わたしはサラリーマンとして働いていますが、 小さい頃から我が強く、中学生位から対人恐怖、劣等感等でずっとなやみっぱなしでした。正直今でも生きるのが辛いのです。そしていずれ老いて、病気になって死んでしまうのかと思うと、生を厭う他ありません。 歴史上も、人間は戦争、飢餓、貧困、自然災害、病気の流行等、多くの人が圧政、侵略、理不尽に苦しみ、そして、死んでいったのでしょう。 そして現代の資本主義社会では強いものが勝り、弱きものは犠牲になります。豊かさとは何なのでしょうか?物質的なゆたかさ?はたまた心の平安? 生まれも選べない、容姿も才能も、環境も全て理不尽です。 悩みの大小はあれ、人生は圧倒的に理不尽すぎます。 また、単なる生物として遺伝子を残すためだけの存在ならばなぜ、人間は高度な意識を持っているのでしょうか。神は信じていませんが、単なる自然淘汰の産物だとは思いたくありません。 生きることに意味があると思いたいのです。生きていくにはそうして辛いことに目をふさいで自己欺瞞を積み重ね、社会という牢獄につながれた囚人として生きていくほかないのだという絶望も受け入れたく は無いですが、受けいれざるをえません。 どのような生き方が正しい生き方といえるのでしょうか? 囚人として生きるか、死という自由を迎えるか 支離滅裂で済みませんが、何か生きるヒントをください。
いつもの事なのですが不安を吐き出させてください。 今、隣国の語学を趣味として勉強しています。楽しく勉強していたのですが、インターネットで調べていくうちにその国の怖い部分というか、闇の部分が検索に上がってしまい、見ているうちにその国を怖いと思うようになってしまいました。その国の人達は日本にたくさんいますし、軍事力を強化していて領土を広るとも公言していますし、今の日本の政治力を見ていても、この先の未来が怖くなってしまってしまいました。 その国のすべての人がそうじゃないし、他の国も関わってくるので、心配し過ぎだと思うのですが、その国の人に日本は遅れている、平和ボケをしてると言われて、とても不安になってしまいました。 戦争にならなくても、その国の人達がたくさん日本に来ればこの国が荒れてしまう気がします。 不安が強くなっています。どうしたら気持ちをなだめて、冷静になれますか? よろしくお願いします。
お時間を頂きありがとうございます。 自分の気持ちがわからなくなり質問させていただきます。 質問内容・離婚したほうがよいか?自分の気持ちがわからない。 結婚15年目ですが、不倫相手を好きになり妻と離婚を考えています。 付き合っている彼女も既婚者ですが離婚協議中で相手も離婚届はサインしているが相手旦那がお金の面で渋っているらしく離婚協議書にはサインしていない状況です。 離婚したいとは妻には伝えましたが彼女と一緒になりたいなど明確な理由は伝えていません。自分は女遊びがやめられず5回バレているため色々な人と遊びたいから離婚したいと伝えています。 5回目がバレた際には自分が慰謝料を200万ほど妻に払うことになっており今も払っています。 離婚話は進めており離婚協議書は養育費を月15万ほど渡す内容で作り妻に渡しました。 妻としては仕事についていなかったので就職し安定するまでは離婚できないと2年の間は離婚しないと話し合いできまりました。 妻のことは嫌いではないですが、今付き合っている彼女とデートしたり食事したりが楽しくて一緒になりたい気持ちがありますし、可愛いのでデートしてると嬉しいし優越感に浸れます。 ただ、妻から他の人を好きになるように頑張ると言われた際にヤキモチを妬いてしまったり、また性行為はしたいなど自分の気持ちがまったくわからない状況です。 離婚して不倫相手と一緒に添い遂げる確率はもの凄く低いと聞きましたし、彼女も出会い系で出会った人なのでまた浮気するかもしれない、彼女の子供とやっていけるのか不安なのも事実です。 我ながらとてつもなくクズだと思っていますが、性欲で動いてしまう人間なのかなと思います。 薬物治療やカウンセリングは進められましたが行うつもりもないので心から反省はしてないんだなと感じています。 どう気持ちの整理をつけたほうがよいか? 妻と離婚して彼女と一緒になったほうがよいか? 不倫相手への気持ちがいっ時のものなのか? 答えにくい質問で申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い致します。
タイトルの通り日本の社会が狂っていると感じます。 過労死、自殺、いじめ等この日本の社会で生きていて異常だと 感じる事が沢山あります。 何だかこの社会に追いつめられてる感じて、胸が苦しくなる時もあります。 しかし、この事を他の人に伝えても理解をしてくれません。 「みんな苦しいのは一緒だ」と言われ こんな事を言う自分は他人から「甘い人」と思われています。 私はどうやってこの社会で生きていけばいいのでしょうか?
先日、台湾の友人にこのような質問をされました。 「台湾の僧侶は肉は食べない、酒も飲まない、女性との関係も持たない、そうやって厳しい修行をしているから尊敬されている。 日本の僧侶は肉も食べ酒も飲み女性との関係も持つ、どうしてそれで尊敬されるのか?一般人と同じじゃないか?」 わたしは仏教に詳しくなく、戸惑ってしまい、彼の質問にうまく答えることができませんでした。 「日本のお坊さんも修行はしていると思うし……それにお酒と肉と女性をやってなければ偉いっていうのも違うと思うし……うーん……」 というような曖昧な返答になってしまいました。 もし、お坊さん自身がこのような質問をされた場合、どのようにお答えになるでしょうか。 ご不快な思いをさせてしまっているかもしれませんが、どうかお答えいただければ幸いです。
2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…
私はよく自殺についてネットで検索をしてるのですが、 自殺をすると地獄に落ちますよ! という投稿をしばしば見かけます。 自殺=自分を殺すことと同じ、つまり人を殺したも同然なので地獄へ行くというのです。 特に知恵袋などで多い気がします。 それで自殺防止になるならいいのかもしれないけれど... でも病気などで自殺する人もいるじゃないですか。 私は統合失調症ですが、幻聴に耐えられずその声に従って自殺したというケースもあるみたいです。 それで地獄に落ちるなんて可哀想だと思います。 自殺したら地獄に落ちるのですか?
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。 仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。 そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。 そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか? そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか? もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう? 私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
私なんかを育てさせてごめんなさい、と最近よく思います。私を育てるために苦しんでる姿を見るたびに罪悪感で胸が押しつぶされそうになります。将来は楽をさせてあげたい。でも自分にそんな力があるか自信もない。親孝行な娘になりたい。どうすればいいですか。
毎回、私のは質問というよりイチャモンと言った方がよいかもしれませんが、今回もよろしくお願いします。 私(S40年代生まれ)の子供の頃は、現在よりもずっとお坊さんは尊敬される存在であった気がしますが、現在の僧侶の威厳の低下(私にはそうみえる)はどこに原因があるのでしょうか? それは、現在の僧侶の大半に、戒律を厳守して生活している印象が全く無い、というところが大きいのでないか(あくまで部外者の印象で、実際のところはわかりませんが)と私は考えます。 「威厳なんていりません」とおっしゃるかもしれませんが、毎日、朝夕「三宝に帰依します」と唱えている側にしてみれば、やはり僧侶には、仰ぎ見る存在であってほしいのです。 現在、僧侶(日本仏教界)にとって戒律はどのようなもので、どれくらい重要視されているのでしょうか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。 ちなみに、私は仏教徒であることを強く意識するようになって、五戒のうち、せめて不飲酒戒の一つだけでも、死ぬまで守り通そうと決めて、十四年間一滴も飲んでいません。それ以前は、ひどいもんでした...。 私は本当に仏教に救われたと思っています。
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?