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検索結果: 5340件

私の死生観は間違っているのでしょうか?

カテゴリ間違いだったら申し訳有りません。 私が高校生の頃、生徒教師共に学年全体から疎まれていた教師が突然死しました。 その教師はセクハラ発言、時間があれば自分語り、自分ルールが横行しており、校長が何度注意しても直らない と言った問題行動を連発していました。 その教師が亡くなる数日前まで学年の一人の教師が、被害届を纏め、教育委員会に提出するべく書類を作成していた程でした。 学年集会で亡くなった事が告げられると、「早く●んで笑」とまで散々悪口を言っていた生徒達が泣いていました。 私はこの事に対し「今まで散々悪口を言っていたのに手のひら返したように泣ける感受性と協調性の豊かさが羨ましい」と友人の前で呟いていました。 この発言に対し、友人から「泣いている人を批判しているのは間違ってる」と指摘されました 私は人間も食パンも変わらないと思っています。 「食パンを食べたら無くなった=胃に収容されたから 」であって「食パンは食べられるために生まれてきた 」訳です。 私は人間はこの世に生まれる理由は、死ぬ為に生まれて来ている と思っています。 いつかは死ぬのだから、人間は必死に生きなくてはならない、やりたいこともやりたい時にやらないといつかは死んでしまう と。 人間も「人が亡くなった=死ぬ為に生まれてきたから」であって、死は誰にでも平等に与えられているものですし、当然の事だと思っています。 その人に関わってきた時間や感情、思い出が加味されて、改めて 「(人が亡くなって)悲しい」という感情が生まれるのではないかと考えています。 私はこのような考え方なので、明日道端ですれ違った人が明後日亡くなっても、悲しいとは思いませんし、泣けません。 だから、セクハラ教師が亡くなったところで、何も感情は湧きませんでした。 間違っていますか?とても歪んだ考え方をしているとしたら恥ずかしいので治したいのです。

有り難し有り難し 8
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父の死から見えた母の本性

再び質問させて頂きます。 先月の8月20日に父を突然死で亡くし、もうすぐで1ヶ月になります。 まだ私の中で父の死に対して気持ちの整理がついていません。 そんな中、母の本心を知った気がします。 私は母と別の家で妻、子供二人と住んでおり、母は兄と二人で暮らすことになりました。 私は少しでも明るい方がいいと思い、毎日仕事終わりに母のとこに通い、週末は時折子供二人と泊まりに行ったりしていました。 また、色々な手続き等あるため、先日の日曜日に母、兄、私、子供二人で司法書士さんのところに話を聞きにいきました。 それから、先日、いつも通り母のとこに仕事帰りに寄って話をしていた時に、母から 「お兄ちゃんがぶつぶつ言ってたよ。司法書士さんのとこで子供がはしゃいじゃったから、もう少し話がしたかったみたい」 「お母さんが病んでた時に全然顔を見せないのに、子供が産まれたら面倒を押し付けて」 等々、他にも兄が私に文句を言ってた様なことを言っていました。 確かに司法書士のとこに子供を連れて行ったのは配慮が足りなかったかなと思います。 話を聞いた後、兄にいらいらしていたので、このままではまずいと思い、夜10時過ぎに兄に話をしに行きました。 私が「司法書士のことは悪かった」と言うと、兄からは「それは母さんが言ってたよ」と言いました。 私は訳がわからず、母があたかも兄が言っていた様に嘘をついているのに気づきました。 それだけではなく、母が病んでた時にあまり顔を見せなかったこと、子供の面倒を見てもらったこと、すべてイヤイヤやっていたのはでいか? 色々考えてしまいます。 母が病んでた時は父が私に心配かけないようにしていました。 私に家族がいましたから。 母が病んでいた時に私は母が目の前で号泣するのを何回か見て、胃潰瘍になり、一週間で五キロぐらい痩せたこともありました。 子供を親のとこに連れて行き、嬉しそうに接していたので、親孝行のつもりでした。 ですが、それもこれも迷惑だったのではないか?と考えてしまい、母のことが一気に信用できなくなりました。 父を失い、母も失った気分です。 裏切られた感じで悲しいです。 今後どの様に接していったらいいのかわかりません。 わかりにくい文章になってしまいましたが、どなたかアドバイスをお願いします。 色々なことがありすぎて、涙が止まりません。 お願いします。

有り難し有り難し 15
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愛犬の死と向き合う

4月3日14年間暮らした愛犬、零音を亡くしました。 体調がおかしいんじゃないかと、病院に相談してしばらく、様子を見ていましたが見る見る食事を摂らなくなり、亡くなる1週間前に慢性腎不全と分かり、入院も一時させましたが手の施しようなく家に帰ってきました。 四ヶ月前、何かおかしいと病院にかかったときに、きちんと血液検査まで頼めばもっと打つ手があったんじゃないか、あんなに可愛いあの子が我慢しなくて良かったんじゃないかと何度も考えます。 本来なら嘔吐し、食事も取れず気持ち悪さが強く出る病気だと医師から教わりました。死ぬその間際まで嘔吐は全くせず、流動食や水を私たち家族の介助でとってくれていた零音。すごく我慢したのだと思います。 母と私が仕事ででないといけないその日の昼、父の側で虹の橋を渡りました。私たちがいない間に行ってしまったあの子に、謝ることもできず、十分な事をしてあげられず、あの子には私たちしかいないとわかっているのにきちんとしてあげられなかったことが本当に申し訳なくて毎日を過ごしています。 家に帰ってあの子の声が聞こえず、姿もなく虚無感と痛いほどの寂しさに苦しく、向き合う事が出来ません。 あの子のためにしてあげられることはもう何もないとわかっていても、何かせずにいられません。 毎日会いたくて仕方ないけれど、生きているうちにはそんな言葉をかけてもあげなかった。後悔しかありません。 何か他に、私にできることはあるでしょうか。

有り難し有り難し 9
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2022/11/03

死、別れ、時が流れていくことが怖い

死、時間が過ぎゆくこと、全てのものとやがて別れなければならないことが怖くてたまりません。 立て続けに可愛がっていた愛猫を亡くしました。 二匹とも老齢で死ぬことは当たり前の年齢、特に苦しむこともなく穏やかな最後でした。 ペットロスなんだと思いますが、猫達がいなくなった哀しみや寂しさの他に漠然とした不安、恐れが湧き上がりしんどいです。 今は一緒に嘆き哀しんでいる家族ともやがて別れがくる、こうしている間も1秒1秒それまでの時間が短くなっている。 その次の別れの瞬間に今のことを思い返しているような、あっという間に来るべき時が来てしまうような気がしていてとても怖いです。 気分転換に外に出ても葬儀場やお墓の看板ばかりが目につき、世界が裏返ってしまったような気になります。 これまでは遠く空の上にそういうものがあって、今生きている世界はしっかり地にあるイメージだったのが、海の上にある小さな小島にいて、すぐ足元に深くて暗い海の底が広がっている、自分が生きている世界はとても心許ないものですぐに溺れてしまうのではないかというような気持ちになります。 在宅勤務でずっとつきっきりだった為か、死を真正面から受け止めすぎた気がしています。 どこに行こうが逃れられないことに気付いてしまいました。 昔の偉いお坊さんが、死ぬ間際に一筆と頼まれた時に死にたくないと書かれたという話を見かけ、偉いお坊さんでも怖いのかとどうしていいか分かりません。 自分が死ぬ前の晩はどんな気持ちか、親が死ぬ前の晩はと、そんなことばかり考えてしまいます。 さっきコンビニへ行ったことも10年前の旅行のことも思い出すとどちらも一緒で、全部の物事がどんどん過ぎ去っていくような、時間が圧縮されてしまってあっという間に全てが終わるような気持ちになってしまいます。 過去が全部一かたまりになっているというか…。 時間がすごいスピードで自分を削り取って過去のかたまりに押し込めていくような感覚があります。 とても怖いです。 仕方ないことを考えるのをやめたいです。 どうしたら今のことだけ考えられるようになるでしょうか。 偉いお坊さんでも死にたくないのに私のような人間が怖くなくなるなんてありえるのでしょうか。 どうしてこんなに寂しく悲しく辛い死や別れが避けられないこととして存在しているのでしょうか。

有り難し有り難し 15
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愛猫の死 後悔について。

4日前に15年間一緒に過ごした愛猫が 亡くなりました。 母と兄が看取ってくれたことが救いです。 しかし、結婚を機に引っ越しをした私は 1年ちょっとコロナの影響で 会いに行けていませんでした。 足の動きが悪くなった、食欲がないと 話は聞いていたのに自分も体調が ずっと優れなかったことやきっと 元気になってくれるだろうと会いに 行ける距離に居たのに、会いに 行きませんでした。 その日は突然来て、早朝亡くなった 聞いてその日のうちに会いに行きました。 その日のうちに行けば会える気がして… 今は愛猫、母共に心配性の私に 心配をかけないよう最小限に してくれたのだろうと後悔は 薄れてきましたが、愛猫のいない 世界を生きていける気がしません。 ここ数ヶ月、職場の人間関係が安定したり 新生活が安定したりと多分その愛猫が 身の回りを整えてくれたのに… 今回実家にすぐ帰れることにも気づけました。 なぜかこちらの家には来たことがないのに 愛猫の気配があります。 ドアをあけたらそこに居るような気がします。 その時は今まで通り名前を呼び 声をかけますが、倦怠感が抜けず 食欲も戻りません。 このままでは愛猫が天国に行けなく なってしまうと分かっていながらも どうしていいのか分かりません。 よかったら、こんな私にお力下さい。 長文、乱文失礼しました。

有り難し有り難し 21
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2023/10/30

父の死が受け止めれない

今年の8月30日に父が癌で他界しました。 享年60歳でした。 今年の初めより余命宣告を受けており、亡くなる2ヶ月ほど前から看取りの方針で同居することになりました。 私は看護師をしているのですが、現在育休中で他の家族より長い時間共に過ごし、点滴等の介助、病院の付き添いも行っていました。 入退院を繰り返してきてた父でしたが、 他界する数日前に「しんどいから病院へ行きたい」と口にし、入院となりました。 点滴加療で身体のしんどさは軽減し持ってきた梨まで食べてくれるまで元気になっていました。 早く帰ろうな!また来るわ!と言ったのが 最後2日後に危篤状態になって亡くなりました。 余命宣告を受け医師から何度も話をしてもらい 看護師をしている上で経験上他の人よりわかることも多かったのですが、いざ本当にいなくなってしまうと受け入れれない自分もいます。 その反面淡々と葬式の準備や、死後の身辺整理等を行っている自分もいます。 現在子育て中ということもあり、哀しみに浸るということはなく、父がいなくなっても当たり前の日々を過ごしています。 時間がある時に父との思い出を 思い出そうとすると頭の思考が拒絶して 亡くなる前のことも考えることを自己で阻害してしまいます。 悲しんであげるのを父は望んでいるのではないとは思いますが、淡々と法事をこなし、 日常を過ごすことにすごく嫌気がさしてしまいます。 忘れてはいません、しかし具体的にこう話したりこんな様子だったということを振り返ろうとしても考えられません。 こういう時はどうしたらいいですか。

有り難し有り難し 10
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2024/01/23

私は幸せを感じてはいけませんよね

先日飼っていたモモンガを死亡させてしまいました。原因は分からないのですが、水容器が空になっており水分不足によるものかも知れません。この子は全く懐かずいつも人を怖がって震え、一匹さみしく檻に閉じ込められて暮らしポシェットの中で哀しい顔で薄目を開けて息を引き取り固くなっていました。 狭い檻では可哀想かと蚊帳を貼り、檻の扉を開放し、遊び場が欲しいかとキャットタワーを設置し、大食漢でしたのであらゆるご飯やおやつを与え、旬の果物を与えご飯もポシェットも手作りしたり。仲良くなれる方法を調べてみて試みたり…。でもそれは全て私の自己満足、エゴだっただけで、あの子はずっと震えていました。群れで生活する習慣のあるモモンガだと知り一緒に飼える子を何度も探したのですが、金銭的にまだ買えない、遠方で迎えに行けないなど、勝手な私の都合でずっと寂しい生活をさせてしまいました。夜中に寂しいと鳴くと出てくるのは怖い人間なので鳴くことも少なかったように思います。 懐かない、私が近づくと怖がる、そんな状況で少しずつお世話が足りなくなり水容器が空になっていることに気付かず死に至らしめてしまいました。 私などペットを飼う資格などなく、そんなことが出来るほどの人間ではないのに、私の癒しのため、私のエゴ、私の傲慢さで一つの命を奪いました。ずっと怖いよー寂しいよーと訴えていたのに…。8年ほどは生きると言われているモモンガを1年8ヶ月しか生かせてあげられませんでした。 少し混乱していますが、肉を食べ魚を食べ、害虫と呼ばれる虫を殺し生きている私はなぜペットを生かせてあげられなかったことにこんなに苦しむのか…。いろいろ考えた時、私は幸せになってはいけないという思いにいきつきました。喉が渇いても何も飲まず出来るだけ苦しみモモンガのことを思い、楽しい人付き合いを避け、可能な限り休む時間を割いて苦しい仕事に時間を使い私の命の終わりを迎える。ここ数日そんな生活をしていますが、少しでも懺悔になるでしょうか。

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日本、自然死を知らない医師

いろいろ、いろいろ、思うことがあって、思うことがあり過ぎて溢れて、うまく文章に出来ないです。 死とは何か…医者は自然死を知らない 「延命治療」蔓延する日本と「自然死」選ぶ欧米 夕刊◯ジの記事は、良くも悪くも、日本人の「自然死」に対する考え、気持ち、心について、考えるきっかけを与えてくれているように感じました。 良いとか悪いとかじゃなくてです。 いろんな意見があります。 どの方の意見も分かります。 そうだね、そうだよね、と思います。 ただ記事にすると、意見の押し付けや行き過ぎた言葉が並んでしまいがちで… でも、それも仕方がないことで… 何せ人間が書いた記事ですからね… 意見の押し売りさえなければ、それも良しとするしかありませんよね。 私も自然死賛成、いや、自然死なんて嫌だ、延命治療はしたくない、いや、延命治療だって必要だ… どれも、そうだよね、と思います。 医療者の側からすると、治療拒否→治療しない、とは出来ない事情もあります。 それも仕方がないこと。 最近、腎臓の病気を患う患者さんに対して、人工透析をせず死なせた!という事件(?)が世間を騒がせたけれど… じゃあ…ただ人工透析を続けるのみ、人工透析の拒否を受け入れない医師が、良い医師、正しい医師、と言えるのか… 私がよく経験した話になります。 タクシーに乗った時に「◯◯大学病院までお願いします」と言うと、私がまさか職員とは知らず、見舞い客か何かと思って、こんな話をされたりするのです… 「僕の兄貴も腎臓悪して、ずっと◯◯大学病院で透析うけとったんや。でもな、しんどうてしんどうて、もうええ、透析はやめる言うてな、ホンマにやめて、死んでんけどな、やめて良かったわ、医者は反対してたけどな、やめて良かった…」 だから、透析どうこうは、そんな単純な話ではないと私は思うのです。 じゃあ、ケースバイケースだ!という人が正しいかと言えば、そんなこともないし、それだって言ってしまえば綺麗事であり他人事のように聞こえます。 正しい答えなんて、ない。 じゃあ、どうしら…? お坊さまたちは、人が人としとある最後の姿、亡くなった姿をたくさん見ている貴重な方々です。 自然死、延命治療、その他いろいろ… お坊さまの意見…?というか…お坊さまの心の中にある想いをお聞かせ願えませんか?

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障害のある私の生きる価値?

 私は障碍者です。今はやりの「発達障害」なかでも「アスペルガー」という障害です。  これは先天性の障害で、治りません。薬などで抑えることもできません。  障害の内容としては、「言語障害のない自閉症」と説明するのが一番正確です。人間とコミュニケーションをとることができません。興味の対象も限定されており、予測のつかないことが苦手で、日常の行動などには一定のルールがあり、そこから外れたことが起きると極度に不安になります。  これは、先天的に脳の構造が健常者とは違うせいで、気の持ちようなどでどうにかなるものではありません。  ですが、このような障害をかかえているので、どんな仕事も健常者と比べてずっと低いレベルでしかすることができません。例えば、先の読めないことが苦手なので、電話の応対ができませんし、人との話ができませんので、営業職なども付けません。  今は、公務員の障碍者採用に潜り込み、仕事自体は続けられていますが、やっている内容は掃除機をかけるだけ、一日八時間の労働時間のうち、私の仕事は十五分で終わってしまい、残りの七時間四十五分は何もすることがなく、ただ座っているだけです  私が健常者のようにきちんと働けないのが悪いので、人に文句を言いたいとは思いません。ただ、何をしても明らかに人より劣り、障碍者保護の法律のおかげで、お情けのような扱いを受けている、また、そのお情けを受けなくては生きていかれない自分が、ひたすら悔しく、情けなくてたまりません。  何をしても、人より劣り、健常者の蔑み交じりのお情けにすがらなくてはまともに生きてもいけない障碍者である私など、生きている価値はないのではないか、といつも思っています。特に、仕事に行った後では、毎回ひどく落ち込みます(ちなみに、うつ病ではありません)今は、高齢の父と、猫と一緒に暮らしていますが、二人がいなくなったら、私も一緒にこの世から脱出しようと思っています。  私はこれは一種の「尊厳死」だと思っています。キリスト教では、自殺はどんな理由でも絶対に許されない、と聞きましたが、仏教ではこのようなみじめな生を終わらせることをどう判断するのか、そこもうかがいたいと思いました

有り難し有り難し 25
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部下の自死にどう向き合ったら良いのか?

若い部下が自殺しました。 仕事が良く出来、性格も良く、今後を期待していました。仕事も忙しかったですが、死ぬほど苦しみを抱えているようには感じられませんでした。 ご遺族は職場の人間関係に問題があったのではないかと考えているようですが、私には全くそのように思えません。 遺書もなく、衝動的な死に方にも思いますが、死について自分の中で納得できず、何かに取り憑かれてしまっていたのか、自分に知り得なかった何か原因を抱えていたのか、わかるはずもない理由を求め続けてしまっています。ただ、死ぬほど苦しかったんだろうということだけを理解しようと自分に言い聞かせている状態です。 自責の念もあり、素直に笑うこともできず苦しい毎日を過ごしていますが、部下が暗闇に漂うことなく、成仏してくれていることを願うばかりです。 今後、私は部下の死にどう向き合って仕事を続けていけば良いのでしょう。部下の死を防げなかった者が、今後も組織で仕事を続けていく資格があるのでしょうか。また、同じことが起きないか、まさかの自体が、普段の生活で起きてしまうのではないか、心の苦しさから脱せずにいます。時の流れに任せて忘れたい気持ち、自分中心に考える気持ちから離れたい反面、ご遺族のためにも本人のためにも向き合わなければならないと感じてしまう部分もあり、相反する気持ちに苦しんでいます。 今は、部下が安らかに眠ってくれるよう手を合わすことだけが、自分にできることです。

有り難し有り難し 74
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父の死と不登校の子供について

先日は、亡くなった父のことでご相談させて頂きありがとうございました。今回は、不登校の子供のことでご相談させて頂きます。うちには、高校生の子供がおり入学間もなく不登校になりました。確信的なことは分かりませんが人間関係が原因のようです。亡くなった祖父のことを兄弟の中でも一番大好きな子でした。不登校は暫く続いていましたが少し前向きになり新学期から休まずに行けていたのですが、ある日、部活の大会と祖父の死が重なり親の私は、「最後のお別れや葬儀に出れなくても祖父にはいつでも会いに行くことが出来る、それより自分の大事な大会に出ることの方が祖父は喜ぶ。」と伝え、死に目に会えなかった子供の為に、大会頑張れとの思いで、エールのつもりで亡くなる数時間前(まだ動画を撮っている時は、私自身、父の死が数時間後に訪れることなど思いもしませんでした。)の祖父の動画(父は病室に居たのですが音楽が聴こえ出すと『行きたい。』と言い、歌が大好きな父はボランティアの音楽療法士の方にファンの歌謡曲をリクエスト、ピアノ演奏して頂き、呼吸しづらい状態で口ずさんでいる動画でした。)を子供に送りました。その動画を観た子供は、私の思いとは逆で大会(不登校でいくつもの大会に出場出来ずこの大会は今シーズン最後の大会でした。)は諦めどうしても祖父に会いお別れをしたいと葬儀に出ることを選びました。主人にそのことを話すと「おまえが至らぬことをしたからだ。」と厳しい一言が返ってきました。私は良かれと思ってしたことなのに主人からそう言われ自分の浅はかな行動でと後悔しました。その後忌引きで数日欠席し、続けて2日程学校側の代休も重なり久しぶりの登校に張りつめていた糸が切れたかのように再び行けなくなってしまいました。現在欠席日数ぎりぎりで、退学、留年、転学かを意識するようになり本人はメンタル面できつく辛い状況です。私がしたことは、私の自己満足でしかなく子供の気持ちなど本当は考えていなかったのではと自問自答し、やるせない気持ちになることがあります。厳しいお叱りも覚悟の上でご相談させて頂きました。よろしくお願い致します。

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