おはようございます。 数年前に独立し個人事業主になりました。 がしかし、ここ最近顧客が減り売り上げが芳しくありません。 好きな仕事ですしこの先も続けていきたい、スキルアップしたいとの思いで日々頑っておりますが正直心が折れそうです。 自信をもって100%の力で挑んでいるのですが、結果がついてこないということは私の力不足・人間性の問題かと落ち込みます。 今の仕事に関するセミナーに出てみたり、設備投資してみたり、神仏に頼ってみたりがむしゃらに掃除をしてみたり、怪しいブログも読んだりしました。笑 でも自分の理想とする結果にほど遠く。。 上記の行動もはっきり言って今の不安から逃げているだけなんですけれどね・・ さぁ次は何をしようか。。 こんな私にアドバイスを頂けたらと思います。
こんにちは 初めて質問させていただきます この数年間、仏教の本を読み考え瞑想したりしてきました そして、ついこの間、瞑想していた際に表現しがたい体験をしました 言葉にするのが難しいのですが、一体感というか、全てが一つに感じられ、自分というものが消えたというか、輪郭がなくなったような体験です そのあと、一時間にも満たない間、まとまりのようなものを感じることが続き、やがて普段の感覚が戻ってきました その後の生活では、嫌だなあという感情が全くなくなったわけではありません そもそも、この質問をしている時点で悟ってはいないのでしょうか? 悟りの自覚は明確なものなのでしょうか? この表現しがたい体験は悟りではないのでしょうか?
はじめまして。 1年以上前の、春の話ですが、飼い犬を死なせてしまいました。 赤ちゃんの時からずっと一緒で、どこへでも連れて行っていました。 あの日、犬と一緒に一泊旅行で山へ出かけました。 すごく寒い日で、車中泊だったのですが、暖房をつけても寒く、なかなか寝られず、、 翌朝、明朝から私だけ軽い登山へ出かけました。 犬は車内でお留守番してもらっていました。 登山に予想以上に時間がかかり、すごく日が昇ってきました。 犬が心配になり、急いで下山しましたが、熱中症で亡くなっていました。 寒い日だったので熱中症のことは全く頭にありませんでした。 私の知識不足です。 犬は、リードを咥えて亡くなっていました。 車内が熱くなっていて、出して欲しかったんでしょう。犬は汗がかけないので、舌を出してはぁはぁして体温調節をします。その息が水滴になって、身体はびっしょりになっていました。 どれだけ苦しんだか分かる亡骸でした。 その光景がいまでも頭から離れません。 私の知識不足で死なせてしまったこと。 まだ6歳でした。 生きていればあと15年は生きられたと思います。 その日から、罪の意識で苦しんでいます。 仕事は辞め、いまもまだちゃんとは働けていません。 あの子の笑顔を思い出すと涙が出てくる。 あの子の苦しんだ亡骸を思い出すと、死にたくなります。 いまは同じ犬種の保護犬をもらい、一緒に暮らしています。いまの子を愛することで、贖罪になればと思っていますが、いまの子に愛情をかけても、なぜ前の子にはそこまでしてやれなかったのか、と後悔ばかりです。 また会いたい。会って、抱きしめて、私の過ちを謝りたい。 亡くなった日、まだそのときは何も知らない遠くに住む家族の夢に、犬が出てきたそうです。 ですが、私の夢には一度も出てきません。なぜでしょうか? いまだに骨壷を部屋に置いています。その子が、離れたくないと言ってるような気がして、、 どうしたら、前向きに生きていけるでしょうか。
こんにちは、初めての利用です。よろしくお願いします。 お坊さんの皆様にお聞きしたいのは題名の通り、他人の愚痴を聞き続けることがつらいためどのように折り合いをつければ良いのか、またどのように振る舞えば良いのかということです。 もちろん私も多少の愚痴は言います。聞く方でも会話の中で多少出てくる程度であれば、慰めたり一緒に怒ったりすることができます。むしろ自分に心をさらけ出してくれたように感じ少し嬉しくもあります。 しかし、会話の内容があまりに愚痴や悪口、文句ばかりであると参ってしまいます。 愚痴を聞けば聞くほどに自分の心に澱みが溜まっていくような感覚です。あまりに聞かされ続けると自分が嫌な感情のゴミ箱にされているような気すらします。 そして、聞き始めた最初は同調できていても段々と受け止めきれなくなり、言っている本人を責めたくなってしまいます。実際に正論という名目で責めてしまっている気がします。 さらには責めるような事を言わせるくらいに愚痴を言いつづけた相手を恨めしくも思ってしまいます。 いま、この文章を書いていて自分の心の狭さが嫌になります。 過去に、愚痴を聞くのが嫌でとても仲の良かった友達と疎遠になってしまいました。 また仲良くしたいと思う一方で再び愚痴ばかりを聞かされるのかと思うと躊躇します。 また、最近は恋人も仕事の愚痴が増えてきました。本人もつらいだろうし聞いてあげることで少しでも気持ちが軽くなるのなら、と、聞いてあげたい気持ちはあるのですが聞いてるうちにうんざりして投げやりな返答をしてしまいます。 愚痴を聞かずに済むのであれば、正直なところ聞きたくありません。しかし生活をしていればどこかで不満を抱きそれを他人と共有したいという気持ちがわくのも良くわかります。 また、話している本人は心を預けてくれているからこそ、他人に言えない分を私に愚痴るのだとも思います。 それをぞんざいに扱うことでその心を砕いてしまう気がして申し訳ない反面、正面から受け止めるのはやはり辛いです。 他人の愚痴に対してどのように付き合えば良いのでしょうか。どう聞けば自分の心に澱みを溜めず相手の愚痴を聞けるのでしょうか。 お坊さんの皆様、どうかこの感情との付き合い方や相手への振る舞い方をどうか教えていただけませんでしょうか。
極楽浄土は単に死後の世界なのか、生きていても到達できる心の境地のようなものなのか、どちらでしょうか? 概論的に言うと浄土宗鎮西派では死後の世界であると説き、西山派、浄土真宗、時宗、天台真盛宗では死というプロセスを経なくても到達できる心の境地であるように説いているように思えます。 鎮西派はおおらかさが売りで細部の解釈は個々人に任すようなところがあると言われますが、極楽浄土は心の境地であるという受け取り方をする人が鎮西派にもいるのか。 また、浄土宗と時宗の狭間にいる一向派などはこの辺りをどう説いているのか知りたいところです。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
私の家は、所謂「本家」になり、私はその長男となります。 私の実家や、現在の私の住まいの近くには、先祖から続く墓があり、私は両親から「墓を守っていってほしい」と言われ続けてきました。 私は結婚しており、2人の娘(長女は中学生、次女は小学生)がいます。 私の正直な気持ちを申し上げますと、将来、長女又は次女が婿を迎え入れ、墓を継いでくれれば一番だと思っています。 しかし、このことについては、妻が反対しています。 墓を継ぐために子供たちの就職先等が縛られ、活躍の場が制限されるのは絶対に嫌だというのです。 私は、両親からの言いつけもあって、事なかれ主義的な気持ちで、娘に婿を迎えるのがベストと考えてきましたが、妻の言うこともよく理解できます。 昨今においては、女性天皇、女系天皇の問題をよく耳にします。私の家は、地方都市の中流家庭で、皇室に準えることができるような立派な家柄ではありませんが、この問題を我が家に置き換えてみますと、娘に婿を迎え入れて墓を引き継いでいっても、無意味なのかなという気持ちにもなってしまいます。 私は、このことに非常に頭を悩ませており、時々一人で墓参りに行っては、お墓に向かって謝っています。 そこで質問なのですが、墓じまいというのは、御先祖を思えば、絶対にやってはいけないことなのでしょうか? また、そうすることで、御先祖の怒りを買ってしまい、私は死後も御先祖に顔向けできない存在になってしまうのでしょうか?教えて下さい。お願いします。
問5366 を拝見して、思い出したのです。 http://hasunoha.jp/questions/5366 既にいったん行き詰まった、混乱した者には、何かちょっと、持たせてやらねばと思ってしまうのです。 その上つい説き【すぎて】しまうのは、全く己の弱さのなせるところなのですが。 かつて行き詰まった己を動かしたのは、偶然手に取った本でした。 支持以上の、なにか実践的きっかけのようなものが、必要だったのです。 そういえば、対機説法というそうですが(問1099ほか)、釈迦はいかに聞き、いかに応えたのでしょうか。 思索の深まる答を欲します。
駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。
はじめまして、こなおです。 アドバイスお願い致します。 私は、前向きに生きている時が多いです。 しかし、約1年半のサイクルで全てのバランスが崩れます… バランスが崩れるのは、仕事の事などで発生した悲しい事もなかった事にして我慢して突っ走る!という事をしてしまうことが原因だとわかりました。 すると、なかった事にできなかった感情が、コップいっぱいになり、体調不良に陥るというなんとも滑稽な事をしてしまっています。 今、1年半のサイクルの落ち込み時期で、不安なことがたくさんあります。 そんな時も、心静かにゴキゲンを保つ方法やコツはありますか? 出来る限り丁寧に生きたいと思っています。 アドバイスお願い致します。
お坊さんは、どんなふうに休憩しますか。休みをとりますか。 私は、どうも休憩の仕方が下手です。 精神的な疲れが休日があっても全くとれません。 精神的疲労がたまるばかりで辛いです。 仏教と少し関係のない質問で申し訳ないのですが お坊さんのアドバイスをいただきたいと思い質問させていただきました。 よろしくお願いします。
死後の世界ってあるんでしょうか?
はじめまして。 この夏に父が永眠しました。 実家に仏壇はあるものの、自分の家でも父を供養したいと思い、写真と蝋燭、お線香、お花、おりんをおいて毎日拝んでいます。 ただ、これは自己満足であり父の供養になっているのかと考えるようになりました。自分の中で、父にもっと親孝行したかったという気持ちがあり、その気持ちを整理するためだけではないかと。 供養とは誰の為のものなのか、なぜ供養が必要なのか、正しい供養の方法はどうすることなのか、教えていただけると幸いです。 よろしくお願いいたします。
カトリックの家ですが、神父さんからも回答が無い問題で、5年間苦しんでいます。死を考える事もあるので、お知恵をお貸し頂きたく、質問します。 ヒルティの幸福論を数年前に読み、非常に感銘を受けました。只、その中に迷信も含まれており、書物や、人との出会いも時によっては導き、だと繰り返し書かれていました。そんなに熱心でもない信者でしたが、そんな事もあるのかと、自分の知らない宗教の神秘を聞いた気がして、信じてしまいました。当時出会った方と結婚までしましたが、彼女は面食いの私のタイプではなく、、すぐに苦しくなり、一年で離婚。彼女は嘆き悲しみました。 別れてからも、自分が神の導きに反した様に感じられて、自分を責めたり、神からも責められている気がして辛いです。洗脳されてるのだと思います。医師にも通っています。神様を信じる事も出来なくなり地獄です。私は論理的思考の持ち主なので、神様が元々の元凶じゃないか、と考えてしまいます。彼女をあれだけ悲しませたのを許せなかったりもします。何の為に彼女と結婚、離婚させたのだろうか、と考えています。彼女の嘆きを代償に、私は何も欲しく無かったのに。 又ヒルティが迷信を書いてたとしたら、何故それを神が野放しにしているかも納得出来ない。仏教でも、仏様を信じ過ぎて、変なことを言ったり書いたりする方はいると思います。その様な場合、どの様にそこから脱出すれば良いのでしょうか?助けて下さい、何卒よろしくお願いします。 もう5年苦しんでいます。自殺を考える位辛いです、、
社内不倫がバレて彼は降格、私は辞表を出しました。だけど会社は頑張ってほしいと止めていただいて嬉しい反面、その期待に応えれるか不安で良い返事ができてません。周りの目もあるし、2人が会社に残れば陰でずっと言われ続ける、残ると決めれば、会社の処分に応えなきゃいけない、 それが私は耐えられないと思って辞めることを一度は決めました。でも仕事も仲間も好き、今までの培ってきた経験をここで捨てるのはもったないという気持ちがあって なかなか決断に至りません。 周りは私のためを思ったら辞めた方がいい、一から頑張るんだったら別のところで一から頑張ればいい。もう周りは良くは思ってないと思うからと言ってます。 その気持ちもわかります、結局決めるのは私自身です。ここで相談してること自体も間違えです。私が続けるなら誠心誠意をもって仕事に臨む、それか辞めるの2択です。 もう考えすぎてわからなくなってしまいました。なにかアドバイスを頂けたら幸いです。
日々努力すること、そして結果に結び付かないことに疲労と焦り、嫉妬心を抱くようになりました。 最近Twitterから、趣味で小説を投稿しています。できる限り毎日書いて、投稿するよう努力をしています。 投稿するのだから、やはり誰かに認めてもらいたい、誰かに見て欲しいという気持ちがあり……。 けれど結果に結び付かず、自分がまるで空気のような存在に思える時があります。 最近、友人に嫉妬心を抱くようになりました。 相手は小説ではなく絵ですが、誰かに認めてもらえ、そして無邪気にそれを私に話す姿を見ていると、「私の小説なんて、書いても意味がないのでは」と思うようになりました。 それは今も続いており、日に日に強くなり、友人に対して強い嫌悪感を抱くようになりました。 「頑張って書いたところで、毎日書いたところで、誰も見てくれないのでは?」という不安な気持ちでいっぱいになります。 もうこんな嫉妬心に振り回される毎日が嫌で嫌で仕方がありません。 ですが、誰かに認めてもらいたいという気持ちを捨て去ることも出来ません。 全部が苦しいです。 どうしたら良いか分からず、毎日泣いています……。
夫が自死して2か月が経ちました。過労により精神を病んでいたのだと理解しています。 夫の死後、仏教を学び、これまでの苦しさは煩悩であり、夫は自らの煩悩に飲み込まれるように亡くなったのだと思うようになりました。生きることは苦しいことだらけ。執着を無くすことが悟りへの道。 「生きたい」という欲望は、「生かされている」と感謝する気持ちで付き合うことが大切なのかなと思うようになりました。 苦しんでも良い、この身を引き裂かれる苦しみすらもいつか何かを悟る学びになると思っています。ですが、お腹を痛めて産んだ息子、血を分けた兄弟を失った悲しみを抱えた義実家の方々の苦しみの前ではそんな事を申し上げることもできません。冷静な自分が、自分だけ苦しみから逃げているような非情な感覚がします。 なぜ1歳の娘を、大切にしていたお父さん、お母さん、お姉さんをおいていってしまったのかという怒りが昇華できない自分もいます。これはどうしようもない感情なのだと半ば諦めかけてもいますが・・・できれば故人のことは温かい気持ちだけで思い出してあげたいものです。 人を幸せにしたい、自分も幸せでいたい。それ自体も煩悩でしょうか。よりよい未来を望むことに罪悪感を感じます。どのような心がけで生きていけば良いのでしょうか。「悟る」ことと「諦める」ことの境界に悩んでいます。ご教授頂けたら幸いです。
あまり聞くのはよろしくないのでしょうがよろしくお願いします。 自殺の際に、周りに迷惑をかけないようにする為にしなければならない事を教えて下さい。 あと、今までの感謝を伝えるべきでしょうか? 言葉を残す方が印象を与えてしまうきがします。前向きな質問ではありませんがよろしくお願いします。
生の先に肉体の死があり、その先に輪廻転生があるならば、また生の前に戻り、その先に生がある。 ならば、肉体の死を自然に任せなくとも良いのではないでしょうか。 辛い生を送り続けるより、早く新しい先へ進んだ方が良い。 それが逃げであっても。
私は先天性心臓病です。 母子家庭で育った為、昔から絶対幸せな家庭を持ち子どもを産み家族を作るんだと夢見てきました。 そして、やっと結婚が決まりました。 しかし、前から知っていた現実、心臓病はもちろん、服用している薬が出産にはかなりのリスクがあると主治医から話をされ、成功しても母子どちらかに障害が生じるか成功はたった1/3と言われました。 親族からは、今はこんなに健康でいて、ここまで、辛い手術や治療に耐えてきたんだから、自分を危険にさらしてまで無理して産まなくて良いと言われました。 彼や彼の家族も無理して産む必要はないからね。と言われてます。 家族からしたら私自身が一番大切と言われる意味も分かります。 ただ、女として生まれて子供を授かりたいと思うのは普通のことだと思うんです。 特に私は、仕事も保育士で大好きな子供と過ごす為 よりいっそう子供が欲しい気持ちが強まります。 挑戦はしたい気持ちは変わりません、 でも私が死んだら意味がない。 子どもは諦めて、他の幸せを見つけるべきか? でも子どもがいる人への嫉妬心は消えない気がします。 子どもを虐待するくらいなら、私に育てさせてよ。 って思います。 里親は?と言われますが、調べたところ、 健康でない以上は難しいとの事でした。 複雑な気持ちと毎日戦ってます。 何かある度に、健康な人への嫉妬も止まりません。