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hasunoha 問答検索結果 : 「 宗教 」
検索結果: 2701件

相談に対するご回答に腹が立ちました

以前、こちらでの相談に対する回答の一つに腹が立っておりました。 いま言語化できる気がしたので、怒りをぶつけさせていただけます。 質問はこちらです。 https://hasunoha.jp/questions/5942 パスタファリアニズムについて、仏教徒の方々に宣教する気はないので、詳細は割愛しますが、私が腹を立てていた、今思い出して腹が立っているのは、次の一文です。 「それだけでパスタファリアンを名乗るのは本家パスタファリアンに失礼」です。 私は、信徒であることの証明書を持っております。 ちなみに、通販で、当時40ドル程度で購入しました。 重要なのは、パスタファリアニズム(空飛ぶスパゲッティ・モンスター教)は、宗教に対するパロディであること、つまり、信仰そのものがパロディであるべきだということです。 パロディとは風刺です、風刺とはつまり批判のことです。 上記で、頂いたご回答にいかに怒りを抱いているかわかると思います。 私は預言者が一人の宗教が大嫌いです。 なぜなら、その最初の一人の考えに引っ張られるからです。 以下何人弟子がいようと、何世代続こうと、その最初の一人の考えが根幹(root)として存在するからです。 だから私は仏教徒になりたくないのです。 そんな奴らの一員にされたくないからです。 失礼なことを申し上げているのは存じていますが、この怒りは紛れもなく事実です。 だから、私は死後戒名は「絶対に」つけてほしくないし、できれば葬式も上げてほしくありません。 なぜここに相談したのかというと、日本人なら否応なしに仏教形式の葬式を挙げられ、否応なしに戒名がつけられるからです。 私の意志とは関係なく。 だから、仏教徒の方にクレームを付けたくなったのです。 そして、そのシステムを作り上げているあなた方に、回避方法を聞きに来ました。 怒りが言語化できてとても満足していますし、申し訳ない気持ちも同時にあります。 ですが、あえて怒りをぶつけさせていただきました。 十数年ぶりに、怒りという感覚を思い出せましたので、とても満足しています。 怒りを感じていなかったのは、人に期待をしていなかったからです。 なぜなら、私はちょっと人とは違う考え方をするようですので、意見が合うことが少ないようでしたので。 ありがとうございました。 失礼いたしました。

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自分を好きになるにはどうしたらよいのでしょうか?

初めて質問させて頂きます。 私はどうしても自分を好きになれず 自分に自信が無いです。 中学1年生の時に両親が離婚し 私自身の意思で父のところに残りました。 家族構成は父、父の両親、弟2人です。 私はおばあちゃん子で育ちました。 離婚してから経済的に厳しくなり 父と祖母が喧嘩ばかりするようになりました。 私はそんな2人の喧嘩を見たくなくて いい子でいるように、勉強も頑張りました。 嫌われたくなくて捨てられたくなくて 一生懸命明るく頑張り続けました。 しかし、喧嘩は激しさを増すばかりでした。 祖母は高齢なのにまた、私達を 子供として育てて行くことにストレスを感じてました。 父は全く父親らしくなく 両親に甘えて生きてきていたので 私達を育てることを 重荷に感じていたと思います。 段々と私がうまれてこなければ みんな幸せだっただろうな。 と思うようになりました。 ある日、左腕を剃刀で切りました。 とてもとても痛くて血が流れ落ちました。 こんな自分消えてしまえ。と どんどん自分が嫌いになっていきました。 剃刀で切る傷も増え、切る深さも 深くなっていきました。 気付いたら左手首から二の腕まで 切った痕が線のように並んでいました。 汚い腕です。醜い腕です。 夏でも長袖で過ごしました。 時が経ち成人して仕事を始め 恋人ができ自分のことを ちょっとずつ好きになってきた時 恋人に振られました。 自己評価が低い。ネガティブな発言ばかり。 一緒にいて疲れる。と 私自身、知らず知らずのうちに そんな風に彼に思われていたんだと思い すごく衝撃を受けました。 自傷行為の傷痕も見られてしまい ため息をつかれました。 変わるから別れたくないと言いましたが わがまま言わないで、 人は簡単に変われないから、 君は変われない。 君と付合った事で恋愛がトラウマになった。 と言われ泣く泣く別れました。 今でもふとした瞬間 胸がズキズキと痛みます。 あの日から自分が大嫌いになり、 左腕の傷痕が汚くてたまりません。 こんな自分を好きになるには、 愛してあげるにはどうしたらよいのでしょうか?

有り難し有り難し 29
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喝を入れてください

はじめまして。私事で恐縮ですが、相談させてください。 私の職種は美術系なのですが、自分の中に湧き出る創作意欲や表現欲求が見つからなくなってしまい、困っています。創造を楽しいと感じられなくなってしまいました。創ることが本当に好きなことかもわからくなり、無気力に時間を過ごしてしまいます。 詩や小説、絵を描くことが好きでしたが、大人になってから書けなくなりました。最近の作品は、自分らしさを消し去った、抽象的なものばかりです。自信がないのだと思います。それを受け止めるのがつらく、依存に走り、現実逃避してしまいます。 少し話が逸れてしまいますが、私は子供の頃から、演技、歌、ダンス等、特定の自己表現が、極度に照れ臭くてできません。自我の殻を破りたくて歌を習ったり、ダンスに行ったりもしてみたのですが、あまり変わりません。今の自分の状況に影響していたりするのでしょうか。 どれも、美術、文学とは少し違った形で「今にある」芸術だと思うのですが、それが苦手とはどういう精神の特徴なのかと気になりました。 子供の頃から好きだったことが、本当にありがたいことに仕事になりました。こんなところでへたれていないで全うしたいです。どうか、喝を入れてください。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 16
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将来お寺を継ぐ彼氏

ご覧頂き有難う御座います。 似たような質問があるかもしれませんが、私の方からもご質問させてください。 私は一般家庭家庭で育ち、両親も宗教事には無関心です。その為、言葉や表現におかしな記載もあるかと思いますがご了承願います。 サラリーマンの彼氏と結婚を視野にいれたお付き合いをしているのですが、将来実家のお寺を継ぐようです。 いつごろなのかわかりませんが、いずれはそちらの学校に通うことになるとのこと。 また、会話の中で「檀家さんが」と口にしていたので、「檀家さん」というものではないようです。宗派については、教科書にも載っている歴史ある宗派だと聞きました。 ご実家の話はよくしてくれるのですが、私の年齢(彼とは15歳差です)や結婚願望がなかったことなどを気にしているようであまり具体的な話にはなりません。 お寺のお仕事とはどのようなもので、どんな生活になるのか。 (彼には離婚歴があり、現在は持ち家での生活。12歳の女の子14歳の男の子がいる為後継の心配はひとまずないようです。) 彼も修行をすることになるのか。もしするのであればどれくらいの期間なのか。 私は何をすればよいのかなど、聞きたいことが山ほどあります。 お寺によって様々でしょうし、彼も教えてくれると思うのですが、どこまで踏み込んでよいのかわかりません。 まずはこちらで、お坊さんのお仕事や生活について少しでも教えていただけないでしょうか。 また、近場のお寺に行き、住職さんに直接お話をお伺いすることは可能ですか? 話も纏まらず、読みにくい文章ですが、お教えいただけましたら幸いです。

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「赦す」ということについての質問

宗教・宗派を超えて、聖職者・宗教指導者は異口同音に「人を赦せ」といいますよね。 私も、ここで別件で質問させていただいた際、御回答いただいた師から、やはり加害者を赦すようにと御指導いただきました。 理論上・理屈上、理解できますし、私に御指導していただいた師の御指導道理に努力します。 しかし・・・・・ ふと思いました。 犯罪・不正・いじめ・暴力・嫌がらせとかをやったヤカラを赦した際、これらのヤカラが、自身が課外をやった被害者から赦されたことによって、自分のやった悪行を自覚し、悔い改め、反省し、更生するのであれば、赦し甲斐があり、赦す意義があるというものでしょうが、反省もすることなく、まだ悪行を続けている場合は、いったいどうなんでしょうか? 仏陀は、赦しを受けても悪行を続けるガンダダ(『クモの糸」に登場する悪人」)みたいなヤカラを、どう御覧になっているのでしょうか? 以前別件で相談させていただいた、私に三年間にわたって嫌がらせ・侮辱し続けたヤカラは、いまだに私に対して一切謝罪・弁解・弁明も30年経ってもしてきませんが。 私の件はさておき、赦してやった者が、悪行を続けているということを、僧侶の師の各位は、仏教的・宗教家的見地から、いかがご覧になられているのでしょうか?

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私の信仰について

今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。

有り難し有り難し 22
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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

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2022/11/14

納骨のときのご供養について

今年の夏に娘が自死しました。 4ヶ月がたち、なかなか起きられず泣き暮らしていたのが、少しずつですが毎日暮らせるようになってきました。 納骨のときのご供養について、お聞きしたいです。 うちは、お墓がなくお寺とのお付き合いがない家でした。私の両親は、宗教で嫌な思いをしているので無宗教、主人の実家はキリスト教です。実家は親戚との付き合いを断っていたこと、主人の実家とも疎遠ということもあります。 葬儀も、音楽葬で行いました。娘が亡くなってから樹木葬でお墓を作り、先日出来上がったと連絡がありました。心の整理がつかないのとまだおうちに置いておきたいこともあり、一周忌に納骨を考えています。 亡くなったのが九州だったため、こちら関西とは勝手が違い、骨拾いもご家族でしてください、こちらは一切口出しできませんと言われ、訳がわからないまま納めて連れて帰ってきたしだいです。 こんな感じの、なんとなくの供養でちゃんと成仏できているのか、娘が望んだ空の上でちゃんと幸せになっているのかが、今の気がかりです。 檀家さんでもなく、お寺とのお付き合いがないので、納骨のときだけお経をあげて頂きたいとお願いすることは、できるのでしょうか?私は、祖父母の家があったそばにあるお寺に、娘が亡くなるまでは何か不安なことがあると手を合わせに行っていました。無宗教で見送って罰当たりかなと今は行けていません。 常識はずれな質問で、本当に申し訳ありません。ただただ娘の幸せをずっと願っていたいです。これから先どのように供養していけばいいでしょうか。 長くなってすみません。どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 25
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2023/04/16

神通力

 前回「釈尊の悟りは神通力を得た結果?」を投稿しましたが、当たりのようです。  駒沢大学学長を歴任された水野弘元先生の著書「釈尊の生涯」の「成道と三明六通」には「(前略) そして濾尽智通以外の五神通は、必ずしも仏教者だけでなく他の宗教家や鬼神狐狸の類に至るまでも、浅深の差はあっても、これも得ることが出来るとせられる」と書かれています。  三明六通の「六通」とは先ほどにに記述の「五神通」とあるように、「六神通」と考えることが出来ますので、「神通力」を得たと考えて差し支えないと思います。  古代インド社会では「輪廻転生」は常識であったそうですが、当時のインド宗教者は、互いに神通力を競い合ったと考えられます。  三明の最初の一明は「過去に関するすぐれた智慧の宿命通(宿命明)」となっていますから、釈尊だけでなく、それ以前の宗教者にもそこに到達して、「輪廻転生」が世間に広まったと考えられます。  余談ですが、阿含宗を創設した桐山靖雄師は、著書「輪廻する葦」のなかで、成仏法と称して、神通力を修練することを勧めたようです。私は読んでいませんので想像ですが、論理の「阿含経」ではなく実践法の「雑阿含経」を研究していたようです。

有り難し有り難し 4
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この先のこと

一度、悩み相談させていただきましたが‥。また再度、です。今、夫と離婚したほうがいいのかと悩んでいます。義父母がきつい性格で、自己中心的、複雑な家庭環境で共にそんなに幸せな家庭で育っていないせいか、口から出る言葉がすごくきつかったり表情や態度も、きつかったり嫌な態度をよく、私はされてきました。義母はとある宗教に熱心で、私にも勧めてきます。家族みんなで、信仰しているので、私も結婚当初から、気はすすまないものの教会へ行くなど、ある程度付き合っていました 。しかし、義母は、子離れが全くできず友達も趣味もなく、自分の身内ともそんなに仲が良いわけでもなくて、宗教にどっぷりとゆう感じなのです 。生活の中に、いつも義母と宗教がまとわりついてくるとゆう感じで、うんざりしています。また、義母と相性の悪い私は、そのことで、夫ともよく喧嘩になり、離婚しようかと夫に言われてしまい‥これから話をするつもりですが‥私自身も離婚は度々考えたので、決断する時なのかなとも思ったり、でも義母にかき乱されて離婚って悔しすぎるなとも思っています。何かにつけて義母のかたばかり持って、私の思いに寄り添うことのない夫にも腹がたちますが‥。一度2人で暮らしてみて、それでもダメなら離婚も本当に考えてもいいのかもしれないですが‥今のまま離婚って、私は嫌なのです。自分の気持ち整理して決断しないととは思いますが‥夫からもきつくあたられ、義母とも心が通わずで、とても孤独になっています 。何か良いアドバイスよろしくお願いいたします 。

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2023/12/15

ご供養の仕方について。

ご供養の仕方について質問です。 私はとある新興宗教に以前入っておりました。 今は経済的に厳しいことや、菩提寺のお坊さんの助言もあり、脱退しましたが、過去帳というものを作ったので日めくりにして、毎日般若心経を読んで、お線香をあげています。今年は月命日という習慣があるんだと知り、月命日にはお墓参りをしようと目標をたてたのですが、母が倒れたショックと、家を売却した環境の変化に耐えきれず入院してしまい、お彼岸にも行けなかったので、先月やっと退院してお墓参りできました。以前はお墓が歩いていける距離でしたが自転車で2時間以上かかるので休みにしか行けなくなってしまったので彼岸とお盆と新年には行こうと思いますが、命日や月命日は行けたら行くので良いんでしょうか。それとはまた別なんですが、うちの仏壇は造花が飾られていてまえから気になってはいたのですが、やっぱり生花のほうが良いのではないかと。言っても、生花はお金がかかるからダメだと親がいうので。 仏教を通して、座禅や写経や読経やお地蔵様のお掃除など作務を行ってきましたが、遠くなってしまっては。よく分からない文章になってしまいましたが、宗教嫌いな人は沢山いるけど、私は仏教が大好きです。仏様が墓参りしろと言ったんじゃないことは知ってますが、お墓参りというのはしたほうが良いと私は思ってますが、宗教はいけないことなんでしょうか。

有り難し有り難し 4
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過去の罪について

現在、13歳の者です。 5ヶ月ほど前に私はyoutubeのニュース動画を観ました。その動画は、「ヨーロッパのある国で、学校での授業中に教師が、ある宗教の風刺画を見せたことによって、その場に当時居た生徒に後日、殺害された」というものでした。 それに対して、私は「風刺画を見せた教師にも非があるんじゃないか?殺されても仕方なかったのでは?」というコメントをしました。5ヶ月前なので詳しくは覚えていませんが、こんな内容でした。(そのコメントは私がyoutubeのアカウント削除を数日前にしたので、数日前には無くなっていますが、今までは残っていました。) なぜ私がこんなコメントをしたのかというと、その動画のコメント欄で、そのある宗教がとても悪く言われていたことからでした。私の偽善的な考えで「許せない」といい気持ちが沸いたからということもあったと思います。 その動画では事件のことしか言われてませんでしたが、よくよく調べてみると、その教師はとても良い人だったこと、しっかりと宗教への配慮をして授業を行っていたことを今になって知りました。 私はその事件のことを調べもせず、小さな視点からしか見てない状態なのに、亡くなられた方を否定するような意見を書き込み、誹謗中傷してしまったことを後悔しています。 人を傷つけた罪とはどうやって接していけばいいのでしょうか? 今からでも私にできることはありますか?

有り難し有り難し 11
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母と祖父母へのお参りについてケンカしました

母とケンカしました。 ケンカが起きた原因は別ですが、その時に私が祖父母の位牌をおいているお仏壇へのお参りを渋ることを話に持ち出されました。 私はほとんど無宗教と言っていいほど神も仏も信仰はしていません。 母は私よりは信じているようです。 私がお参りを渋るのは、信仰していない自分があたかもそこに誰かいるかのように手を合わせる事に居心地の悪さや気持ち悪さを感じてしまうからです。 ケンカの際母にお参りを渋るなんて祖父母を蔑ろにしていると言われました。 私は蔑ろにしているつもりはなく信じられなく気持ち悪くなるからで、日頃から想っているのではダメなのか、手だけ合わせてれば満足なのかと聞きました。 母はそれは祖父母が生前望んだことであるから、その恩恵を受けている身としてはその願いを叶えるのがつとめだと思うからと言われました。 正直正論だと思います。でもお墓参りもお参りもいざやろうとするともやもやしてどうしてもやりたくなくなってしまいます。 やったほうが円滑に物事が進むのは分かっているし、外では取り繕えます。 でも家の中だと甘えが出てしまうのか、お参りしてきてと言われるとイライラしてしまいます。 もうどうしたらいいのかわかりません。何を優先したら良いのでしょう。どうしたらお互いに納得できるでしょうか。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 46
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2022/11/08

宗派が違うとあの世でも別れ別れ?

仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で  かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?

有り難し有り難し 29
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信仰ってなんだろう

私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 34
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