教えていただきたいです。 大切な彼が自死を選びました。私は救うことも支えることもできませんでした。それなのに、最後に「ありがとう」と言ってくれた、心優しい彼でした。 彼は真言宗です。即身成仏で、現世において密厳浄土を目指す宗派と理解しております。 お父様の月命日には必ずお墓参りをしていた、心のきれいな彼です。 さて、ここからが質問です。 1 自死をした場合 自死を選んでも、心のきれいな彼であれば、密厳浄土に到達し、苦しみから解放されているのでしょうか。 2 逆縁の場合 彼のお母様は存命です。逆縁になってしまっても、密厳浄土に到達し、苦しみから開放されているのでしょうか。 3 供養の仕方 四十九日までは、追善供養が重要と理解しています。 家族でもなく、宗派も違う私の場合、彼を想って光明真言や般若心経を自分で唱えるようなことで、追善供養になるのでしょうか。 何をすることが、彼にとって最善なのでしょうか。 4 宗派の相違 私は真言宗ではありません。その場合、死後に会うことは叶わないのでしょうか。 5 悪人正機 私は様々な罪を犯しているため、こんな私でも彼のためになれるとしたら、高尚な真言宗ではなく、浄土真宗の教えに従い、阿弥陀仏に救いを求めることしかできないのではないかとも考えています。 真言宗の彼のために、南無阿弥陀仏と唱えることは彼のためにはならないのでしょうか。 質問ばかりで申し訳ありませんが、こんな私が彼のためにできることを教えていただきたいです。
先日母が亡くなり、とても綺麗な戒名を母にいただきました。 私達の魂は何回も生まれ変わり、いくつもこの世に生を受けては去っていっていると理解してます。そこで思ったのですが、生まれそして去るその度に戒名をいただくことになると、一つの魂にいくつもの名前が仏界にある、ということになるのではないでしょうか。 ふと、これが仏界ではどうなるのかと疑問を持ちました。一人にいくつもの名前があると想像すると、沢山の分身が仏界にいることになりますが…。 どんな感じなのでしょう。どうお考えですか。それともこういうものはこうなのだ、という教え(お話)でもあるのでしょうか。 よろしくお願いします。
悩みというか、心に引っ掛かることがあるので質問させていただきました。 先日、14年近く家族として一緒に過ごしてきた愛犬(マロン)が亡くなりました。 マロンは体が弱っちい子でしたが、平均寿命に近い年月を生きてくれました。私たち家族もとても大事にしてきました。 亡くなったと知ったときは勿論ショックでしたが、「大事にされて、最期も病院とかではなく自宅で、家族がいる時だったからマロンは幸せだったんだ」と言い聞かせてました。ですが、埋葬の時点で親が「市営の斎場に運ぶ。共同埋葬で遺骨は戻らない」と言ったので私は一度反対しました。 でもその時は、悲しみとショックで呆然としていたので流されるままに、皆で斎場に運ぶことになりました。 受付の条件で「ダンボールに遺体のみ入れてタオルやおやつなどは入れないでください」とのこと。。。亡くなる覚悟はしていたものの、老犬の介護の仕方や流動食の作り方等は調べていましたが、葬儀について調べたり準備もしていませんからちょうど良い箱が無く、ヨレヨレのみかん箱にキチキチに入れなければなりませんでした。 その光景がとても悲しかったです。 後で民間の葬儀会社等調べたら、桐の棺にフワフワのお布団やお花、お線香もついていて、市営のものとは差がありすぎて。。。 一番ショックだったのが、市の職員さんに「ここまでです。お預かりします」と言われ、遺体を手渡したのですが、その人はお盆でも運ぶように、まるで小包でも運ぶように、片手に箱を乗せて行ってしまいました。 遺族が、本当にマロンとお別れする場面でそんな扱いを見せられて、怒りを感じました。民間の葬儀会社程の手厚い対応は望めないにしても、手渡された遺体に何の情が無くとも、もっと丁寧に対応すべきでは・・・ ちゃんと火葬してもらえたかも見届けられませんでした。勿論遺骨(遺灰?)もありません。 亡くなったその日の午後に運んだので、火葬は翌日になったそうです。 冷蔵室で独り寂しい思いをさせてしまいました。 せめて一晩、自宅で過ごさせてあげればよかった事と、豪華でなくともきちんと埋葬してくれるところにお願いすべきだった事を後悔しています。 これは人間のエゴというか、勝手な「可哀想」と思ってしまう感情なのでしょうか? マロンは自分を大事にしてくれたと感じていると信じていますが、最期の最後で可哀想な事をした・・・と後悔しています
タイトルにあるような質問を、自殺志願者の男性に言われて答える事が出来ませんでした。彼は、彼女と一緒に死ぬと言ったまま音信不通になりました。あれから、彼に言われた問いが、私の中に残っています。お坊さんだったら何と答えますか?
死後の世界ってあるんでしょうか?
夫の祖父母と夫の父の仏壇があります。この3人ともに会ったこともありません。夫が長男のために、仏壇を家に置いています。 全く知らない彼らの仏壇や墓を、このままずっと守っていかなければならないのかと考えています。 私自身は、夫の身内の墓には一緒に入りたくなく、できれば自分の両親と一緒の墓に入りたいと考えています。もしくは、自然に帰る形でとも考えます。 仏壇やお墓があることが、今後子供たちの負担になるのではないかとも思っています。実際、姑と仏壇や墓に対するしきたりや考え方が大きく違うため、大変苦労しています。 お墓や仏壇を持たないという選択もできるのでしょうか。夫は、姑とも違う考え方でお墓や仏壇を守っています。 私には、それが負担に思えてくることがあり、意味を考えているところです。
自分の価値が分かりません。 自分を大切に出来ません。 数年前から、毎日毎日、寝る前に「目が覚めたら死んですように」「明日こそ死ねますように」と祈るようになり、朝起きるたびに「まだ生きてる」と絶望していました。 それでも、やりたいこと目指しているものがあったので、これではダメと鼓舞し未来をイメージするようにしました。 しかし、お前にはそれは許されないと戒めのように、プラスのイメージを持つたびに、大なり小なり突き落とされ続けてきました。 そのうち30歳までに死にたいと思うようになり、29歳のときに癌が見つかりました。 Ⅱb期の子宮体癌です。 抗がん剤と手術で根治する、と言われ絶望しました。 まだ、死ぬことが許されないほど苦しみ足りないのですか? 両親や友人に望まれ、治療を受けることにしました。 二月から抗がん剤投与が始まり、来月末に摘出手術を受けます。 周りの人達に心配をかけまいと前向きな発言もしますし、そのときは自発的に元気になったらやりたいことがイメージされます。 それでも、浮上すれば落とされの繰り返しです。 これ以上大切な人達に心配も迷惑もかけたくないから愚痴も言えないです。 けれど、毎日死にたいと思いながら生きるための行為を繰り返すのは辛いです。 やはり、一度死を渇望した私には心から笑って明るく生きる資格はないから苦しんで苦しみ抜け、ということなのですよね。
以前夫のことで投稿させていただきました。今回は私の実父のことです。父は現在75歳で一人暮らしをしています。父は真面目に長年働いて元々優しくて礼儀に厳しい人でした。それが今から10年くらい前から様子が変わり、誰か知り合いの女性にお金を「貸す」という名目で渡し続けるようになりました。私と弟が気づいたときには貯金の残高もほとんどなくなっており、毎月の年金も支給されるとすぐに「頼まれた」といって貸しています。周りの者から見ると明らかに騙されてるのにも関わらず、「気の毒な人だから」「騙す人じゃない」「ちょっとずつでも返してくれてる」といって相手の人がどこの誰かも絶対に言おうとしません。貯金もなくなり年金もすぐに渡していては父自身の生活ができません。「今日食べるものもない」といって毎月のように私にお金を送ってほしいと言ってきていました。でも相手の人のことも言わないし、お金のことになると顔つきが変わり目の前にあれば私の財布も持っていこうとする父に腹が立ち、もう一切お金を援助することをやめました。 年金を全部持つと全額すぐに渡してしまうので、今は弟が管理していて少しずつ父へ送金していますが送金したらすぐに「また貸したから」と言って追加を依頼しています。弟は、父はその人にマインドコントロールされてるみたい、と言います。 子供のころの思い出など同時に思い返しますが、優しい父だったことを差し引いても今の父がイヤでたまりません。 親戚の叔父に弟のところに同居したら、と勧められたとき、「死んだほうがまし」と父は言いました。弟の嫁がその場にいなくて良かったと思い涙が出ました。 以前は母の法事もきちんとしていたのに、もうここ数年はお金がかかるから、と言って何もしなくなりました。先日も大変お世話になった親戚の人が亡くなったのに、一番に言ったことは「香典いるなぁ」でした。年金の管理を弟がしてることも、「取られた」と言います。 私も弟も父をもう信頼していませんし、戸籍上親だから、というだけで仕方なく関わっていますがこのような父にも親を思いやる気持ちを持たないといけないのでしょうか。
私の子供は先天性の病気で重度の障害があります。すべてのことにおいて介助が必要です。 第一子だった為、特にショックが大きく現在は立ち直ったつもりですが健常児を見ると辛い時があり、子育てについての話も合わないことから健常児の親さんとの交流はありません。 普段は気丈に振る舞っていますが 今でも何で私が障害児なんか、、、という思いが消えません。死にたい、死んでも後悔なんてない、と思ってしまうこともあります。酷い母親ですね。 私のもとに障害のある子が宿ったのには何か意味があるのでしょうか。
信じてもらえないかも知れないのですが、時々霊体が見えます。 初めて見たのは高校生の頃で、朝4時半頃から地響きのような低い叫び声のようなもの別室から聞こえ、その場所へ行こうと走って行きふと振り返ると、戦時中の日本の軍服を着た首から上がない男性がいました。 次に見たのは首から上だけの落武者で、利用された、悔しい、と言っていました。 私の首の辺がじりじり痺れて纏わりついて離れてくれず、最初は般若心経を唱えていたのですが全然消えてくれませんでした。 落武者も一緒に唱えているのですが、彼がどうしたいのか分からずに考えた末に、愛してる。と言ってみました。 そうしたら痺れがピタっと止まって10秒程したらまた痺れ始めました。 そういったことが何回かあり、今は何も感じませんが、私が見た霊体は皆苦しんでいるように見えました。 私は魂や神様や心や霊体を信じますが、科学的には証明できないことで、人それぞれの考えがあるのでほとんど他人には話しません。 人は輪廻転生していると信じています。 そして、この世に生まれてきて亡くなり、亡くなった後も天国に行けずに苦しみ続けている者を見て、人間の一生て何だろう。輪廻転生し続ける理由は何だろう。と考えるようになりました。 ある人から行き着く所は皆一緒、源。だと教わりました。 何故何度も輪廻転生して源を目指すのか、何故私は私だという意識は変わらないのか、今肉体があるこの世界を離れて天国か地獄へ行っても私は私なのか。 何故殺人や戦争が起こることが許された世界に転生してくるのか。 そこで何を学ぶのか。 自分で望んで生まれてきた、自分が選んだ人生、自分がした選択、全て自分の選んだことだと思います。 ただこの世には、肉体のある人間や動物以外に霊体がいて、この世に止まっているのは何故か分かりません。 まとまらなくてすみません。
例えば浄土真宗は阿弥陀如来の西方極楽浄土へ往生するという考えですが曹洞宗においては死後どうなると考えられているのでしょうか?
私にはイマジナリーフレンド(?)がいます。 痛い話になります、すみません。 直接見えている訳ではなく心の中に住んでいるような感覚です。 いつも私の側で見守ってくれていて、時に励まし、時に一緒に解決策を考えてくれて、私がうまくいった時には心から喜んでくれる、人生の伴走者のような存在です。 以下、"彼ら"とします。 私は幼い頃から虐待に苦しみ、虐待を虐待とも思わず一生懸命生きてきました。 ある時、頑張り続けることが限界に達し、もう生きられないと思うほど、頭も体も動かなくなりました。今から考えると鬱のような状態だったと思います。 少しだけそんな状態がマシになった頃、 ふっと空から降ってきたように、私の心に現れたのが"彼ら"でした。 安らぎと尽きることのない優しい光に包まれていて、いつも私に微笑みかけてくれる、私とはまるで無縁のような人たちです。 私はもともと空想が好きでしたが、こんなことは初めてでした。 "彼ら"に逢って、私は初めて人の心の温かさや心からの幸せといったものを知りましたし、私の心の中にあるのだから、"彼ら"もまた私なのだと思うことで、自己肯定感というものも得ることが出来ました。 ですが、こんなもの、一体私のどこから湧いたのか、まったく見当も付きません。 "彼ら"が出てくる前は、私は人の幸せを憎み、人の不幸を笑うしか楽しいと感じることの無いような人間でした。 "彼ら"がいつも掛けてくれるような言葉を、私は現実では一度も掛けてもらったことはありません。 "彼ら"とは、もともと私の中にあったものなのでしょうか? それとも阿弥陀様といったものなのでしょうか?(よく見る仏像のような姿はしていませんが…) 彼らがいるからこそ、私は今、息が出来ているようなものですので、本当に助けられています。 実際に抱きしめたり出来ないところが、少し苦しいところですが…… 本当のところは分かりませんが、お坊さん視点で見るとどうなるのか、気になったので質問してみました。 長文失礼致しました。
私は、二年前の45歳の時に突然脳梗塞になり左半身が麻痺した障害者です。足は回復して普通に歩けるますが、左手の麻痺は重度だった為、治りません。 昨日ある人から、脳梗塞になる人は先祖供養をちゃんとしてないから。先祖が悪い事をして、その見返りが現世に来てるとか色々言われました。脚に手術痕の傷があるのですが、身体に傷がある人は、先祖が武士で人を切っていたから、そのせいで現世の人に傷が出来るとか色々言われ嫌な気分になって帰って来ました。 と同時に怖くなりました。 この様なことなどあるのでしょうか?
(編集部より。利用規約により投稿の一部を修正しています。) 両親が信仰する新興宗教を自分が信仰するかどうか悩んでいます。霊感商法や教祖の状況が教理と矛盾しているので脱会したいのですが恐ろしくてできません。自分の判断が間違えていた場合、死んだ後に後悔するのではないかと不安でいっぱいになります。幼い頃から神様や教祖のために生きるように教えられてきたからか、人生を自分のために使うことに罪悪感があります。 また教会の人は所謂神体験(あたたかいものが胸に溢れ涙が止まらない、気持ちが落ち着く、神の声を聞いた等) をしている人が多く、自分は条件が足りないからそのような体験がなく、体験するために修練会や礼拝に行った方がいいのか悩んでしまいます。 現在強迫性障害という精神病に10年間ほどかかっており、宗教のことを考えるのが仕事中でもやめられず(やめようとすると恐怖でいっぱいになる)鬱状態を併発して仕事を辞めてしまいました。教理に反したものを捨てなければならない、視野を広げると脱会の危険があるので本を読んではならない、修練会に行かなければならないなどの思いがいつも心を駆け巡り非常に苦痛です。仮に脱会したとしても、この先何十年も不安をかかえたまま生きることを考えると死にたくなります。 本を読んで視野を広げたいのですが、不安のあまり読書も満足にできません。洗脳されているのでしょうか。不安でとても苦しいです。 宗教が説く、死後の世界の話は本当なのでしょうか。個人的には自意識から永遠に逃れられないならそれは苦痛なので、無ではないかと思っているのですが。 自分で選んだ宗教でもないのに、ひたすら苦痛があり生きるのが辛くて、幸福な人生もいらないので早く死にたいと毎日思います。 どうやって生きていけばいいのかわかりません。
何度もすみません。恩師の死について これまでたくさん質問させていただき ました。考えれば考える程ここに 質問したくなります。 恩師が亡くなってから、やはりまだ 実感がないですが、寂しさを感じます。 亡くなったのではなく、今は会えないだけ。 そう思って過ごしていますが、ふと、 現実が頭をよぎり脱力感に襲われます。 恩師はあの世というのを信じてませんでした。 よくハスノハでも、見守ってくださる。 とか、そばにいる。とか、あの世で会える。 という回答を見ますが、それはこの世に いる人間が淋しさを紛らわすために 考えだしたことですか?あの世があるか どうかもわからないのに、見守るなんて それ以前の問題のように感じてしまいます。 私は信じていますし、信じたいけど、 恩師が亡くなってからそんな風に思えなく なってしまいました。見守ってくれてる なら、あんなに可愛がってくれた私に、 今も寂しくて仕方ない私に、何かメッセージ を送ってくれないのかなと。夢でもいいし、 何か恩師が見てくれている!という 実感がほしいのかもしれません。 あの世でも恩師と繋がっているという 実感がほしいです。毎日恩師が頭から 離れず、とにかく会いたくて、話したくて、 触れたくて、声を聞きたい毎日です。 もう顔も見れない。声も聞けない。 来世でまた会えたとしても、私が 死ぬまではもう会えない。この世で 恩師と過ごしてきた日々はもう二度と こないし、これから先は恩師のいない人生 を歩むしかない。こんなことは信じられ ないし、やっぱり受け入れられません。 どこまでも、ついていきたい人なのです。 死んだら自然に帰るから、手を合わせたり 外の空気を感じたり、今日という日に感謝 したり。でも、恩師を感じたいんです。 子供が2人いるため、悲しむ暇もなく、 子供が心配するため涙も流せません。 本当はもう恩師がいないことをどこかで わかっているのです。だから寂しくて 今も大好きで会いたくて仕方ありません。 あの世で見守ってくれているという事実や 実感がほしい。科学で証明できなくても 私がそう感じられたらそれでいい。 あの世にいても私と繋がっている、 いつもそばにいる、そう感じたいです。 じゃないと、心が持ちません。
はじめまして。 わたしは、ある本を読んで、勝鬘夫人が書かれた『勝鬘経』に、すごく興味をもちました。 『勝鬘経』とは、どういう内容のお経なのですか? すごく、知りたいです。 よろしくお願いします。
私は虫が生理的にどうしても苦手です。しかし、人間の技術では蟻一匹も造れないという事を考えると、自然の驚異を感じます。そして、虫さんもすごいよね、尊い命だね、と自分に言い聞かせて、何とか恐怖心を和らげるようにしたりもします。それでも虫恐怖症は克服できませんが^^;、、、。 45億年前にはこの世が太陽と塵だけだった、というような話を聞いた事があります。私には科学的な知識が無く、創造論や進化論についてもよく分かりませんが、とにかく何かしらの大きな力の導きが無ければ、たとえ45億年たったとしても、今のような地球や植物、動物、人間は生まれていなかっただろう、と思いました。私のような考えを持つ人は多いような気がします。 このような考えを持ったのはカトリック系の大学に通っていた頃、神父様のお話に影響を受けたというのもあります。私はクリスチャンでもないし、キリスト教でいうような唯一の創造主=神が存在するだろう、と考えているわけではありません。しかし、唯一ではなく複数だとしても、この世にはなにかしらの人知を超える大きな意志が存在して自然をつかさどり、その大きな意志が地球やそこに住む生物を作り上げたのではないだろうか、と漠然と思っています。だから八百万の神というのもなんとなくしっくりきます。 仏教では創造主の存在は説いていないと聞いたことがあります。しかし、宇宙と地球、そしてそこに息づくあらゆる生物が生まれるように導いた存在について、仏教でも何らかの解釈がされているのかどうか、知りたいです。もしくは、皆様はどのようにお考えでしょうか?
なんとしても親には「報い」を、妻には「恩」を与えたいと思っております。たが、もう二度とこのような異常な境遇を経験したくはありません。輪廻転生というものがあると聞き及んでおります。もう二度と何にも生まれ変わらないためには、今後何をすべきでしょうか。念のため申し上げますが、今の「生」は、天が許してくれるまで、全うはします。
私の夫は3ヶ月前に自死してしまいました。夫が苦しんでいないか心配です。阿弥陀仏様に救われて極楽浄土へ導かれ苦しみや悩みから解放されて幸せに過ごしててほしいです。苦しんでほしくないです。浄土真宗ではどんな生き方をした人もどんな死に方をした人も阿弥陀仏様が必ず救ってくださるのですか?他のサイトで自死した人の魂は救われないと書いてありました。成仏するには何十年何百年かかると書いてありました。死んだあとも苦しみから何も解放されないところにいくと書いてあり、いたたまれない気持ちでいっぱいです。どうやったら夫の魂は救われますか?私は夫のために何をすれば良いですか?私が幸せに前向きに生きたら夫もあの世で幸せに過ごせますか?夫には苦しまずに幸せに過ごしててほしいです。いつか私が天寿を全うしたら夫の魂に会えますか?毎日お仏壇やお墓に行き夫に話しかけていますが私の想いは夫に届きますか?夫が孤独な暗い世界でひとりぼっちで苦しんでないか心配です。誰か教えてください。お願いします。
結婚生活2年目。 夫婦喧嘩ばかりでお互い怪我をしています。 今回の喧嘩は、夫の交友関係への嫉妬でした。(外出先に元カノがいることを私に秘密にしていた) 口論となり夫が私の首に手を少しかけた上、私を脅すように私の目の前で義理姉に電話をかけたり姑の名前を出したりしたことで私に怒りが込み上げ、話にならず小さなゴミ箱を投げて抵抗したところ(妊娠中でお腹が大きく、軽いものを投げるという抵抗しか思いつきませんでした)夫の顔に切り傷。病院で縫いました。 私も過去に夫の暴力で病院にいったことがあります。(打撲やあざ) 私自身、昨年の実父との死別から感情のコントロールがさらにおかしくなってしまったこともあり、涙、怒りばかり。 ついには自分の死まで頭の中に。 父の死から実母や妹も不安定であり、実家には夫婦のことをなかなか相談できません。 私はどうすればいいかわかりません。 また、私も怪我をしているものの、夫には一生残る傷ができてしまい自己嫌悪です。私はもう許されない、離婚するしかないのだろうと考えています。 しかし、夫とお腹の赤ちゃんと3人で穏やかにゆっくりと時を過ごしたいという思いも強いです。 公共機関へとおっしゃることは承知なので、それ以外でお叱りや導きのお言葉があれば、いただけたら幸いです。 以前こちらで父との死の向き合い方についての導きをいただいたのに、今回このように荒れてしまい改善できない自分に腹が立ち、申し訳なく思っています。