こんにちは。 迷った時にいつでもこのサイトに訪れています。 私は少し前に般若心経の現代語訳に触れ、そこから仏教が大好きになりました。 今までも嫌いだった訳ではなかったのですが、宗教自体が自分とはあまり関係の無いものだと思っていました。 さて、そんな私もいろいろ調べていくうちに、他の今苦しんでいる誰かにも、仏教の事を話してみたくなったのです。 ですが実際話してみると、そんな事が出来てたら苦労しないよ、とか、そんな事で納得出来るほど私は素直になれないわ!とか、受け入れてもらえない意見もちらほらありました。 (もちろん、仏教の素晴らしさを理解してもらえた方も多かったのですが。) 全ての人を納得させたかった訳ではありませんが、やはり私が話すからには私的見解が入る為か、思っていたより上手く伝わらないのだと知りました。 そこで質問です! お坊さん方は、普段説法や法話をされる時に、より沢山の方に理解してもらう為に、どんな事を心掛けておられますか? 厳しいアドバイス、面白い実体験など、回答いただけると嬉しいです。 お忙しい事とは思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。
自殺するとこの世での学びを放棄したと見なされ、たいへん重い罰が課せられるといいます。 でも、戦国時代や戦時中でやむを得ず自殺した方もたくさんいたと思います。 理由はどうであれ、罰が降りるのならば泣く泣く自殺した方たちは現世で苦しみあの世でも苦しむことになってしまいます。 あまりに酷くないでしょうか?
私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
先月末に父が亡くなりました。 お通夜、葬儀でトラブルが発生しており、悩んでおります。 亡くなった父は80代で祖父の長男にあたります。代々のお墓を祖父から継承しておりました。菩提寺は北関東にあります。代々の菩提寺というわけではありません。 祖父の代の時に、父の腹違いの妹がお寺に嫁ぎ、その時にそれまで代々御世話になっていた菩提寺の檀家から抜けて、お墓を移しました。 父は腹違いとはいえ、妹をとても可愛がっておりましたが、母や私は叔母の言葉の端々に父をバカにしたようなところが見受けられていたことから付き合いが遠くなっておりました。きっかけは祖父が亡くなった時に、その遺産を全て叔母が独り占めしたこともあります。父は面倒はごめんだというなりになりました。父自身が働いて建てた家もあり、きちんと家族を養えるという自負もあったのだと思います。 私はサラリーマンとしてきちんと一つの会社に定年まで勤め上げ、誰にも頼らず、住宅ローンを返済し、子どもを大学まで出してくれた父をとても尊敬しています。 父の妹の嫁ぎ先はお寺として裕福なようであり、外車を何台ももったり、海外にしょっちゅういったりと派手な暮らしをしています。そうできない我が家を哀れむような言動が以前からあり、私は叔母やその家族にお寺はそんなに偉くて特権階級なもののようなものなのかと反発しておりました。(勿論、そんなお寺ばかりではないとは承知しております) 問題は父が亡くなった時、叔母は住職である叔父と副住職である息子(私の従兄弟)に通夜や葬儀のお経をあげてもらうといってきました。そのことには依存はありません。 けれども、お布施をどれほど包んだらいいかと叔母に内々で尋ねたら、本山に納める事務手数料だけを負担してほしいということで80万と言われたのです。金額にとても驚きました。その反応から、叔母達は生活保護の人にはお寺で面倒をみてやるから同じようにして欲しいなら、幾らまでなら出せるのかと聞いてきたんです。 私や母はそれが亡くなった父への大変な侮辱に思えました。お経を断れば、納骨も出来なくなるということを承知で断りましたが、結果、父の妹でありながら、通夜や葬儀に叔母は出席もしませんでした。 此で良かったのかと葬儀から1ヶ月が過ぎようとしていますが心が安まりません。お寺では叔母たちのような反応が当然のものなのでしょうか?お教え下さい。
5月2日に兄が自死しました。 何年間も連絡をとってなく、特別仲が良かったというのもないのですんなり自分の中で受け入れていたつもりですが、 死後の世界や自死だとどうなるのかが気になってしまい、ずっと調べてしまいます。 ただでさえ自死してしまうほど悩んで苦しんでいたのに、自死は地獄に堕ちるだの現世にとどまるだの救いのない事ばかりでてきて悔しいです。 もちろん、良いことではないですし親不孝者だというのもわかります。 ですが『生きていればいいことがある』『生きてさえいてくれればそれでいい』なんて綺麗事だと思ってしまいます。 兄の人生を歩むのは兄自身です。 その兄が一生懸命たたかって、考えて、悩んで苦しんでだした答えが自死なのに、そんなに間違っていることなんでしょうか? 自死してしまった人にこれ以上、苦しんで欲しくないと願ってしまうのは贅沢ですか? 話は変わってしまいますが、夜や鏡が怖くなってしまい、眠るのが難しくなってしまいました。 兄がみえてしまうんじゃないか、なにか心霊現象なるものが起きるんじゃないかと思ってしまいます。 きちんと心からお祈りして成仏してほしい気持ちと、兄が怖くて怖くてたまらない気持ちが入り交じってしまいます… 火葬場が空いていないため、お経も火葬もまだですが、兄はいまどういった状況にあるのでしょうか? 何が聞きたいのか、なにが言いたいのかまとまってなくてすみません。 とにかく、兄には成仏してもらい、楽になってほしいと願っていますが実際はどうなんでしょうか? また、なぜこんなにも怖いと思ってしまうのかなにかご存知であれば教えていただきたいです。
8年前から施設に入っている祖母が92歳で自殺しました。認知症はないですが、身体が不自由で、施設から這って出て、立ち上がれないから施設の敷地にある低い枝に紐をつけて首を吊ってしまいました。遺書は『おしずかに、おせわになりました』と力強く書かれていました。 ここ2週間で食欲も落ち、血液検査の結果も悪く、病院へ入院する予定の2日前のことでした。 大体3ヶ月に一度くらいはひ孫を連れて会いに行っていた(家から1時間の距離に施設があります)のですが、電話も私からも、祖母からも1ヶ月に一回くらいはしていましたが、私の第二子の妊娠出産(昨年2月に出産)と、その後のコロナ禍の影響で(施設ではコロナで面会禁止が一年続いてました)、1年以上会えていませんでした。 2日後に入院が決まったなら病院の方が施設より面会制限が厳しくないからやっと会えるかも思った矢先の出来事でした。 祖母は若くに夫と息子を亡くし、30年前くらいから死にたいと孫の私にだけこぼしていました。いつもそんなこと言わないでと励ましていました。 ずっと会えてなくて、電話でもすれば良かったのですが、私も二人の子の育児でバタバタして、ワンオペ育児の時も多く、祖母への最後の電話は数ヶ月前でした。母や叔母は週に2回は電話していたようですが。祖母のことを何度も思い出したのに、その時に電話すればよかった、施設玄関の窓越しでも会いに行けばよかった(施設では最近玄関窓越しの面会が許可されたばかりだそうですが、知りませんでした)、と後悔するばかりです。 年賀状に『コロナが落ち着いたら会いに行くから。元気で待っててね!』と書いたのに、待っててはいませんでした。 祖母の携帯は私が契約しました。もう電話しても祖母の声が聞けない、もう会えないのが悲しくてたまりません。自殺を食い止められなかったこと、二人目のひ孫を見せられなかったこと、電話しなかったこと、後悔がつきません。 一連の葬儀で、お坊さんが、四苦八苦、愛別離苦は苦しいもので、お経は生きている人のためにあると言ってました。後悔と寂しさで辛いです。 仏教的な考えで、私は何か救われますか?近所のお寺に駆け込んだら救われたりするのでしょうか?おばあちゃんは幸せだったのでしょうか?今は辛い思いをしていないでしょうか?
僕は今、浄土宗の御念珠は持っております。 そこで質問をさせていただきたいんですが、 父方の家の宗派が曹洞宗で、母方の家の宗派が浄土宗です。 こういう場合は、曹洞宗と浄土宗、両方の本式御数珠を持っていなければならないものなんですか? 昨年、2017年の母の日に母方の祖母が亡くなりました。 この機会に浄土宗の本式御数珠を購入いたしました。 毎日お経を唱える時に思うことが、 父方のほうの本式御数珠も持っていた方がいいんかな、とういうことです。 父方の実家は遠く離れているのでお参りをすることが少ないので、 略式御念珠で済ましています。 やっぱり父方のほうの曹洞宗の本式御数珠も購入すべきでしょうか。 御回答、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。 お坊さんのあたたかい言葉で少しずつ回復してきましたが、今日はまた朝から考え事が止まらず落ち着きません。すごい勢いで次から次へといろんな事が出てきます。 睡眠も2時間ぐらいで目が覚めて眠れなくなりました。 そのせいか体もあんまり動きません。 この前、自分の思いをhasunoha で吐き出してから、どんどん聞いて欲しいことも溢れてきました。 何でもかんでも人に聞いてアドバイスをもらえばいいってものではなく、自分で解決しなければいけないのは分かっているのですが、押さえられなくなってきています。 明日は絶対に行かなくてはいけない所があって、その後も今週は少し忙しいので、ちゃんと回復したいです。 坊さんがお経を読んだり座禅をしている時のように、頭の中を静めて心を穏やかにしたいです。 そしてしっかり自分の頭で考えられるようになりたいです。 力をかしてください。お願いします。
私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。
私の付き合っている彼は、実家がお寺です。 今は全く別の仕事をしていますが、いずれはお寺を継ぐようです。 私の家は、宗派も違いますし、ましてや法事等で家族が集まった時にお経を読む程度で全く知識がありません。 付き合って5年程経ちますが、つい先日彼のお寺関係の友達に、結婚したら得度するの?と聞かれて、その時は恥ずかしながら得度の意味すらわかりませんでした。 よく周りからお寺に嫁ぐのは大変だよ?覚悟できてる?と言われます。 彼についていく覚悟は、できていますが、あまりにも知識が無さ過ぎて何をどう覚悟していったらいいのか正直わかりません。 そこで、2点質問に答えて頂けると、心の支えとなり大変助かりますので、よろしくお願いします。 *嫁いだら得度(?)をしないといけないのですか? *一般家庭に嫁ぐことと大きく違うところって何がありますか? お忙しいとは、思いますが、少しでもお力添え頂けると助かります。
自分は仕事でもプライベートいつも選ばれない人間だと感じていて、今までそれを周りのせいにしてきました。周りを恨んできました。でも最近「それは違う、それは自分のせいだ」と思うようになり、それもまた苦しく数年間悩み続けてきました。その結果、仏教を学びたいと思いある寺院を訪問しました。 そこの寺院は家からはかなり遠いのですが、住職の日々のブログの文章に感銘を受けて訪れました。仏教の制度についての勉強をあまりしておらず、未だよく分かっていない部分もありますが、一度目の訪問のときに在家得度をして修行をすることになりました。得度式までに2回訪問し、お経や念珠について教えていただき、衣の購入と着用の仕方などを教えていただきました。 しかし、実際に師僧にお会いしてみると文章の印象とはかなり違っていて戸惑いを感じました。他の修行僧の悪口ばかり言い、〇〇さんという人がいるけどあの人は声が小さいんだよね覇気もないしありゃダメだとか、××さんという人がいるけどあの人は覚えが悪いんだよねいつまで経っても覚えないとか、事あるごとにこぼします。 更に、他の修行僧や私の個人的なこと(懺悔でお話するような超個人的な内容)を「この人はこういうことで悩んで僧を目指してる」などと大声でみんなの前で言われたのにも驚きました。一緒に修行をするので、そういいったことは公にして共有するものなのでしょうか。 そしていつも尼僧たちにばかり声を掛け師僧の両脇に座らせ、頂きものの菓子を尼僧たちにだけ分け与えていて、これも驚きました。お坊さんだから清廉だとは思いませんが、イメージしていた姿と全く違い戸惑いを感じています。 自分のような考え方は偏っていて堅苦しいですか?会社でも部下のことを重箱の隅をつつくように悪い部分ばかり見て、一方で女性ばかり可愛がる上司もいますが、その上司がどんなに仕事ができても仕事のやり方は参考にしますが、尊敬はできません。 でも師僧には尊敬を求めたい。尊敬できる師の下で修業したい。こんな考え方は青臭いでしょうか。会社と同じように、修行も仕事も同じで、師僧から技術を教わればよしとするものでしょうか。もう得度式も終わってしまい、実際の修行に入っていますが、もやもやとした迷いが生じてしまい悩んでいます。
一昨日祖父が亡くなりました。 その日の晩は控え室で叔母と私の2名で、祖父と一緒に寝ました。 その日の晩、壁からコツコツと何度も音がし、一緒に控え室にいた叔母と一緒に廊下に出ましたが原因が分かりませんでした。 ふすまが揺れていたのだろうということで、その後音が鳴ることもなかったので特に気には留めていませんでした。 そして翌日のお通夜。 お坊さんがお経を読んでいる間、遺影を見ていたのですが、遺影前の水ばんの花が一輪だけぴょんぴょんと上下に5回ほど大きく揺れました。はじめは真上にあった換気扇の排出口から水でも落ちてきたか(1輪だけで、明らかに風が当たった動きではなかった)、大きなハエが1匹飛んでいたのでそれが花に当たったのかと軽く考えていました。 そして翌朝「お通夜の時花がすごく揺れてた」と親戚の前で話すと、母が「私も見た。向かって左のあの花でしょ?花が大きく揺れているなとは思っていたけど深く考えていなかった。でも同じものを見ていた」と。他の親戚は見ていないようでした。それから周辺を確認しましたが、換気扇の排出口は水滴が垂れてきているような形跡もなく、花の真上かと言われるとそうではありません。虫が当たった可能性も考えてみましたが、虫が当たっただけであんなにぴょんぴょんと何回も同じ高さまで上下に揺れるでしょうか。 母と不思議に思いながらもお葬式が始まりました。 そんな話をした後だったので、動いたと話した花をずっと見ていたのですが、その時は動きませんでした。しかし祭壇の向かって右のろうそくだけ、消えそうなほど激しく揺らめいていました。しかし向かって左のろうそくは、まるでおもちゃの炎かのようにピンと炎が立ったまま一切揺れないのです。 風の流れのせいなのか?と思っていましたが、葬儀終了後にまた母が、ろうそくが揺れていたねと言うのです。 ろうそくは偶然かもなと思うのですが、どうもあの花だけはどんなに考えても不自然な動きだったなと思います。 ちなみに母と私は祖父と一緒に暮らしていた時もあり、人一倍祖父への思い入れは強かったです。祖父が私と母だけにわかるようにアピールしていたのでしょうか。 こんなことってよくあることですか? あと、お経読んでる時お鈴を鳴らすと、ろうそくの炎がいっそうはげしく揺らめくものですか? 音が風として(?)響いて、祭壇の上の炎まで到達するのでしょうか??
八十八ヶ所巡礼結願いたしました^_^ 車での移動でしたが、遠出は主人と一緒に、運転交代で行ってきました。暑さも忘れ、本堂とお大師様にロウソクとお線香に火をつけ、般若心経を唱え、納経帳に朱印と文字を書いてもらい、終わった〜と喜びました。次は高野山へ行かなきゃ🚗巡礼中は、要らないこと考えず唱え、スッ💨としても、いざ現実になれば、また余計なことを思い出したり考えたりです。一度、どこかのお坊さんにお話を聞いてもらって大泣きして、ラクになりたいです。ネットで探してみようと思います。歩き遍路をなさってる方、ムリしないでゆっくりして行って下さい。
私には12歳離れた弟がいます。 弟とは異父きょうだいです。 弟の父親は、薬物で何度も捕まったり、お酒を飲んでは家で暴れて物を壊したりしていました。 根は優しくて良い人でした。 私がどんなに酷いことを言っても怒らず、お酒を飲んで暴れても、母や私を傷つけることはありませんでした。 しかし私は、それでもその人のことを恨んでいました。今も恨んでいます。 その人が今もどこかで日常を笑って過ごしているんだと思うと、怒りで涙が出てきます。 理由は、弟の妊娠や再婚を母が私に報告してくれなかったこと。自分達は傷つけられはしなくても、暴れている姿はとても恐怖で、今でも大きな物音や扉を激しくノックする音がトラウマだということ。薬物所持を通報出来なかった罪悪感。 だから私は、計画的に、その人と母親を離婚させてしまいました。その時、弟はまだ1歳にもなっていませんでした。 まだ小学生だった私は、弟の父親が写っている写真を、全て捨ててしまいました。 なので弟は、父親の顔さえ知りません。 母の意向で、弟には「父親は死んだ」と、伝えてあります。 弟は私と正反対の性格で、私には言えないようなことを言うことができます。 私には出来ないことが出来ます。 私は小さい頃に母親から育児放棄をされていたので、きちんと愛されている弟に嫉妬しています。 同時に、理解し合うことができなくて、話す度に怒りをおぼえます。 支離滅裂な上に長くなりまして申し訳ありません。 そんな過去があり、私は何度も、まだ母と弟の父親が離婚する前、母と弟とその父親を殺そうとしたことがあります。 弟の首を絞めようとしたり、睡眠薬を飲ませて刺そうとしたり…… もう離婚して、母と弟と3人で暮らし始めて7年ほどになります。 未だに弟の父親と、弟への恨みが消えません。弟の父親の住所も知っています。いつ殺してしまうか分かりません。 こんなにも人を恨んでいる自分が、1番大嫌いで、ずっと苦しいままです。 他にも家庭の苦しい事情は絶えません。 これ以上耐えられません。 でもまずは、どうしたら弟の父親、および弟への恨みや罪悪感を無くすことができますでしょうか? こんなこと誰にも言うことができません。 ご回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。
数年前娘が自死しました。 まだ21歳でした。 本当に突然のことで原因も分からず最後に私に「ごめん」というラインを残して・・ 携帯を開くこともできないし遺書もない。 親元離れて遠くにいたので何があったのか分からず。 娘の死後、何かわかるのではないかと霊が見えるという占い師さんに娘がなぜ自死を選んだのか見ていただいたり ネットで相談に乗っていただいたりと色々しました。 もちろん満足のいく答えは見つかりません。 スレッズやTwitterで自死を選ぶと成仏できない、暗闇に閉じ込められ永遠に苦しむという書き込みを見つけました。 娘が亡くなってからも苦しんでいると思うと居てもたっても居られず、自死霊を上にあげることのできる霊能者の方とお話しさせていただきました。 もちろんそれなりの金額かかかると言われました。 (相談だけでも数万でした) ただ、私としたら死後の世界とはどのようなものか分かりません。 本当に自死を選ぶと成仏出来ないのでしょうか? 成仏させてあげるにはやはり霊能者の方を頼るしかないのでしょうか? もちろん亡くなってからは法事でお経は上げてもらっています。 色々な事情で身内数人に自死ということは隠しておりお坊様は自死の事実は知りません。
お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
こんにちは。再びこちらで質問させていただきます。 以前読んだ呉智英著「つぎはぎ仏教入門」という書物の中では、私の従来のイメージとはかけ離れた仏教観が述べられており衝撃を受けました。お釈迦様の物語では、お釈迦様は家族を捨てて出家しており、出家者に対しても①家族を捨てること・②生涯独身でいること・③労働をしないことを要求しています。また梵天勧請のお話では、お釈迦様が悟った後に「私が悟った法は、その内容はあまりにも高度なものであるから、一般の人に説いてもわかるまい。」とそのまま涅槃に入られようとしていたようです。 これらの物語を読むと、仏教とは決してヒューマニズムのような耳障りの良い教えではなく、むしろ社会の常識を揺るがす危険な思想なのではないかと思いました。また、仏教の一番の目標は、やはり「悟りを開くこと」ですが、「悟り」とは私が今まで考えていた「あるがままの世界を観じる」というような単純なものではなく、もっと峻烈で幽玄なものではないかと思いました。 これらを踏まえると、日本の仏教ではお坊さんは妻帯をして、労働されている方もいらっしゃるのが普通の光景です。社会に歩み寄るという点では、ある程度の妥協も必要であるとは思いますが、釈尊の本来の教えから見ると、修行や悟りを軽視している面があるのではないでしょうか? また、その教義が初期仏教とは異なる宗派もいくつかありますが、ある教えが仏教であると言える条件は何なのでしょうか? 日本で悟りを開かれているお坊さんはどれくらいいらっしゃるのでしょうか? その辺りを、お坊さんはどのように考えられているのか伺いたく、質問させていただきました。どうぞよろしくお願いします。
長文失礼します。 先月21日に一緒に住んでいた最愛の母親が浴室で亡くなりました。昨年難病になり今年3月再発し、4月に入院の件で喧嘩しながら再入院、翌5月に退院し一週間後に亡くなりました。 直前迄元気だったそうですが、前日身体が動かない、治療が悪い、こんな苦しい治療を選択させたのは貴女達(嫁に行った姉がます)のせいだ。と言われました。亡くなった当日病院に行く予定でしたので、後悔と苦しさで毎日泣いてます 49日はまだですが、葬式後姉夫婦がお経をあげてくれたお寺に行き、永代供養等話聞いてくれました。実は墓守は私限りで、今年お彼岸の際、父親が介護保険施設に入所中見舞いの帰り、母親とお墓の話をしてました。母親は『決してお墓の土地は売るな、一度は入れろ、墓守は甥や姪にさせろ』と言ってました。 私は現実的では無い、と言いそれきりになってしまいました。 購入した墓の土地近くには叔母の同じく購入した墓の土地が有り、私がお参りしなくても、叔母やその家族がお参りしてくれるだろう、との考えだったようです。 生前話してました。 母親の生まれ育った土地柄そういう習慣でした。 姉が相談したお寺の住職様曰く、墓を建てるにも墓仕舞いもお金がかかる、考えてくれ。行事がある度遠い墓より、近くのお寺に永代供養した方が手を合わせられる。と言われたそうです。 そのお寺では永代供養とはお骨を皆と一緒にして、供養塔に納骨し、他の人と一緒に毎日祈ってくれるそうです。また、 納骨も納骨堂が有るそうですが、吹き曝しのお堂らしいです。かなり古い骨壺もあったそうです。 因みにそのお寺と当家族とは縁もゆかりもなく、たまたま母親の実家と父親の実家の宗派が同じだった事から葬式会社が頼み、お経を上げて頂きました。 49日も終わらず、また、私自身母親の死を受け入れておらず苦しい毎日です。 最後の母親の希望を叶えつつ、どうしたらいいのか教えて頂ければと思ってます。
不幸が立て続けにおき、生きる希望が持てません。 なぜ私ばかりこんな辛い目に遭わなければならないのでしょうか? 私は現在22歳の大学生です。 中学時代にいじめにより不登校になりましたが、その後やりたいことが見つかり何とか大学に進学しました。しかし、人間関係のトラブルやトラウマのフラッシュバックが起きるようになり精神疾患を発症、大好きな勉強をするのがままならなくなりました。 昨年6月に母に自殺をほのめかし助けを求めましたが、「勝手にしろ」と突き放され、やけになり過剰服薬…十数時間苦しみでのたうち回り、気が付いたら救急搬送され集中治療室にいました。 その後大学を休学し、現在まで地元で療養しています。しかし、療養中にも不幸が連続して起こりました… 今年5月に騙されて性被害に逢いました。母に頻繁に暴言や八つ当たりをされるようになり、久しぶりに連絡を取った実父にも人格否定をされ暴言を吐かれました。 精神疾患が悪化し、フラッシュバックや解離が毎日のように起こるようになりました。 さらに私の育ての父であり、数少ない味方だった祖父が8月に突然入院、9月16日に急逝しました。 仏教系の大学に通っているので、祖父が良くなるように毎日お経を唱えていましたが祈りは通じませんでした。 今は悲しみに暮れる祖母を見るのが本当に辛いです。 思い返せば今までの人生ロクなことがありませんでした。 4歳で1度目の性被害に逢い、中学ではいじめに逢い、母の再婚相手に暴言を吐かれ、母が不倫してその不倫相手とのトラブルに巻き込まれ、やっと大学で好きなことが出来ると思ったら身体を壊し休学…… たった22年の人生でこうとは…この先絶望しかありません。正直、自殺を図った時にあのまま死んでいればよかったと毎日思います。 なぜ私ではなく祖父が死ななければならなかったのか、死にたい私が生き延びて100歳まで生きると豪語していた祖父が74歳で呆気なく死んでしまうとはなんという皮肉だろうと……神や仏がいるのなら、なんて残酷な方たちなのだろうと思います。 どんな時もなるべく毎日明るく過ごすよう努めていましたが、もう人生に疲れました。 よく今世の不幸は前世の業といいますが、私は前世で何か悪いことをしたのでしょうか。どうすれば良いことが起こるのでしょうか。 どうか教えてください。
初めて質問させていただきます。 私は、昨年より都内の座禅会に参加しています。 その座禅会で初回に作法などを説明してくださった和尚さんは、とても所作が綺麗であり、またお唱えするお経が美しく心に染み渡る感じがします。 特に、親切にされた訳でもないのですが、とても気になり(少し恋愛感情があるのかもしれません)、お話してみたいと思っていますが、座禅会の時はとても忙しい様子(準備やかたずけ)で、話かけることができません。また、どのように話かけたら良いのかも分かりません(自己紹介などからすればいいのでしょうか?)。 普段は、座禅会が行われているお寺ではなく、本山にいらっしゃるようです。 失礼なく、どんな方なのか知りたいと思っています。 また、お釈迦様のことなど仏道に関することを教えて欲しいと思っています。 とても幼稚な質問で申しわけないのですが、ご助言いただければ幸いです。よろしくお願い致します。