妻の言葉に悩んでいます。 妻は普段から愚痴や文句は多く、本人は癖になってしまっているのだと思います。 例えば、運転をしていて、駐車をするときに縁石に乗り上げてガタッとなった時に「下手くそ」とボソッと言われたりします。 長い付き合いなので、それについて何度か話した事はありますが治らないの一点張りで説得する事は諦めました。 仏教の教えで泥に染まらず、清い心でといったものを見て、自分もそういった言葉に染まって腹を立てるのではなく、聞き流して溜めないようにしようと心掛けています。 しかし、そういった悪い気の篭った言葉は聞くたび聞くたび心のモヤモヤが増してしまいます。心なしか家の雰囲気も悪い気がしてしまい、何か対策は無いかと質問させていただきました。 妻の事が嫌いということは無く、そういう部分も含め支えて行こうと思い、結婚、二人で子どもを育てています。 子どもも言葉がわかるようになってきており、そういった面でも心配はしています。 仏教の考え方はしっくりくるので、こういった時の教えなどあれば、そちらも教えていただけると幸いです。 乱文となってしまい申し訳ありませんが、ご回答のほどよろしくお願い致します。
「ポジティブ思考」とはそこまで大切な事ですか? 愚痴、不満を言うと脳は主語が認識出来ず、言った本人にも同様のダメージを受けるというのが既に科学的根拠としてあるそうですが、全く言わないのも不健康ではと思っています。 特に負の感情でも吐き出す時は吐き出した方がむしろ健康的ではと感じます。 愚痴、不満はどう解消するのが賢明なんでしょうか? 黙ってため込んでもいても病気になってしまうと思います。
死刑制度に関し、瀬戸内さんは反対の立場で、 「殺したがるバカどもと戦って下さい」と発言し ていました。 後に被害者感情を鑑み、謝罪はしていますが。 僧侶という立場を前提で、違和感を感じました。 ・世俗的なことについて、どちらか一方の立場に たつことは僧侶として、普通なことなのでしょうか。 ・上記発言自体が、怒り(瞋)ではないのですか 世俗のことは、民主的な手続きで決まったことです から、世俗に任せればと感じました。 確かに、仏教でも「不殺生戒」はあり、その意味では 理解できます。 また、これまでも冤罪もありましたので、その意味 でも、死刑反対は理解できます。 世俗的なものごとは、ある立場、ある目線を前提に 議論されることですから、普遍性もないし真理でも ないと思います。 僧侶という立場、仏教の教えとは、衆生の悩み・苦しみ などの煩悩をなくす為のものと考えていました。 その意味で、世俗諦と僧侶の立場についての見解を お聞かせください。
何も好きなことがありません。好きかもと思ってはじめても、やっぱりそんな好きじゃなかったと思ったり、他に興味が移ったり、真っ向向き合えた試しがありません。 色々と試し、浅い経験ばかりを増やして来ましたが、空しくなってきました。いま何か興味のあることが出てきても、同じことの繰り返しになりそうです。趣味も人間関係もある程度深まると嫌になって、自分からフェードアウトしてしまいます。こんな習慣を変えるにはどうしたらよいでしょうか。
今回、息子のお嫁さんについて御相談させて下さい。 息子は20歳社会人となり1年目、お嫁さんも20歳で 2人は専門学校で知り合い今年になり妊娠が分かり 籍を入れるという流れになりましたが、息子は 働きだしたばかり、お嫁さんは専門学校を卒業して 就職先が内定してましたが、取り消しとなり 2人からは入籍だけして一緒になると話をされましたが 確かに蓄えもないまま授かってしまいその考えにも一理あるとは思ったのですが、私は紙切れ1枚で結婚という形には否定はしませんが、別れると思った時にも 紙切れ1枚で済ませるのかと問い、けじめとしてまた お互いの自覚を持ってもらうのに神社婚だけでも挙げるべきではと提案して色々調べ何とか負担少なく 見つける事は出来たのですが お嫁さんは、専門学校時に奨学金を借り現在 150万程借金があるらしいのですが、それも12年返済で自分で払うと言ってるらしいのですが 自分て払う考えは立派だと思いますが それは、独身ならそれでも良いのかと思うのですが もう1人じゃないでしょと思うのと子供が12歳に なるまで払い続ける事を安易と思いますし 私的には、住む所もままならない状態なのに 考えが浅い(20歳と若く仕方ないかと思うのですが) また、素直に聴く耳を持たなく意地を通してるだけにしか見えません。 何と言うべきか困ってます。 どうしたら良いのかご教示下さい
何度もご相談をさせていただき、その旅にお坊様からのありがたい言葉に救われてきました。本当にありがとうございます。 しかし、自分なりに辛い気持ちを抑えて踏ん張って生きてきましたが、どうしても辛くて死にたいと強く思うようになっていました。 仕事が決まり、今日は午後から出勤することになっています。しかし、人がどうしても怖いんです。怖くて怖くてたまりません。 過去と同じようなことが起きたらどうしよう、辞めることになったら、彼や家族に怒られる。もう何もする気になれません。 自分なりに、今まで周りのいうことを聞いて頑張ってきました。最初に言ってることが変われば、それに合わせて自分の身の周りのことなどもすべて変えてきました。しかし、それがすごく苦しかったんです。 人と関われば、また強く意見や考えを押し付けられ、何度も何度も、自分を変えなければいけない。もう疲れました。もう、このまま死んで楽になりたいです。 このようなことを書き込んでしまい、大変申し訳ございません。今まで、このような掲示板などに「死にたい」という思いを書いては失礼だと思い、書かずに自分の中で抑えてきました。しかし、もう限界です。所持金もなく、行く場所もありません。もうどこにも行く場所がなく、途方に暮れています。もう楽になりたいです。
今の自分の現状はとても辛く何も出来ません。 辛くて辛くて心が苦しいです。生きる希望も見失いました。 楽しくなくて弟に嫉妬してしまいます。 自分は大阪から鹿児島に引っ越して精神的な病気を治そうと努力はしましたが。なかなか社会復帰ができません。生きる意味も考えましたがどうにもこうにもなりません。自分の今まで生きてきたことがとても悲しくてやりきれません。このもどかしさを解消するには自分で考えていろんな人に相談したいです。 本当の自分をみつけたいです。 生きる知恵を教えて下さい。よろしくお願いしますm(_ _)m
はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。 そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、 「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。 わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。 そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。 いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。 またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。 わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。 だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。 あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。 だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。 それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。 お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。 長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。 花坂 埖
中絶してしまった子の為に写経したいのですが、家で密やかに出来ますか? また、どのような経典が良いのでしょうか? 宗派によって何か違いはありますか?
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
初めまして。タイトル通りなのですが 誰かに必要とされたい、愛されたいという気持ちが強すぎてしんどいです。 その反面、人からは興味を持たれず、愛されず、必要とされてないので余計に苦しくなり孤独感を感じる一方です。 人から必要とされないのならば生きてる価値なんてないと考えてしまうのです。 こういう気持ちをなくすにはどうしたら良いでしょうか? こころを無にして楽になりたいです。 文章力がないので支離滅裂かもしれません。すみません。よろしくお願いします。
うつ病患者です。命の重みが理解できません。 蚊やゴキブリは殺していいのに人や動物の命が大切なのはなぜですか? 特別誰かを害したい訳ではありませんが虫にはなくて 自分は大切と言われる命の重みの違いが理解できません。 同じ命であるなら等しく大切にするべきですよね。 正直祖父母が亡くなった今、母と飼い猫はいなくなったら寂しいと思いますが 他の人間(自分も含めて)に対しては別にそう心が動かないと思います。 だからどうこうというわけではありませんが無関心という言葉がピッタリです。 害したくもないが大切とも思えない、いつ終わるとしてもなんともない 自分には関係ない対岸にあるものという認識です。 映画や本を読んで感動して泣くことはあるので、感情がない訳ではありません。 それでも命が大切と言われるとやっぱりよくわからないなと思います。 虫の命は奪っていいのに、それに反して大切にされる自分や他人や動物の命。 この違いは一体どこにあるのでしょうか?そもそも命はなぜ大切なのですか? この質問にお坊さんならどう思われるかなと質問させていただきました。
仏教は日本人の死生観に深く根を下ろして文化として素晴らしいものがあると思います。 しかし、こんな歳になるまで不勉強で恥ずかしいのですが、大乗非仏説を初めて知りました。 そして原始仏教と日本の仏教はかなり異なる事、律蔵があまり重視されなかったので、日本の僧侶は在家と変わらない事を知りました。 よく、キリスト教徒が進化論や地動説を信じないのを不思議に思ってきましたが、日本の仏教は実は(全てではないでしょうが)偽経だったと分かってどのように折り合いをつけているんでしょうか? 釈尊は口伝でしか伝えなかったから、全ての経蔵は直説でないとか、全て仏の御心から方便として出た物だとか、あまりに苦しい言い訳に見えます。また鰯の頭も信心からと言いますが、信心とは受け容れる事から始まるから信心はそこを問題にしないと言うのもそこに身を捧げる者としては辛い選択ではないでしょうか。 大乗非仏説は新しい概念ではないですが、時代を経るに従って消えることもないでしょう。今後、このまま伝統を重んじて変わらない事を良しとしていくのか、それとも時代と共に新しい研究成果を反映して変化していくのか、どのように考えられてますか?
自傷行為がやめられません。 親に貰った大切な体を、様々な方法で傷つけています。 本当に、後悔してもしきれないような内容です。 自分のことが昔から嫌いで、消えたい、でも自殺はいけない、という葛藤から、自傷行為がやめられません。 病院にかかっていますが、やらない期間とやる期間を繰り返してもう5、6年になります。 どうやったら自分を好きになれますか。 どうやったらやめられますか。 自己嫌悪でつらいです。
悟りとは 実はすべて幻だった!ときづくことですよね? 悟りすら単なる概念ですよね?
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます
では回答率99.9パーセントのお坊様に質問です 前回の質問の答えに大慈様が言われた内容ですが 仏教では世界の始まりは「わからない」、「無始」、「無記」であると これって原因である始まりを無視して結果であるこの世界だけを見てる 因を無視した果の法則ですよね そして「蕎麦のレシピばかり論じる(原因)蕎麦がのびる(結果)とっとと食え(対策)」 「頭の中でこねくりまわすから(原因)迷いが続く(結果)頭の中でこねくりまわすのを止めましょう(対策)」 この対策こそが瞑想で悟りを開くことですよね お釈迦様は生まれた時から瞑想すれば悟りを開けるなんて知らないですよね ではお釈迦様に瞑想を教えた人は誰ですか?そしてその人にも教えたのは?そしてその人にも教えたのは? 仏教→バラモン→ヒンドゥー→ゾロアスターと土着信仰の融合→メソポタミア こうやってどんどんどん突き止めると悟りを開く瞑想を教えたのは因を無視した果の法則ですよ 因を無視した果の法則が悟りの瞑想法を作り因果関係のシルクロードを渡って我々に瞑想を教えたというのに 瞑想で悟りを開けばこの因果関係や因を無視した果の法則からも解脱できるってぶっ飛びすぎてないですか 悟りの境地の空間ですら先に因を無視した果の法則が始まる前から終わった状態での結果として作られたと思うんです そうすると煩悩と悟りは最初から二つの性質が同時に存在する量子力学みたいに共存してると思うんですが? あと諸行無常の教えで全てのものは変化するなら 善業も悟りも幸せも形を変えただけの煩悩ではないんですか? 涅槃の境地で夜に眠り煩悩で朝に起きて 涅槃の境地で瞑想してて煩悩で仕事行かなきゃいけなくて 涅槃の境地のお釈迦様は煩悩の梵天に娑婆の世界行かされた様に 悟りと煩悩は共存してると思うんです もしくは形を変えただけか 良文様が言われたヴィトゲンシュタイン様の形而上学的な疑問は言葉で説明できないという話 最初から量子力学としてある言葉に出来る世界と言葉に出来ない世界 その言葉に出来ない世界のような概念のないような形而上学の世界に神ならまだしも人間がいけると思いますか? たった6年の修行で・・・この6と言う数字・・・666 お釈迦様が実はフリーメーソンのメンバーで仏教をある理由で作ったとか思ったことないですか? 物事を理屈で考えさせない政治的プロパガンダのためとか
朝早くすみません。おはようございます。 あのぉー、こういうことをいうのはどうだろうと思ったのですが。 言っていいですか? もし、自分が死んだら無煙仏を選んだら駄目なのでしょうか? 親不孝ですか?
今春子供が大学受験を終えました。結果は受けた学校5校全てから合格をいただくというものでした。特に最難関と言われている学校Aにも現役合格し、親戚一同みんなで喜びました。 とうとう我が家からもA大生が誕生した!という具合でした。 ところが進学先を決定する時になって、子供がAではなくCに行きたいと言い出しました。 Cもいい学校ではありますが、AやB大学に比べてしまうとだいぶレベルは下がりますし、学費も割高なのです。Cに行きたい理由も子供っぽいものでした。学校の雰囲気などが理由です。しかし、夫婦でも相談し子供の選択を尊重しサポートする形でCに進ませることにしました。 とはいえ、心の中にある残念な気持ちがどうしても消えません。 この気持ちとどう向き合い消化したら良いのかわかりません。 どうぞお知恵をお授けください。お願いします。
植物にも防衛反応があるそうです。 仏さまはお花を供えられるのを望んでおられるでしょうか? ご意見お聞かせください。