようになりました。 詳しく何々があり、こういう事に苦しんでいるという具体例をあげるのが本来でしょうが、ごめんなさい、いろいろと小さい事がたくさん積み重なった結果で、何をどう書き示したら良いのか分かりかねてしまぃした。 そこで、お坊さんの心の自己防衛法を教えていただけませんか? また、心は修復可能なのでしょうか?
生きることを苦しく思うときがあります。 もう生活はしたくない、何もかもから逃げ出したい、無になりたい、何も感じたくないと、心の底から願う時があります。でも、大抵しょうもない理由です。 生きていてよかったと心の底から思う出来事に出会うかもしれない。今までも、そう感じた素敵な出会いがいくつもありました。 だけど、その出会いは生きることの苦しさとは別にあって、苦しさが消えるわけじゃない。 そんな風に思いながらも今日まで生きていて、 死を選択できる状況で毎日生きるを選択している自分に、なんでだろうと思います。 生きてる限りこの苦しさは続くのでしょうか。 私はこの先も、生きていたくないなと思いながら生きていくのでしょうか。
幸せとは自分でつかみとるものでしょうか?それともどこからか舞い込んでくるものなのか、お坊様はどうお考えでしょうか? ある映画では、結果は前者でも後者でも同じだと。ある心理士のかたは幸せを求めている時点で不幸だと、他人に幸せを与えることで結果的に自分に返ってくるとおっしゃっていました。 私は分からなくなってしまいました。幸せになりたいが、幸せって何なのかも。おそらくこれが幸せって理想はあるのですが、その理想とは大切な人を見つけることです。そしてゆくゆくは結婚し子供をもつことが夢とか目標ではあります。 ある人たちは結婚が幸せとは限らないともいう人もいれば、最高という人もいます。でも子供がとても可愛いのです、歳のせいかもしれませんが、守りたいし大切にしたいと思います。 よって、自分は幸せを求め、幸せはいいものだと考え、自分でつかみとるものだという方に比率が高いのかとは思っています。 でもつかみとるってどうやるのかわかりません。教えてください。幸せは自分でつかむのか、それとも勝手にくるのか?どうやってつかみとるのか。 哲学的で難しい質問かもしれませんが、詳しくご教授ください。お忙しいとは存じますがよろしくお願いいたします。
こんな質問、お坊さんにさせて頂いてもいいものか、迷ったのですが悩んでいます。どうか質問させてください。 私は思春期に両親共になくしました。 現在は大人になり普段は忘れて楽しく生活していますが、ふと、例えば故人の誕生日、命日が来た時、親戚からお仏壇にあげて!とお菓子が送られてきた時など 思い出して現実に引き戻されます。 その度に情緒が不安定になり泣いたり食欲がなくなったりで困っています。 私にとって両親をなくしたことは人生において最も邪魔な記憶であり、思い出したくないことです。 仲が悪かった母のことはもちろん、過労死の父も思い出す度に色々な感情が湧き上がってきて心がぐちゃぐちゃにされます。 出来れば全て忘れて、無かったことにして、自分の人生を前向きに歩きたいです。 仏壇も母が買ったものなので今すぐ捨ててしまいたいです。お菓子なんかあげたくない。もう私には関係ない。思い出したくない。 両親に関わる全てのものを視界から消したい。 記憶が消えたら、思い出さないでいられたらどれだけ楽か、さわやかな毎日なのかと考えています。 親不孝でしょうか。バチあたりでしょうか。でも忘れたいです。 許されないことでしょうか。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
私は常に人に殺されたらどうしようと考えてしまいます。 というのも人の恨みを買うようなことをたくさんしてきてしまったからです。 周りのみんなは人を傷つけたりしていないのに自分だけ酷いことをいろんな人にしてきたように思います。しかも、その人のことを思って不安になるのではなく、その人に殺されたらという考えから不安を感じています。 最近は落ち着いてきて人を傷つけることはあまりないと思いますが、考えれば考えるほど人を傷つけたこと(最近のものから昔のものまで様々なこと)を思い出していつか殺されたらどうしようと思ってしまいます。 よく考えずに人を傷つけてはろくに反省も出来ずに自分のことばかり考えて殺されることに怯えている自分が嫌いです。 どうしたら問題を起こさずに、人を傷つけずにいられるのか、またどのように考えたら死に怯えずにすむのですか。教えてください。
中学生くらいの時から、毎日生きることが辛くなり、ずっと死を意識するようになりました。でも死ぬのは怖いし、死ぬ前の苦しみを考えると死ねません。 私は少しでも嫌なことがあると逃げ出したくなります。人が怒る姿を見るととても怖くなります。人生が嫌なことばかりだと分かりきっていますし、嫌なことの全部から逃げることは不可能なことは分かっています。でも、そう考えると絶望感が増します。逃げきれないなら死ぬしかないと思ってしまいます。 なんとなく生きている感覚があり、人生が空虚だという感覚が消え去りません。何をしても虚しいです。 こんな状態のまま生きていても良いのでしょうか?普通の人にとって、人生は虚しいものでは無いのでしょうか?仏教の観点からは、人生はどのようなものだとされているのですか?
私は死ぬ前に人生で1番好きになった人に告白します。 今まで、色んな嫌なことが積み重なって心が折れて感情が死んでたときに、その人は現れました。 その人とは、そこまで関係性が深いわけでもなく、たまに相談相手になってもらったり、姉や友達のプレゼント選びに付き合ってもらったくらいで、踏み込んだ関係性ではありません。 LINEの返事は、既読が付いたまま返ってこないことが多いので、興味がないのか嫌われているのだと自覚しています。 今回は初めての告白ですが、相手に自分の気持ちを押し付けて重い気持ちにさせてしまうことかと思います。 ですが、自分への最後のご褒美として、なにより後悔しないために、好きという気持ちを伝えていきたいと思います。 今までこれといって、人に向けて言える辛い思い出はなかったのかもしれませんが、私はそれを重く捉えているだけで、心がしんどくなり続けてるんだと思います。 ネガティブな考え方や他人の意見を気にし過ぎることに対して、何度も気持ちを切り替えるように心がけてきましたが、結局変わることができませんでした。 きっと今の自分が好きなんだと思います。 だけど、好きな自分のまま世の中に通用するとは思えないし、実際上手くいかなさ過ぎて何も残せていない、誰の役にも立てていない今に至ります。 自分を大切にしようとしてくれる親族や友達の言葉でさえ、心に響かなくなってしまいました。ありがたみや大事にしてくれてることを理解はしていますが、感じることができないといった状態が学生時代から続いています。 人から受ける感謝やありがとうの言葉が重荷になって、きっと聞きたくなくなってるんだと思います。 今後私が生き続ければ、人を嫌いになって過度な期待を求めて、周りに迷惑をかけてしまいそうで怖いです。 辛いことは何もしなくても必ず対面するし、自分の情緒と向き合うのもしんどくなってきて、受け入れてくれるような人を探すのも気力的に無理だと思います。 自分のことが嫌いになる前に、取り返しがつかなくなる前に自殺しようと思います。 私がこんなことを書いているのも誰かに気付いてもらいたかったからでしょう。 構って欲しい、愛して欲しい、抱きしめて欲しい、求めても手に入らないのでここで悩みを投下することを許してください。 ここまで読んでくれた方。 本当にありがとうございました。 どうか幸せに生きてください。
最近、読んだ仏教の本の中で悪徳政治家や悪徳業者、犯罪者(特に殺人犯)は地獄ヘ落ちると書いてありました。 本には書いてなかったのですが、よく自殺者も地獄へ落ちると聞きます。 そこで質問なのですが、自殺未遂をした事がある人は、どういう位置づけになっているのですか? 自殺未遂者の死後はどうなるのですか。未遂者はたまたま運良く死に至らなかっただけだと思いますが、自殺を決行した罪はたとえ自然死しても消えることはないのですか? やはり殺人未遂と同じくらい罪な事になって地獄行きや生まれ代わる時に何らかの支障が出るのでしょうか? 2度もやってしまいました ※あくまで天国や地獄が存在する前提での話です。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php;_ylt=A7dP5XLVuAtWHAoAiLOV_PN7?page=2&qid=1367098398&pos=1&ccode=ofv
お世話になっております。 以前から相談させていただいているのですが、自分は就職活動や、その後に就いた職業などでつまずき、今はフリーターとして働いています。勉強は得意でしたので、少し良い大学を出ましたが、まともな職歴はありません。 年も20代後半となり、人生に絶望感を覚えています。 新卒で就職して立派に働いている同級生と、落ちぶれた自分を見比べ、この先の人生の険しさに怯える日々です。 自分が弱すぎて、挑戦することも怖くて出来ず、将来の不安も大きく膨らみ、この社会には私の居場所はないと感じております。 甘え過ぎだ、もっと頑張ってから言え、と言う意見もあるかと思います。しかし、私は頑張ることのできない、どうしようもない人間のようです。 恐らく私は元来怠け者なのでしょう。 それに加えてこれまでの失敗もあって、行動するエネルギーが湧いてこないのです。 そして最近は、死ねば全て解決する、という考えが段々と頭を支配するようになってきました。 勿論好き好んで死にたいわけではありません。 苦しみから逃れたいのです。 どうかこんな私にご意見をお聞かせください。
祖父が嫌いです。四人兄弟なのですが私だけ祖父から嫌われています。 理由は昔から祖父は母のことが嫌いで、「結婚させるのも反対だった」と口癖のように言います。割と母親に懐いてた私はその事が原因で祖父を嫌いになりました。 四人も子供がいるので小学生の頃などは整理整頓が出来ず、散らかってばかりの部屋を見て祖父は「豚小屋」とか「あんな母親になるなよ」とか妹のことを祖父母は溺愛してるのですが妹が口をポカーンと開いてると、「口を開いてると眼鏡をかけたおばさんになるぞ」(母は眼鏡をかけて、鼻炎がひどいので口呼吸になりがちなんです)とか言ったりしていました。 それが本当に嫌で兄弟の中で私だけ祖父に反抗していて、口が悪いですが「うるせー黙れ」と言ったり していたせいで嫌われました。 母親が接客業で年末年始は帰りが遅くなり、洗い物をしてないと祖母がやるんですが、それを見て祖父は「それは母親の仕事でお前がやることじゃない」とか言ったりします。とことん母を毛嫌いしてますね。 兄弟格差も数え切れないほど色々あり、私嫌われてんなーと思ってしまいます。 別に嫌われてることに関してはなんにも思いません。今更って感じですから。 質問なんですが私はよく心の中でですが祖父に対して「早く死ね」って思ってしまいます。それっていけないことですか?人の死を悲しむことは良いことですけど、人の死を喜ぶ事はいけないことなんですよね? 不謹慎な話自分が大学進学するまでには死なないと思うので、大学進学して県外に出てった後に死んだらお葬式に出るつもりはありません。 なんか私って本当に醜いですよね??兄弟の中でもひねくれ者ですし、頭が良かったら反抗もせず聞き流してたのかなと思います。 小学生の頃から高校生になった今まで「じじい死ね」と心の中で思っていますが、自分って幼稚なんだなと思いますし、なんかそんな自分が嫌になります。 友達の中には「おじいちゃんから1万円貰っちゃった~」といい、バイトができない学校ゆえまあ羨ましいと思いますが実際は祖父から貰ったお金なんて使いたくありません。おじいちゃんなんて小学生何年生から呼んでないんだろうとかこの文章を書いてて色々思いました。 稚拙な文章ですがここまで読んでいただき本当にありがとうございました。
息子が亡くなり2ヶ月近くになります。亡くなったのは病死ですが、医者にも薬で治るでしょうと言われ、良く当たる霊視占いにも死にはしない治ると言われ。 それでも、不安で毎日神社に行き、神社でも不思議な現象もありお墓参りにも何度か行き、夢でも吉夢を見たり。 息子が入院中は、いろいろと良いことが続いていたので、息子も絶対に治って退院出来ると思ってました。 しかし、現実は違いました。 私は、もう何も信用できなくなりました。 この先何を信じて生きて行けば良いのでしょうか?
以下、生々しい表現があります。 弟が先月亡くなりました。まだ24歳でした。 弟は一人暮らしをしており、鬱病で通院していました。 先月母のもとに弟の職場の人から、弟から仕事をやめたいと連絡が来たので手続きの関係で何日か連絡を取り合っていたがここ一週間連絡が取れないと連絡がありました。 私はものすごく嫌な予感がして、弟の家に行く母に着いていきました。弟の部屋の鍵は開いていて、既に冷たくなっていた弟を発見したのは母でした。 警察の方によると死後一週間ほど経っていたそうです(その頃こちらはまだ寒かったので遺体の損傷はそこまでありませんでした)。 死因は今のところ不明です。自殺でも他殺でもなく不詳の死です。死因の特定には数ヶ月かかるそうで、それでも特定できるかはわからないと言われたので、ここからは私の想像です。 弟のスマホには生きることや死についての検索履歴が残っていました。部屋には食べかけのパンと流しには錠剤の塊(吐いたあと?)とほとんど残っていないカフェインの錠剤のボトルが残っていました。ですが部屋の鍵は開いていて、食器や洗濯物はすべて綺麗に洗って干されていました。 死にたかったのか、でも生きたかったのか。部屋に残されたものを見ると、弟は生と死の間で揺れていたのかと考えてしまいます。 弟は家族を嫌っていました。私も嫌われていることがわかっていたので声をかけることができずここ5年ほど会話はなく、唯一連絡を取っていたのは母でした。 去年休職した時も弟は実家に戻りませんでしたが、私が直接弟に伝えたら何か変わっていたのか。弟に心配だと伝えればよかったのか。いや、こうなる運命だったとしても、もっと発見が早かったら弟はもしかしたら助かったかもしれない。 毎日寝る前に後悔ばかりが募ります。 私は弟が発見される数日前にコンサートに行っていました。つまり弟が息絶えた後に姉の私はのうのうと楽しんでいたわけです。 弟は几帳面で部屋も綺麗でした。それ故に生きづらかったのかもしれません。母は自分に似てしまったとよく口にします。 息子に先立たされてしまった母が心配でなりません。リウマチもあり、決して屈強とは言えない母がそのうち倒れてしまわないか本当に心配です。私が実家にいるうちは話し相手になれますがと書いている私が先日コロナに罹ってしまいましたが。 残された私達はどうすればいいのでしょうか。