hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「お経について」
検索結果: 3036件

復職を決意しました。

 以前の質問回答も見ていただければ幸いです。  あるテレビ番組(40歳からJリーガーになった人の話)を見て、奮起されるものがあり、復職を決意しました。  とりあえず、頭を丸めて、毎日浄土宗日常勤行式で阿弥陀経をあげています。経本しか買い求めていないので、本尊も鳴り物も三具足もありませんが。鳴り物が欲しいと父に言ったら(アパートなので)「隣の人に迷惑だろう。」とくれませんでした。  あと、休日は三十三観音巡りをしています。隣のおばあちゃんと。隣のおばあちゃんは車を持っているので。  実家で復職の話をしたところ、「檀家に任せているので仕事はない。」「戻るなら、完全に仕事ができるようにならないとダメね。」とのことでした。中途半端に戻すと檀家に「いだんだどれ。(いるじゃないか。)」と言われ潰されるというのです。あまりに檀家の目を気にしすぎで、体面ばかり気にしているのだと思いますが、そこは目をつぶって、就職活動に頑張ります。  ちゃんと就職さえすれば、もし寺からの給料が途絶えても生きていくことはできますし、僧職ではなくてもお坊さんは続けていくことができます。  今週4でパチンコ店の清掃をしています。これから仕事ですが、朝7時から8時半の仕事です。パチンコ台240台とかパチスロ台192台を時間内に拭かなくてはならないので、短時間とはいえ、結構きつい仕事です。しかし、週4働いて月2万弱にしかなりません。  秋になれば、以前していた旅館の朝食の後片付けのバイトが入ってきます。コロナでしばらくお休みでしたが、秋から雇うと若旦那は約束してくれたので。週2ですが、月1万弱にしかなりません。  ただその場合パチンコ店のバイトは週3に減らして、旅館のバイトは週2で働くのが良いように感じています。 双方ともに一般雇用ですが、障害者と分かって雇用してくれていて、特に旅館のバイトは、2か月も休職させてくれました。(その後4月に旅館がコロナで休業してしまい6月に再開するもののそのままになってますが。)  そして、いずれは障害者雇用でフルタイムの仕事を見つけてバイトはやめ、それ一本にし、ある段階で復職かなと思っています。 ある段階とは父の死かなと思っています。父が生きているうちは寺に戻ることはできないと思っています。 何かアドバイスがありましたら、くだされば幸いです。

有り難し有り難し 18
回答数回答 1

師匠との関係

お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

お寺を変えるのは悪い事でしょうか

祖父が明治に 長野から移転してきてから お世話になっている真宗大谷派のお寺ですが、 当時のご住職からお孫さんへと代も変わり、 色々変わった事もあり、 なんだかんだと寄附を募られても払えないし お寺を変えたいと家族で話しておりました。 先日、伯母が亡くなり、葬儀をお願いしましたが、 もともと、無愛想で月参りの際も、年寄りが話しかけても、返事もせずに帰られる方で、 年寄りも生前、 「あの住職に葬儀は頼みたくない」と申していた程で 色々不誠実に思える事がありました。 一番は、火葬場まで着いて来て下さるはずが 当日の朝急に、行けないから、葬儀場で火葬の前のお経をあげると言われたことでした。 葬儀会社の方に 「火葬場で伯母様だけ、粗末な棺桶だと可哀想でしょ。 花がないと可哀想でしょ。」 といわれgrade upしましたが 一番可哀想だったのが うちだけお寺さんがいなく、お経もなく炉に入れられた事でした。 先日は4日の祖母の月参りを 忘れてたとすっぽかされ 14日の父の月参りに一緒にすると言われ、2回分包みました。 その際に思い切って 他の同じ宗派のお寺に変わりたい旨を 話ましたら 激怒され まともに歩けない老母まで仏間に呼びつけ 火葬場へ行かないのは正しいやり方だ 位牌はどうする 過去帳はどうする 次のお寺に引き続きしないといけないから どこに変わるか名を明かせと 凄い形相で 2時間近く怒鳴られ 大変、恐ろしい思いをしました。 また金曜日に みえるそうですが どうしたらいいか憂鬱です。 葬儀の時に相談に乗って下さった 娘の同級生のお寺に 今後の事はお願いしてあるのですが、 以前にも、その寺から変わってきた檀家さんの事で妨害をうけたから 暫く寺の名前は出さないよう言われてます。 また金曜日にまくしたてられたら 言う通りにしてしまいそうです。 お寺さんを変えるのは そんなにいけない事なのでしょうか?

有り難し有り難し 242
回答数回答 5

お布施について

先月末に父が亡くなりました。 お通夜、葬儀でトラブルが発生しており、悩んでおります。 亡くなった父は80代で祖父の長男にあたります。代々のお墓を祖父から継承しておりました。菩提寺は北関東にあります。代々の菩提寺というわけではありません。 祖父の代の時に、父の腹違いの妹がお寺に嫁ぎ、その時にそれまで代々御世話になっていた菩提寺の檀家から抜けて、お墓を移しました。 父は腹違いとはいえ、妹をとても可愛がっておりましたが、母や私は叔母の言葉の端々に父をバカにしたようなところが見受けられていたことから付き合いが遠くなっておりました。きっかけは祖父が亡くなった時に、その遺産を全て叔母が独り占めしたこともあります。父は面倒はごめんだというなりになりました。父自身が働いて建てた家もあり、きちんと家族を養えるという自負もあったのだと思います。 私はサラリーマンとしてきちんと一つの会社に定年まで勤め上げ、誰にも頼らず、住宅ローンを返済し、子どもを大学まで出してくれた父をとても尊敬しています。 父の妹の嫁ぎ先はお寺として裕福なようであり、外車を何台ももったり、海外にしょっちゅういったりと派手な暮らしをしています。そうできない我が家を哀れむような言動が以前からあり、私は叔母やその家族にお寺はそんなに偉くて特権階級なもののようなものなのかと反発しておりました。(勿論、そんなお寺ばかりではないとは承知しております) 問題は父が亡くなった時、叔母は住職である叔父と副住職である息子(私の従兄弟)に通夜や葬儀のお経をあげてもらうといってきました。そのことには依存はありません。 けれども、お布施をどれほど包んだらいいかと叔母に内々で尋ねたら、本山に納める事務手数料だけを負担してほしいということで80万と言われたのです。金額にとても驚きました。その反応から、叔母達は生活保護の人にはお寺で面倒をみてやるから同じようにして欲しいなら、幾らまでなら出せるのかと聞いてきたんです。 私や母はそれが亡くなった父への大変な侮辱に思えました。お経を断れば、納骨も出来なくなるということを承知で断りましたが、結果、父の妹でありながら、通夜や葬儀に叔母は出席もしませんでした。 此で良かったのかと葬儀から1ヶ月が過ぎようとしていますが心が安まりません。お寺では叔母たちのような反応が当然のものなのでしょうか?お教え下さい。

有り難し有り難し 59
回答数回答 3
2023/05/07

仏教はその目的の実践以外何もない(3)

 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略  (私見)  釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。  輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。  生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。  死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。  再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。  仏教はその目的以外何もないのです。  「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。  渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。  また「子は授かりもの」とも言います。  またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。  このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。  親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。   因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね?  その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。  「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

キリスト教か仏教か。

いつも、相談にのっていただきありがとうございます。 ストレートで申し訳ないのですが、キリスト教を信仰するか、仏教を信仰するか、迷っています。 キリスト教の教会は10年ほど前ですが、通っていました。信仰告白もして、あとは洗礼を受けるだけ…という所までいったのですが、別れた主人が浄土真宗のお寺の孫でキリスト教なんてとんでもない!と激怒され、そこから疎遠になってしまいました。 仏教はお経を今、私なりの言葉でわかりやすく訳していて、お釈迦様や阿弥陀如来の智慧に向き合う度に泣くほど感動することもあって、とても心を惹かれています。 幸い、わからないことがあったら聞いてくださいねと言っていただける僧侶の方とも出会うことが出来て、何度か質問もしました。 その僧侶の方の人となりだと思うのですが、終始、仏様を信じられたらいいですね。と言ってくれます。 私は仏様を信じたいと思っていますし、お経から導かれたこのご縁を大事にしたいとも考えています。 ただ、どうしたらいいのかわからないのです。キリスト教の時は日曜日の礼拝から始まり、聖書の勉強会を定期的にすることで 信仰を深めて行くことが出来たのですが、仏教は敷居が高いと言うか、私の住んでいる地域では勉強会もないですし、法話会もこのご時世なのでやっていない所も多く、やっていても都合が合わなかったりでなかなか信仰が深められません。 そんな時にクリスチャンの友人からまた、教会に行かない?と誘われました。 私の気持ちは仏教に傾いているので、教会に行く気持ちはないのですが、正直揺らいでいるのも事実です。 どうしたら、今ご縁がある僧侶の方に仏教を信じたい!仏教の勉強がしたい!という私の気持ちが伝わるのでしょうか? 仏教の勉強が出来るサイトや学校みたいな所も見つけたのですが、お金がそこそこかかるようでカツカツで暮らしている今の現状では厳しく…。 内容が前後して申し訳ないのですが、ご縁があった僧侶の方には信じたいということも、もっと勉強したいということも伝えています。それでも、返ってくる言葉は「信じられたらいいですね〜」という感じで、最近は私と関わってしまったことを面倒臭く感じているのでは?と思うことしきりです。 長文駄文失礼しました。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 41
回答数回答 3

身内の死と知人の言動について

初めまして。先日、叔母が亡くなりました。独身で孤独死で時間も経っていたため直葬をしました。 叔母は新興宗教に入っていましたので、同じ宗教の知人夫婦にそこのお寺にお願いしていただけることにならとてもありがたい費用でお経をあげていただいたりできました。 直葬なので葬儀社で遺体を安置させていただいていたのですが、葬儀社さんのご好意で無料でお花と祭壇など用意してくれていました。私も叔母を花で送りたかったので持って行きました。 するとその知人夫婦の旦那さんが葬儀社に先に来て「花束なんてやめろ!」「嘘のマンダラの掛け軸なんかかけやがって」 と葬儀社の社長さんに文句を言ったそうです。 私たち遺族は火葬が終わった後、社長さんから聞くまで知りませんでした。 葬儀社さんもお金のない私達遺族のためにとても良い金額で直葬の手配をしてくれたのに。そして花を持ってた私にも「今日はいいが、なぜ花を添えたらいけないか教えてやろうか!花はあーでこーでこうだからだめなんだ!添えるのはあの◯◯じゃないとだめなんだぞ!」と説教してくるのです。 私たち遺族は宗教などには無頓着で何も知らなかったのです。ていうか、私、遺族亡くしたばかりなんですが、と、かなり腹が立ちました。イライラしながら火葬してお骨を拾ったのです。叔母には申し訳ないですが。 でも我慢しました。叔母は親の姉妹なので泥を塗りたくなかった。そしてそのお寺でお経あげてもらい帰ろうとしたらまたその旦那さんに呼び止められ「さっきの話の続きなんだが、」とまた花の事をしつこく言ってくるのです。「花は枯れるから死を表すんだ、この宗教だけが素晴らしい、他は嘘ばかりだ、もっと知りたければゆっくり教えるぞ」と言ってきたのです。 私は笑って誤魔化しました。はーそうですか、へぇーみたいに。しつこいし、めちゃくちゃ腹立ちました。骨拾ってきた人間に対して言うか?と。もう関わりたくありませんが、いつか叔父が亡くなったらまた関わらなければならない。そんな事を考えるともう死んでしまいたいと思うようになりました。どこに相談すればいいのか、どうすればいいのかわかりません。そのお寺にクレームいうべきか?私はもう金輪際家族共にかかわりたくないのです。カルト教団ではないはずなのにまるでそのひとのせいでカルトとしか思えません。御助言ください。よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

祖父の亡くなった後の不思議な体験について

一昨日祖父が亡くなりました。 その日の晩は控え室で叔母と私の2名で、祖父と一緒に寝ました。 その日の晩、壁からコツコツと何度も音がし、一緒に控え室にいた叔母と一緒に廊下に出ましたが原因が分かりませんでした。 ふすまが揺れていたのだろうということで、その後音が鳴ることもなかったので特に気には留めていませんでした。 そして翌日のお通夜。 お坊さんがお経を読んでいる間、遺影を見ていたのですが、遺影前の水ばんの花が一輪だけぴょんぴょんと上下に5回ほど大きく揺れました。はじめは真上にあった換気扇の排出口から水でも落ちてきたか(1輪だけで、明らかに風が当たった動きではなかった)、大きなハエが1匹飛んでいたのでそれが花に当たったのかと軽く考えていました。 そして翌朝「お通夜の時花がすごく揺れてた」と親戚の前で話すと、母が「私も見た。向かって左のあの花でしょ?花が大きく揺れているなとは思っていたけど深く考えていなかった。でも同じものを見ていた」と。他の親戚は見ていないようでした。それから周辺を確認しましたが、換気扇の排出口は水滴が垂れてきているような形跡もなく、花の真上かと言われるとそうではありません。虫が当たった可能性も考えてみましたが、虫が当たっただけであんなにぴょんぴょんと何回も同じ高さまで上下に揺れるでしょうか。 母と不思議に思いながらもお葬式が始まりました。 そんな話をした後だったので、動いたと話した花をずっと見ていたのですが、その時は動きませんでした。しかし祭壇の向かって右のろうそくだけ、消えそうなほど激しく揺らめいていました。しかし向かって左のろうそくは、まるでおもちゃの炎かのようにピンと炎が立ったまま一切揺れないのです。 風の流れのせいなのか?と思っていましたが、葬儀終了後にまた母が、ろうそくが揺れていたねと言うのです。 ろうそくは偶然かもなと思うのですが、どうもあの花だけはどんなに考えても不自然な動きだったなと思います。 ちなみに母と私は祖父と一緒に暮らしていた時もあり、人一倍祖父への思い入れは強かったです。祖父が私と母だけにわかるようにアピールしていたのでしょうか。 こんなことってよくあることですか? あと、お経読んでる時お鈴を鳴らすと、ろうそくの炎がいっそうはげしく揺らめくものですか? 音が風として(?)響いて、祭壇の上の炎まで到達するのでしょうか??

有り難し有り難し 15
回答数回答 1

離檀を考えてしまいます。

今年、祖母を亡くし葬儀・法要と先祖代々お世話になっている お寺にお願いしました。 その際住職の対応が不誠実に感じています。 ・葬儀でお経を咳き払いをしながら読み 木魚を叩く棒を床に落としました。 落としても気にせず葬儀社の方が 拾い上げてくださるまでそのままでした。 (住職の飲み歩きは有名で飲みすぎでうまく お経が読めないのではと勝手ながら思ってしまいます。) ・葬儀に際して両親が連絡をした際も 希望日に私用があったらしく「僕も忙しいからさ、疲れちゃうし」 と言われ別日になりました。 お布施も相場3倍以上の額を住職から言われ包みました。 車代も自家用車でくるのに「タクシーだと1万じゃ足りないよね」と言われました ・四十九日では 位牌二つを一度に片手で持たれ(二つ指で挟むように) 遺影は片手で渡されました。 親戚がお寺でコードにつまずいた際は 足元よく見て歩きましょうよ。と言われました。 質問を無視されたこともあります。 ・住職から祖母を悼む気持ち、遺族に寄り添う気持ちは全く感じられませんでした。 ・お布施も祖父母が自分の葬儀にかかるお金はと コツコツためてくれたお金から包んだものです。 私は大のじいちゃんばあちゃん子で大好きな祖母の最期を 台無しにされた気持ちが強くとても腹が立ちます。 ・祖父や両親も離檀はちらついてはいるようですが 実家は田舎町で、色々な話があっという間に広まることや 先祖代々からのお寺、離檀にかかるお金と気力を考えると 現実的ではないと思っているようです。 祖父も高齢で体調も思わしくない為、そう遠くないうちに またお寺と関わる機会もあるかと思うと 今、騒ぐのはかえって負担にさせてしまうと思います。 一方でまた住職にお願いしたくないとも思います。 ・現状、祖父も両親もいますので 私がでしゃばって行動しようとは思っていません。 ただ頼りにされた時力になりたいです。 私は実家を出ている為色々な案を出せればと思っています。 そこで一度ほかのお坊さんのお話も聞きたいと思いこちらに質問させていただきました。 (住職への怒りが収まらず話を聞いて欲しかったのもあります) ・このような住職の対応は私たちは受け入れるしかないのでしょうか? 先祖代々からのお寺を離檀するというのは良くないことですか? 離檀のさいは今の住職にまず話をするべきですか?

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

法事の僧侶を変更したいです

先日亡母の一周忌法要の読経を所謂檀那寺に依頼して執り行いました。葬儀の時と同じ僧です。まず、亡母の法名を把握されていませんでした(法名はこの僧がつけお布施を支払っています)読経の前に長々と浄土真宗のPR、報恩講の内容、他宗の批判、自宅で本尊を祀っているかなどの遺族への質問等を約1時間ほど話してから読経されました。阿弥陀経、観無量寿経そして正信偈。70歳を過ぎた高齢の為だけとは思えない非常に変わった節回しで終始下手な読経でした。そして、自らが日本仏教会の役員であると言ってニヤニヤと自慢話までされていました。時間にして1時間半以上でした。  昨年の葬儀の際は、枕経は忙しいのでしません!と言われ、出棺の際にも次の葬儀の予定があるので失礼しますと言って帰られました。当然、火葬場では僧侶による読経なしの見送りでした。他のお見送りされるご遺族の方には寄り添ってらっしゃる僧侶ないし牧師様のような方がいました。  また、私が「本来は七日ごとの法要(二七日〜四七日)をお願いすべきですが、一般の通例として遺族がそれぞれ自らの気持ちで念仏したいが、三十五日と一周忌の際は宜しく御願い出来ますか?」とこの住職に尋ねると、「お前は法事をサボるのか?」と言われ、サボる訳ではないが、、と伝えても「サボるんだろ!」と恫喝されました。そう言われても一周忌はお布施もきちんと致しました。当たり前のことですから。  この住職とは祖母の頃からの付き合いですので、存命の父の考えも尊重して我慢してきましたが、親族から「三回忌は(違う僧侶を)考えた方が良くないか?」との意見も出ております。  そこで、質問ですが、①法事の際、檀那寺から違う僧侶へ変更は可能でしょうか?②この住職の言動で傷つく方が現れないように世間に知らせてあげる方法はないものでしょうか?法事の会場のスタッフの方からもあのお寺さんはかなり特殊ですね!と言われ、業界でも有名のようでした。  大変長々と拙い文章で申し訳ございませんが、宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 19
回答数回答 2

生老病死

 数年前、願誉浄史ご住職様から「阿含経典」を勧められましたが、驚いたことに此処にすべて仏教の真髄が集約されていました。  ご住職様には、深甚な感謝と共に厚く御礼申し上げます。  そこには、仏教の目的である「輪廻転生からの解脱」が唯一仏教の教えに尽きることが書かれていました。  般若心経に「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、「一切苦厄」の主体が生老病死の事でありましょう。  生老病死は仏教の専売であると思っていましたが、阿含経には仏教に関係なく「自然の摂理」で釈尊以前から定まったものであると述べられています。  「自然の摂理」に対しては、釈尊も手の施しようがなく只管死を待つほかありません。  即ち、生きている総ての生物には生老病死はつきもので、仏教の救いは何もないという事です。  従って仏教の救いは死後にあることになります。  しかし死ねば生老病死は消えますから何も問題はありませんので、仏教の救いは必要ない筈ですが、再び誕生することを釈尊は悟りで明らかにしました(過去世)。  それが輪廻転生です。そこから解脱することが仏教の救いであり、仏教の存在価値です。  そのことを阿含経は下記のように述べています。 城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑)  前略  その時、世尊はかように仰せられた。  比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。  まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。  後略

有り難し有り難し 22
回答数回答 2

お地蔵様。

こんばんは。 プロフィールにも書かせて頂いたのですが、幼い頃より祖父の隣で読経したりお墓参りやお供えをしたりしていました。 結婚し子供にも恵まれ、祖父が亡くなってしまったこともあり、なんとなく仏教というものと疎遠になっていたのですが、最近になりまた仏教に関心が出てきて、子供の頃なんとなく諳じていたお経の意味やその他諸々を勉強するようになりました。 まだ子供が2人とも小さいこともあり、毎日のお勤めまではなかなか継続して出来そうもないのですが、いずれは祖父のように、ご先祖様や子や人の為を思いながらお経をあげられるようになりたいと思っています。 さてご相談なのですが、無知なのでこれが仏教となにか関わっているのかさえわからなかったのでこのカテゴリーにさせていただきました。 もういつ頃から始めたのかは覚えていないのですが、多分小さい頃から祖父と墓地に並ぶお地蔵様に手を合わせたりしていて、その癖?なのか道にいるいわゆる事故等で亡くなられた方のためにあるお地蔵様にも手を合わせています。 これは結婚してからも子供が産まれてからも、祖父が亡くなってからも続いています。 運転中にも目には入ると、片手ですが手を合わせる真似みたいにして軽くお辞儀をしていて、毎回通る道なんかは、もうすぐあのお地蔵さんのところだな、と覚えてしまいました。 自分的には、もうこんなに毎回手を合わせなくても…と思ったこともあるのですが、一度やりだすと途中で投げ出すみたいで結局続けています。 しかし人に聞いたのですが、事故で亡くなられた方のお地蔵様に手を合わせたりしていると悪い?霊が寄ってきたり、なにか障りが出るんじゃないかと言われてしまい、どうすればよいのだろうかと思案しています。 この一連のわたしの行動は、仏教的にはどうなのでしょうか。 あまりしないほうが良いのであればやめようと思いますし、大丈夫なのであれば続けていこうと思います。 それとも仏教には関係ないのでしょうか。 ちなみに祖父はお寺に建つ石の柱?みたいな所にも名前が載るほど熱心な真言宗の檀家さんで、亡くなった時はお坊さんが泣いてくださるほどでした。 なのでわたしも他の宗派に触れたことはないですが、偏見や拒絶等はございませんので、是非多角的に教えて頂きたいと思います。 稚拙な文章を長々と失礼いたしました。

有り難し有り難し 9
回答数回答 1

納骨への迷い

納骨についてご相談させていただきます。 昨年の夏に配偶者を亡くし、現在遺骨を自宅の仏壇に安置しております。 昨年の葬儀の際、突然であったこと、郊外の自宅近くで葬儀を行ったこと、コロナ禍でもあったことから、家族葬で簡素に行いました。その際に、少し様子を見たいので、納骨は一周忌の時にとしました。その後、四十九日、百箇日は、お経を読むことができる親族に来てもらい、これまた簡素に自宅でお経をあげていただきました。 一周忌まで一か月となったのですが、墓のある霊園の法要室はコロナのため使用不可、おそらく導師の方も来ることはできそうにありません。一周忌、納骨法要はきちんと行いたいと思っていましたが、難しい状況です。霊園の方では、法要を行わず納骨だけはできるようです。 納骨に関して調べてみると、時期等には特に決まりはなく、遺骨にもあまり執着しないようにした方がよいという記載が多かったように思います。 きちんとした法要等を行って納骨したいという気持ちと、いたずらに納骨を遅くすることへの抵抗の間で悩んでいます。 納骨を行いたい気持ちとして、今は在宅勤務ですが、コロナ禍の状況が変われば、元々出張族であるため自宅を離れることも多くなりますし、故人との思い出の地を訪ねたりといったことも行っていきたいと思っています。 納骨を遅らせる気持ちとして、簡素な葬儀であったため、納骨法要はきちんと 行いたいこと。このような状況が、「納骨はまだ待って」と故人に言われている ような気持ちにもなることがあります。 僧侶の皆様のお考えを教えていただければと思います。 ------------------------------ 以前に「義父、義母の菩提寺へのご供養依頼」という質問を行い、和田隆恩さま、日延さまにご回答いただきました。義父母の菩提寺と連絡を取り、追善のご供養が無事できました。田舎に伺うことができなかったのですが、ご住職さまが 読経、塔婆を立て、その画像をメールでお送りいただきました。また、墓地のお世話をしてくださっている本家の方にもお話をしていただいたようです。 こちらでの回答をいただき、追善供養を行ってよかったと思っています。 ありがとうございました。

有り難し有り難し 21
回答数回答 3

母親代わりの叔母が亡くなり辛すぎる

よろしくお願いいたします。 実の母はシングルマザーなので私が幼い頃から働きづめでした。なので、近所に住む子供がいない一人暮らしの叔母が料理をしてくれたり、ゆっくり話を聞いてくれたり、ほぼ母親のような存在で育ちました。本当に優しく温かい人でした。 ここ10年ほどは認知症がすすみ施設にいました。私は月1回面会に行っていました。 その叔母が先日亡くなりました。90歳でしたので自然な事だと思います。 が、最後が施設で寂しくなかったかなとか、色々な気持ちが入り交じり気力がわきません。 プロフィールに詳細を書いてありますが、今の私はいくらでも一人で時間があるので常に考えてしまい悲しみにどっぷり浸かってしまいます。喪失感が大きく、全てが嫌になるというか一人ぼっちになってしまったような。 また、葬儀の時に親戚に「お前はあれだけ世話になって月一しか面会行ってなかったのか?」という言葉も頭から離れません。その人は一度も行った事ないのに。というより私以外誰も行ってなかった。 そして始めは週1で行っていたら大部屋なので他の入居者が叔母に嫉妬のような嫌みを言うようになってきたので仕方なく間を開けていき結果月一になった流れです。が、説明する気にもなれず言われっぱなしでした。 だんだん自分は薄情だったのかなと後悔も出てきて、さらに辛いです。 49日までに自分が叔母にできる事はないか、こちらのサイトで調べて「なるべく肉を食べない・写経をする・お経を唱える」と見つけ、やってみようと思っているところですが、他に何かありますでしょうか? また、この悲しみや後悔や親戚の言葉への嫌悪?憎悪?をごちゃごちゃに抱えた汚い心で写経やお経をして叔母の応援になりますか? お知恵をいただけたらありがたいです。 乱文長文失礼いたしました。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

家での参り方

前回父が亡くなり相談しましたが未だお墓参りに行けないままです。 私の場合、いつもではありませんが助手席に座って近場のスーパーへ行き〔寝不足の時は特に〕気分が悪くなった時は家事一切出来なくなり寝込んでしまいます。そんなで県内で車で50分位は無理あるのでまだ行けてません。 今私なりに家で参っているのですが こんな感じでいいのでしょうか? ・朝から仏様に南無阿弥陀と心の中で参りながら安らかに眠って下さい…と話しかけている。 ・ご飯〔おはっさん〕は炊いてから1番先にあげる。忘れたら炊いて一番に供えて 遅くなりました…すみませんと参る。 ・月命日には参る、忘れた時は思い出した時ちゃんと参ってる。 ・水や生花を切らさないようにする。 ・何かお菓子作った時は1番に供える こんな感じです。 旦那の両親が亡くなった時も県外で行けてないので家で今も参るしかありません。 旦那が言うには「葬式に出てないからと気にするな…葬式出てもその後仏様に参らないとか供養しないより葬式は出れなかったけど家でいつも参るほうが 御先祖様は嬉しいはずだ…と。 しかし、葬式出ないなら障りがあるとか 聞きますし、もしわが子や子孫に何かあったら…と気になります。 私の祖母は熱心に毎日お経上げてて子供の頃は私も一緒にお経上げて参ってました。祖母は良く御先祖様の命日とか大切にしてたので私も気にし参ってます。良くお寺に行った時はカセットに録音し そのお説教?を近所のおばさん達に聞かせてた祖母を思い出します。私が悩んだ時はお坊サンの言葉を話してくれてました。 ですので ココ見つけた時は祖母が導いてくれたのかな?と思ったくらいです。 それから今は旦那の御先祖様の仏様に参ってますが 私の実家を思い出して同じ仏様に参ってもいいですか? 少しでも早くお墓参り出来たらいいのですが今はこんな感じで参ってます。 間違ってたら教えて下さい。 宜しくお願いします。

有り難し有り難し 9
回答数回答 2

遠方で亡くなった父の供養の仕方

先日急逝した父の納骨や今後の供養、親戚付き合いについて相談させて下さい。 両親は別居していた為、遠方に住む父が亡くなった事も親戚から連絡をいただきました。親戚には父のことで迷惑をかけていたのでとても淡白な連絡で、駆けつけた私たちに対しても親戚と住職で葬儀の話を進めており、私たちはついていくのに精一杯でした。 住職に対しても少し不信感があります。駆けつけた際に喪主である母ではなく親戚の方にしか話をしないしお酒も飲んでいました。葬儀が終わり四十九日前の法要でも父の名前を確認する際に読み間違える始末。袈裟の下は普段着と靴下で、挙句に四十九日法要に喪主である母が来ることに大げさに驚かれていました。遺族が参加するのは当然なのに…近くに住んでいる親戚がいればいい、私たちは蚊帳の外のような気がして気分が悪かったです。 今後四十九日を迎えるにあたり、お骨をどうするか悩んでいます。お墓が実は本家と近場に二か所あります。でも近場の納骨堂でも私たちにとっては遠く、未だ気持ちの整理ができていないことから私たち家族は遺骨を持ち帰り我が家で供養したいと思っています。気が済むまで納骨せずに手元に置いておきたいのです。でも親戚のことを考えると納得されないんじゃないかと…住職には立派な納骨堂があるんだから、遅くとも一周忌までには納めるのがよろしいと言われました。普段は遠くてなかなかお参りできなくても、自宅で写真を飾って線香をあげればいいと。分かっているけど、私たちの悲しみや後悔はそれでは追いつかず。気の問題だと思いますが。 円満に解決するためには、分骨にしてそれぞれ納骨堂と我が家で供養がいいでしょうか。分骨は想定していなかったのですが何か手続きは必要でしょうか。また、その場合初盆はどのようにしたらいいのでしょうか。納骨堂か父の自宅(仏壇)に私たちが出向いてあのご住職にお経をあげてもらうべき?できることなら家族のみで我が家でじっくり父を偲びたいです。それではいくらなんでもということなら、どこか近所のお寺さんを探してお経を読んでもらうというのはだめでしょうか。その際は親戚をこちらに呼ぶべき??分からないことだらけです。四十九日に出す結論で今後の納骨、法要、お墓の管理の問題に関わってくるなぁと身構えています。 ゆっくり父を偲ぶことも許されていないようで非常に辛い日々です。 ご助言いただけると嬉しいです。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1

資格試験

国家試験になかなか受からなくて、悩んでいます。 会社の仕事の関係上、色々な資格を受けなくてはなりません。 もう、勉強なんてって、正直思いますが仕事も覚える為にも勉強しなくてはいけません。 分かってはいるのですが、自分の勉強の仕方が悪いと思いますが、中々本当に合格しません。 人並み⁈には努力はしているとは思うのですが(周りや皆さんから見たら努力が全然足りないないと思われるかもしれませんが) 勉強量としましては、試験当日前から約2ヶ月前程からやらなくては、自分が頭が悪く、覚えが悪いので・・・ 去年は後、1問足りなくて・・・ ってことか、2回も続きかなりショックでした。 職場の先輩から後、一歩だったなって、優しいお言葉を頂きましたか、正直、合格しなくては意味がないんです。 会社から受験料(受験前の勉強会、教育料)も支払って頂いていると思うと・・・ 正直自分自身、プレッシャーに弱いです。 試験当日になったりしますと、ど緊張してしまいます。 今度こそは合格しなくては! と言う暗示を自分自身に言い聞かせて! それがいけないのかは、分かりません。 不合格の度に、また会社に迷惑かけてしまった、職場のメンバーに迷惑かけてしまったと思うばかりです。 お坊さまに国家試験を受からないことをお聞きする自体、失礼又は愚痴をお聞きして頂くなんて、どうかと思ったのですが、もし宜しければご返答を宜しくお願い致します。 また、お坊さまも、なにかしらお寺に入るときなど、試験などあったりしますのでしょうか?継がれるときとかでも⁈ 長いお経も暗記したりするんでしょうか? とても、難しいそうなお言葉が一般並んでいます。 長いお経をお読みになられて聞いていますと、良く読めるまたは暗記なさってるな!と感心してしまいます。 失礼なお言葉、質問でしたら、申し訳ありません。

有り難し有り難し 19
回答数回答 2

父の葬儀でのお寺さんの選択について

先日、82歳で父が他界しました。 慌ただしく葬儀の詳細を決める際、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めてしまったことを後悔しています。   父には遠方の田舎に檀家として先祖代々お世話になっていた菩提寺がありますが、生前本人は今の住まいから通いやすいお寺(葬儀場で紹介されたお寺とは別です)での永代供養を希望していました。母はこの場合、誰にお経を読んでもらったらいいのか…とさんざん悩んだ挙げ句、葬儀場に紹介されたお坊さんに決めました。事後報告になってはいけないから菩提寺に電話するよう葬儀の担当者から勧められ、母はその場で本当に申し訳なさそうに父の死と読経を別のお寺にお願いすることを伝えました。菩提寺の住職さんは大変驚いておられたようですが、電話の最後にはまた何かお役に立てることがあればいつでも連絡下さいとおっしゃっていたそうです。 その菩提寺は長男である父が昔から丁寧にお付き合いしており、お盆やお正月に帰省する度に挨拶に伺っていました。私も子供の頃から法事の度に伺っていたし、田舎の家や裏山にあるお墓に来ていただいた記憶があります。慌ただしさの中決めてしまいましたが、父も最後のお経は菩提寺のお寺さんにあげてもらいたかっただろうと、父にも申し訳なく後悔の念に苛まれています。 離檀することは決めていますが、このまま電話一本で終わらせてはいけないと思っています。母は認知症の症状が見られ、あらゆる場面で判断力が低下していることが、葬儀後の手続きをしていて分かりました。私達姉妹で今後は対応したいと思っていますが、まずは電話でお詫びし改めてご挨拶に伺うべきか悩んでいます。

有り難し有り難し 27
回答数回答 2
2023/08/26

涅槃と菩提心を求めず。仏様との向き合い方

悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。

有り難し有り難し 21
回答数回答 2

三回忌について

以前より何度も質問させて頂き、大変お世話になります。 この10月で母の三回忌を迎えます。 以前よりお寺様のことで何度か質問させて頂いておりますが、お墓が他県にあるため、葬儀社からの紹介のお寺様に一周忌、初盆、二年目のお盆(今年)とお経を頂きました。 それまではお寺様から、ハガキでご連絡頂き、その日に合わせて用意してお迎えしておりました。 今回のお盆は二回目なので、一周忌、初盆より若干金額を下げてお布施をしました。それとは別にお車代も。毎回、法話もなく二回目のお盆にも世間話的な会話ですぐに帰られました。 もうすぐ三回忌、毎回頂いていたハガキもありません。 お盆のお布施が悪かったのかとも思ったり… 三回忌にもなると、こちらからお願いするのが常識なのでしょうか? 十数年前に父親が亡くなったときに葬儀社からの紹介で来て頂いた同じお寺様で、当時色々あり、お断りしたこともあり、そのことも以前ご相談させて頂きましたが、結局、お寺様にお経も頂かないのもどうかと思い、同じお寺様に来て頂きました。お寺様からいつ伺いますとハガキが来たのもあったことや、こちらのサイトで質問させて頂いて、ご回答の内容からもそうしました。 長くなりましたが、これを期に事あるごとに考えないといけないお付き合いより、以前より、供養とは気持ちであると何度もご回答を頂き、家族で(といっても私1人ですが。兄がおりますが、人間は死ねば終わりという考えで、線香の一本もあげには来ません。)供養していくのも、またひとつの供養の形ではないかとおもうのですが、いかがなものでしょうか?ちなみに真言宗です。

有り難し有り難し 11
回答数回答 2