4回目の投稿になります。あー、めっちゃ多いですね、すみません。ここでしか吐き出せないこともあるのでお目汚し失礼します。 仕事を探し続けて早10カ月となりました(長っ) その間にも無職になり、まあ、周りからは色々と言われています。面接呼んで落とすなら書類審査で落とせよバカヤロー!と叫んだことは数知れず(実際、うちは経験者採用なのになんで応募したのと言われたこともあります。未経験可だから応募したんだバカヤローと思いました ) 貴方が悪い訳じゃないマッチングしなかったんだ、ちゃんと自分と向き合ってるから苦しいんだ、と仰ってくださる方や、大丈夫だからと背中を押してくれる人がいるのが救いですが…本当にそうなんですかね。 昔から他人よりひねくれていた為か、そんなの嘘っぱちだろう、気休めに言ってくるなよ、と攻撃体勢に入っちゃうんですよ。 東京で仕事をしたくて面接に行ったとしても茨城県から行ったからバカにされてるんだろうなーとか、わざわざ応募してきたよコイツ受ける(笑)って思われてるんだろうなー、とか。 どうせ次の面接も落とされるから行きたくないなーと考えてしまうこともしばしば。 自分は大丈夫!と思い信じていれば、本当に道は開けますか?? どうも私は周りの人よりも子どもの頃から苦行を強いられてるとしか思えない。神様とか仏様って、不公平だなーと思います。 トントン拍子に物事が進む人と苦行を強いる人に分けるなんて。 どうしたら茨の道から脱出できるんでしょうね…もう気力体力共に疲れ果てたの。 私は社会のお荷物なんだろうなあ…。 生きててごめんなさい。 文章も支離滅裂でごめんなさい。 でもここでしか吐き出せないんです。 ごめんなさい。
先生方、先日は親身になって相談に乗って下さり、本当にありがとうございました。 中でも特にお世話になった先生もいらして(噛んで含めるようにお話し下さって、本当にありがとうございます。心が楽になりました)、まずそちらに先にお礼を申し上げてからが礼儀だろうと思いましたが、一人の先生にあまりに頼りすぎてしまうのもご負担が掛かりすぎてしまいますし、別の質問事項ですので、あらためて投稿させていただけましたら幸いに存じます。 先日、他の方のご質問で「枕経」のお話がありました。 ここに、どうしても死ななければいけない人がいたとして、あるいは間もなく殺される運命にある人がいるとして、そしてとても救われたいと願っているとして、その人に何とお声を掛けて下さいますか? そのような人の、死に際しての心構えを教えていただけましたら本当に有難く思っております。 先生方にはお忙しいところ誠に恐れ入りますが、もしよろしかったら、「枕経のようなつもりで」お教えいただけましたら有難く存じます。 どうぞよろしくお願い申し上げます。
日々努力すること、そして結果に結び付かないことに疲労と焦り、嫉妬心を抱くようになりました。 最近Twitterから、趣味で小説を投稿しています。できる限り毎日書いて、投稿するよう努力をしています。 投稿するのだから、やはり誰かに認めてもらいたい、誰かに見て欲しいという気持ちがあり……。 けれど結果に結び付かず、自分がまるで空気のような存在に思える時があります。 最近、友人に嫉妬心を抱くようになりました。 相手は小説ではなく絵ですが、誰かに認めてもらえ、そして無邪気にそれを私に話す姿を見ていると、「私の小説なんて、書いても意味がないのでは」と思うようになりました。 それは今も続いており、日に日に強くなり、友人に対して強い嫌悪感を抱くようになりました。 「頑張って書いたところで、毎日書いたところで、誰も見てくれないのでは?」という不安な気持ちでいっぱいになります。 もうこんな嫉妬心に振り回される毎日が嫌で嫌で仕方がありません。 ですが、誰かに認めてもらいたいという気持ちを捨て去ることも出来ません。 全部が苦しいです。 どうしたら良いか分からず、毎日泣いています……。
死にたいと考えることは極端な発想だとよく聞きますが、生きようと思うことが極端ではないと言い切れる根拠はどこにあるのですか?
私は、某宗教の二世として、産まれました 産まれた当時から私の父親がその、教えに疑問を持ち教員をやめましたが、母親は一生懸命協会員をしていました。 しかし、小6年生頃から自分もその教えに疑問を持ち 次第に礼拝にいかなくなりました。 家では親は顔を合わせるたびに 【金を返せ!!!!】【離婚しろ!!このぺてん師女!!!!】 寝てる時に枕越しに喧嘩の声が聞こえるのは日常茶飯事、朝起きると家具が壊れている事もありました。 中学二年生の頃に私の母親は家を出て祖国へ帰りました 私は日本に残ったのですが、父親はすぐ別の女を作り 私と顔を合わせるたびに、【あのクソ女は私を裏切った】【クソ女の祖国もクソだよ、〜〜なことがあってな、あの民族はほんとにクソみたいな事しかしないんだ。】 そう言い聞かせてきます。 私は、皆がそうではなく、父親がネットリテラシーがなく、インターネットの心無い声に毒されている事もわかりますが、とても心が痛みます。 私は、道を踏み外してしまい、高校は中退 仕方なく始めた現場仕事も長くは続かず 職場を転々としながらすごしています、 しかし母親から、私の祖国へ来て 少し自分を見つめ直せと連絡がきています グレたチンピラのような息子を見てられないと、 私は、その教会のお陰でこの世に生を受けたと言っても過言ではありません。 しかし、父親が否定することにより、わたしの存在は嘘なのでしょうか? 生きている意味はあるのでしょうか?? 死んで、消えて無くなりたいと思ったのは一度や2度ではありません。 このまま、辛いことに耐え、生きて行くことに意味が見出せないのです。 どんな映画や、友達のめでたい出来事 を見ても、表面では、すごい!!!感動した!! と思っても、 心の奥底で、 【ふ〜ん。で??なんか意味あんの?それ、】 っていうきもちがぬけません。。 自分が何を質問したいのかも、よくわからない状態です、 変わりたい!!という気持ちはあるのですが、 どのように変われば良いでしょうか。、 このままではイケナイ!とは思いながらも 成功した未来が見えないのです。
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
助けてください。 一年半前に、突然、夫が仕事中に事故で死んでしまいました。その時私は妊婦でした。 結婚一周年を間近に迎えていたのですが…一緒に迎えられず、幸せな結婚生活が一年もせずに壊されてしまった。即死だったので死に目にも会えなかった。 本当に愛していたし、愛されていました。真面目に思いやりを持って過ごしてきたのに、こんな事が起こるなんて…神様、仏様さえ呪いました。 夫が死んでから、毎日が灰色で地獄のような日々を過ごし、後追いしようとしたり…泣いてばかりの日々でした。 毎日、あの日仕事に行かせた事を後悔して、死ぬまで後悔するのだと思います。 そんな中、無事に出産し、子供を産んでからは涙も封印しました。子供は愛しいし、責任をもって幸せにするつもりです。 もう、自殺しようなんて思いません。夫の分まで愛情も注ぎます。 その気持ちに偽りはないのに、早く夫のもとに行きたいと思ってしまう気持ちもあるのです。それから、轢いた犯人や夫の会社も憎くてどうしようもなくて。苦しいです。 夫の魂はどこにいるのでしょうか、死んだら又会えるのでしょうか?
私は息子を亡くしました。 それから考えることは『死』についてです。 やはり『死んでしまいたい』という気持ちが消えません。 前向きになっても、ふと『死んでしまいたい』と思ってしまいます。 それは、亡くなった息子に会いたいと言うよりは自分の将来が不安で生きるのが辛いからなのかもしれません。どうせ不幸が待っていると思ってしまいます。 このまま生きていくのが不安で押し潰されそうです。 仕事をし前のような生活をしたいですが、上手くいかず主人にとうとう怒られました。 『全てが中途半端』『どう生きたいんだ?』と、、主人も息子を亡くした親なのに私が甘えすぎていたのだと思います。 私のうじうじした気持ちをなくし、頑張りたいのですが将来(未来)を思うと苦しくなります… どうすれば前向きな気持ちが続くでしょうか。どうすれば強くなれるでしょうか。
こんにちは。 私は、今看護学校に通ってます。一度私は人間関係に躓き、うつ状態になったり、友達と一度離れることがあったりしました。だから、今、看護学校に通っててとても怖いものです。何するにもグループだっだり、もちろん実習もグループです。気の強い子や、いじめ体質のある子など学校にはいます。本当に怖いです。みんながみんな落ち着いてる子だったらいいのですが。そして、私は実際仲間ハズレにも今の学校の授業内でもありました。あの時の恐怖を忘れられません。その時は仲悪いままなんとか乗り越えたのですが。学校に通うことが恐怖になることも怖いです。わがままですが、守ってくれる誰か欲しいなと。所詮自分は親にも迷惑かけてばかりいるので、そんな甘いこと言うなって言う話ですが。
いつもお世話になっております。 ゆうりです。 お坊さんの、一言というのは、何故こうも、身に染みるのか。 お坊さんは、話上手です。(この言い方は怒られてしまうでしょうか?すみません。) 気になりました。 タイトルは、以前の質問で頂いた、今、大切にしている言葉です。 私は、将来研究者になるにしても、農業高校の先生になるにしても、(ノンプロで噺家、漫才師、芸人になるにしても)喋るという行為は、不可欠で欠かせません。 特に先生というのは、人間をつくる(あえてひらがなです。)職業であり、また農業を通じて命を慈しむ力を育んでもらわないとなりません。 さらに、私が噺家もを目指すの理由というのも、弱い奴に立ち上がってほしいからです。社会の皺寄せは弱者に来ます。そういう人に、立ち上がってほしいからです。 さて、「こちらの心が無くて、あちらの心が動くでしょうか?」 この「心」という部分があるから、「周りの友達」ではなく「hasunoha」に救いを求めるのだと最近思いました。私もその一人です。 その熱い「心」はお坊さんの場合は、「修行」によって培われているのは言うまでもありません。 (私の場合は、理由が異端なだけに、「信念の強さ」で解決出来てしまうかもしれませんが・・・) しかし、私たち質問者は、どのようにそれを鍛錬すればよいのでしょうか? その「心」どうしたら磨かれるでしょうか? 自分磨きというものは「自分が自分をするのみ。」「自分が自分の行を行うのみ」 精神的な強さを得るためには、「自分が自分を学んでいくこと。」 そう、以前にお言葉を仰ぎました。 これの継続によって得られるものなのでしょうか? また、これだとまだ何か、足りないでしょうか? お手数をおかけしますが、お手おすきの時間がありましたら、回答の方を宜しくお願いします。
最近、どうしてここまでして生きなければならないのかわからなくなりました。 イジメで同級生に家畜以下の扱いをされ存在否定され、病気になってもなかなか周りからの理解を得られず、苦しみながらそれでも生きてきました。 ハッキリ『あぁ、私は周りにとって家畜以下なんだ』と実感したのはレイプされてからです。親は私をひどい言葉でセカンドレイプしましたし医療関係者からもひどい言葉や行動をされました。 最近まで通っていた心療内科の医師は私を半ば人体実験していたとさえ思います。きちんとしたインフォームドコンセントもなく、診断も下されたこともない重篤疾患と同じ量の薬すら出されていました。 周りの私への対応、メインは親と医師ですが、彼らから感じるのは私の存在が如何に迷惑か、不幸にしているかを痛感させられています。 親は私にことあるごとに『私だって辛い、貴女が世界一辛いと勘違いしないで』と言われました。私からすると理解もされず一人で苦しんできた部分はたくさんあります。その上で不妊治療で体調を崩した母に必死に元気になってもらいたいと学校での辛さ孤独さを全て隠して笑顔でその時は接してきました。私のその努力はとても力不足だったかもしれませんが、私も私なりに苦しみながら生きてきました。その後も私からすればいつも私は色んな愚痴聞く役で私はそんな愚痴をいう母を心配させまいとずっと辛いこともこっそり涙してきました。でも両親は私の愚痴をいつも聞いていた、と思っているみたいでしょっちゅうメールでやり取りを私に内緒でしています。何度もその内容は見ました。母が携帯が疎くしばしば私が操作を頼まれるからです。今日も私の愚痴のやり取りしていました。 もう私の存在価値はないことも十分承知していますし、所詮家畜以下扱いを受けるに等しい、人権も保証されなくて当たり前だと言うのも承知しております。それなのにどうして死ねないのでしょうか?
はじめまして。とうこといいます。 お寺で参拝するととても落ち着くので、よく行っています。 知識も得ようと本を読んだりしたのですが、そこには「様々な仏は架空の存在である」と書かれていました。 お釈迦様はおられましたが、阿弥陀さまとか薬師如来さまはフィクションだと初めて知りました。 私は深く考えたことがなく、てっきり実在されているのだと思っていたのでその時はショックを受けました。 お坊さんはこのことを知っておられるのだと思いますが、どう受け止められましたか? 仏はいないと思いながら学問としてされているのか、存在されて人々を助けて下さると信じているのか、お坊さんのとらえ方を教えて下さい。
相談ではなく、単純な質問ですみません。 しかしとても気になります。 私は現在職を探して3ヶ月になろうとしている20代です。 履歴書や面接の準備のときに必ず用意するものの中で、「志望動機」というものがありますが、 私はこの「志望動機」が苦手で、つまずいて応募も躊躇してしまうこともあります。 その為、この3ヶ月は道行く働いてる人へ 「ねえ、あなたはどうしてその会社に入ったの。なんて理由で応募したの。」 心の中でめちゃめちゃ問いかける毎日です。 半分くらいは知識欲なのですが… そんな時、「お坊さん」という、あまり私の身近にはいない方々に質問相談ができるというこちらのサイトを見つけました。 しかも真摯に、丁寧に、おそらく正直に回答してくださっているご様子。 私、今、喜んで質問させていただきます。 「なぜ、『お坊さん』という道を選んだのですか?」 欲張りで申し訳ありませんが、もし差し支えなければ、 「お坊さんになる前はどんな事をしていましたか?」 という疑問にも答えていただけると嬉しいです。 まとまりのない文章で、他の誰かの為にもならなさそうな質問で大変申し訳ありませんが、どうかこの個人的な疑問にお答えください。 よろしくお願いします。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
回答僧の方々の優しさの原動力を伺いたいです。 前回の質問からハスノハ全体を色々見てみたのですが、回答僧の方が真摯に回答しても質問者からお礼が無い例も多く見かけました。また、僧侶としての活動の中で「何度も騙されてきました」と書かれている僧侶の方もいました。 - 巷には、「優しい人ほど潰される社会」「いい人ほど早くこの世を去る」「正直者ほどバカを見る」などのフレーズがはびこっています。実際わたしも、「どうせ汚い世の中なのだから、多少性格悪くなくちゃ、やっていけない」「自分を守るためには、他人に対して多少反抗的でいないとナメられる」などの思いが浮かんでくることもあります。 また、犯罪者などで「真面目に生きてくのがバカバカしくなった」と犯罪をおかす人がいますが彼らの動機も共感できるところがあります。 - 回答僧の方々のように人々の悩みに真摯に寄り添うには、人の気持ちに共感できる繊細な心が必要なのではないでしょうか?ですが繊細な心は同時に傷付きやすいものでもあります。 一方、社会ではたびたび人の感情もわからないような図太い神経の、図々しい人ほど幅をきかせているように見えてしまいます。(例えば、パート先のボス格いじわるオバちゃんとか?) また、人の善意を消費して自分だけ利を得ようとする人など。 - 何年にも渡って回答僧として活動されている方々はすごいと思いますし尊敬します。 その活動に必要な優しさの原動力はなんですか? また、「優しさ」と「社会でやっていく強さ」の両立はできますでしょうか? 私はまだまだ未熟者ですが出来るだけ人に優しくできる人になりたいです。そのためのヒントを得られたら、と願います。よろしくお願いします。
初めまして。答えにくい微妙な質問だとは思いますが、どうか読んでいただけたらと思います。 私は10年ほど心の病で通院しております。基本的には安定していますが、時々今日みたいにとても気分が落ち込み、何もする気が起きない日があります。本当はベッドから起きたくもありません。 もちろん、そんな訳には行きませんし、起きないと余計に気分が悪化するのは分かっているので、なんとか出勤します。 そこでふと、お坊さんも人間ですし、心の病を持っている方や、そうでなくても「とにかく今日は辛い、落ち込んでいて何もしたくない」という日があるのでは?と思いました。(見当違いで失礼な事を言ってたら申し訳ありません...) もしよろしければ、差し支えない程度で、「自分の周りにはこういうお坊さんがいる」とか、「(具体的な解決方法がない理由で)落ち込んでいる時、こういう風な心の持ち方を心がけるようにしている」等といったご意見、その他どのようなものでも、よろしければ教えていただければと思います。 よろしくお願いします。
こんばんは。いつもお世話になっております。 ゆーりです。いつもいつも、質問ばかりで、お礼の返信が出来なくて申し訳ありません。時間を作り必ず、お礼申し上げます。 さて、本日は、自分磨きの方向性について質問させて頂きます。 2ヶ月半くらい前でしょうか? 私は、ここで強くなるにはどうしたらよいか?を質問させて頂きました。ぜひご一読ください。 私は、今、○○さんに思いを伝えるために自分磨きをしています。 持論ですが、自分磨き(自己啓発)というと、ネットなどによく書いてありますように、外見をお金を掛けて変える様な内容をよく目にします。 人は見た目が9割とは、よく言いますがそれでは私は○○さんには届かないのでしょうか? 私には、本当のかっこよさ、強さというものは、内面から滲み出てくる人徳ではないかと思われてなりません。 私は内面を磨きは、辛い道を選ぶ。つまり今できる努力、すべき努力を逃げずにするということだと思います。 私は、今、大学院に向けての受験勉強、教員採用試験の勉強、野球、TOEICの勉強、と四足の草鞋を履いております。 これを乗り越えれば、自分は間違いなく一皮むけると思います。 私は、大学では追試だらけ、野球は(大学から始めたということを差し引いても)下手くそです。 ですから、大学院・教採合格、野球でレギュラー奪取出来たとしたら、間違いなく一生自分を誇れると思います。 また、これらのおかげで、今の自分は、色々な勉強をし、読み物を読み、野球といった努力のおかげで色々な人や物と出会い、内面も、ものすごく成長している気がします。 しかし、これは紛れもなく自分の為でありこの気持ちは相手に届くのでしょうか? もちろん、自分の為にしている努力ですから、相手に届かないかもしれません。自分のしている自分磨きをしてから・・・○○さんに告白するという事は物凄く遠回りです。 ですが、自分に今、出来る自分磨きというものは他に見つかりません。 漫才師になった時の為に、弱い奴を笑かしてやれるようなコントのネタを磨く、これくらいでしょうか。というのは、冗談にしても・・・ 私のしている自分磨きというもの自分磨きと呼べるのでしょうか? また自分のこれからしていくべき自分磨きというものは、いかなるべきでありましょうか? お伺いしたいと思います。お手数をおかげしますが、宜しくお願いします。
お忙しい中、申し訳ありません。 お釈迦様本来の教えに最も近いと言われる最古のお経の中には、 お釈迦様は、何がしかの行為を行った場合にお布施を受け取ることを拒否された、 と書かれていると聞きます。 またお釈迦様は、死者に念仏のようなものを唱えることは意味がない、と説かれたとも。 お釈迦様が対機説法を用いられたと言われていることを少しは存じておりますが、 お釈迦様の教えを学び実践する目的は、たった一つしかないと思っています。 現代のお坊さまの方々は、葬儀などでお経を上げお布施を受け取ることを、どのように考えておられるのでしょうか?
随分前から好きな教師がいます。 もちろん付き合ってるなどとんでもなく、たまにお悩み相談をしてくれるような関係です。この前その人が仏教徒であることを知りました。元々少し仏教の考え方には興味があったので、色々とその話をしてもらったり、自分から本を読んでみたりしました。そうやっていくうちに段々仏教の考え方が好きになってきました。私がその先生が好きだったのは先生が仏教の人だったからなのか、とも思っていました。しかし冷静に考えていくと、私と仏教との縁がその先生ではなく違う人からもたらされたものだったらここまで仏教に熱中しなかったはずで、全ての始まりが恋愛という煩悩から始まっていると思うのです。 このような状況をお寺の方々はどう思われますか? 私は自分が間違っているような気がします。