社会人になってから3社目、転職してきて半年ですが、仕事が出来ない上に、みんなに嫌われているように感じてます。相談出来る相手もいません。会社で居場所がなくて、本当に辛いです。 今の職場は、世に言うホワイト企業で、働いている人はみんな優秀で、環境はとても恵まれています。着いていけないのは私の実力不足と、コミュニケーション能力の欠如が原因だと感じてます。 嫌われた原因は、私が仕事出来ないのに出しゃばって仕切ろうとしたことがあったことが原因だと思ってます。 そのときは本当に私は口だけの人間でした。 上司にマネジメント能力を求められていて、意味を履き違えたんだと思います。今はバイトさんにさえ、指示を出されるような状況です。 仕事については、私なりに努力しているつもりなのですが、空回りなのか、努力が足りないのか、本当に何も結果がでません。結果を出そうと思えない…というか、本当に何も出来ないんです。何を求められているのかが、理解できないです。 私自身は半年前よりは私なりの成長を感じてはいるのですが、そんなの微々たるもの過ぎて、周りからみたら本当にお粗末なものだと感じてます。 今、チーム全体で取り組んでいる仕事があるのですが、私が使えない人間なので、みんな余計に呆れているような気がします。なので、今はよりツラい思いでいっぱいです。 努力で補えばいいのですが、机に向かっても全く頭が回らず、逃げ出したい!ということばかり考えてしまいます。 会社を辞めることを検討するべきか、でも、この歳で逃げてばかりいるのもよくないですし…、でも、このままいても私は何も身動きがとれなくなってしまうような気もしています。 お恥ずかしいかつまとまりのない相談ですが、何かアドバイスをいただければと幸いです。
今日母方の祖母を亡くしました。臨終にも立ち合いました。病気でもう長くないとは言われており、遅かれ早かれこういう時が来るとは覚悟していましたが、やはりとてつもなく悲しいです。 小さいころから可愛がってもらい、いつもにこにこしていた優しいおばあちゃんでした。あのおばあちゃんにもう会えないかと思うと悲しくて仕方ありません。今も涙が止まりません。どうすればこの悲しみを克服できるでしょうか。女々しい男で申し訳ありません。ご回答お願い致します。
コンプレックスや至らなさ、劣等感から、自己否定がやめられません。 自己否定をしてしまう原因となる性格を直そうとして上手くいかず、またどんどん自己嫌悪になってしまいます。 わたしのコンプレックス、自己否定してしまう原因は、 ①完璧主義、神経質であること →企業の性格検査で最も忌避される性格なので、来年の就活に向け緩和したいです。 ② ①に関連しますが、心配性で、周りの目を気にして、ひとり反省会がやめられないこと。悪い方向に考えてしまうこと。 →中学時代に、一つの失敗が仲間はずれの火種になる様子を目の当たりにしていました。人は相手の発言をイチイチ覚えていない、自意識過剰の方が嫌われると言い聞かせますが上手くいきません。失敗できない緊張感が今も続いています。 ③ 「内向的な人」の定義にだいたいあてはまること。 →大人数の飲み会や立食パーティが苦手で、割と余ります。話の輪に入ったり、集団の中での自分の役割を見つけるのがとても苦手です。 (昔はそうでもなかったですが)すぐに友達ができるタイプではないです。むしろ最近は、ひとりでいること、もしくは小中高時代の気の置けない仲間と遊ぶことが楽で、全然友達を作る気になれません。友達を沢山作って群れている人をみたり、余ったとき「社会不適合者だ……」と思って落ち込んだり「いいな…これからも人生上手くいくんだろな….」と羨ましくなったりします。 以上の性格がコンプレックスで、劣等感のかたまりで、人と比べては落ち込んでいます。周りのひとが眩しいです。最近は「ふつう」「平均」に執着して苦しいです。 ②のひとり反省会を緩和するためには、一般常識を身につければ、「変に思われてないか」と過度に心配しなくて済むんじゃないかと、「失礼大全」等、マナー関係の本を読んでいますが、過去の失敗や今もできてないことを思い出して、「わたしの性格ゴミ……」「周りの人は当たり前に出来ているところだわ……」「こんなんだから、余るんだろうな……」と自己嫌悪して、全く解決になりません。直すところがたくさんで、どうしたらいいのか分かりません。いいところなんて分からなくなっています。 自己肯定感があって、自分を大切にできて、適当さ・寛容さがある、きちんとした大人になりたいです。 冗長な文章で申し訳ないのですが、何かアドバイスをいただけると嬉しいです。
仏道的な歩み方をしていれば、苦しくなくなりますか?
仏教の教えは、自分の感情はおさえ、他のために尽くすこと、うまくおつたえできないのですが、何事も諦めることになるのでしようか? よろしくおねがいいたします。
老人が死ぬほど嫌いです。 タイトルのとおりです。老人が死ぬほど嫌いなのですが、おかしいでしょうか? 医療従事者ですが、老人が嫌いです。なんで嫌いなのに医療従事者になったの?とよく言われますが、就職氷河期で手に職をつけたかったからという理由しかありません。というよりも、働き出してたら老人が嫌いになりました。 あいつら、なんであんなにエラそうなのでしょうか?長く生きていることがそんなにエラいのですか? 「糖尿病で目が見えんのじゃ」とか「足が痛いから介助してくれ」と言ってくる老人もいます。これまでの不摂生が祟ったのじゃないですか?自業自得なんじゃないですか?と言ってやりたくなります。 なんで生産性のない奴らを生かすために多額の税金が投入されているのか、怒りを覚えます。 「あなたもいずれ老人になるのだから」と言われますが、人様の世話にならないよう、健康や食事には気をつけています。それでも自分ひとりの力ではどうにもならなくなった時は、もうそれまでかなと考えています。 こんな考えはおかしいのでしょうか?
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
変なこと書きますが許してください。 悲しく感じたことは何故悲しくて、苦しく感じたことは何故苦しいと思うのですか?楽しいとはなんですか? 「なに言ってんのこいつ?」「そんなん当たり前じゃん!」「ちょっと意味わかんない」って自分でも思ってるんですが本当にそれこそ子供の頃から気になっています。 答えはないのかもしれないですが、どうかお話を聞かせてください。 気持ち悪くてごめんなさい。
初めまして。タイトル通りなのですが 誰かに必要とされたい、愛されたいという気持ちが強すぎてしんどいです。 その反面、人からは興味を持たれず、愛されず、必要とされてないので余計に苦しくなり孤独感を感じる一方です。 人から必要とされないのならば生きてる価値なんてないと考えてしまうのです。 こういう気持ちをなくすにはどうしたら良いでしょうか? こころを無にして楽になりたいです。 文章力がないので支離滅裂かもしれません。すみません。よろしくお願いします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
先日、大学の授業で教授が「福祉の考え方は西洋から日本に入ってきた。ヨーロッパやアメリカはキリスト教の隣人愛の精神にのっとって助け合う心が人々にあるから福祉が充実しているけれど日本ではキリスト教がメジャーではないからなかなか助け合いや福祉の精神が広まっていない。」と話していました。私は宗教についてあまり詳しい方ではありませんが隣人愛という言葉は知っていますし、確かにキリスト教を信仰する人が多い国で福祉の心が根付いているというのは何となく納得が出来ます。 でも、日本人にも助け合うという考えはあるはずだと思います。熊本の地震があった際も、火事場泥棒などひどいことをする人もいるようですが現地にボランティアに行ったり募金などの支援をしたり、困っている人を助ける動きがあるという話もたくさん聞きました。なので、教授の「キリスト教が浸透していない国では福祉の考えも浸透しない」といった話を聞いて何だかもやもやしてしまいました。 そこでお聞きしたいのですが、仏教においてもキリスト教でいう隣人愛のような、誰かと助け合う、支え合うという教えはあるのでしょうか。無宗教だという人も多いので何も宗教の考えだけが人の助け合いのベースではないと思いますが、日本は仏教が身近という人も多いと思うので、仏教にもそういった教え、精神があればぜひ教えてください。
ハスノハ書籍本をリビングに置いてます。子ども達と何気ない会話の中でハスノハの本を見ながら自分だったらどんな質問するかな?こんな下世話な事をワザワザ質問してもいいのかなぁ?と呟いてる子どもがいて 「仏様ってB型っぽいね」…すみません。あまりにもショーもない子どもの質問に お坊さまなら、なんと回答してくださるかなと思ってしまいました。大学受験を控え、日本史や倫理の教科書を毎夜✏一所懸命と励んでるのだから、たまには柔らかい?こんな質問にも付き合ってあげようと「AB型っぽくない?」とだけ答えておきました。日本人は血液型に拘りすぎてると言われるけどタイプ的に括りは、なんとなくアルアル血液型…と思う場面もありそういえば、あたしが通っている坐禅の仲間はO型がやたらに多いんですお坊さまはお話しする方3人とも…B型なのです。 たまたまなのですが、、、最後に子どもが仏様は血より濃い違うものが身体に流れてるんじゃない?…と あまりにショーもない質問となりました。こんなですが仏教系大学を一般入試する子どもに幸あれ!です (/-\*) ハスノハで親子の会話を楽しみつつもっと深く話せるようでありたいなとなりました。 質問者:男性18歳…呟き
【質問】 自分の中に芯と呼べるものを形成するには、何をすべきでしょうか? 【質問背景】 現在、4社目となる居場所の退職手続きを進めています。 前向きな理由からの退職ではなく、 1.他人と長期的な関係を築く事が出来ない。 2.会社に帰属意識を持てない、歯車に成り切れない。 3.お金以外で働く理由が見つからない。 上記の様な思いを常に持っている状態で、どうしようもなくイライラして 逃げ出す以外になかったのが正直な所です。 逃げ出した所で自分に何か出来る訳でもなく、お金に困ったらまたどこかで働いて、似たような理由で辞めてを繰り返す事が予想出来ます。 逃げ出してばかりの情けない人間ですが、良い方向に変化したいと願っています。退職する事によって自由に使える時間が生まれるので、今こそ自分を変える時だと信じて行動したいです。
死後の世界ってあるんでしょうか?
昔から自分で決めることがとても苦手です。 いつも誰かの決定に従って生きていきたい、と思うほど自分で決めることが出来ません。誰かに決められないと、何をすればいいのか分からず非常に不安になります。 高校のころまでは自分で決めなければならない場面が少なかったため、こんな性格でもなんとか過ごせてこれました。けれども最近は自分で決めなければならない場面に多く直面しています。そして周りの子が当たり前に自分で決めているのを見るたびに、自分もああならなくては、と焦っています。そんな風に焦ってはいるものの、結局自分で決めることが出来ず、友人にどうすればいいのだろうと決定を求めてしまっているのですが…。 自分で決められないのは、自分の決定に責任が伴うのを恐れているせいだろうと思います。また、何に対しても「そういう考え方もあるんだなあ」と疑問を持たずに受け止めてしまい、結局何が正しいのだろうかと悩んでしまう性格のせいだろうと思います。 責任を持てないふわふわとした自分に嫌悪感があふれ、このような性格のまま生きていけるのだろうか、と不安を抱える毎日です。どうすれば自分で決めることができる人間になれるのでしょうか。(こうして聞いている時点で人に決定をもとめていますね…笑) 長々と申し訳ありません。つまらない悩みかもしれませんが、何かお言葉を頂ければ嬉しいです。
家族に大切にされていると思えません。 家族とは、「族」とつくだけあって、他の家族が苦しい時は、励ましたり、助けてくれる存在だと思っていました。 しかし、現実はいじめられても、「お前が弱いから」、「お前がいるからお金がかかる」、などの言葉を浴びてきて、最後までどんな子が生まれてきても、育てる覚悟がないなら生まないで欲しかった、夫婦になるまでなら良かった、自分さえ生まれてこなければ、と困難が起こる度に、消えたい、死にたくなります。 自分の幸せを親に応援された事は無いです。好きな事をするとお前は自分勝手でええよな、と母親に言われて育ちました。 敵の中に生まれたような気分です。 困難の量に対して、生きたい、乗り越えたいというような熱量や野心が、もう灰のように、カスカスに枯渇しています。 親や兄弟、親の兄弟の家族とも仲は良くなく、心療内科や就労支援機関のカウンセリングや薬などに頼りながら生きています。 今は前職を一昨年辞めて、生活保護手前までなりましたが、金銭だけは親が出してくれています。今は世話になっていますが、元を辿れば小さい頃の暴力の恨みや進路を親に支配され、思い通りに生きられてない虚無感を与えられたのが原点で、31歳になったから〜成人したから〜で簡単に親への殺意もなくなりません。 何をどういうマインドで残りの人生を生きればいいのかに苦しんでいます。 カスハラなどにも沢山出会いましたが、これ以上辛い思いをして働く、もとい、生きる気力が、薬も強いものを飲んでいますが、湧きません。 何か考え方に助言があれば、教えて頂けたらと思います。 春の盆ですが、親への恨みが強いので、先祖の墓参りも苦しいです。こいつらがいなければ…と思ってしまいます。 よろしくお願い致します。
悟りって本当にあるのですか?悟っているお坊さんはどのくらいいますか?
先日、年忌法要の為に帰省したのですが、そこで受けた説法が今も引っ掛かっています。 その説法とは『身内葬で済ますのは不幸なこと』『親族の傲慢』といった内容で、 (忘れようとしているのか)細部まで記憶していませんが、とある事情から恥ずかしながら非常に怒りを覚えました。 その事情とは、年忌の前日に別の親族が亡くなり、事情から親族だけの葬儀にしていたからです。 つまり、その説法と亡くなられた親族が被ってしまい、 『なんて身勝手なことを言うのだろうか』という怒りがあったのだと愚考します。 ただ、親族の代表として向かった手前、怒りを堪えたものの、未だにお坊さんが唱えられた話が引っ掛かっています。 身内だけの葬儀は悪いことでしょうか?確かに親族や友人、知人を呼んで大きく葬式を行うのが一般的でしょう。とはいえ、それが絶対かというと腑に落ちません。 また、説法を行ったお坊さんとは今後も顔を合わせることになるでしょう。 その時にどう顔を合わせたものかと思うと、辛いものを感じます。 (今は説法に対する怒りの感情というより、疑問が凝り固まっているような状態です。) 不躾な文ではありますが、ご教示願えればと存じます。 余談ですが、出来れば浄土真宗本願寺派のお坊さんのアドバイスを頂ければ幸いです。 もちろん他宗の方のお話もお聞きしたいです。
僕はこの前、呪いの動画を見て怖くなったと質問した者です。 改めましてご回答ありがとうございました。ですが、僕が一つ余計僕を不安にさせてモヤモヤさせられた回答がありました。それは、「怖いままでいい」「いつ死んでも良い」という回答でした。僕はそれをみた瞬間、一気に不安が込み上げてきて正直頭がクラっときました。 これだけ僕が怖がってるというのに怖いままでいると、これからの生活に影響すると思いますし情緒不安定になると思います。それなのにも関わらずこれから怖いまま生きていかなきゃいけないんですか?もしそうなったら親不孝とかもありますし周りの人も悲しむじゃないですか。遠くの人と繋がりがある人とも音信不通になる。極楽へ行こうと地獄へ行こうとそんなの不安です。 その回答の追記コメントでも納得できずた言っちゃ悪いですが、だただその回答は僕を悟らせてるみたいでした。本当に的外れです。 僕はもうどうしていけばいいかわからなくなってきました。
お坊さん 生命力の弱いひと、強いひと、世の中にはさまざまなひとがいますが、自然界では生命力の弱い生物はすぐに淘汰されてしまいます。どうして神様は人間だけ、こんな複雑な状況に置くのでしょうか。神様に納得できません( - _- ;) 自分も生命力が弱い人間の一人だと感じています。自然界だったら早々生きていけなくなっていると思います。外因的であれ内因的であれ生命力の強さは同じだと捉えているのですが、「自分から生きていくことをやめた」というのは、まだまだ周囲から偏見や勝手な解釈をされる気がしています。 お坊さんは「縁」という言葉を印象的に使っていらっしゃるように思います。それが自分の疑問に関係しているようで気になりました。縁とはなんでしょうか。仏教的に考えると、なぜ人間だけ生死が単純でないのでしょうか。どのような意味があるのでしょうか。