いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
こんにちは。 よく夏になると心霊番組をやっています。 そういう番組がやっていることを考えると日本人は霊魂を信じている人が多いのだと思います。 しかし私は霊魂について疑問を持っています。 ほとんどの宗教では霊魂の存在を認め、人は誰でも死ねば不変不滅の霊魂になると言われています。 しかしそうなるとこの世は霊魂だらけになってしまいます。 一方、仏教では不変不滅の霊魂については否定し、あらゆるものが輪廻すると説いています。 仏教では輪廻するものに魂が宿り、霊魂単体では存在できないという考え方なのでしょうか? だとすると霊魂は体に依存した物質的な存在という事になります。 また解脱した場合は無になるとお釈迦様は仰っています。 無になるとは具体的にどういう状況ですか? 寝ているときのような意識がない状態を指すのでしょうか。 あるいは別の次元に行くことなのでしょうか。 疑問に思ったので教えていただきたいです。
昨日からずっとテレビで言ってますが女優の清水富美加さんが出家するようですが出家は誰でも簡単に出来るんですか❓
一般素人がお経唱えても大丈夫ですか? 前にどこかで、般若心経を一般素人が唱えると幽霊が寄ってきて危険。みたいなのを聞いたんですが、本当ですか? また、除霊効果のあるお経や、霊感上げる効果のあるお経ってあるんですか? よろしくお願いします
昨日、外に出てて駅で電車待ちの際、女性が意識なしレベルで倒れて。駅に私しかおらず消防に電話して蘇生を続けていました。成り行きで付き添って病院まで今も。その女性、意識を取り戻され「4月に結婚する」とおっしゃっていました。 付き添ってる間、副ご住職様から頂いたお言葉、メールを繰り返していました。何度かお伺いし、やっと話すことは辛かったことばかり話して泣いてた。 「掴めば膨れ上がる。客観的にみる」「マイナスに振り回されることなく、プラスにも振り回されることなく」だったら私のしている事は真逆。 お話にお伺いに行くなら「こんな事ができた!」「これが目標!」「こんな事をしたいけど、どういう心持ちでいたらいいの?」そういうお話をしに行くのだと思います。 昨日の自分を超えられるかもしれません。 いつやるの? 今でしょ!
幸せを求めると失敗する恐怖がつきまとう。 不安を取り除こうとすればより苦痛は増し、 一つ不安を解消する度、新たな不安が現れる。 努力が実って幸せを感じてもあっという間に 消え去って、また不足感に苛まれる。 なにこの無限地獄。 努力とか目標って聞こえはいいけど、 要するに「今の自分はまだ駄目」と否定してるだけ。きりがない。 「頑張る」という価値観にうんざり。 そうやってうんざりしてる自分、 常識からはずれる不安に苛まれる自分、 何が真実なのか混乱する自分、 求めて得たものに本当の幸せはないと悟っている自分、 色んな「私」が溢れかえってます。 きっと「私」という概念そのものが ただの感覚であり幻想なのでしょう。 ありのままに安らぐことはできるのでしょうか。 白隠のように生きたい。
私には12歳離れた弟がいます。 弟とは異父きょうだいです。 弟の父親は、薬物で何度も捕まったり、お酒を飲んでは家で暴れて物を壊したりしていました。 根は優しくて良い人でした。 私がどんなに酷いことを言っても怒らず、お酒を飲んで暴れても、母や私を傷つけることはありませんでした。 しかし私は、それでもその人のことを恨んでいました。今も恨んでいます。 その人が今もどこかで日常を笑って過ごしているんだと思うと、怒りで涙が出てきます。 理由は、弟の妊娠や再婚を母が私に報告してくれなかったこと。自分達は傷つけられはしなくても、暴れている姿はとても恐怖で、今でも大きな物音や扉を激しくノックする音がトラウマだということ。薬物所持を通報出来なかった罪悪感。 だから私は、計画的に、その人と母親を離婚させてしまいました。その時、弟はまだ1歳にもなっていませんでした。 まだ小学生だった私は、弟の父親が写っている写真を、全て捨ててしまいました。 なので弟は、父親の顔さえ知りません。 母の意向で、弟には「父親は死んだ」と、伝えてあります。 弟は私と正反対の性格で、私には言えないようなことを言うことができます。 私には出来ないことが出来ます。 私は小さい頃に母親から育児放棄をされていたので、きちんと愛されている弟に嫉妬しています。 同時に、理解し合うことができなくて、話す度に怒りをおぼえます。 支離滅裂な上に長くなりまして申し訳ありません。 そんな過去があり、私は何度も、まだ母と弟の父親が離婚する前、母と弟とその父親を殺そうとしたことがあります。 弟の首を絞めようとしたり、睡眠薬を飲ませて刺そうとしたり…… もう離婚して、母と弟と3人で暮らし始めて7年ほどになります。 未だに弟の父親と、弟への恨みが消えません。弟の父親の住所も知っています。いつ殺してしまうか分かりません。 こんなにも人を恨んでいる自分が、1番大嫌いで、ずっと苦しいままです。 他にも家庭の苦しい事情は絶えません。 これ以上耐えられません。 でもまずは、どうしたら弟の父親、および弟への恨みや罪悪感を無くすことができますでしょうか? こんなこと誰にも言うことができません。 ご回答をお待ちしております。よろしくお願い致します。
こんにちは 何度か「死への恐怖」について質問させていただいてます。 あれから自分でも哲学書を読んだり宗教やオカルト、脳科学、神経科学などを調べてみましたが、自我や意識、記憶についてますますわからなくなって来ました。 死んで自我や意識が失われることが一番怖いです。 海外では死後蘇生のため遺体の冷凍保存や意識をネットワーク上にアップロードして不死を得るような試みがされています。 ただ、神経科学的には肉体と精神は不可分であり、死ねば意識が失われ、その意識自体も個体を生存させるための幻という説が出ています。 私はますます怖くなってしまいました。 「自分」というものを失いたくないです。日々変容していますが、確かにここに存在しているのです。死にたくない、滅びたくない、眠るのがこわい、と思ってしまいます。 病院で不安障害と診断されましたが、治ればそんなことを思わなくなるのでしょうか? 何度もしょうもない質問をしてしまってすみません。ただ、怖くて仕方がないのです。
仏教のことを知ってみたいとは思いますが、インターネットとかで少し調べてみても、なんだかすごく難しくてお手上げになってしまいます。 たまたまテレビでみたり、直接お坊さんから話を聞いたりしたら、噛み砕いてくれてるので、分かりやすく興味を持ちますが…。 結局、たぶんざっくりいうと仏様が一番偉い人(人ではないけれど)だろうなぁ。じゃあ、阿弥陀様って誰?2番目くらいに偉い人?ってレベルでよく分かりません。 こんな私の場合、お馬鹿すぎて知識を深めるのは無理ですか?
初めまして。 先日、人生初の写経(般若心経)を体験させていただきました。 そのとき、「執着」からの解放について法話をいただきました。 加減が大事、だとは思うのですが執着しないことで得られる自由な心・発想・幸福感に納得すると同時に、たとえば学生のときなど、100点満点や資格合格にひたすら執着し諦められずに必死に向き合って努力し、手にした達成感や自信などもあることを思い出し、そこで「執着」についてうまい解釈が自分のなかでできずにいます。 実際今恋愛に関しても、気になっている方に粘り強く振り向いてもらえるように頑張ってみようかな?という思いと、もう、5回ほど会って相手と何も進展がないならば、執着しないで次へ向かうぞ!と思うべきか?と葛藤中でもあり、「執着」についての解釈についてもう少し、お坊さん的アドバイスをいただけると有難く存じます。 よろしくお願いいたします!
みなさまには基本的かと思われる質問ですが、お許しください。 仏教で言われる三昧とはなんでしょうか?詳しく教えてください。 その定義はあるのでしょうか?条件とか? また、それに至るための修行がありますか? 修行があるならばそれはどういったことをするのですか?
もちろん、自分も含めての話なのですが、人間って愚かだと思われませんか? 自分たちの欲望を満たすために、地球の限りある資源を好きなように使い倒し、環境を破壊している現実。 地球の命が永遠のものとでも思っているのでしょうか? 地球こそ、人間を産み出した母、言うなれば神だと思います。 その地球(母)の苦悩など全く考えず、欲望の思うままに行動し、うまく行かないと、苦しみ、嘆き、悲しむ。 本当に、お釈迦様は、そんな愚かな人間を助けるために、仏教の教えを広めたのでしょうか? 授かった命を、自から捨てることは良くないことだと判っていますが、極端かもしれませんが、視点を変えると、死を選ぶことは、自分が使う予定であった、地球の資源を別の人に捧げることになり、これこそ、究極の人の為とは成らないのでしょうか? 火葬もおかしな習慣の様に思います。人間が死んだら土葬にし、地球に戻すべきではないのでしょうか? それこそが、本当の輪廻転生じゃないのでしょうか? 人の命は大切ですが、それ以上に、地球の命は大切なものだと思います。 宗教の違いや、国家の違いだけで、争っている場合では、無いと思います。 最近の自然災害の多さは、地球からの警告だとしか、思えないです。 皆様は、どの様に思われますでしょうか?
前回のお返事もしていないうちから、質問を立ててすみません。 実はずーっと疑問に思っていたことがあって、上手く説明出来るか自信が無いのですが、もしもご存知でしたら教えてください。 あと、バカバカしいって思われると思います。 私もバカバカしいなと思いつつも、楽しみにしているんです。 私は、死んだら光になって、光の速度で他の光の形を観察したり、宇宙に行って、何億光年も先に存在している星々を観察したいなぁと思っています。 宇宙飛行士や衛星では行けない、宇宙の果てがどうなっているのかとかを自分の目で確かめてみたいと思っているんです。(死んじゃってるんですけど・・・) 死後の楽しみってやつですね。 肉体が滅んで、死後の世界でどんな姿を持ち、どういうものかはもちろん分かりませんが、今生きてるこの瞬間よりかは可能な夢に近づくんじゃないかなーと思っているんです。 仏教の輪廻転生の中に光はあるんでしょうか。 誰かの愛猫にもなってみたいし、光にもなってみたい。 来世に楽しみを持ちすぎだなと苦笑してしまうんですが、どうなんだろうと疑問を持ちました。 よろしくお願いします。
初めて質問します。 こどもの頃から1つの理想がありました。家族がいて、持ち家があり、仕事をしている自分がいる。誰に言われたわけでもなく、ただ強い意志を持ってそこを目指してきました。 ありがたいことに、20代後半で叶いました。同じような価値観を持った幼なじみがいるのですが、私たちが思い描いた理想を叶えることの難しさ(特に結婚・出産関連)について話すことも多いです。思ったより早くに実現できたなと思いつつ、簡単だったとは思いません。結構大変でした。 問題はここからです。 理想を目指して生きてきました。そしてそれが叶いました。でも、この後どうしたらいいのかわからず困っています。正確には、毎日本当になんとなく生きています。これまで理想を目指して生きてきた身としては、この「なんとなく生きる」ということが非常に後ろめたいです。理想を掲げて生きている人たちのことを羨み・妬んでいます。 何か新しい理想を見つけられればと思いますが、見つかりません。では見つからないまま何となく生きていけばいいのではと思いましたが、そんな選択をする自分も嫌です。結局、ただ時間を浪費をする毎日です。 人生に満足した後、どう生きていくのがよいのでしょうか。 何卒宜しくお願い致します。
こんにちは 初めまして タイトルの通りなのですが、頭が良すぎてツラいです 哲学書や宗教書を独学で3000冊ぐらい読んだのと、IQが高いからだと思います 僕は中卒なのですが、恋人は東大生で、恋人がいうには東大主席よりはるかに頭が良いそうです 恋人には頭の回転が速く本質が分かっていると言われます 幼い頃から周りの人間がバカに見えて仕方がなく、私的には思春期特有の万能感かなと思っていたのですが、恋人曰く、本当に並ぶ人がいないそうです インターネットで通話をするのが好きで、今まで恐らく3000人ぐらいの方と話しましたが、失礼ながら自分よりキレるなと思った方はいません 仏教ではこういうのを慢と言うと思います。僕もそう思います。他人と自分を比べないほうが生きやすいと思います。そう言った意味で仏教的に言えば無明の塊です。 けれど世俗的な意味で、いろいろな本質が分かって、しかも言語化がうまく的確なので、正直物凄く頭がいいと思います 本を3000冊読んだ結果、何も分からないので、今は阿弥陀仏に帰依しています。僕は何も分かりません。ただ念仏するしかないです どうやら、本当に自分より賢い人はいないようで、悲しいというか、寂しいです。同年代は話が合わないので、お年寄りの方とばかり話しています。お年寄りの方は、やはり経験が深く、自分には持っていないものを持っているなと思わされます 傲慢かと思われるかもしれませんが、本当にいないらしいんです。他人がバカに見えてしょうがなく、ツラいです 大海を知れ、ぐらいしか言うことないと思いますが、すみません、半分愚痴です
仏教に生きる道を探しています。大学は仏教系で少しかじってはいます。たまにお寺にいったりする段階から、仏教に生きる道を探し、人生の悩みの解決を仏教に見いだしたいと思っています。 考え方や道筋を教えていただきたいです。自分の解決から家族などの悩みの解決に結び付けばと思います。 よろしくお願いいたします。
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?