私は神の実在を信じています。でも、各宗教の説く信仰の世界になじめず、ひとりでさまよっています。 私の煩悩は「自殺したい」とか「神よ私を速やかに殺してください」と願うことです。 自殺すると仏教で言う「無間地獄」に堕ちると信じるので、具体的にはあの世で自殺霊・地縛霊になり、救われることはないと信じるため、怖くて実行できません。 そんな人生否定の感情や死後の恐怖から生きるとしたら、なんと消極的で暗い、マイナスの人生観・生活観でしょうか? 私は人生の初期に親から新興宗教の経典を読まされ、神棚の前に正座して「人生は苦悩なり」という経文を唱えさせられていたことが、そもそもの間違いの始まりだったのではないか?と思います。 小学生のころから「人生は苦悩なり」と権威をもって教え込まれるのではなく、夢や希望や「わくわくすること」を追いかけてがんばり、その夢をつかむよう教えられるべきだったのでは?と思います。 小中学校時代、その新興宗教の夏季合宿に必ず参加させられていました。 中学に進学したとき無意識に友達の前で「あ~死にたい!」と口にして嫌われました。そのころそんなことを言う子は一人もいませんでした。 高校時代は「自分は不幸だ」と友達に告げて「じゃあ、なぜ自殺しないのか?」と問われました。 大学時代、変な宗教に強引に勧誘され「早く過ぎ去れ、青春よ~!」という歌を歌わされました。 大学卒業後は自殺未遂をして精神科に入院することになり、絶望のどん底でした。 3年後、父の死をきっかけに退院して新聞配達や肖像画制作をしてがんばり、登山までするようになったのですが、15年ほどで体力が衰え、失職してひきこもりになり、医師の診断通り「統合失調症」ということを受け入れざるを得なくなりました。幻覚も妄想もない統合失調症患者もいるということですが、私もそのひとりなのだと思います。 症状は「疲れやすさ」「意欲の低下」「睡眠障害」の3つです。 神への信仰、医療に頼っていますが、仏教文化も私には必要で、多くの影響を色濃く受けています。「般若心経」「観音経」「白隠禅師和讃」を仏前であげることもあります。CD集『ひろさちやの感動するお経』全8巻も繰り返し聴いています。 障害年金で暮らし、身近に相談相手もいない私は母亡き後果たして生きて行けるのか心配と不安で夜も眠れないほど悩んでいます。
〔編集部より。規約により投稿の一部を修正しています。〕 はじめまして! 私は5人家族でした。母と姉は4.5年前からある宗教に入っています。しつこく勧誘をされ、自分の親が意味のわからないことを延々 と話している姿に毎日涙がとまらず、私は家にいることが嫌になり、家を出ました。 お父さんはすごく優しい人で、理解はしようとしました。 でも結局、確証のない話ばかり聞かされて毎日言い合いばかりしていたようです。 兄は全く聞く耳も持っていませんでした。私が実家に帰るといつもその愚痴や、昔から仲が良かったのでたくさん話をしてくれました。とゆうか私も本音で話せる家族は兄しかいませんでした。 ですが去年の11月から兄は鬱病になりました。私はこの原因はその宗教にあると思っています。 仕事が大変なのは聞いていましたが、兄はもう9年ほど同じ所に勤めていました。今さらその原因が仕事だとは思えないです。 そして5月10日、兄は薬を大量に飲み、自殺を図りました。 病院に搬送され、一命は取り留めたものの、13日の夜、亡くなりました。 集中治療室の中、他にも生きようとしている患者さんがいる中でも御構い無しにお経を読む。 睨みつけてやりました。 お前らのせいで大好きな兄が死んだと。言ってやりました。 親族内で散々揉めました。葬儀はその宗教方式でやると聞きません。 そのせいで兄がなかなか葬儀をできないのも可哀想なので、もうそれで決まりとゆう運びになりました。でも私は兄が嫌がっていたお経を唱えないと決めたので、その意見だけは絶対に曲げません。 私が話を聞かないなら縁を切ってくれても構わないと言われました。上等です。 親戚の叔母や叔父は、もうあんな奴を親だと思わなくていい、こっちの娘になりなさい、実家に帰らなくていいと言ってくれました。 私は一生その宗教を、押し付けた母と姉を恨みます。 あんな奴らの元では兄も供養できないと思ったので、分骨をして私の手元で好きだったラーメンをたくさんお供えしています☺️ こんな事しかできませんが、少しでも天国で楽しく過ごしてくれたらと願っています。 長文で失礼しました。 毎日悲しくて悔しくて、一生この気持ちが離れないと思うと死んでしまいたくなります。 こんな悲しい出来事をもう他の誰にもして欲しくないです。切実な願いです。兄の死を無駄にしたくないです。
私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。 京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。 私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。 仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。 写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。 お寺は誰が行ってもいいんですよね? 得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。 なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか? 受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。 そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。 ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。
曹洞宗僧侶です。 真言宗、特に高野山真言宗の先生にお伺いしたいことがございます。 先月、10年以上、日々托鉢と托鉢行で縁のあった方のご法務のみで、如法に生活されていた高野山真言宗の僧侶が遷化されました。(この話でどなたかお分かりの方もおられるかもしれませんが、詮索はされないようお願い致します) 私も現在、お寺に身を置き法務を主軸に生活はしているものの、暇があっては托鉢は極力欠かさぬよう行っておりますが、今日そのように行乞に歩めるのは、その真言宗の先生が、托鉢の先達として現代社会での(道場ではなく個人での)托鉢の在り方を、言葉や姿勢で示して下さったからこそにあると思っております。 件の先生とは、私が托鉢を始めてから間もなくご縁があり、以来、宗派こそ違えど同じ托鉢を行う比丘として垣根なく接して下さりました。 その先生なくしては、私は今日まで托鉢を継続することは出来なかったことでしょう。 その報恩感謝を示したく、遷化より四十九日に当たる日に件の先生が托鉢されていた地にて、ささやかながら亡僧諷経をお勤めさせていただこうと予定してております。 そこでなのですが、当日はその先生のお位牌をご用意し、お経をお勤め致したく考えておるのですが、真言宗の亡僧位牌の書き方が分からず、真言宗の先生方にそのご教示を頂きたいのです。 曹洞宗の場合ですと上から「【〇〇第〇世比丘(住持職の場合)】【道号】【法名】【僧階】」となりますが、今回は【道号】に当たる部分は分からず【僧階】についても、以前僧籍簿の写しは拝見したことがあるのですが、正確な僧階が分からない為(一応、住持職に付ける最低限の僧階とは仰ていました)、遷化された真言宗の先生に対する適宜な尊称にて代えさせて頂ければと思うのですが、どのような尊称が相応しいと思われますでしょうか。 周囲の高野山真言宗の先生方にもお伺いしようと考えておりますが、これは同じ宗派でも地域や法流によって様々であるかと思われますので、ひとつでも多く参考になるご教示があれば幸甚でございます。 何卒宜しくお願い申し上げます。 合掌九拜。
初めてご相談します。納骨を前に、悩んでいることがあります。この度、父を亡くし、父の強い希望で、我が家の家族のために、墓の敷地をある浄土真宗のお寺から購入していました。父は急逝だったため、お坊さんや墓の今後の引継ぎなど、簡単な経緯しかしらないまま、亡くなりました。 昨日、父の一周忌がありました。母はまだ気持ちの整理がつかないため、父の遺骨は家に置いておきたいと言います。ただ、震災などが起こった際には、遺骨をかかえて避難することは年齢的にも無理だと言っていた中で、ある出来事がありました。 一周忌の法要で、お墓のあるお寺さんで、お経をあげて頂きました。 同日、何組か1時間おきに、法要の予約が入っているのがわかりました。 そのためか、父の生前の名前を間違えていました。もう一方の部屋で待たれていた家族のご苗字でした。父のための大切な法要が間違えられたことに、非常に悲しみを覚えてなりません。このようなお寺にお世話になるべきか悩んでいます。どうしたらよいでしょうか。宜しくお願い致します。
悩み相談は色々あるんですが、 この相談に決めました!(^◇^;) お坊さんと出会いのきっかけになる事でもあればなと思うのですが、 何か方法はありますか? 私は田舎が四国にあり、仏教で親の影響からか寺巡りも好きですし、お線香の匂いなんかもたまりません。 以前からお坊さんってお経唱えるお姿だったりお声だったり素敵だなーと思っていたんですが、 以前、法要があった時に来てくださったお坊さんが良くして下さったりお務め姿が凄く良く、 お話するタイミングもあり、 年齢や既婚者かなど聞きたかったですが、お坊さんにそんな事を聞いていいのか?とか考えてしまい、結局緊張したのもありますが、何も話せずでした。 恋愛話をしてみたり、自分から連絡先を渡してみたりしていいものなんでしょうか? その時の想いもあり、お坊さんと出会いたいなぁとゆう気持ちが強くなったんですが、 一体どうすれば?と思って検索していた所、このサイトを見つました(^_^;) こんな相談で申し訳ないですが、 まずは何か出会えるきっかけや方法があれば教えてほしいです。
こんにちは。 私はお坊さんの説法が凄く好きなんです。 薬師寺のお坊さんの修学旅行の時の説法が 面白いのは有名な話ですが、 それだけではなく法事の時、お経を唱え終えた お坊さんが話してくれる話が好きで いつも「もっと聞いていたいなぁ」と思ってしまいます。 面白いと言っても、笑ったりとか滑稽な話などではなくて、人生を考えてしまうような、悩んでたことから心が解放されるような、フワッと心が軽くなるような、そんな気持ちになって、その感覚が気持ちよくて凄く好きなんです。 いつも優しさに溢れる言葉が、自分を包み込んでくれるようで、私もこんな優しさを分け与えられる人になりたいなぁと思ってしまいます。 けどお坊さんに直接お礼の言葉を伝える機会ってなかなか無いので、この場をお借りして。 いつも為になる、慈愛に満ちた面白いお話しを、ありがとうございます。本当に好きです。 私もお坊さんのみなさんの様に、優しさに溢れた言葉をかけてあげられる人になれるようにこれからも精進します。 ところで…何故お坊さんの説法ってあんなに面白いのでしょうか?
こんにちは。 いつも話を聞いてくださりありがとうございます。 昨年父を亡くしましたが、父が跡継ぎではなかったので残った家族は仏事にうとくて知らなかったり迷ったりの1年でした。 お盆もいまいち他人事でしたので、少し教えていただきたく思います。 (我が家は浄土真宗です。) 父の遺骨は合祀でお寺に預かっていただきました。 お仏壇は実家で母がみています。 初盆ですのでご住職に実家でお経をあげてもらうことにしましたが、それとは別にお墓参りのタイミングはいつが適しているのでしょうか? 合祀ですので、他家も集中してお花もすごい量になると聞きましたし、駐車場も少なくどうしたものか?と悩んでいます🌀 迎え火送り火までは考えてなく簡略化してはいますが、はたしてお盆中の父の魂?はどこにいるのでしょうか? どうお盆の供養をしたら父に届きますか? アドバイスをよろしくお願いします。
こんにちは。 いつもお世話になってます。 今月に入ってから、風呂場から変な音が 聞こえたり、家鳴りとは違うような音が部屋中でするので、ネットで視える方に 相談しました(もちろん有料) 風呂場に悪霊がいると言われ、(かなりグロテスクな表現をされていました)塩撒いて換気して下さいと言われました。 念の為、皿に塩を盛りまくって風呂場に 置いといたら翌日、誰も触れてないのに 塩が散乱していました。 これは、かなりヤバいと思い同じ方に もう一度視てもらったら、凄い数の霊が集まってましたとのこと。 除霊してもらい、アドバイスなども 受けましたが恐ろしくて落ち着けません。 気にしないのが一番と思ってるのに、ネットで色々調べて、除霊には真言宗のお経が 効くとか…盛り塩や水晶など流したり買ったりしました。 かなり敏感になっていて、ちょっと音がしたら悪霊が暴れてるのかも!などと心配になってしまいます。 夫婦揃って怯えながら過ごしてて、早く前のような普通の生活に戻りたいです。
16日に母の49日法要を行います。 父の時は実家だったのですが今回母が亡くなった事で実家が亡くなり、お寺で法要をさせて頂く事になり、持ち物等はお寺での最終確認で聞けたのですが、それとは別に手土産を持って行こうと思うのですが、手土産とお布施を渡すタイミングがわからずこちらで相談させて頂きました。 今まで実家でしていた時はお経が終わった後お茶出しの際にお盆の上に一緒にお布施を置き、手土産は盆の横に添えてお渡ししてたんですが、お寺で法要する際はどのタイミングでお渡しするのが良いのでしょうか? お布施は手渡しだとマナー違反なので必ずお盆に乗せてとどこかで聞いた記憶があり、今回お寺にお伺いする形なのでお盆の代わりに手土産の上に添えてお渡ししたらよいのか、また渡すタイミングはいつが正解なのかわからず戸惑っています。 こんな事もわからないのかと思われるかもしれませんがお手隙の際にどなたかご教授頂けると幸いです。 宜しくお願いします。
いつもお世話になっております、愛する夫を亡くしてから、なんとか毎日生きています。亡くなってからリビングと寝室の壁一面に思い出の写真を飾りどこを向いても主人の顔が見られるようにしています、2人で暮らしていたのでそうすることでいつも主人と一緒にいる気持ちでいました、先日そうやって暮らしている私に父親が、そんなことは未練でしかない誰もそんなことまでする人はいない夫はもういないとちゃんと自覚して前を向いて歩くようきつく言われました、もういないんだとはっきり言われたのは初めてで頭ではわかっているのですが急に身体が重たくなり何もできません。もういないわかっていますが、できるだけ家の中は2人で過ごしたままの状態にしていますこれも未練でしかないのでしょうか?これでは主人は成仏できないのでしょうか?いくら私が寂しくてもどうかどうか主人は安らかであってほしいと朝晩は仏壇の前でお経をあげています。 どう想ってどう生きるのがいいのかわかりません、教えて下さい。
初めまして、私の家には古くから伝わる「日蓮宗」の巻物がいくつか伝わっており、毎年年2回ご開帳させて頂きお祀りしています。 今年家の増改築に伴い、ご開帳を菩提寺の本堂でさせて頂けることになりました。その際に普段のご開帳では開けることの無い(古すぎてボロボロなので…)巻物をご住職と開ける事にし、お経を上げました。 中には、七面大明神が書かれた掛け軸でした。 それから七面大明神や毘沙門天に興味が湧き、仏像を、新しくした家に迎えたいと考えるようになりました。 普段から毎日、方便品・寿量品・陀羅尼品を仏壇で上げているのですが、毘沙門様をお迎え出来たとして、調べると「毘沙門天の真言」というものがあると読みました。 日蓮宗でも毘沙門様のご真言を唱えてもいいものなのでしょうか? それから、毘沙門様のお祀りの仕方などあるのでしょうか?
初めて投稿させていただきます。 これまで身内の葬式や法事でお寺には何度もお世話になっておりますが、父方・母方どちらの菩提寺とも、お坊さんは無言で出てきてお経を読んで終わりで法話などは今まで一切聞いたことがありません。そういうものだと思っておりました。なので数年前、他県の親戚の葬儀で法話を聞いた時は驚き羨ましく思いました。 さらにこちらのサイトを読んでいて相談に乗ってくださるお寺もあると知り、感激しております。 菩提寺は私の意思で変えることは不可能ですが、話を聞きたい、また悩みを聞いて頂きたい、という思いがあります。 檀家でなくても話を聞いてくださるお寺はありますでしょうか。普段関わりがないお寺にも、突然電話をして相談の問い合わせなどをしても失礼にはあたらないでしょうか? 実際お寺に相談した経験がある者が身近に居ないので自分にはかなりハードルが高く緊張する行動なのですが、直接相談される方は結構いらっしゃるのでしょうか? 初歩的な質問でしたらすみません。よろしくお願いいたします。
ある僧侶と知り合いになり、人生相談や毎月家にお経をあげて頂いていました。 その僧侶は自称、在家で得度した髪の毛のある僧侶で、日蓮宗の総本山である身延山で修行してるというのですが、私たちの家系は先祖供養が足りないから、いましなければあとは不幸になるといわれました。 ここ1、2年は「水子の霊を成仏させないと、恨まれて幸せになれない」といわれ、求められる金額も多くなりこの一年のうちに供養料、お曼荼羅の軸購入のため1000万以上渡してしまいました。また、このままでは短命とお告げがきているなどというので不信感を抱くようになりました。 私のために修行に行き、お塔婆を30万円分あげてきたと言われると申し訳なく思ってしまい自分からお金をお渡ししてしまうこともありました。 お寺のことや生き方のヒントなどたくさん教えて下さいました。先祖供養の大切さを知り、これからも供養したいと思っています。しかし、騙されているのではと不信感でいっぱいです。 日蓮宗では、このようなことを行なっているのでしょうか?依頼していないお塔婆をあげたり、お曼荼羅が300万するのでしょうか? 水子が恨んでいるのでしょうか? これは信仰宗教なのでしょうか? 乱文で申し訳ありません。よろしくお願い申し上げます。
以前ご相談させて頂きました。 当時は鬱に苦しみ藁にも縋る思いで般若心経を勉強したり此方でお世話になりました。 せっかくアドバイス頂いたのに、何もする気になれず薬を飲んで寝てを繰り返していました。 日が経つに連れ症状も落ち着き気分がいい時はお経を唱えたりお写経をして過ごしていました。 療養する中で、家族や友人に支えてもらい 年明けから仕事復帰することができました。 此方で相談させて頂き、アドバイス頂いた事も とても励みになりました。 本当にありがとうございました。 此方でアドバイス頂き優しい言葉をかけてもらった事や家族、友人の優しさを忘れずに、まだ 治療中ではありますが、一歩進むことができました。 沢山の相談があるにも関わらず親身にアドバイスして頂いた僧侶の皆様本当にありがとうございました。 これからも皆様方が健やかに過ごされることを 祈っております。 皆様方は私のヒーローです。 本当にありがとうございました。
はじめまして 供養に関して知識が乏しく、お坊さんの意見をお伺いしたいと思い登録いたしました。 私には長年お付き合いしている男性がいます。私はシングルマザー、彼もシングルファザーです。 先日、彼の息子さんが自死で亡くなってしまいました。遺書には学生の頃から生き辛さを感じていたと書かれていたそうです。 私は親族ではありませんが、お通夜お葬式と行かせていただくことができました。 お通夜お葬式といっても、お坊さんも呼ばず、戒名やお経なども一切ない家族がお線香をあげるだけのものでした。 私は田舎育ちということもあり、よくあるお通夜お葬式しか知らなかったので、少し不安なのです。 彼は冠婚葬祭に関して何も知識がなく、信心する宗教などもないので、なんのこだわりもないようなのですが、このようなお通夜お葬式でも故人は成仏できるのでしょうか? 彼とは神社仏閣巡りをしたり、西国三十三所巡りにも行ったりしているのですが、、、。 自分が供養する気持ちがあれば、形などにはこだわらなくてもよいのでしょうか? どうか、お導き下さい。
得度する前までの僧侶や、受戒について質問です。 仏教の勉強が趣味ですが、お寺の内部のことについてはどうしてもわからない部分が多いので、差し支えない範囲で教えていただけないでしょうか。 ①得度する前までは正式な僧侶としての活動はできないものかと思われますが、得度前の幼い頃から棚経を回られる方はしばしばいらっしゃるかと思います。その場合、何かしらの戒律を受けているかと思いますが、どの戒律を受けていますか? ②もし十戒であるとすれば、受戒の段階で沙弥となるという理解でよろしいでしょうか? ③受戒は何歳以上などの年齢制限はございますか?(宗派による部分はあるのでしょうか。) ④ 大乗戒を受けるためには、声聞戒のいずれかを受ける必要がありますか? ⑤得度前の僧侶が行うことのできるお寺の仕事を教えてください。 ⑥得度前の僧侶は袈裟を着ることができないと理解していますが、有事の際に着るものは僧衣という呼び名であっていますか? 根掘り葉掘りと聞いてしまい大変申し訳ございませんが、 ご教示いただけますと幸いです。よろしくお願いします。
納僧です。 普段、通夜・葬儀や回忌や棚経ばかりで、殿鐘を打つ機会が滅多にない中、今度大きな法要があり、おそらく殿鐘の配役が当たることと思います。 そこで、お恥ずかしい話ですが、殿鐘の打ち方について、下記の通りで合っているか確認して頂ければ有難く思います。 当日は慣らしをする時間も無さそうなので、今のうちに間違いなくしておければと思っております。 殿鐘三会 (一会目) 中 小 大 中 小 大 中 中 中 中…(点上) 中 小 大 (手磬交打)(点上) 中 小 大 (二会目) 中 小 大 中 中 中 中…(点上) 中 (手磬交打) 中 (三会目) 中 中 中 中…(点上) (手磬)小 大 いかがでしょうか。
このようなサイトがあることを初めて知りました、お世話になります。 老齢の父の葬儀を以前からの母の言葉に従い、浄土真宗で執り行いました。 しかしその後の母の話がどうにも不審で調べ直したところ、真言宗の可能性があります。 分かっている、決まっているのは以下の点です。 この場合、今からでもお寺に相談して変更すべきでしょうか。 ・父は実家から遠くに引っ越した家族のため、菩提寺は近隣には無い。 ・永代供養をお願いする予定で、墓地もない。 ・母には何度か確認したが、毎回「浄土真宗」と答えていた。父は答えられる状態ではなかった。 ・四十九日法要はまだ済ませていないが、浄土真宗のお寺にお願いする手筈。 ・母は「南無大師遍照金剛」と唱えていたらしい(これを聞いて不審に思った) ・家に弘法大師空海(真言宗)の小さな写真があり、近隣の寺による真言宗の簡易経本を発見した。 ・父の親族は遠方のため葬儀に来なかったが、法要に来る可能性はある。 母が気に病みそうなので、出来れば安心させてあげたいところです。 ご指導のほど、よろしくお願いします。
いつもお世話になっています。 「分別」 南伝 相応部経部45-8 阿含経典 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、聖なる弟子たちは、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって、あるがままによく見る。 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。 阿含経典の中の「分別」という中に、「苦なるものは無我である」とありますが、どのような体験によってどのように理解すればよろしいでしょうか。 御教示お願いいたします。