兄がお墓を継いでいます。 父の年忌法要が近づいているのですが、私にも親戚にも何の連絡もありません。電話をしてみましたが着信拒否されていて話すこともできません。 私も親戚もこのまま法要に参列することはあきらめるしかないのでしょうか? 法事法要は祭祀継承者から案内のない者は参列できないものなのでしょうか? (兄の了解を得ず)お寺に直接日時を確認するのは不躾ですか?知り得た日時で突然参列するのは失礼でしょうか? 参列が叶わないとして、法要当日に遠方より想うことが参列できない者としての供養でしょうか?もしくは個人的にお寺を訪問しお経をいただくのが供養でしょうか?先祖代々の仏様には毎日手を合わせ普段より想いを寄せています。 なにとぞご指南をよろしくお願いいたします。
義父が昨年老衰で死亡しました。 跡継ぎもなく(夫は私の家の婿養子)、故人もこだわりなく、位牌は作らず先祖のお墓は魂抜きをし墓じまいしました。先祖の遺骨は義父の遺骨と共に永代供養塔に移しました。 義父の遺骨の一部を最後まで面倒をみた義姉が持っていき手元供養するそうです。 私共も義父の写真にご飯やお水を供えていますが、供養の仕方としてはこれでいいのでしょうか? 法事などは永代供養塔にお参りしお坊さんに拝んでお経をあげてもらいます。 老人施設で働いている友人から利用者が持参した位牌や仏壇の処分に困ると聞いたこともあります。 少子化の昨今、どのように供養したらいいのでしょうか?
(編集部より。投稿の一部を変更削除しています。) ハスノハの先生に感謝しています。母が新興宗教の会員ってほどではないですが、関係しています。 最近、母が亡くなり部屋を整理していたら会の お経が書かれた掛け軸が見つかりました。 そして、最近、会の女性2人が私の家に訪問してきました。 1、掛け軸を処分(一応、仏様に失礼な言い方でしょうが…)したいです。 仏様が宿る掛け軸ですので、どう処分したらいいか教えてください。 2、会員の女性たちが再度訪問してくるのが怖いです。 私はこの宗教に全く関わりたくありません。我が家は浄土真宗にお世話になっています。 角のたたないお断りのしかたがわかりません。 教えてください…。困っています。
お坊さま方には彼岸後のご多忙の中、失礼いたします。 我が家は日蓮宗ですが、この質問は宗派関係ないかと思います。 母が先月、救急車で運ばれ肺癌ステージ4と診断されました。 数ヶ月前に、同じ病院でレントゲンを撮ったにも関わらずです。 母はその時分かってくれてたらと話しました、私も同じ気持ちです。 主治医や家族は、時間がないと諦めモードです。 そんな病院の入院生活の中、母は『もっと生きたい、治療をやってみる』と言いました。 一時意識がなくなってもです。 【写経について質問】 母の本当の願い『もっと生きたい』を叶えて頂けるよう行動の一つとして、写経を始めました。 日蓮宗はあまり写経がなかったのですが、観音経をみつけました。 知っているお寺さんが写経を納めて頂けることも分かりました。 初めて写経を納めて頂くので、分からないことがございます。 ①写経をやっている最中に、誤って手で擦たり筆が触れて汚してしまったものも納めて頂けるのでしょうか? やはり汚れなどないもの、所謂きれいに仕上がったものだけでないと、仏さまやお寺さんに失礼に当たるのでしょうか? 私は20年近く精神病(鬱病)を患っており、なかなか集中力が継続しないながらも時折休みながら(日を跨ぎながらも)、書き始めました。 ②万が一、汚れた写経を納めるのは失礼な場合、それは破棄してよいものでしょうか? 【お参り・お礼参りについて】 母の病で、私はずっと神社やお寺を回りました。 縁の深いお寺には、ご祈祷をお願いしました(遠方で行かれないお寺には郵送で)。 自分の病気のせいか、記憶が定かではないのですが、途中母が意識を失った際に、お願いごとに『母の意識が戻りますように』とも加えました。 当病平癒の場合、病気の症状によってお願いが、少し変化しやすいのです。 ③お礼参りは、母の治療の途中、良くなったらその都度行くべきでしょうか? 私の最終的な願いは『母の本当の願いであるもっと生きたいが叶うように』です。 『もっと生きたい』がどのくらいかは分かりません。 例え5年生存率が数パーセントでも、私の本心は『長く生きてほしい』ですし『治ってほしい』です。 拙い文章で申し訳ございません。どうか3つの質問よろしくお願いいたします。
1日1日は辛い仕事ですごく長く感じるのに、一週間や1年はあっと言う間に過ぎていきます。 立ちどまって落ち着こうにも、時計は進み、言いようのない焦りに捉われます。 朝起きたとき、また一つ歳をとってしまったと思って憂鬱になります。 社会人になったあたりからずっとこの思いが消えないです。 このままでは気づいたときにはシワが増え、愛する両親や祖母とお別れがきそうです。 とても怖いです。時間を止めるか、今すぐ消えてしまいたいです。 こんな気持ちでいるのは私だけでしょうか。 周りの友人が出産しはじめた頃から、特にこの気持ちが強くなりました。 私は不妊で、治療のため会社を辞める予定ですが、仕事も出産もできない自分により一層焦りそうで不安です。 世の中の人たちは、一体どんな気持ちで日々過ごしているのでしょうか。 また、時が経つことへの不安を無くすにはどうすればいいのでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。 先日、父親の葬儀を無事終えました。 浄土真宗です。 いくつか疑問に思ったので質問致します。私の勉強不足で失礼な物言いになってしまっていましたら申し訳ありません。 葬儀の打ち合わせをした際、直接お寺さんにお布施をどれくらいにするかをお聞きしました。 お車代1万(片道車で30分)精進落としは辞退(つまりお膳代1万) 法名付けて30万で結構ですよ。 と仰いました。 結構ですよという文言が気になりました。 お布施は阿弥陀仏に捧げるものなので、金額に不満ということではありません。 全国のお寺さんは集めたお布施をどのくらいご自身の生活に使われて、どのくらいを修繕維持費や拡張費、又は広告費や檀家接待費に割り当てているのでしょうか?それはお寺によりまちまちですという回答はお控えください。どうあるべきかを教えてください。 私個人としてはお布施に各寺院による金額差が出ている時点でおかしいと思っています。 例えば30万のうち20万はどこのお寺さんでも阿弥陀仏に必ずこの額のお気持ちを捧げますという意味で本山などへ送金し、残った10万はお経、説法の勤めと維持費に使いますという約束が欲しいのです。 先日では通夜葬儀含め1時間もいらっしゃったかどうか。荼毘に伏す前にお帰りでした。 葬儀社の方もそれが一般的と仰っておりました。一般的ってなんなのでしょう。 葬儀に伴い、初七日を式の日に合わせて行うことが多いそうですが、言い方がわるいですが、いい加減だなあという印象です。 どうしても仕事が外せないとか、遠方で行けないとかということで日にちを改める事を遺族から伝えることは致し方ないことと思いますが、葬儀社やお寺さんがまとめて法要をすることを勧めたりというのは如何なことなのでしょうか? 不勉強ですが私は霊的にちゃんと日を数えることに意味があると思うのですが、大事なことはそこではないのでしょうか。 四十九日がお盆になるということでその日はずらしましょうと言われました。 宗教は眼に見えず、なかなか体験し難く、自分なりの解釈を得るまでむずかしいですね。 私は無宗派ですが、神仏を習慣ではなくて本質的に大事にしたいと思っておりますので、尚更疑問に思っております。システム化して商売っ気を持ち込んで来ているように思えるお寺さんに対し虚しくなります。 皆様どうお考えですか?
去年の4月に祖母が亡くなり、5月に母が病により亡くなり7月には恋人が手術をしました。立て続けに私の周りで悲しいことが起きたため、お祓いに行こうと決心しました。 母方のおばがよく霊に憑かれやすいみたいで、お祓い屋(普通のお家でした)を紹介してもらい1人でいったのですが、2人憑いてるとのことでした。 一人は男性(悪霊)で、その日に祓ってもらいましたが、もう一人は母だといわれました。 霊媒師さんが言うには、亡くなる時の感情や感覚を持ったまま魂になるので、母は自分の身体がないことに気付いてなくて、まだ苦しんで助けを求めて私のところに来ていると言われました。 楽にするには私が毎日声に出して「体はないから楽になっていいんだよ」といってあげてください、もしまた今度見たときにまだいらっしゃったら成仏するお祓いをします。と言われました。(もしお祓いになると、5万円で、時間が3時間ほどかかるということも) 私は早く楽になってほしいので、家族にそのことを相談しましたが、父は「金額提示をしてくるのはおかしい」と、別のお寺にお祓いに行くことになりました。 そこでは親が子に憑くことはないと言われ、20分ないくらいのお祓いで終わりました。 ちょっと早く感じて、これでいいのかな?と心配になり、最初の霊媒師さんに行ったほうがいいのか、どうしたら良いかわからなくなったのでお話を聞ければと思います。 亡くなった親が子供に助けを求めて憑くことはあるのでしょうか? お祓いは場所によってかかる時間もお金もこんなに違ったりするのでしょうか?
私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
先月末に父が亡くなりました。 お通夜、葬儀でトラブルが発生しており、悩んでおります。 亡くなった父は80代で祖父の長男にあたります。代々のお墓を祖父から継承しておりました。菩提寺は北関東にあります。代々の菩提寺というわけではありません。 祖父の代の時に、父の腹違いの妹がお寺に嫁ぎ、その時にそれまで代々御世話になっていた菩提寺の檀家から抜けて、お墓を移しました。 父は腹違いとはいえ、妹をとても可愛がっておりましたが、母や私は叔母の言葉の端々に父をバカにしたようなところが見受けられていたことから付き合いが遠くなっておりました。きっかけは祖父が亡くなった時に、その遺産を全て叔母が独り占めしたこともあります。父は面倒はごめんだというなりになりました。父自身が働いて建てた家もあり、きちんと家族を養えるという自負もあったのだと思います。 私はサラリーマンとしてきちんと一つの会社に定年まで勤め上げ、誰にも頼らず、住宅ローンを返済し、子どもを大学まで出してくれた父をとても尊敬しています。 父の妹の嫁ぎ先はお寺として裕福なようであり、外車を何台ももったり、海外にしょっちゅういったりと派手な暮らしをしています。そうできない我が家を哀れむような言動が以前からあり、私は叔母やその家族にお寺はそんなに偉くて特権階級なもののようなものなのかと反発しておりました。(勿論、そんなお寺ばかりではないとは承知しております) 問題は父が亡くなった時、叔母は住職である叔父と副住職である息子(私の従兄弟)に通夜や葬儀のお経をあげてもらうといってきました。そのことには依存はありません。 けれども、お布施をどれほど包んだらいいかと叔母に内々で尋ねたら、本山に納める事務手数料だけを負担してほしいということで80万と言われたのです。金額にとても驚きました。その反応から、叔母達は生活保護の人にはお寺で面倒をみてやるから同じようにして欲しいなら、幾らまでなら出せるのかと聞いてきたんです。 私や母はそれが亡くなった父への大変な侮辱に思えました。お経を断れば、納骨も出来なくなるということを承知で断りましたが、結果、父の妹でありながら、通夜や葬儀に叔母は出席もしませんでした。 此で良かったのかと葬儀から1ヶ月が過ぎようとしていますが心が安まりません。お寺では叔母たちのような反応が当然のものなのでしょうか?お教え下さい。
こんにちは。 迷った時にいつでもこのサイトに訪れています。 私は少し前に般若心経の現代語訳に触れ、そこから仏教が大好きになりました。 今までも嫌いだった訳ではなかったのですが、宗教自体が自分とはあまり関係の無いものだと思っていました。 さて、そんな私もいろいろ調べていくうちに、他の今苦しんでいる誰かにも、仏教の事を話してみたくなったのです。 ですが実際話してみると、そんな事が出来てたら苦労しないよ、とか、そんな事で納得出来るほど私は素直になれないわ!とか、受け入れてもらえない意見もちらほらありました。 (もちろん、仏教の素晴らしさを理解してもらえた方も多かったのですが。) 全ての人を納得させたかった訳ではありませんが、やはり私が話すからには私的見解が入る為か、思っていたより上手く伝わらないのだと知りました。 そこで質問です! お坊さん方は、普段説法や法話をされる時に、より沢山の方に理解してもらう為に、どんな事を心掛けておられますか? 厳しいアドバイス、面白い実体験など、回答いただけると嬉しいです。 お忙しい事とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。
僕は今、浄土宗の御念珠は持っております。 そこで質問をさせていただきたいんですが、 父方の家の宗派が曹洞宗で、母方の家の宗派が浄土宗です。 こういう場合は、曹洞宗と浄土宗、両方の本式御数珠を持っていなければならないものなんですか? 昨年、2017年の母の日に母方の祖母が亡くなりました。 この機会に浄土宗の本式御数珠を購入いたしました。 毎日お経を唱える時に思うことが、 父方のほうの本式御数珠も持っていた方がいいんかな、とういうことです。 父方の実家は遠く離れているのでお参りをすることが少ないので、 略式御念珠で済ましています。 やっぱり父方のほうの曹洞宗の本式御数珠も購入すべきでしょうか。 御回答、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。 お坊さんのあたたかい言葉で少しずつ回復してきましたが、今日はまた朝から考え事が止まらず落ち着きません。すごい勢いで次から次へといろんな事が出てきます。 睡眠も2時間ぐらいで目が覚めて眠れなくなりました。 そのせいか体もあんまり動きません。 この前、自分の思いをhasunoha で吐き出してから、どんどん聞いて欲しいことも溢れてきました。 何でもかんでも人に聞いてアドバイスをもらえばいいってものではなく、自分で解決しなければいけないのは分かっているのですが、押さえられなくなってきています。 明日は絶対に行かなくてはいけない所があって、その後も今週は少し忙しいので、ちゃんと回復したいです。 坊さんがお経を読んだり座禅をしている時のように、頭の中を静めて心を穏やかにしたいです。 そしてしっかり自分の頭で考えられるようになりたいです。 力をかしてください。お願いします。
8年前から施設に入っている祖母が92歳で自殺しました。認知症はないですが、身体が不自由で、施設から這って出て、立ち上がれないから施設の敷地にある低い枝に紐をつけて首を吊ってしまいました。遺書は『おしずかに、おせわになりました』と力強く書かれていました。 ここ2週間で食欲も落ち、血液検査の結果も悪く、病院へ入院する予定の2日前のことでした。 大体3ヶ月に一度くらいはひ孫を連れて会いに行っていた(家から1時間の距離に施設があります)のですが、電話も私からも、祖母からも1ヶ月に一回くらいはしていましたが、私の第二子の妊娠出産(昨年2月に出産)と、その後のコロナ禍の影響で(施設ではコロナで面会禁止が一年続いてました)、1年以上会えていませんでした。 2日後に入院が決まったなら病院の方が施設より面会制限が厳しくないからやっと会えるかも思った矢先の出来事でした。 祖母は若くに夫と息子を亡くし、30年前くらいから死にたいと孫の私にだけこぼしていました。いつもそんなこと言わないでと励ましていました。 ずっと会えてなくて、電話でもすれば良かったのですが、私も二人の子の育児でバタバタして、ワンオペ育児の時も多く、祖母への最後の電話は数ヶ月前でした。母や叔母は週に2回は電話していたようですが。祖母のことを何度も思い出したのに、その時に電話すればよかった、施設玄関の窓越しでも会いに行けばよかった(施設では最近玄関窓越しの面会が許可されたばかりだそうですが、知りませんでした)、と後悔するばかりです。 年賀状に『コロナが落ち着いたら会いに行くから。元気で待っててね!』と書いたのに、待っててはいませんでした。 祖母の携帯は私が契約しました。もう電話しても祖母の声が聞けない、もう会えないのが悲しくてたまりません。自殺を食い止められなかったこと、二人目のひ孫を見せられなかったこと、電話しなかったこと、後悔がつきません。 一連の葬儀で、お坊さんが、四苦八苦、愛別離苦は苦しいもので、お経は生きている人のためにあると言ってました。後悔と寂しさで辛いです。 仏教的な考えで、私は何か救われますか?近所のお寺に駆け込んだら救われたりするのでしょうか?おばあちゃんは幸せだったのでしょうか?今は辛い思いをしていないでしょうか?
私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。
自殺するとこの世での学びを放棄したと見なされ、たいへん重い罰が課せられるといいます。 でも、戦国時代や戦時中でやむを得ず自殺した方もたくさんいたと思います。 理由はどうであれ、罰が降りるのならば泣く泣く自殺した方たちは現世で苦しみあの世でも苦しむことになってしまいます。 あまりに酷くないでしょうか?
私の付き合っている彼は、実家がお寺です。 今は全く別の仕事をしていますが、いずれはお寺を継ぐようです。 私の家は、宗派も違いますし、ましてや法事等で家族が集まった時にお経を読む程度で全く知識がありません。 付き合って5年程経ちますが、つい先日彼のお寺関係の友達に、結婚したら得度するの?と聞かれて、その時は恥ずかしながら得度の意味すらわかりませんでした。 よく周りからお寺に嫁ぐのは大変だよ?覚悟できてる?と言われます。 彼についていく覚悟は、できていますが、あまりにも知識が無さ過ぎて何をどう覚悟していったらいいのか正直わかりません。 そこで、2点質問に答えて頂けると、心の支えとなり大変助かりますので、よろしくお願いします。 *嫁いだら得度(?)をしないといけないのですか? *一般家庭に嫁ぐことと大きく違うところって何がありますか? お忙しいとは、思いますが、少しでもお力添え頂けると助かります。
自分は仕事でもプライベートいつも選ばれない人間だと感じていて、今までそれを周りのせいにしてきました。周りを恨んできました。でも最近「それは違う、それは自分のせいだ」と思うようになり、それもまた苦しく数年間悩み続けてきました。その結果、仏教を学びたいと思いある寺院を訪問しました。 そこの寺院は家からはかなり遠いのですが、住職の日々のブログの文章に感銘を受けて訪れました。仏教の制度についての勉強をあまりしておらず、未だよく分かっていない部分もありますが、一度目の訪問のときに在家得度をして修行をすることになりました。得度式までに2回訪問し、お経や念珠について教えていただき、衣の購入と着用の仕方などを教えていただきました。 しかし、実際に師僧にお会いしてみると文章の印象とはかなり違っていて戸惑いを感じました。他の修行僧の悪口ばかり言い、〇〇さんという人がいるけどあの人は声が小さいんだよね覇気もないしありゃダメだとか、××さんという人がいるけどあの人は覚えが悪いんだよねいつまで経っても覚えないとか、事あるごとにこぼします。 更に、他の修行僧や私の個人的なこと(懺悔でお話するような超個人的な内容)を「この人はこういうことで悩んで僧を目指してる」などと大声でみんなの前で言われたのにも驚きました。一緒に修行をするので、そういいったことは公にして共有するものなのでしょうか。 そしていつも尼僧たちにばかり声を掛け師僧の両脇に座らせ、頂きものの菓子を尼僧たちにだけ分け与えていて、これも驚きました。お坊さんだから清廉だとは思いませんが、イメージしていた姿と全く違い戸惑いを感じています。 自分のような考え方は偏っていて堅苦しいですか?会社でも部下のことを重箱の隅をつつくように悪い部分ばかり見て、一方で女性ばかり可愛がる上司もいますが、その上司がどんなに仕事ができても仕事のやり方は参考にしますが、尊敬はできません。 でも師僧には尊敬を求めたい。尊敬できる師の下で修業したい。こんな考え方は青臭いでしょうか。会社と同じように、修行も仕事も同じで、師僧から技術を教わればよしとするものでしょうか。もう得度式も終わってしまい、実際の修行に入っていますが、もやもやとした迷いが生じてしまい悩んでいます。
八十八ヶ所巡礼結願いたしました^_^ 車での移動でしたが、遠出は主人と一緒に、運転交代で行ってきました。暑さも忘れ、本堂とお大師様にロウソクとお線香に火をつけ、般若心経を唱え、納経帳に朱印と文字を書いてもらい、終わった〜と喜びました。次は高野山へ行かなきゃ🚗巡礼中は、要らないこと考えず唱え、スッ💨としても、いざ現実になれば、また余計なことを思い出したり考えたりです。一度、どこかのお坊さんにお話を聞いてもらって大泣きして、ラクになりたいです。ネットで探してみようと思います。歩き遍路をなさってる方、ムリしないでゆっくりして行って下さい。
一昨日祖父が亡くなりました。 その日の晩は控え室で叔母と私の2名で、祖父と一緒に寝ました。 その日の晩、壁からコツコツと何度も音がし、一緒に控え室にいた叔母と一緒に廊下に出ましたが原因が分かりませんでした。 ふすまが揺れていたのだろうということで、その後音が鳴ることもなかったので特に気には留めていませんでした。 そして翌日のお通夜。 お坊さんがお経を読んでいる間、遺影を見ていたのですが、遺影前の水ばんの花が一輪だけぴょんぴょんと上下に5回ほど大きく揺れました。はじめは真上にあった換気扇の排出口から水でも落ちてきたか(1輪だけで、明らかに風が当たった動きではなかった)、大きなハエが1匹飛んでいたのでそれが花に当たったのかと軽く考えていました。 そして翌朝「お通夜の時花がすごく揺れてた」と親戚の前で話すと、母が「私も見た。向かって左のあの花でしょ?花が大きく揺れているなとは思っていたけど深く考えていなかった。でも同じものを見ていた」と。他の親戚は見ていないようでした。それから周辺を確認しましたが、換気扇の排出口は水滴が垂れてきているような形跡もなく、花の真上かと言われるとそうではありません。虫が当たった可能性も考えてみましたが、虫が当たっただけであんなにぴょんぴょんと何回も同じ高さまで上下に揺れるでしょうか。 母と不思議に思いながらもお葬式が始まりました。 そんな話をした後だったので、動いたと話した花をずっと見ていたのですが、その時は動きませんでした。しかし祭壇の向かって右のろうそくだけ、消えそうなほど激しく揺らめいていました。しかし向かって左のろうそくは、まるでおもちゃの炎かのようにピンと炎が立ったまま一切揺れないのです。 風の流れのせいなのか?と思っていましたが、葬儀終了後にまた母が、ろうそくが揺れていたねと言うのです。 ろうそくは偶然かもなと思うのですが、どうもあの花だけはどんなに考えても不自然な動きだったなと思います。 ちなみに母と私は祖父と一緒に暮らしていた時もあり、人一倍祖父への思い入れは強かったです。祖父が私と母だけにわかるようにアピールしていたのでしょうか。 こんなことってよくあることですか? あと、お経読んでる時お鈴を鳴らすと、ろうそくの炎がいっそうはげしく揺らめくものですか? 音が風として(?)響いて、祭壇の上の炎まで到達するのでしょうか??