私は母親と、二人暮らしをしています。 つい先日、夜に突然母親が奇声をあげながら私を殺す、一緒に死のうと言って私を殺しにかかってきました。顔を殴られボコボコにされました。 仕事のストレスで精神的に不安定なのが爆発したのかな?と思いましたが、とりあえず落ち着かせて話を聞こうにも全く会話が成立せず。 抑え込んでしばらくするとケロッとして普段の母親に戻っていました。 話を聞くと自分の様で自分ではない様な勝手に言葉を発していたということでした。確かに抑え込んだ時母は笑っていたんです。一人称も母親のものではありませんでした。 とりあえず母親には心療内科に行ってもらおうと思いましたが嫌がり、神社やお寺にお参りしたら心が落ち着くと思い母を連れて先日参ってきました。 神社やお寺に行きもう本人は大丈夫と言ってこちらの話を聞きません。このような事は初めてで驚き共に恐怖感が襲ってきました。 また次殺されかけたらどうしよう。 そう思うと恐怖で眠れなくなり、母の声を聞く度にドキッとしてしまう様になりました。私はもう家を出たいと思い、この状況を親類に相談したところ我慢しなさい、母が可哀想と言われました。 またいつどうなるかわからない状況ですし、この状況で家を出るとなると母親を見捨てたようなものです。 でもいつ殺されるかわからない恐怖感で一緒に住み続けるのは無理です。 私は非道でしょうか? 親を見放した冷たい娘でしょうか? この3年間、肉体的に様々な病気が降りかかり私も精神的にギリギリの状態ではありましたが、病状もやっと改善の兆しですしこれからはもっと自分の好きなことやいろんな事がやっと出来ると思っていた所でした。 お坊さんならどうしますか? なにか助言を下さい。どうか宜しくお願いします。
こんにちは。私は霊媒体質です定期的に稲荷神社でお祓いしてお守りをしています。 今朝方仏壇のお掃除をしたいと思い仏壇掃除したら見知らぬ線香の箱、 赤い箱に 大椿 六道珍皇寺とゆう線香 とりあえず線香たきました。 そのあとこの寺の由緒をしらべたら 京都の六道さんとでてきました。 私の家は浄土真宗です。 あの世とこの世を繋ぐ六道珍皇寺の線香をたくとご先祖さまはどうなるのでしょう? どんな功徳があるのでしょう? 仏縁とか、神縁とは不思議です。 ちなみに線香、とっといたほうがいいですか? お坊さん教えてください
いつもお世話になります。 今回は亡くなった時に棺桶の中に御朱印帳を入れて良いかをお聞きします。 主人の親戚が病気を患い長く療養していましたが、容態が悪化して亡くなりました。 お棺の中に私が何冊か持っている御朱印帳を入れてあげたいと思っております。 ただ、主人の実家も親戚宅も浄土真宗大谷派でお棺の中に御朱印帳を入れて良いのか悪いのか迷っています。 もし可能な場合、神社の御朱印帳も入れてあげて良いでしょうか? お坊さんのご意見をお聞きしたく、質問させて頂きました。 よろしくお願いします。
グローバルという言葉が当たり前になった現代でも、宗教はいまだ閉鎖的であるように感じます。 中東をはじめ宗教を理由にした紛争はいつまでもなくならず、中世の時代から少しも変わっていません。 それぞれの宗教はいい教えだと思うのですが、なぜ対立という方向に走ってしまうのでしょうか。 宗教の教えはよくても、それを運用する人間に問題があるのでしょうか。 仏教会(?)は宗教を理由とした紛争について、どう考えているのですか? いまこそ一致団結し、世界平和に向けてなにか活動してもいいのではと思うのですが、人任せで無責任な考えでしょうか。 ちなみに私は神社の町で育ったので神道が好きですが、仏教も尊重しています。
僕は仏教と神道が大好きで神様と仏様を同じように尊い存在として崇敬しています。 明治以前両者の距離は極めて近くほぼ同じ存在と言ってもよい状況でした。 僕はそれこそが仏教、神道双方の良い所でありそれが自然な形であると信じています。 今は失われてしまった神仏習合を実践しこれから先神道と仏教の距離を少しでも近づけることができるように、また双方の立場から物が見れるように僧侶兼神主になることが僕の目標です。 僕の家も寺院なのですが父にこのことを話すと家の宗派ではこの夢を実現するのは難しいと言われました。 そこで僕は真言宗の僧侶になろうと思っています。 そのための具体的な道筋もある程度決めてあります。 真言宗の大学に通い僧侶の資格を取った後、神主の養成学校で神主の資格を取り将来的に神社本庁の神社で働くという感じです。 寺院ではなく神社の側で働くのは、鎮守社や権現様をお祀りする形でどちらかと言えば神道の要素に寛容な仏教に比べ神道は明治時代に徹底的に仏教要素を排除した状態のまま基本的に変わることなくそのまま今現在まで続いており仏教以上に神仏習合の下地が出来ていないからです。 宗派として真言宗を選んだ理由は元々真言宗に興味があった事と歴史上真言宗は他宗派や神道など他の教えに対し積極的に共通点を探し共に進んでいく姿勢を持っていたからです。 しかし一つ問題があります。 真言宗における僧侶の資格と神道における神主の資格、この両立が出来るのかが分からない点です。 先ほど書いた通り僕は神社で働きます。 その状態でも僧侶の資格を持ち続けることは真言宗では可能なのでしょうか? 知り合いに真言宗のお坊さんや信徒の方がいないため聞いて確かめることも出来ません。 勿論お金や労力など神主の仕事をしながらも宗派、教団のために出来ることは全て果たしていきたいと思います。
語彙力が無いので、もし失礼な表現になってしまっていたら申し訳ありません。 私はお寺に行くのが好きです。 奉られている方々にお参りしてご挨拶したいというような気持ちで向かうこともあれば そのお寺のある御山そのものに包まれたいと行ってみたり 歴史や仏像、建造物としての素晴らしさに触れることを目的に伺うこともあります。 勿論御先祖への気持ちや、その他諸々思うところあって、お参りに行くこともあります。 ただ お寺側が積極的にオープンにしてくださっている場所(総本山や所謂名刹、もしくは様々なメディアで情報発信をしているようなところ)だと気兼ねなく伺いやすいのですが、 そうでないお寺だと 興味があってもなかなか入りにくいです。 時間等は常識の範囲内で、純粋に本堂にお参りに伺うだけといった場合でも、 やはり檀家でもない紹介もないような人が入られては困る、ということはあるのでしょうか。 旅先や引っ越し先に出会ったお寺で、どなたが奉られているのかな?など気になることもあるのですが、もしそのお寺や周りの方々の気分を害してしまったら…と思って戸惑ってしまいます。 またオカルトな話なんかだと(主に神社等ですが)由来の分からない寺社にやたらに入るのは良くないなんて言われたりもします。こういったことはあるでしょうか?
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
その1のお寺では 参拝者を差別するところのお寺に以前通っていました たまに参拝してただけなのですが、 バスで行かないといけない所でした あるとき観音様の御開帳のバスツアーに参加したときに ひどい思いをしたのがその1のお寺でした その1のお寺には 二度と行かなくなりました ココは檀家ではないお寺でしたが 人によっての態度は明らかに違う お金がある人には親切丁寧 貧乏人にはそれ相応の態度と言わんばかりの違いを感じていました その2のお寺では参拝中、参拝後に本堂から鍵をかける大きな音が7年間通っている間によくあり 参拝を嫌がっていると判断していかなくなりました きっかけは、参拝後に大きな音を立てて鍵をかけるので 来るなと言わんばかりの音をたててました 母に伝えてら 貧乏人に来るなと言っているなら行かないよと ココの住職は母に気遣ってくれることはあったのですが お賽銭も10円から30円または少ない時は1円玉数枚のときもあり 低所得者なので参拝するお金の確保も大変なのです 檀家があるお寺だったので、檀家さんだけを相手にしたいのかなと その3のお寺では 電話で参拝をしてもよいかと尋ねたところ 自由に参拝してよいとのことでしたが 3日間連続で先週通ったのですが 気になることがありました トイレがあるのに使え無いのです トイレの取っ手部分が外れていて使えないのです 普段からそうしているのか 私たちに使うなと言っているのか分かりません お賽銭が数十円だと相手にされないのかなと思ったりもします お寺での参拝でお賽銭が少ないと嫌がれるのかなと思うのです お寺の参拝理由は 母親を連れて行きます 母は高齢者で89歳です 母はお寺が大好きなので、母が若いころ座禅をしていたこともあり お寺や神社が大好きです 散歩途中にお寺や神社をお参りします 歩くためと 参拝お参りして、仏様や神様に助けてもらっていると実感しているので、通い続けています おかげさまで母はボケずにしっかりとしているのは 仏様のご加護のおかげかと思うのです だからお参りするお寺が必要なのですが どこか通えて少ないお賽銭でも参拝できるお寺は無いでしょうか 田園都市線沿いに住んでいます 私の考えや判断が被害妄想だと姉に言われましたが 私は出来るならお寺とのトラブルを起こしたくないのです 宜しくお願いします
疑問に思っていることがあり教えていただきたいと思います。 我が家では祖父の葬儀はお寺で行い、法事もしました。お盆には毎年迎え盆、送り盆を家族でしています。仏壇もあります。 自分の家の宗派も認識していますが、かと言ってそれ以外に仏壇にお線香を上げる等以外は日常で仏教的な事をしている訳ではありませんし、クリスマスを祝えば、神社にお参りする事もあります。典型的な日本人だと思います。 「私は仏教徒です」と言えるのはどういう場合なのでしょうか?逆に無宗教とはどういう状態でしょうか?身内が亡くなった際はどうしているのでしょうか。 仏教の本を読んだり仏像を拝観するのは好きですが、私の場合は無宗教なのか?と思ったりします。
いつもお世話になっております。 まずご報告します。 本日、退院いたします。 我々のために献身なさって くださる病院関係者の皆様方に、 御仏の加護がありますように。 さて… 赤系の半袈裟は、着けてはいけ ないのでしょうか? 私は趣味で能楽を嗜んでおり、 普段外出時や寺社参詣時、 袴姿で赴くことが増えました。 ある日菩提寺に、紺色の着物に 黒の袴、紺色の地に金襴の ハスの柄が入った半袈裟を 着けて行きました。 寺庭様に 「お不動様を意識した装い なので、本当は赤いお袈裟を 着けたかったのですが、 来る途中でうっかり、ケースに 紺色の袈裟が入ったままだった んです」 と申し上げると、 「赤いお袈裟はやめたほうが いい!お坊さんの、いちばん 修行した、いちばん位の高い ひとが着けるものだから!」 と言われました。 え?じゃあどうしてメーカーが 赤い半袈裟出してるん…? しかも信徒向けに… と疑問です。 折角買ったので、着けたいの ですが…だめなのでしょうか? 余談ですが、神社に赤い袴で 行ってはいけなさそうなのは、 なんとなくわかります。
私は、昔、仏事専門の書家として活動していたので、自然とお坊さんにひかれました。でも、出会いがないため、寺で働くにはどうすれば?又、お坊さんと知り合うには?
このサイトで、自分に自信を持ちたいなら毎朝掃除をしてみてください、とのお坊さんのコメントを見ました。 なぜ掃除を続けることで自信がつくのですか? また、お坊さんが掃除を重んじる理由を教えてください。 よろしくお願いします!
夜分遅くにすみません。 お寺ではなく、神社についての質問になるのですが、どうしても気になるので、ご存知の方がいらっしゃいましたら、回答をお願いいたします。 先日、姉と初詣の話しになり、あたしは毎年夫婦である神社に結婚する前から初詣に行っていると話したところ、数日して姉から 「そこの神社は女の神様だから、男女で行くと、嫉妬して別れちゃうんだよ!」 と、わざわざ嫌味のように連絡してきました。 私達夫婦が行ってることを知っていて、まるで私達はすぐに別れてしまう、長続きしない夫婦になっていると言わんばかりに話され、正直腹ただしい思いをしました。 そこで気になったのですが、神様、または神様のみならず、仏様なども、性別があるのかもしれませんが、それによって、女性の神様なら男女でお参りをすると嫉妬をして、二人を引き離す。 なんてことあるのでしょうか? 回答して頂けたら、嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
最近は、お寺や、お坊さんに、すっかり興味を持つようになってしまいました。 (はまってしまった という感じです) また、お聞きしたいことがあります。 ①「お寺」というものは、必ず「宗教法人」であり、 「法人」ではなく「個人」で運営(経営?)は有り得ないのですか? ②お坊さんは、お経を読むため「声」を酷使する職業ですが、 喉を大切にしたり鍛えたりとボイストレーニングなども行っているのですか? くだらない質問でスミマセン。。。
十数年前、従兄弟が昔から霊感があり、とある稲荷神社にお祓いに行った際に、従兄弟以外は見えて無かったですが、賽銭箱の上に狐がいると言い写真を取りました。 現像したら茶色の足先が黒くて首から腹が白い狐が写っていました。 実際に狐はみたこと無いですが、俗にいう狐でした。正直ビックリしました。 この辺の地域で狐がいるなど聞いたこともありません。 また、実家の敷地にとある稲荷神社を祀ってまして(詳しいことはわかりません。)、最近従兄弟が夢で赤い目の白い狐が現れたそうです。 怒った感じで顔の前まで来て消えたという事で、怖くなって実家にきて祀ってある所を綺麗にしたそうです。 今後どうしていけばいいのでしょうか?
自分の家庭は実の両親はキリスト教プロテスタント(聖書の教えの宗派)で継父(僕が中学2年生の時に母が再婚しました)は浄土真宗です。 自分も小学校低学年まで信じていたので一様洗礼は受けたのですが、高学年になってからお寺や神社の目の前の鳥居でこの寺や神社がなくなるようにお祈りしたり、牧師が直接他人の家である我が家庭に直接口出しをして制限をかけたりする行動にすごく違和感を感じたのと、幼馴染や友達と同じ宗教(仏教)を信仰して同じ生活を送りたいと思って教会を行くのをやめて母が認めてくれた中学3年生の1月までは無宗教でやっていました。 その後、仏教無宗派(まだ宗派は決めてません)になりました。 僧侶になりたい理由は色々縛ってきたキリスト教との決別。 小さい頃にとあるアニメを見た時からお坊さんの修行に興味を持ったのを思い出し、自分自身を鍛えぬきたいと思ったからです。 ただ、自分が住んでいる愛知県では僧侶見習いの求人が少ない(家からめっちゃ遠い)のと、僧侶になれる大学や専門学校も関西にあり遠いのと学力に自信がなく難しいかもと考えています。 また、住み込み僧侶や修行僧もありますがそれも関東や関西にあり、面接まで辿り着いても受かるかどうかは分からないという点やずっと前から掲載されておりそもそも返信が来ないという可能生があり応募に悩んでいます。 そこでお坊さんに質問なのですが、まずは僧侶になる前の見習い僧を目指したいのですが、どうしたら見習い僧になれるのでしょうか? 回答よろしくお願いします
私は今この春、高校を卒業してすぐ神職養成所に入り日々修練しています。元々社家出身では無いので神社の知らないことや、びっくりするようなことに触れてワクワクしたり逆に理想と違って引いてしまったりしています。今夏休み期間で実家に帰っているのですが、養成所での時間に縛られた生活、友達(私以外全員男子で話についていけない)も出来ず、神楽もあまり自分は上手ではなく先生に怒られたり、また理不尽な怒られ方をされたり、自分と他人を比べてしまい自分は向いていないと思いすごく落ち込んでいた養成所生活を振り返り、もう養成所に帰りたくない、逃げ出したい、辞めたい気持ちがとても強く、日々悶々と夏休みをすごしています。辛いことも楽しいことも含めて修行なのは分かっているのですが、それでももう心が疲れてしまいました。養成所にいる時に一人の男性と色々トラブルがおき、その事でももう心が疲れています。色んな環境の変化や、理想と現実のギャップ、神楽や祭式の下手さ、人間関係でのトラブルで、もう逃げ出したいです。 神様に仕え、感謝し、神様と人間の仲取り持ちとして生きよう! 今まで沢山神様にお世話になったのだから恩返しをしよう、何があっても辞めない! というような気持ちを前は持っていましたが、今は疲労しきっていてこれらの気持ちが薄れています。先生に怒られたくないだとか、めんどくさい仕事をしたくないとかしか考えていません。 自分で情けないです。せっかく神様が結んでくださったこのご縁を私は無駄にしようとしています。私はまだ頑張りたいです。でも逃げたいという気持ちの方が強くもうどう考えたらいいか分かりません。 お坊さんも私のように修行が辛くて逃げ出したい気持ちになったことはありますか? そしてどうやってその心を鎮め、また修行に打ち込みましたか?教えてください
僕は今29歳の男性です。10年以上前、高校生の時に霊感が覚醒しました。白い影や黒い影、ご先祖様の姿が見える経験をしてきました。現在では神社に行くと神様の姿が見え、お話もできるようになりました。しかし、家の中で過ごしていると悪い霊が僕の体に入ろうとしたり、意識を乗っ取ろうとしたりすることがあります。仕事中やゆっくり過ごしている時に、意識が朦朧とすることもあります。その際には、お祓いを行ったり、不動明王様のお守りを持ったりして対処しています。今後も仕事中やゆっくり過ごしている時に強い悪霊に憑依されると困ることがあるので、どうすれば悪霊に憑依されることなくゆっくり過ごせるでしょうか?ネットで調べると、霊能力を持ったお坊さんが全国にいることがわかりました。僕は霊感があるので、修業しなければならないのかもしれません。憑依されないようにするためには、どうしたら憑依に強い体質になれるでしょうか?
明けましておめでとうございます。 昨年もあまり良い年ではございませんでしたが、このサイトのお坊さんには本当にお世話になり、なんとか最悪の事態は免れているところでございます。ありがとうございます。 さて私事ですが、某寺に原則毎年参拝しております。そのお寺関連の学校に通っていたこともあり、学生時代は毎年参拝していました。就活で苦しんでいた時、初心に帰り7年振りにそのお寺を参拝したところ、内定が決まったのをきっかけに、以降毎年参拝するか若しくはそのお寺でお守りを授かるようにしてきました。2016年、悪いことが起こったのはその年に参拝も御守り授与もいけなかったからだと思い、昨年は参拝もし、お守りも授かったのですが、良い一年ではございませんでした。 現在は遠方に住んでいる関係で参拝は困難なのですが、今年、お守りだけでも授かった方が良いのでしょうか?それともこのお寺とは見切りをつけ、別の神社仏閣にて授かるべきでしょうか?
まず素朴な疑問のうえ、お坊さんの限りある時間と質問を増やしてしまい頭が下がります。 死後の行き先は生前の「行い」によって左右されるというのは勿論ですが、 こちらのサイトでもいろいろ知恵を授かっている内に、 死後の「裁判」は良い悪いの数直線上では計れないところもあると感じています。 たとえば、ある人は日本に住んでいて、 まったく仏教に触れていなかったとしたら? ある人は仏教に触れて、 仏教の「表面上の」知識は身に付けて、 それでもなお多かれ少なかれの悪い行いをして… 後者は私ですが、少なくとも「知っていて尚悪いことをする」のと、 知らずに悪いことをしたのとは、やはり裁判の天秤の重さに違いがあるのでは?と思いました。 「弥勒菩薩は兜率天に住み…」 「虚言はいけない」 「丸々寺は誰々により開かれ」 「般若心経」 「お寺や神社の真ん中を歩いちゃ駄目。」 「蚊を殺しただけで地獄」 「獄卒が火であぶる。」 私はこのような「情報」を得て、我を顧みることもなく過ごしています。 ただ蚊は殺めません。 仏教で守るべき掟も、出家された方にとっては、いままでとはより厳しくなると思います。 まず、 出家された僧たちにある戒律は、破ったときにのちの自分に降りかかるのでしょうか? それとも守ることで人のため、世界が良くなるべきの「願い」の要素がありますか? また、「在家」まではいかないが仏教を信仰する私として、 表面上の仏教を(インターネットで閲覧できる限りの知識を)覚えるごとに 死後の裁判の「ものさし」が厳しくなるということはあるのでしょうか。 おなじく、お坊さんとも一般人とも、仏教の知識が死後の「ハンデ」とはならないでしょうか?