見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
大きな悪行でなくても良くないこともやってきました。そんな人間でも仏様の前に行き全ての今までの悪い行いを話し悔い改め仏様の前で祈ることは許されるでしょうか? このくらいはいいだろうと思うような悪い行いも今思えばどんなに小さなことだろうと良くないと思うようになりました。仏様の前に行くことは許されるでしょうか?
自分が持ったエネルギーをどこに使えばいいですか?
十年来の悩みを解決するためにあちこちの寺社を巡り、現世利益を説かない浄土真宗(現生十種の利益というのがあるのは知っていますがそういうのじゃなくてもっと即効性のある即物的な現世利益が欲しい)を辞めてまで理想の宗派を探している者です。 ただ、割と現世での救いに力を入れて説いていらっしゃるイメージがある日蓮宗のお坊さんに聞いても「現世利益とは久遠本仏を悟り安らかさを得ること」という答えだったので、ちょっと仏教における現世利益を根本から考え直さなければいけないのではないかと思ってしまった次第です。 歴史的に浄土系は来世にしか救いがないと批難してきたはずなのに日蓮系自慢の現世での救いも心の安らかさを得るだけなら浄土系と五十歩百歩ではないのか(阿弥陀念仏だって心の安らかさは得られますから)。 結局のところ仏教における現世利益ってどこの宗派も「直接的に奇跡が起きて悩みが解決するわけではないが、心の持ちようで悩みが軽く感じられるようになる」程度のものなのかと思えてきました。このあたりのお坊様方の現世利益の捉え方(具体性の程度)をお伺いしたいです。 仏教に願いを叶える現世利益は無いとまでは言い切れないでしょうが、自分の努力で一進一退を重ねても最後の決め手に欠けるという時にずっと傍観していた神仏が最後の一手だけ手を貸してくれるというようなものだと思った方がいいでしょうか?
よろしければ皆様の意見をお聞かせください。 仏教は向上心を否定するか。 向上心とは現状に満足せず、さらに高い目標を目指す心の有り様を表す言葉です。 向上心は現代社会で広く受け入れられ、むしろ向上心が無いことは悪い事という風潮すらあります。 私は向上心の動機として、欲と執着は不可欠だと感じます。 小欲知足を基本とする仏教において、向上心は否定されるでしょうか。 否定される、と言うのが私の考えです。 現代社会は、キリスト教等の禁欲思想を否定し、 欲望を肯定し、それを達成する事で発展してきたように感じます。 ゆえに、欲望を受け入れ自らを切磋琢磨する向上心は、社会の発展に有意義なために広く受け入れられていると考えます。 人の無限の欲望をエネルギー源としている現代社会は、仏教思想と相容れない部分があると思います。 よって、仏教は向上心を否定すると考えます。 皆様はどのようにお考えでしょうか。また、お弟子さんやお子さん等、身の回りの方に向上心が見られない場合、どのように指導する(あるいは指導しない)か教えていただけると助かります。
最近死について考えてしまいます。僕は死後の世界があると信じています。でも死んだらどうなるか誰にもわかりません。 だから僕は死後の世界があると確信できず、死んだら無になり家族や友達と一生会えないのかと思いとても辛くなります。 だけど僕は死後も家族や友達に会いたいです。僕の気持ちを少しでも軽くして頂ける解答をお願いいたします。
本を読んでお経に興味を持ったのですがお経とは何のために存在しているのでしょうか?
徳の高いお坊様方に質問です! 地涌の菩薩 についてできるだけ詳しく、解りやすく説法して下さい。 自分で調べたのですが、メチャ解りにくかったです…… ですので、仏教に余り詳しくない衆生の私に教えて下さい!!! 地涌の菩薩様はお釈迦様や阿弥陀様みたいに元人間だったのでしょうか? 観音様は元人間で生まれ変わるたびに善行を積み、清められて菩薩になった… と、何かで聞きましたし、阿弥陀様も元人間で法蔵菩薩と名のり生まれ変わるたびに修行し、功徳を積んで如来になり極楽浄土を築いた… と、書籍で読みました… この流れから行くと、地涌の菩薩様も元人間だったのでしょうか? 物凄く、興味がありますので、教えて下さい!!!
学生の頃から、「人は何故生きるのか、人生とは何か」を考えるようになり、自分なりの答えとして、「世界、社会に何かを遺すこと」という結論に達しました。 自分の行い、作ったものが、他の人の役に立ち、笑顔にできるなら、自分が生きた意味があるだろうと考えるようになりました。 30代後半で、他の人にはできないような大きな仕事を達成して、燃え尽き症候群といいますか、他の人の人生の手伝いをしようと思うようになりました。 40代半ばになり、欲が減衰し、自分のしたいことがなくなり、食事すら面倒に思うようになりました。 未だ独身ですので、女性一人幸せにしていないと考えることもできますが、過ぎたる欲は不幸を招くとも言いますし、特に意中の女性が居るわけでもありません。 平均寿命で考えると、まだ人生の折り返し地点ですが、満足感と無欲で、この先40年どうすればいいのか、悩んでいます。 この手の疑問は、様々な経典・古典に通じていらっしゃるお坊さんが答えを持っているのではないかと思い、相談させて頂きたいと思いました。 お忙しいところ恐れ入りますが、道標、お導きの程お願いいたします。
自分が嫌いです もう31歳、そこそこ人生歩いてきて 経験から人間性ができている気がして 全て顔に、体に、態度に、出ている気がして 鏡を見たくありません 自分を好きになれない自分が嫌いです 『ありのままの自分を認める』 の意味が、つかめずにいます 幼少期から、『お姉さんなんだから』と言われ続け 甘えたこともなく 気がつけば、自分がここにいるのに理由がないと、手が震えます 人のためになっていなければ、ここにいてはいけない気がします 自分を愛してくれる人もいるのでしょう でも、私にはそれを感じとる力がありません 人間不信、疑心暗鬼 こんな言葉を最近知りましたが、 人を信じるということがわかりません 寂しいと思う自分もいますが それを伝える人がいません こんな自分が、子育てをしていることが この先不安だし 子供を私のように不孝にするのではないかと思っています 自分自身もこのまま生きてこのまま死ぬことに不満があるのに、どういう心持ちにしたら良いのか、わかりかねています わかりにくく、申し訳ありませんが、御指南いただけませんでしょうか。
タイトルの通り、自分がいつか死ぬことを考えると恐ろしくて、パニック状態になってしまいます。朝起きた瞬間から寝るときまで、常に「死」の恐ろしさ、得体の知れなさが頭から離れず、最近は趣味も楽しいと思えません。 いつか死ぬからこそ今を一生懸命生きることが大切だとか、いまのわたしにはきれいごとにしか思えないのです。 べつに、近しい人の死がトラウマになってるとか、そういう事実もありません。ただ、死が途方もなく恐ろしいことに思えて仕方ないのです。 これほどまでに重度の死の恐怖を克服すること、あるいは克服せずとも上手く折り合いをつけて生きていくことは可能なのですか? また、仏教に帰依することは、死の恐怖を克服する手助けになりますか? お忙しいところ恐縮ですが、ほんとうに、どなたか助けてください。このままでは発狂しそうです。
飲食 厨房スタッフ 3年目です。 二回目の投稿です。 一ヶ月前に昇進してすぐに大きなミスをしてから、心と頭が空っぽのままです。 ここ二週間くらい前から、人に心を読まれてしまうのです。 例えば誰かがミスをした時に、心の中で(ばかだなあ)と思ってしまい、 それがまるで厨房内全員に聞こえたかと思うくらい、雰囲気が悪くなり、 周りの人が物を乱暴に扱ってガシャンと音をたてたり、急に静かになったりと、 きまずくなります。 以前は、スタッフを中傷するような想いは一切する事がありませんでした。 なのに、最近事あるごとに、悪い想念が浮かび、それがある度に周りが同じようになります。 心の内を聞かれることってあるのでしょうか。 私は特にコミュニケーションがあまり上手ではないので、 言葉は普通より苦手です。
こんにちは。 しあわせって椅子取りゲームな気がします。 なんとなく違うよっていうのはわかります。 でも、 そうはどうしても思えません。 例えば、コンテストで優勝したい。 と出場者みんなものすごーーく、 思っていても 優勝できるイスは1人だけ。 なんだってそうです。 好きな人と付き合えるイスは1つだけ。 ライバルがたくさん。 でも、 一つしかない。 みんなでしあわせになろうとか、 言葉がふわふわした言葉 嫌いじゃないけど、 ありえないと、思ってしまいます。 だから いつも 焦ってしまいます。 みんな敵に見えてしまいます。 頑張らないとイスには座れません。 私は しあわせになりたいです。
私はゲイです。 それゆえに、ヘイトスピーチの攻撃対象にされます。 またご縁があって、複数の在日外国人の友人、顔見知り、同僚がいます。 彼らも聞くに堪えないヘイトに晒されています。 外国人へのヘイトも不愉快ですが、ゲイである私はLGBTがヘイトされると、自分のことなので、その数十倍不愉快です。 なので、LGBT以上にヘイトに晒されている彼らに感情移入してしまい、ひどく不愉快になります。 昔は、「嫌なら見るな」で何とかなったのですが、最近はツイッターを見てもSNSを見ても、ヘイトだらけです。仏教書を買うために本屋に行っても、店頭にひどい本が並んでいます。 政治とは無関係の趣味のサイトですら、「何でこんなところでまで?」とヘイトを見せられることも、しばしばです。 「私たちが一体あなたに何をしたと言うのですか?」と言いたいほど、酷い言葉もぶつけられました。 とても引用できない下品な罵倒もしょっちゅうです。 しばしば彼らと議論もしましたが、彼らをますます怒らせて、憎悪を深めただけでした。 喧嘩腰にならないように注意しながら、フォローを入れながら誤解をとこうとしましたが、まったくの徒労に終わりました。 議論をしても、かえってヘイトを増幅させるだけでは? と最近思うようになりました。 友人には「あいつらに俺達の気持ちなんて永遠に分からない。関わっても傷付けられるだけだ、ほっとけ!」と言う人もいます。 また虹色の旗を振りながら、「根気よく理解を求める」と言う友人もいます。 私はと言いますと、ネットの議論は時間の無駄と考え、我慢するようにしています。 でもたまに我慢できなくなって、つい反論や説得を試みてしまうこともあります。そのたびに酷い言葉をぶつけられ、落ち込みます。 ぼく達マイノリティは、ヘイトにどう対処すべきなのでしょうか? 長年の悩みです。
初めてまして。 優です。 曹洞宗の死後の世界について質問させてください。 仏教では人は亡くなった後、六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうちの一つにたどり着くと聞きました。 そしてその中でも、餓鬼道に落ちてしまった方を救うには施食会を開けばその方々を餓鬼道から救うことができると聞きました。 そこで、他の道に落ちてしまった方、例えば地獄道に落ちてしまった方を救うことはできるのでしょうか? そもそも、曹洞宗には地獄、天国という概念がなく、亡くなった方の魂は仏様の元で修行をされるという方もいらっしゃいました。曹洞宗には天国、地獄の概念がないと言うのは本当なのでしょうか? もし曹洞宗に地獄があるとすれば、現世で犯してしまった罪(盗みや傷害、殺人など)をどのように懺悔すればよろしいでしょう? 私は今まで何度か人に迷惑をかけてきた分、懺悔したいと思っています。
変な質問ですが(;゜O゜) お坊さんが『これは仏教的な歌だな』って曲を教えて頂け無いでしょうか? それを聞いてみたいと思ってます。 個人的は、THE ブルーハーツの 「情熱の薔薇」‥‥諸行無常的な 「リンダリンダ」‥‥衆生の命の尊さ ミスチルでは「HANABI」‥‥煩悩の執着心 です(笑)あくまでも個人的な解釈なんで‥‥ 仏教に仕える方々の音楽観を知る事が出来れば、ますます仏教が面白くなると思い質問させて頂いております<(_ _)>
大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。
悩みごとって常にありますよね。今も悩んでいたり、うまくいかないことに苛立ちを感じたり、ストレスで胃が痛くなったりすることもあります。 でもよく考えてみると、5年前に自分が悩んでいたことって今思うと大したことないというか、たとえば当時すごい合わない上司がいて、そんな上司を評価する会社が毎日嫌で仕方なかったけど、今思うとそんなの見返してやるか、会社辞めれば済むだけの話で胃が痛くなるほど何か悩むことだっけ?と思ったりします。 結局人の悩みってなんなのでしょうね? それがわかれば今悩んでることも、大したことないように思える気がしますが、わからないから悩んでるのでしょうか?
質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。
設備管理の仕事をしてると、つい考えてしまう事です。 ポンプ、モーター、配管、電磁弁、ボイラー・・・等 毎日接してると何となく愛着みたいなものも湧いてくるし、 「所詮は機械だから」とも思えてくるし。 20代のころ、工場の中にびっしり張り巡らされてる 配管を見て、「まるで生き物みたいだ」と感心した事もあります。 虫や植物など、生物全般には仏性や魂はある、と考えるのが仏教の 基本的な姿勢だと思うのですが、(間違ってたらごめんなさい) では完全な人工物たる機械にも仏性、あるいは魂みたいなものが あるの・・・? お坊様方はどのようにお考えでしょうか?