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検索結果: 1014件

生きる意味、生きる気力

はじめまして、思いきって登録してみました。よろしくお願いいたします。 去年、夫からの性的DV→妊娠→中絶という経験をして、うつ病と対人恐怖症になりました。 中絶は本当に悩んだのですが、その子を見る度にその時の事を思い出すだろうと思うと、愛せる自信がなくて…誰にも相談せず、その子を殺しました。 自分がどれだけ勝手な事をしたか、 夫がどれだけ酷い事をしたか、 思う度に耐えられなくなって、離婚か、せめて別居したいと夫に話しましたがどちらも拒否されました。 中学生の長男も離婚は嫌だと言うので(詳しい理由は話せないまま、離婚したいと思ってる、と話しました)結局今までのまま生活をしていますが…… ふと、自分が生きる意味がわからなくなりリストカットがやめられなくなりました。 殺してしまった赤ちゃんへの贖罪、 笑うことも泣くこともまともにできなくなった自分の存在意義、許すことも責めることもできない夫への対応…。 もうなにをどうすればいいのか全くわからなくなりました。 私はまず、何をするべきなんでしょう? 心に浮かんだ事をそのまま書き連ねてしまいましたのでとんでもない乱文だとは思いますが、 よろしければこんな私に渇を入れていただければ救われると思います。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 5
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2023/08/14

住職である両親の態度に怒りが収まりせん

以前、寺の跡継ぎであった私と妻に対する、私の両親をはじめとした寺の者達の態度に納得がいかず、相談させていただいた者です。 いただいたご助言もあって、現在は、実家の寺を離れる事に踏ん切りが付き、実家と関わりを断って生活していく事を決めています。 しかし、関係を断って暮らす前に、残しておくと面倒事になりそうな事を父にメールで確認していた時の事でした。 「私が生まれてすぐに跡継ぎに指名していたくらいだから、後継ぎがいなくなる事は寺にとって大問題なんだろう。私が辞めた後、どうするつもりなのか聞かせてくれ」と私が問うと「跡取りを辞めたお前には関係ない」と父から切り捨てられました。 しかし、私は「物心がつく前から親に勝手に」寺の跡取りにさせられて、成人してから継ぎたくないなら継ぎたくないと言えば良かったと言うのは正論ですが、生まれてからずっと受けてきた親からの精神的呪縛を解くのは容易ではなく、そもそも跡取りになろうとしていたのも檀家さんの為、親の為に選んでいた事で、「私個人が住職の仕事を継ぎたいか継ぎたくないか」等という単純な理由ではないのです。 そして跡継ぎを辞退するに至った理由も私のわがままではなく、最後まで自分が継ぐ為に実家と話し合おうとして、それを拒否したのは両親なのに「”お前が”辞めると決めたのだから」もうお前には寺は関係ないと切り捨てられたのです。 実家の寺は単純に切り離せるものではなく、理不尽に関わらされたとはいえ私の人生の一部でした。 それを親から突然「もう関係ない」と言い捨てられたのは、半身をもぎ取られるような思いでした。 いくら跡取りを辞退しようと「自分の意志とは関係なく生まれながらに寺と関わらざるを得なかった人生」の私には、父達が今後の寺をどうやっていくつもりかを聞く権利があると思っています。 しかし、それは実家と揉めた事で私の精神がねじ曲がってしまっているのかもしれないとも感じています。 もう寺の事などは気にしないで自分の人生を生きた方が良いとはわかっています。しかし、上記のような思いがあり、寺を気にしない生き方がわからないのです。 今回は言われたのがメールだったから良かったのですが、目の前で直接言われていたら、私は父を殴っていたかもしれないと思う程でした。 そういう自分がとても怖く、気持ちを切り替える術が何かあればご助言いただきたいです。

有り難し有り難し 12
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価値観の違う人を理解しようとすることは無駄なのでしょうか?

 こんにちは。ニナと申します。  私は海外留学をしていました。帰国後に日本人の友人たちや家族・知人と居ると、感覚や感性の違いから生きにくさと疲れを感じています。  例えば、「(人種や文化圏が違う人に対し)○○人だから~で、こういうところが理解できない」というふうな自民族中心的だったり、他民族に否定的な発言をした人に、「全員そういうわけではないし、そういう文化なのだから差別しないほうがいいのでは?」などと正面きって意見すると、発言した人から避けられるようになってしまいました。  こういったように、感覚や感性の違いから人に避けられたり、互いに理解しあえず苛立ちを感じてしまうことが多くなり、少し日々に疲れを覚えるようになってしまいました。  今は日本を離れることができない状態にあるのですが、離れることができるようになったら海外で生活しようかと考えたりもします。  しかし、日本であろうと海外であろうと、どこへいっても感覚の違う人がいるのは当たり前のことです。  居心地の良い環境を自分で作ることは大切だと思うのですが、居心地の良い環境だけにとどまって、自分と感性の違う人の傍に近づかずに過ごすこともまた、自分の殻に閉じこもり、他人への理解を諦めてしまっているようでどうしても嫌なのです。  友人に相談したところ、世の中には言ってもわからない、本当に相いれることのない人間もいる。言い方は悪いが諦めることも必要だと諭されました。  わがままな考え方だとは思うのですが、生きにくいと感じる環境でも、人や物事を理解して生きていくこと、そうであろうと努力することは無駄なのでしょうか。あまりにも感覚が違う日々の疲れからか、自分の考えにも自信が持てなくなってしまったのかもしれません。  何か、見方が変わる、スッキリするようなアイデアをいただけないでしょうか?

有り難し有り難し 38
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正しく生きるということ

こちらのサイトを最近知り、毎日読ませて頂いております。    どの方の回答を見ても、納得するばかりで仏教の考え方にも大変興味があります。 私が昔読んだ本には、正しく生きるということが仏教の基本的な考えである。というようなことが書いてあった記憶があります。 それ以来、正しく生きるということはどういうことなんだろう?と常々考えて過ごしています。 例えば仕事。 人が面倒くさい、つまらないと思うような雑用を進んでやったとしますよね。 すると感謝はされますが、何となくあの人がやってくれるから。という雰囲気になり、いつもいつも同じ人がやるようになる。 そうなるとやはり人間ですから、私ばかりがなんで・・・という気持ちになってしまいます。 損得で考えてしまうんです。 正しいことをしているはずなのに、自分の心は荒んでいく。 それなら要領よく生きたほうが楽じゃないかと思ってしまいます。 が、要領よく人に押し付けたところで罪悪感に捕らわれてそれはそれでスッキリしない。 世の中には、うまく立ち回れる方がたくさんいますよね。 きっと皆いろいろ悩んで苦労もあるのだろうけど、私には幸せで賢く見えます。 子どもっぽく言ってしまえば、みんなすごいなぁ~。という気持ちです。 正しく生きよう。と思っても、過去にしてしまった罪は消えません。 何度も思い出しては、罪の意識にとらわれます。 なかったことにはできません・・・ これから先、どのように生きていくべきか。 気持ちの持ち方に悩んでしまいます。

有り難し有り難し 38
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2023/04/02

父の死から、死について考えてばかりいる

死について考えてばかりいます。 ちゃんと仕事に行き、普通に毎日を過ごしていますが、頭の片隅にはいつも『死』が居座っています。楽しいこともするし、おいしいものも食べる。でも『死』を考えないことはないのです。 積極的に死のうとは思わないのですが、親が生きている間は死ねないなぁと思っています。昨年の夏父が亡くなりましたが、死んでからどこへ行くのだろうと考えます。あの世なんてあるのかな、そんなものあるわけないとか、考えは逡巡します。 死について初めて考えたのは小学生の頃だと記憶しています。自分が死んだ後も世界は回っていくんだ、今死んだら明日起こることは自分にはわからないんだと気づいて恐ろしくなりました。 死にたい(というか消えたい)思いと、親や夫、子どものことを考えると死ねないと言う思い、振り子のようにこの2つの思いの間を行ったり来たりしています。 今の自分の意識がなくなることが恐ろしいのかな。考えたりしている自分がいなくなる。それがこわいのかな。あの世なんてあるのかな。死んだらどこへ行くのかな。 そんなことを考えながら何食わぬ顔で普通に生活している自分に疲れてしまい、休日はほぼ寝たきりで過ごしています。 どうか死について教えてください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 7
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お寺にて。私ばかり叱られるのはなぜ?

いつもお世話になっております。 きょう、(ドクターストップを 破って)祈願寺へ行きました。 やけにペコペコ挨拶してくる お婆ちゃんがいたのですが、 礼儀として、挨拶を返しました。 法要が終わった後、 「あなたはいつもいい声を 聞かせてくれる!ありがとう」 などと言われた後、私の持って いるヘルプマークを指差して、 「あなたも何か持ってるわね」 と言ってきたので、 「持病がございまして」 とお答えして、その場では 別れました。 帰り道、外の参道に出た所で 「まってー!」と呼び止められ ました。無視することもできた のですが、こういう方は、 しっかり断らないと後が面倒 なので、「なんでしょうか!」 と低い声で対峙しました。 「参道を出た所のカフェーで お茶をしよう」と言われ、 「皆さんお断りしております、 申し訳ございません」 と最敬礼して別れました。 運良く、その場は引き下がって くれました。 この人はお寺の御詠歌グループ のメンバーなので、私はお寺に 引き返して、お坊さんに逐一 状況をお伝えしました。 自分自身も興奮していたと 思います。ドクターストップ が出るくらいなので。 「そういう人はどこにでも います。気にしなくていい。 うちは警察じゃありませんから」 と突き放されました。私は 言い返せませんでした。 受付の女性が、悲しげに目を 伏せていたのが印象的です。 「宗教法人の、信徒の教化育成 義務」に当てはまるので正当な 行為だとは思います。 ですが、お花の件もそう。 なぜ、私だけこんなにもきつく 指導されるんでしょうか? 年齢差でしょうか?先の 先達さんも仰るような、親心? まあ、ドクターストップに従わ なかった私も悪いのですが。 次に参拝した折に、お坊さん に謝って、事情を伝えようか とも思っています。 「会う人みんな、悪い人や 怖い人に見えるんです」と。

有り難し有り難し 37
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2022/06/14

お坊さんってどんな人?

私が思うお坊さん像は、厳しい修行をして葬式等で活躍する、お話が上手でいろんな相談に乗ってくれる頼れる方です。 最近、自分の身に起きたことや、友人から高額なお布施を請求された、あそこの坊さんは酒飲みで遊び人だからやめた方がいい等といった話をよく聞くようになり、お坊さんへの不信感を抱くようになりました。 また、先日妻の叔父が亡くなった際に枕経からお願いしたら、最近は通夜と一緒に努めることが多いからそうしてくださいと言われました。そういうものなのかと納得しましたが、あろうことに枕経を断られた日にジムに入っていくその坊さんの姿を見かけました。妻の親族は「あの人はそういう坊さんやでな~」と苦笑いしてましたが、私には信じられないことでした。 SNSで発信をしているお坊さんも多く、生活が垣間見れる方もいたりいい意味でいろんなお坊さんがいるのだなと感じています。だからこそ、自分が思っているお坊さん像と違うとお坊さんはどんな人なんだろうとより一層思うようになりました。 大変な修行をされてきた方々ばかりだとは思いますが、自分のお寺に戻ってきたら何をしてもよいのでしょうか。 戒律のお話もお聞きしたことがありますが、守らなくてもよいのでしょうか。 一体お坊さんとはなんなのでしょうか。 お坊さんが大切にされていることは何なのでしょうか。 わかりにくい文章で申し訳ございません。 ご教授お願い致します。

有り難し有り難し 12
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女として見られることが嫌です

自分は女性の身体に生まれましたが、中学生頃から身体や制服、周りからの扱いに違和感を感じ始めました。 完全に男という訳ではなく、具体的に言うと真ん中〜真ん中より少し男寄りあたりをふらふらしている状況です。メイクやお洒落は好きですが、、 両親には話してあり、尊重してくれたように見えていました。 しかし、トイレ、更衣室に入る時に一瞬躊躇してしまうことを話すと、母に「考えすぎ」「お前が一番性別に囚われている」「男子トイレに入りたいのか?」と言われてしまいました。更には「お前の友達は女の子が多いよな。それも嫌なのか」とまで。 友達の性別は関係ないよな、と言っても、聞いてくれません。そもそも自分は友達の性別を気にしたことは無いですし、好きなバンドが同じだとか、すごく付き合いやすいさっぱりした性格だとか、そういうところで好きになった友達ばかりです。 自分が気にしたのは、二つの性別で区切られた空間にいるのが居心地が悪いというだけで。男子トイレも女子トイレも、自分にとっては等しく居心地が悪いのに、それを説明したところでわかってくれません。 結局、母は自分のことを女にしたいのでしょうか。男になってほしくないという思いが言葉の端々から出ていて、そもそも男でも女でもないって何度も言っているのに残念です。 もう母には相談するのはやめましたが、自分は見た目や口調も大体中身と一致しているので、新しく出来た友達に性別について聞かれることがあります。その時になるべく今回のように角が立たないように説明する方法はありませんでしょうか 色々な考えを持つ人がいると思うので、難しいと思うのですが、アドバイスお願いします。 長文失礼致しました。

有り難し有り難し 8
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なぜ「差」があるのか?なぜ、この世があるのか?

生まれた時から親に愛され大切にされる人、親に虐待されて死んだり辛い思いをして過ごす人。 お金に恵まれお金で苦労せず一生過ごす人。生まれた時から貧乏だったりお金に恵まれず色んな事を我慢し、やりくりに苦悩しながら生きる人。 なぜ、そんな差があるのですか?後者のため死んでしまったり辛くてストレスで病気になってしまう人もいます。 前世が関係していて、カルマ、業があるからと言うのでしょうか?でも前世の記憶はありません。この世ではただ差があり辛いだけです。 なぜ、皆一緒で幸せではなのでしょうか? 色んな宗教では「人と比べない」と言われますが比べてしまいますよ。 子供に「なぜ不公平なの?差があるの?」と聞かれたらなんと答えればいいんでしょう? 人それぞれ違った人生があり、この世での学びがあるのだから人と比べても仕方ない。と答えたとしてもほとんどの子達はその後も人と比べて苦しんだりするでしょう。 もっと、ちゃんと人を救えないでしょうか? 自分より悪い状態や環境の人をみて、まだ私は良い方だ。上を見たら辛くなるから、辛くらない方を見て知って自分はまだ大いに恵まれている方で、世に中にはもっと大変で過酷な環境の中頑張って生きている人がいるんだから、不満や不足ばかりをみたり嘆いてはだめだ、感謝して生きよう。 それで、本当にいいんでしょうか? 上下、誰とも比べない。と言われてもそんな立派な人はそういません。比べて自分のこの世での位置を確認し差について色々思います、人間ですもの。 お金、親や配偶者の愛に恵まれているあの人も、悩みはあるものですよ。と言われても、その通りだと思います。人は皆、大なり小なり、多かれ少なかれ、悩みがあるものです。でも、大か中か小、多いか少ないか、の差があるのはどうしてなのでしょうか?あまりにもその差が大きすぎる様に思うのです。 この世は混浴界。なぜ、あえてそんなものを創ったのでしょうか?この世なんかなく、ただ光のままで、善、愛しかないのでよかったのではないでしょうか?苦しんだり、苦しめるくらいなら、無で、空で 皆が幸せで愛に包み込まれて一つのままでよかったのでは? 悲しむ人、苦しむ人は見たくないです。 出来るだけ多くの色んなお防様のご意見が頂けると幸いです。

有り難し有り難し 121
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母子関係、仏教での捉え方は?

私は40代ですが、小さい頃、こわいことがあっても母にくっついているだけで安心したことを、いまだに覚えています。 「母は万能、母が守ってくれるから安心」という感覚を経て、人はこの世に対して安心感を抱き、成長していくのだと思います。 ところが今の母を見ていると、あれほど万能に見えた存在がまったく万能ではなかったのだということがよくわかります。自分の安心感が、こんな未熟な存在一つに左右されていたのかと思うと、複雑な気分になります。 そして、私自身が幼児の母です。子どもがわたしにすがってくると、もちろん抱きしめて安心させてあげます。でも内心は、自分自身がちっとも安心していなかったり、マイナスのことを山ほど考えていたりするも多々あるんです。 要するに子どもは、私の演技を見て安心し、この世はいいところだと思い、満足しているわけで・・・。 こんなに未熟な私なのに、こんな私を見て安心感を培っているなんて。 馬鹿馬鹿しいとまではいいませんが、虚しいです。茶番劇に感じます。世の中のことがわからなくなってしまいました。 こうしたことについて、仏教の教えではどのように捉えているのでしょうか。 ご教示いただけると助かります。

有り難し有り難し 7
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「葬式の度に違う宗派のお坊さんを呼んでいる」の件。真相

前に「葬式の度に違う宗派のお坊さんを呼んでいる」と書きましたが、あの後父に詳しく尋ねたところ、ずっと葬儀社から紹介された浄土真宗大谷派のお坊さん(同じお寺の方です)を呼んでいたんですが、祖母が亡くなったときに、祖母の遺言で伯父の知り合いのお坊さんに、葬式の依頼をすることになったそうです。 それまで呼んでいたお坊さんのお寺を我が家では「菩提寺」と認識しておらず(葬儀社から紹介されただけの関係としか思っていないらしい)、祖母の葬式のときに違う方を呼んだものだから、父いわく「菩提寺とかない」だそうです。 お墓もそのお寺とは違う一般の(?)霊園にあるので、父としてはピンときていないみたいなんですよ。 私としては明らかに「菩提寺あるじゃん!」なんですが、お寺側から何か言われたこともないし、たぶんお寺側も私たちのこと覚えていないと思うんですよね。 ともかく、自分の菩提寺がわかって安心いたしました。 以前の質問で不快に思われた方々、本当に申し訳ありませんでした。 あと、質問ではなくてすみません。 余談ですが、hasunohaのお坊さんから教えて頂いたお寺がいまお話したお寺だったんですよ…何たる縁…南無阿弥陀仏

有り難し有り難し 27
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観音経を唱える前後の願意の唱え方

延命十句観音経について とても丁寧なご解説をありがとうございました。よくわかりました。自然界の道理を小さな人間の念仏ごときで動かすなど不遜と言うほかないと気づかせていただきました。今後、観音経を唱えるときは、観音様に「奇跡を起こしてください」ではなく、「今度の手術がどうなろうともこれが娘に良いことになりますよう」と念じることにいたします。 実はこのたび観音経を始めましたのは、「景清」という落語に感化されたからです。 昔、平家に仕える悪七兵衛景清という武士が、源頼朝の命をつけ狙い、捕えられたときに、源氏の世を見るのは忍びないと自分の両目をくり抜き清水寺に奉納したことから、ある全盲の男が眼病によく効くと聞きつけ、十句観音経を100日唱え満願の日に観音さまが現れて、景清の目を貸し与え目が見えるようになる、というお話しです。 昔からこのような観音信仰があるのですね。わたしは藁をもつかむ心境から始めたことですが、今後は娘が全盲になったとしても前向きに生きていけるよう祈り、智慧を出してやろうと思います。 それから、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。定型の唱和文などあればご教示くださいませ。

有り難し有り難し 12
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2023/02/08

霊魂や命の見解について

お坊さんは霊魂や命の見解についてどこまで確信や信念を持っていますか? いろいろ疑問に思うところあり質問します。 たとえば女性の妊娠の場合 いつから魂が宿っている と明言できるのでしょうか? 法的には  中絶手術ができるのは 21週6日目まで だそうですが その法律を作ったのは 神仏でもなんてもないただの人間です。 「21週6日目までの中絶は 赤ちゃんの命を奪ったことにはならない」と断言できないはずです。 その前から魂が宿っていて「殺さないで」と声にならない叫びをしているかもしれない。 「どんなことがあっても中絶は絶対にダメ」とアドバイスするなら話は別ですが 単に法令に基づいて「中絶していいよ」とアドバイスする人がいたとしたら  後々「自分は人を殺めたかもしれない」と恐怖にかられることはないのでしょうか? 逆に亡くなってしまった人の霊魂の有無についても 自信を持って見解を言えるでしょうか? 私は 仏壇や神棚に祭っている霊魂は ミカンとかお酒とか 何か欲しがっているのに その声を聞き取ることができないために無視している可能性を考えたりします。 また、霊魂(ご先祖様)はこの世の自分に対して 金持ちにさえなれば目的のためには手段を選ばずでよいと願っているのか? あるいは貧困でもいいから人の役に立つ生き方をしてほしいと思っているのか? それもわかりません。 そもそも霊魂なんて存在しないという人もいます。 メディアで取り上げる霊能者を ボロクソに叩く人もいますが 自称霊能者を否定することと霊魂を否定することは違うはずです。 霊魂の有無について何の根拠もなく言及することは 私には 既に魂が宿っているかもしれない状態で中絶を容認することと同様、とても恐ろしいことに思えます。 胎児にしても 既に亡くなった人についても どこまでが命なのか? 霊魂はあるのか 分からないから それが分かる人を知りたい 見つけたい と感じている人は少なからずいると思うのですが 仏教もそれ以外の宗教関係者も、現在生きている人の人生相談に乗る人は多い一方、ここまで私が書いたような内容については考えていない人ばかりに思えてなりません。 私が書いたような内容を追求している人物で信頼できる人がいれば教えてほしいです (金儲け目的のニセ霊能者には引っかかりたくないので)

有り難し有り難し 9
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