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検索結果: 1071件

仏教徒に対する疑問パート7

前回の質問で回答したお坊様に言いたいことがあるんです 実は僕は丹下様が薦める瞑想をやってるんですよ 瞑想やってて気づいたんです 瞑想で雑念を払いリラックスしてるとヒッグス粒子みたいな赤や黄や青の粒が見えてきて そしてその状態でいるとだんだん神妙な気分になって 我欲の全てがその粒の流れと共に消えていく感じになってボーっとするんです その状態でいるとだんだん無になってく感じで無になったような瞬間 瞑想してたことも忘れたかのようにハッとしてまたさっきの状態に戻るんです この繰り返し まるで息を吸って吐くように 煩悩と悟りが交互でくるように 蕎麦食ってまた腹へって蕎麦食ってまた腹へってそれを繰り返してたら なんで腹減らなきゃいけないんだなんで蕎麦食べなきゃいけないんだ 誰がそんなルール先に作ったんだってなりません? そうなると人間もこの世界も全てを先に作った原因と結果だってなりますよ でもそれを作ったのは?それすらも作ったのは?それすらも作ったのは? こうなると原因はわからないでもなんかの原因と繋がってて結果が出る 因のわからない果の法則じゃないですか そうなると悟り開いても原因はわからないでもなんかの原因と繋がってその結果で煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則が悟りであればなぜ人は煩悩があって生まれるのか?それが煩悩ならば悟りは諸行無常で形を変えただけの煩悩ではないのか? それが量子力学みたいに悟りと煩悩なら両者とも同じ境地にいるのではないか? とにかく悟り開いても原因はわからないでもなにかの原因と繋がり煩悩が湧くと思うんです この因のわからない果の法則や因果関係は実体があって悟りは空だから悟り開けばそことは無縁になれるってぶっ飛びすぎじゃないですか? 実という原因あっての結果の空なんですから その空に行ったお釈迦様の前に過去仏がいるって変ですよね それが居座る場所をまるで因のわからない果の法則がすでに結果となって作ったような 因のわからない果の法則や因果関係から解脱できなければ悟りと煩悩は共存し続けると思うんです だから悟り開いたお釈迦様は梵天に煩わしい娑婆の世界に行かされたと お釈迦様が煩悩のない悟りを開いたと証明できないなら そんな人は全知を知りえないそんな人の教えは瞑想を神格化して ありもしない悟りという虚像の神を拝んでるだけじゃないですか?

有り難し有り難し 111
回答数回答 7

信ずるものの矛盾について

前置きとして、私は仏教に深く関心し、このサイトでも別の質問をさせて頂き有難い回答も頂いております。 お気持ちを害するかもしれませんが純粋な質問として受け止めて頂ければ幸いです。 私の現状はご指摘もしてもらいましたが煩悩により、自らを囚え振り回されている状況です。 まず、仏への道として宗派は道程であり、すべからく目的は苦からの脱却、解脱であると勝手に認識しています。事実、それぞれの教えから自己満足の範囲でいろいろ学ばせてもらいました。 煩悩を拭いひたすらに。 しかし、人を救いたい、苦から解放されたいと願うことこそ人智を超えた最大の煩悩の気がしてきてしまいました。だからこその仏様でしょうか。 これが一つ目の問いになります。 心の有り様。全てはここに集約されているのかも知れませんし、因果や縁、前世、今世、来世の繋がりも頭では理解していますが、私個人として、苦がなければ生ではないと強く根底にあります。 苦しみこそが人を最大限に無意識のうちにでも足掻かせ、思考を巡らし、結果が悪かったとしてもその後も全力を尽くした経験値として忘れることがないものと思うのです。好きなことより回避したいことの方が望む望まないに関わらず人は本気を出せると思うのです。出さざるを得ないという方が多いですかね。 往々にして心が弱いですから。 それが成長の種になると。 纏めますと、私は己の弱さ故につまらない選択肢と隣り合わせな苦しい日々が続いていますが、この苦しみから解放され 楽しい、安楽なことだけになることも怖いのです。 弱い心が解放も囚われも恐れるのです。 一つだけ身を投げ打ってでも生きる意味として手に入れたいものがあります。 これは教えに反していますよね。 また、その対価としてというわけではないですが苦難を望んでいる自分がいるのはおかしいですかね。 宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 18
回答数回答 3

インターネットが辛い

お久しぶりです。 お陰様でしばらくは安定して過ごしておりましたが、時勢のためか心身共に非常に鬱々とした状態が続いております。 案の定、外で出来る仕事は全て無くなってしまい、今は在宅ワークをこなしています。 その仕事の1つがTwitterやSNSを使った宣伝等なのですが、これが私にとって非常に苦痛です。 理由は「見たくない情報が大量に目に入ってくるから」、精神的な負担がとても強いのです。 例えば自分の投稿に対して、失礼なコメントやイチャモンが投げられる事もあります。最近はみんな暇なのか、特に嫌なコメントが増えた気がしています。 また自分に対してでなくても、誰か一人を寄ってたかって責めたり、何かに対しての告発文だったり、他人を馬鹿にしたり、おかしな陰謀論で不安を煽ったり……そんな投稿ばかりが目に付いてしまいます。 いちいち気にしなければ良いのだと理屈では分かっていますが、一瞬でも目に留まってしまうと「ああ、まただ…」と気に病んでしまいます。 職場にも何度も相談しようと思いましたが、今の状況でSNS運用をやめたいと言うのは仕事をしない=給与が出ない事と同義です。 それに、相談してもやはり「気にしなければいい」とだけ言われて終わりな気がして…。 精神的に非常に苦痛ですが、逃げるわけにもいかないのです。 どうしたら、ネガティブなコメントを気に病まずに済むでしょうか? 元々精神的に非常に脆い事もあり、ぜひ心の弱さを克服する方法をお教え頂けると幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2024/02/11

人を褒めたくありません。

いつも為になる回答とお言葉いただきありがとうございます。 また生きる智慧をいただきたいです。 私は親に褒められた事はありません。 正確に言うと、良い部分を指摘される事がありませんでした。 その逆に悪い部分のみを指摘されて育ちました。 それが為になると信じてやっていた事ですので、 愛情なく育てられたわけではないです。 そんな環境の育ちでしたので、他人には同じ思いは させたくないので自身で反省し、 常に相手の良い部分に目を向けて、褒める、指摘するなどを 人生でやってきました。人に感謝され人脈も拡がりました。 が。全く幸せになれません。 結局『欲しい言葉』を求める【だけ】の人間しか現れません。 親でさえそうです。 私は褒めても“私”が褒められる事無いんですよ。 自分が飢えている状態ではストレスでしかなさ過ぎて辛いです。 意味も無く突然切れてしまった事もあります。 親に話しても「それまでやってこれたのだからいいじゃないの。」 と論点をずらされます。 他人は私が“よく人を褒めるそういう性格”なのだという部分のみで これだけ精神的に辛いと訴えると“面倒くさい”と言われます。 欲しい言葉のみを貰って気分良くなりたいだけの時に 常に利用されてるだけなんだな。と気が付いて辛くなりました。 『昔は明るくて良い子だったのにね。』と言われて 全力でキレてしまいました。 前向きに考えた結果とった行動なのに 全く現在は幸せになれておりません。 後ろ向きの考え方を元にした前向きさでは 人生限界があると思いました。 教えをいただきたいです。どうぞよろしくお願い致します。 ※補足 何故褒めてくれないのかを親に聴いた事があります。 『身内を褒めても金にならない。』からだそうです。 生活の為に共働きだった親を否定するつもりもないし 感謝していないわけはないので このことはもう親とは話し合う気は無いです。 長文お読みいただきありがとうございました。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

浄土真宗の教えについて3

おはようございます。 今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。 昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。 そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。 吉武文法様の御回答より引用 〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。 1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか? 「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか? 病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。 〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。 2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか? 本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。 文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 61
回答数回答 2

幸せな中で、自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。

おかしな話ですが、幸せな分自分が何故生きてゆくのかわからなくなりました。 実親はアルコール依存症が原因で離婚し、もう10年以上会っていません。会いたいとも思いません。 私の方の事情を受け止め、結婚した夫と子供がいます。 幸せです。 過去に色々あったけど、今は幸せ。本当に実感しています。 壊れた家庭に育った分、今築いている家庭が一番大事です。 でも、ふと思うのです。 もし夫と子供がいなくても、私自身は生きて行く訳で、私自身はどんな生き方をする人間なのかな、と。 妻であり母である自分の一部を取り除いたら、棉ほこりやこびり付いて乾燥したヘドロのような、つまらない過去の記憶しかない、つまらない人間のような気がします。 自分の個性を失っているような、自分自身の輪郭がぼやけているような漠然とした疑問が付いて回っています。 夫と子供の為に生きているからいいじゃないか、というのは模範解答のような気もしますが、私自身を捉えなおしたいという気持ちがあります。自分は何者なのかと漠然と考えてしまいます。 これは煩悩なのでしょうか。幸せにうもれで没個性になっているような感じです。何かお言葉をいただけたらありがたいです。

有り難し有り難し 36
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差別とか叩きとか軽視とかそういうの、どうなんだ?

最近、特定の性別や人種、特徴などを否定する風潮が広まってきているような気がします。 人種に関するヘイトスピーチのデモやその類の出版物はもちろん、ネットでの”○○叩き”もひどいものです。テレビでも「これだから○○は〜」みたいなネタで溢れていて、疑問を感じます。 以下はあくまで私の意見なのですが…。 人には確かに、男とか女とか国籍とか、区別があり、生まれつきどこかの集団に属しています。でも結局は一個人であって、○○だからこうだ!というのは無いと思うのです。 性格などの違いから、あの人は嫌だ、と思うことはまだ納得ができます。でも、あの人が嫌だからあの人の属している集団もみんなそうなんだ、となり、それを叩く理由がわかりません。しかし、世の中にはこういうことを言っている人がたくさんいます。 そう言っている人にもその人なりの考え方があって、それ自体を否定したいわけではありません。 誰が加害者で誰が被害者か、なんてことがよく分からずもつれあい、表現や思想がより過激になってしまう事が恐ろしいのです。 意見を主張することは、素晴らしいことです。しかし、主観だけの暴力的な考え方が、結果的に多くの人を傷つけてしまうのを見るのは、私はもう嫌になってしまいます。 この世の中において、お互いを個人として受け入れ尊重する人が増え、冷静な主張や討論をしてほしいと思います。 わかりにくいことをずらずらと書いてしまい、申し訳ありませんでした。私の意見の中でそれは違うのではないか、という部分があれば遠慮なくおっしゃってください。 最後に質問です。 お坊さんは、最近のこういった風潮に関してどう思いますか? また、これから未来を背負って立つ私たち学生は、何をしていけば良いと思いますか? よろしければ、回答やアドバイスをお願い致します。

有り難し有り難し 36
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人は何故怒るのですか

先日相談をし、解決の糸口が定まらなかったもので、質問を変えて投稿させていただきます。 私は、人とは基本的に利己的な存在であると思います。 他人や勿論私自身も、おそらく自分1位の考え方が本質的にあるのだろうと思います。 例えば些細なことでは、他人の失敗を寛容に許せない人間や、自分を信じて疑わず、断固全てが他人のせいだと憤怒する人間、自分の保身のみ考える人間など、多種多様です。 その多種多様な人間の中で最も私が理解出来ないのは、「簡単に人に怒りを向けられる人間」なのですが、人は何故怒るのですか。 利己的な本質というものが背景にあり、自身の不平不満や、不安を解消するための手段というのは承知しております。ですが、怒ること(恨み辛みの感情を持つこと)は相手は勿論自分にさえマイナスなものしか与えません。憎い相手にそれほどの労力を使うのですから、解消のため怒りをぶつけることはデメリットの方が大きいはずです。 また、人には長所がどこかしら存在するはずです。その相手の長所を思えば、怒りを向けることを踏み留まったり出来るはずではないでしょうか。目先の解消を優先してしまうのは何故ですか。 大人でさえもそれに気付かずに、理不尽と思われるような怒りをデメリットを背負ってぶつけます。 合理的に考えていけばそんなことにはならず、誰も傷付かないのに。 加えて、そういった方々の殆どは、責任の所在が100%相手にあるという錯覚をしているような気がします。選択の余地がある以上、その選択をした自分にも何割かの非があるはずだ……私はそう考えるのですが、他の方は違うのですか。 非常に生きづらいです。

有り難し有り難し 44
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復職後1週間でまた休職してしまいました

閲覧いただきありがとうございます。 4月より仕事の担当が変わり、上司からも期待されていたのですが業務量の多さやプライベートでの不運で精神的に弱ってしまい、適応障害の診断を受けました。 4月中旬から一度休職に入りましたが、忙しい季節でもあったため早く戻らなければという思いで1ヶ月で復帰しました。 しかし、復帰後1週間勤務したところで4月と同様に出勤や他人が怖く、失踪しようとしてしまい症状が改善されていないことを痛感し、また休職に入ってしまいました。 期待されていたにもかかわらず、4月は半月、復帰後は1週間で駄目になってしまった自分が不甲斐なく、自分の存在価値がわからなくなってしまいました。 上司からも常識がないなどと言われたり、冷たい対応を取られてしまい自分の存在が迷惑だということを思い知り消えてしまった方が周囲にとっても良いのではないかと考えてしまいます。 会社への懺悔の気持ち、自分は無価値だという気持ちで頭がいっぱいになりながらも、時々、こちらも好きで病気になったわけではないのになぜそこまで冷たくされなきゃいけないのかと上司への憎しみも抱いてしまいます。 負の感情しか心にありません。 他人に会いたくなく、心配してくれている親ともまともに話せず、余計に存在している意味がわからなくなっています。 1週間で勤務を諦めてしまった自分は弱く、甘ったれているのでしょうか。 また、上司への憎しみの気持ちはどのように消せばいいのでしょうか。 休んでしまっている自分が悪いため、上司を憎んではいけないと感じてはいるのですが頭が考えることをやめてくれません。 支離滅裂な文章になってしまい大変申し訳ございませんが、ご助言いただけましたら幸いです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 21
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