人より何倍もやらないと人のように動けない私に、よく周りが無理しちゃダメだよ?って言われるのですが、自分は無理してでもやらないと出来ないままだと思うんです、要領も悪く、グズです。無理しないで物事どうゆう風にすればいいんですか?
以前ご相談させていただいたりもしましたが、過干渉の義両親が苦手です。その親を愛してやまない夫が嫌いです。日に日に状況は悪化しています。 義両親が苦手すぎて、もう彼らに繋がるすべてに拒否反応が出ます。いっその事今すぐに死んでほしい。消えて欲しい。夫の記憶からも彼らを消してしまいたい。そう思い始めたのは最近ではありません。 毎日毎日、考えてしまいます。あの人たちさえいなければ夫ともこんなことにならなかった。でもあの人たちがいなければ夫にはもちろん、大切な自分の子にも会えなかった。そんな事実が受け止めきれず心の整理ができません。 死んでほしいと願う彼らは、最愛の我が子のルーツです。それが悲しいです。 あの人たちさえいなければ… あの人たちさえ消えてくれれば… 夫と離婚をする度胸もない私はいつもいつも考えてしまうのです。 とても不健全だなぁと我ながら思います。 人を呪うと自分に返ってくると聞きます。 こんなに思いつめてる私は結局自分の首を絞めてしまっているのでしょうか。 人に早く死んでほしいと望むことは、あってはならない、許されない感情でしょうか。
来月40歳になる男子です。自らの残りの人生について相談させていただきたく思います。 来月40歳になるのですが、とうとう結婚することができずに40歳を迎えることになりました。国立社会保障人口問題研究所の出生動向基本調査によれば、40歳時点で結婚できる人は全40歳代男性の0.3パーセントであるという結果も出ています。従い、40歳までに結婚できなければ、もう事実上私の人生に結婚はないだろうと思います。 結婚相談所に登録するなど、今まで人並みに活動はしてきました。また、運動や食生活に気をつけ清潔感や身だしなみにも気をつけてきたつもりです。 しかし、自分がいいなと思う人に気持ちが伝わることはありませんでした。正直、40年生きてきて女性ときちんとおつきあいをしないまま30歳代が終わってしまいました。生まれてこの方何をしてきたんだろうと思います。 精神医学や心理学をたくさん勉強しましたが、どうやら私は精神的な成長に失敗したようです。子供時代に両親の愛も希薄な状態で育てられたのも今は認識しています。 この文章を読んでいただければおわかりの通り、女性の気持ちをどう考えているかもおそらく伝わらない、稚拙な文章だと思います。女性を愛する能力は子供の時から鍛えられなければならないと言うことを、恥ずかしながら今知ってしまい、もう間に合わないと落胆しています。 周りの幸せな家族やカップルをみて非常にうらやましく思うとともに、正直なんで自分だけがこんなに孤独なのだとねたましく恨めしく思います。 人間最後は皆平等に死ぬと思うのですが、私は今から自分自身の死だけを目標に生きていくことに落胆しております。結婚だけが人生ではない、ほかにもつらい人たちはたくさんいるといわれても全く耳に入らないのです。 残りの人生、前向きなイベントは終わってしまい、残りの人生は両親の死と自分の死だけが待っています。 私には何が足りなかったのでしょうか?残りの人生何をしていったらいいかわかりません。アドバイスをよろしくお願いいたします。
私はもう40過ぎですが、いまだに結婚もできず…好きな人ができても、なかなか続かずうまくいきません。 休日に友人と出かけたり、料理教室に行ってみたり、なるべく色んな楽しい事を見つけて、マイナスに考えないようにはしていますが、楽しいのはその時だけで…一人になると『このままで良いのか?孤独死は怖い』という妄想ばかりしてしまいます。 今現在、両親と一緒に暮らしていますが、両親が健康で傍にいてくれる有り難さを実感しつつも、やはり恋愛でうまくいかないことで『どうせこんな私なんか』と気持ちが滅入るばかりです。恋愛や結婚が全てではありませんが、仲の良いカップルや家族連れを見ると羨ましさと同時に、自分の今の状況に情けなさと切なさを感じてしまいます。 何をやっても後ろ向きに考えてしまいます…。 いつになったら人に必要とされるのか、本当に不安です。 もっと前向きに考えられる自分になるには、どうしたらよいでしょうか?
こんにちは。今日は出家するということの意味について質問いたします。 俗世間は修行の場であるとつくづく思います。この数週間、こちらは夏休みということもあり、毎日仏教について学んだり瞑想したり、とても大きな生きる知恵を得ています。もちろん、知れば知るほど自らの至らなさや愚かさにビックリがっかりして足踏みすることも有ります、仏教初心者ですが残りの人生かけて努力するつもりでおります。 そこで質問です。俗世間は生きてゆく上で避けられない修行の場です。 ですが、出家するということはこの俗的な苦しみを出来るだけ避けて清らかな心にする、悟りに最適の場所を選ぶ、そういうことなのでしょうか。 出家できる環境の人もいればそうでない人もおります。 学校に例えますと、ある専門学校があるとします。そこにいくと専門職につく最適な近道になるわけです。 ところが、学校に行きたいけど状況が整わず行けない人もいます。学校になど行かなくても通信教育を受けたり、別の道は沢山あるでしょうけど、指針がしっかりないのです。 それに、こういう状況を、まあ縁だからしょうがないだろうととることもできるかもしれません。(今世はそういう時でないとか) 出家しないと得られないこととはなんですか? また、出家する人としない人の違いはなんでしょうか? お坊さんがたが、なぜ出家なさって生涯にわたってお釈迦様の教えに忠実に生きて世の中の人々の役に立とうと考えられたのか、ご自身の経験などを教えていただけると幸いです。 子供が三人おりますし、修行のみならず毎日はたくさんの喜びと幸せに満ちていますので、何もほかの人生を望んでいるわけではないのですが、出家されてお寺に従事されておられることが理想的だなあ、とちょっと思ってしまうのです。それは現在に不満があるからなではなく、仏教の生き方がまさに真の道だなあと思うからです。 回答お願いいたします。
いつもありがとうございます。 私は45歳になる女性です。 最近、ワクワクする事もなく欲もなくなり何だかつまらない毎日です。 昔は、どこどこに旅行に行きたい!温泉に行きたい!これをしたい、あれをしたい!と色々と行きたい所や、やりたい事がありました。また、洋服が大好きでウィンドウショッピングも大好きで買い物が大好きでしたが洋服を見てもワクワクしません。 趣味や夢中になれるモノがある人が羨ましいです。 夢中になれるモノを探そうと色々とアンテナを張り巡らせますが、これも慣れたらつまらなくなるのかなと思うとやる気が起きません。こんな感じでつまらない人生のまま歳を取るのかなと思うとゾッとします。 既婚ですが、子供はいないので、子供のために頑張ることもありません…
チベット仏教のゲルク派によるともののあり方には2つ有るそうです。 1.自性によって成立しているもの 2.何らかの効果を生み出す能力のあるものとしてのもの。言葉に仮設されたもの。 自性によって成立している物は世俗、涅槃の両方の世界において成立しないとするのがゲルク派の教義の特徴とされています。 また、事物の存在を全面的に否定している訳ではなく、言葉によって仮設された縁起によって成り立つ物として存在しているとされています。 釈尊は悟りを開かれた後も、救済の為に衆生の話に耳を傾け、粥を飲み、説法を説かれるため足を運ぶ といった事をされている事から、仮設された知識や善悪の価値観、法則、事物は涅槃の世界でも縁起に依るものとして存在する事が分かります。 もし事物が全面的に失うのであれば虚無主義と変わらない事になります。 しかし、それならば一つ重大な欠陥が残ります。 世俗の真理として仮設された輪廻転生はどうして解消されるのでしょうか? ゲルク派は言説有、つまり自性に基づかない物としての輪廻転生を前提にします。 それらは言説有として仮に存在する物であるから存在を認める事が出来るからです。 であればどうして釈尊は輪廻から脱したと言えるのでしょうか? もし輪廻転生を世俗の真理だと仮定するなら、釈尊は妄執を消しただけで、 縁起としては今もなお輪廻転生を繰り返していることになります。 縁起によって成り立つ事物は涅槃の世界でも残るからです。 では涅槃に入る事で仮設された真理も消えるとします。 それならば何故衆生を救う必要が有るのでしょうか? 自己が輪廻転生を繰り返す妄執が消えたのに、どうして他者が輪廻転生を繰り返すという妄執は残っているのでしょうか? 涅槃の世界に輪廻転生を繰り返す事物は存在しない筈です。 また、そもそも世俗真理としても否定されるという事は すなわち科学的認識、日常感覚としての「無い」と同じですから、我々も輪廻転生から脱する必要すら無くなります。 ここのサイトが「神父さんがこたえるQ&Aサイト」ではないのと同じように。 大上段から釈尊を否定する書き方をしましたが、私は今の自分の考えを必ず正しいとは思っていませんし お坊様方から間違いを指摘して下さる事を通じて学ばせて頂きたいと思っておりますので何卒宜しくお願いします。
こんにちは。僕はこれまで様々な道(生き方)を求めて、真宗の教えを求道中だったのですが、はっきり言ってこれまでやってきたことは偽りに過ぎなかったと思い始めました。僕は真宗(本願寺派)において信心をいただきましたが、結局疑いは消えないようです。疑いあるままの救いのようですが、どうも僕にはそれが耐えられないようです。とにかく苦しくて仕方ない。 一方、真宗大谷派の方はもとより疑うべき考え方がないので、とても気が楽になり、最終的には「事実のみが救い」だと最近学びました。 真宗大谷派が最善だと思っていたのですが、僕は精神統一をしなければとても精神が不安定になることもあり、どうせなら座禅の方が良いのではないかと考えています。 これは僕の勉強不足かもしれませんが、座禅と念仏の教えは確実に繋がっているところがあるように思うのです。座禅の教えは自力だと言われていますが、僕はそうは思わず、考え方の問題だと思います。念仏だって自分の意思で間違いなく念仏申しますが、考え方としては「阿弥陀仏の力によって念仏させられる」と考え、禅宗でも「座禅が座禅をするのだ」と言っている人もいます。それに、「座禅は悟りを開くことが目的ではなく、座禅そのものが目的」だと聞きました。 他にも禅で言う大悟も、念仏の信心と似てるというか、もう一緒ですよね。「妙好人」の著書で知られる、鈴木大拙先生も念仏の教えと座禅の教えを比べながら大悟を解説していますし、大悟したと言われる一休禅師も煩悩が消えているわけではない。実際にはどういう境地なのかは分かりませんが、おそらく「仏の眼」によって煩悩あるがままでも力強く生きることができたのではないかと理解しています。 これらの事から、僕は禅の道を歩もうと考えています。 念仏の教えと座禅の教えは、ほぼ同じようなものだと考えている僕ですが、実際はどうなのかが知りたいです。よく吟味しながら求道しようと思っていますので、遠慮なく厳しいお言葉でも構いませんので、念仏と座禅の関係性、大悟や信心の類時点や相違点を教えていただけると有難いです。
普通ってなんですか? 普通じゃないと何がいけないんですか?
今の仕事を長く続けていて、人のしない努力もしてきたつもりですが、低い評価しか受けません。自分では気を付けてきたつもりです。 人間関係もうまくいかないし、転職したほうがよいでしょうか?
初めての質問です。読んでくださっているお坊さん方、ありがとうございます。そして、よろしくお願いします。 私は人を助ける人になりたいと思っています。人であるのなら当然のことかもしれませんが、そういう風に考え生活しています。 上記の内容だけでは、良いことのように思えますが、どうしても悩んでしまうのです。 例えば重い荷物を持って運ぶのが大変そうなお年寄りを助けるとき、「自分は良い事をしたいと思ってした」と純粋な優しさなどではなく、ある意味欲求から為しているような気がしてならないのです。 少しニュアンスは変わりますが、「優等生アピールをしている」、もしくは自分の心の中で「自分は優しい人だ」と思い込ませているための手段になっている気がするのです。 純粋な気持ちで「良い事」は出来るのでしょうか?出来ないのであれば、どうしたらこの罪悪感を感じずに「良い事」ができるのでしょう?
ウソをつく 学校をぼいこっと 物をねだって買って貰う 自殺未遂(本当にどうでもいい事で、です) 動物に暴力を振るう モノを盗む など引っ越して転校してから 人が思いつく悪事を昔何度もした自分が憎いです。 過去に戻れないのは分かっていますが、 自己険悪に陥り死にたいです。 どうやって立ち直ればいいですか? ついでにこんな人間は死後大変な事になりますよね?
林真理子さんの「野心のすすめ」という本が70万部突破と書いてあったので、書店で買って読んでみました。 題の通り野心をもちなさいという本なのですが、読んで私はとても共感し元気にもなりました。上を目指して常に挑戦していくことは大切だと思います。 そしてこの本の中に、何かを手に入れるとまた欲しくなる。煩悩が大きすぎて全部捨て去れないからこそ野心を持てるというようなことが書かれていました。 煩悩って除夜の鐘で叩くのもあって、持っていてはいけないものというように教えられた感じがするのですが、野心を持って上に行きたいということはだめなのでしょうか?私は林真理子さんの本に励まされたので、もっと欲しいと思う気持ちを持つことは人が成長するために必要だと思います。 いかがでしょうか?
これまで割と異性関係は苦労はしてなかったのですが 前の彼女と別れた時 2人の認識の違いから別れたのですが 学校中にあらぬ噂が広まり それ以来人と話すのが怖くなりました もともといじめられてたのも原因だと思いますが 以前は本当の自分を見せるのが怖く無意識に嘘をついていたこともありましたが その時はまだ無理すれば話せる感じでした でも今は言葉が出なくなるといいますか、 黙ってしまう感じです 3人以上いると会話に入れず そこにいるだけな感じです それからというもの以前のように 女の子から話しかけられることはあるのですが 少し怖いというか悪い想像をしてしまうようになって… おそらくなにも悪意はないとは思うのですが それでも言葉で表しにくいなにかが怖くなります つまりです 僕が質問したいことは 好きという感情がどういうものだったのかと わからなくなりました 人を好きになること 人に心を許すこととでも言えますが とにかく自分以外だったら誰にも当てはまります 家族も例外ではなく ご意見をお聞かせいただけたら幸いです
ネットで調べたら躁鬱病のようです。予約制なのでなかなか自分で病院に行けません。疲れました
約束をしても、数日後に必ず穴埋めをするからと言って、キャンセルしてきたり、人の前で、バカ、輩、生意気だと卑猥なことをすぐ言ってきたり、平気で仲間はずれにして陥れてくる人が、色々な県に彼女が何人もいてモテるのかなぁ?その彼女さん達の答えは、みんな彼は親切で、頼り甲斐があるとSNSで書いてるの。因果応報もなく、普通に暮らしてるの。
犀の角のようにただ独り歩め。 という言葉が私はなんとなく好きですが、これって自分の我を通したり、孤独に生きろという意味ではないですよね? 最近、趣味のテニスでも仕事でも、周りと協力しないとうまくいかないとようやく感じるようになりました。我を通してるだけでは自分もうまくいかないし周りにも迷惑かけるのを体験してきました。犀の角のようにただ独り歩め。というのは一見周りを見ないで自分のやるべきことをやれというのを感じます。間違ってない気はするのですが、冷たい人、思いやりのない人、とっつきにくい人そういうイメージになりそうです。というか私が今、こうなってる気がします。 なぜこのような言葉をブッタはおっしゃったのでしょうか。
【導入】 現在、就活をしており内定は一つもありません。今のところ、人生のどん底状態です。 こんな状態の中、ふと「プライドって一体何者なんだ?」と考える機会がありました。 【やや脱線】 スポーツが苦手でイケメンでもなく高身長でもない私が、唯一勝負できる場所は『勉強』しかないと思い、勉強がいつかは役に立つと信じて勉強してきました。しかし、現在の私はどん底を這いつくばるような毎日です。勉強を頑張れたのも「今は辛くても就活の時にきっと何か役に立つはずだ」と希望を抱くことができたからです。とはいえ、世の中は甘くなく、私の努力は努力しても報われない努力だったのです。就活はボロボロです。その現状の責任は、能力不足の私自身にあります。失礼を承知で言いますが「楽に死ねたら今悩んでることも解決するのに」と何度思ったことか。 【本論】 さて、本題についてです。 プライドとは何者なのでしょうか?例えば「プライドを捨てれば楽になる」という場合、プライドはマイナス的な扱いです。しかし、私が中学からコツコツと勉強をし続けてこれたのは他ならぬプライドのおかげです。「せめて勉強だけは皆んなに負けるわけにはいかない」といった具合です。 私は、プライドとは自身が現在までに頑張ってきた物事を対象に作られる、いわばこれまでの自分の過去の価値を肯定する存在だと思うのです。私の場合は勉強ということになりますが、中高浪大と勉強というプライドがあったからこそ、辛い中でもなんとか頑張れたのかもしれません。「プライドを捨てる」ことができれば、確かに楽になるのだと思います。勉強(学歴)のプライドを捨てれば収入とかは低くても就職できる幅はグッと広がり、楽に生きていけるような気がします。しかし、プライドを捨てる行為は一方で「これまで自分の過去の価値を否定すること」なるのではないかと思います。つまり「今まで多くの投資をしてきて得た勉強や学歴は捨てなさい、価値のないものに執着してはならない」と言うことになりかねないのではないかとも思うのです。 【質問】 プライドとは一体何者なのでしょうか?そして私は、自身のプライドにどのように接していけばよいのでしょうか? 内定を勝ち取った方々は、本当に凄いと思います。心から尊敬します。私は弱虫です。それでも私も今の絶望を通じて、家族の有り難みを肌で知ることができました。
長文失礼します 20歳以下の人は見ないでください 前回すごく怖いんですという質問をしたものです ちまみれのこっくさんやいるかとうなどの言葉を20までに忘れないと死ぬということで前回質問させてもらい大丈夫だという言葉をいただきすこし安心していたのですが結局忘れられずに誕生日をむかえました。 するとその日に烏に頭にのっかられたり昨日から39度7ぶの高熱がでて今日も下がっていません。このまま本当に死ぬのではと不安で不安でたまらないです。もうどうすればいいかわかりません、もう助かる方法はないのでしょうか?自分ではその言葉について調べる勇気がないです。 しかも前回全員が見れてしまう感じにそんな危険な言葉を質問で入れてしまったことも大変なことをしてしまったと思っています。
はじめまして。唯と申します。 私はクリスチャンの両親に育てられ、 形ばかりですが、洗礼も受けました。 今は、教会に行くことも殆どありませんが、 子供の頃は、 クリスチャンとしての躾を受けました。 何か悪い事をすれば、お説教され、 どんなに悪い子だったかお祈りをさせられて、 それからお仕置きを受けました。 好きな物を食べる事を禁じられたり、 外出禁止や、時にはとても痛い思いもしました。 事の善悪を教えて頂いた事には感謝しています。 年齢的に、自分で自分を律する立場になった時、 気が付いた事がありました。 それは、 自分が犯した罪を告白し赦しを乞う事はしても、 十分な『反省』が出来ない、しない、と言う事です。 お仕置きされて、お仕置き嫌さに悪い事をしていなかっただけだと、気付きました。 牧師様に尋ねても『祈りなさい』と言われただけでした。 機会があり、ほんの少しですが仏教の教えに触れる事がありました。 『慚愧』について聞いた時、 益々、反省の出来ない自分に落胆し、それから、 どうしたら反省の出来る自分に変われるかを、 考え続けています。 仏教における『罪』の意味や、『反省』するための考え方など、教えて頂けないでしょうか? 宜しくお願い致します。