私の父が余命2年と宣告されました。病名は、かんぱい症候群(肝臓病)父が居なくなるのは当然寂しいですし悲しいです。もし良ければ私の父が少しでも長生きするよう皆さん 祈ってはくれませんか?よろしくお願いいたします。
主人が難病を患い、余命3〜5年と宣告され2年が経ちました。子供はいませんが、子供が欲しいと願う事があります。 経済的も難しい問題はありますが、主人にとって、子供を持つことが思いを遂げる事なのか、生に縛る事なのか、判断がつきません。仮にこの状態で子を持つ事は子にとっても不幸でしょうか?
よろしくお願いいたします。 同居している義父が大病を患い、入退院していましたが、昨年頃から容態が芳しくなく、春頃より入院しっぱなしでした。 最近になり、とても親切なお医者様やスタッフの方々のおかげで、少し持ち直し、一時帰宅も頻繁になってきていましたが、先日、義父の弟さんが同じ病で亡くなりました。 義父は、私や孫の前では気丈でしたが、遠方まで行って葬儀を終えた義母が帰ってくる頃、やはり気落ちしたのか少し悪くなってきています。 義母は、以前より、義父の容態が少し良くなると家に帰り私の前であからさまにがっかりして見せ、「早く…(とても書けません)」と言うことがあり、先日私がそれに嫌悪感をのぞかせるとそれ以降あまり言わなくなりましたが、相変わらず義父の容態が悪いとそわそわして…どこか楽しそうに見える気がしてしまいます。 そんな矢先、余命宣告をされたとそんな義母から聞きました。 主人もが、今週の一時帰宅が最後だろうから私に義父の写真を撮れと言うのです。 私も父を同じ病で亡くしていて、主人の言葉の意味も気持ちもわからなくはないのですが、何か違う…と違和感を感じています。 写真なんて、そんな気持ちでとるなんて、嫌です。 私的にはこの山を越えてもらってまた持ち直してもらいたいと思うのに、なぜ本当の家族達はこんなに冷めて冷たいのでしょうか。 父の代わりじゃないですが、勝手ながら義父には少しでも長生きして貰って孝行させていただきたいです。 でもいざという時はやはり私は部外者で蚊帳の外、もどかしくさえ思います。 義母や夫から義父の話を聞くのが嫌です。 どうすれば、どう考えればいいのか、心の置き場に迷い困っています。 分かりにくい文章ですみません。うまく言えませんが、よろしくお願いいたします。
私のお婆ちゃんに2ヶ月ほど前、胃癌が見つかりました。持って半年、早ければ3ヶ月と言う余命宣告。 お婆ちゃんには癌のことは隠して、母と伯母夫婦と話し合い今は思い出をいっぱい作ろう!という事になりました。 母と私は仕事があり、中々時間が作れないので伯母夫婦がお婆ちゃんの身の回りの事をしてくれています。 その事に関しては感謝していますし、近くに居てよかった。と思っていました。 ですがつい最近ホンの些細な事で伯母がお婆ちゃんに対して怒ってしまい、「退院も支度も1人ですればいぃ。」 と言っていました。 最初は冗談だろうと思っていましたが、どうやら本気のようで。 母は伯母に何故怒っているのか理由を聞くと 「病院食は食べたくないし、吐き気がするって言ってたから朝昼晩とわざわざご飯を作って持って行っているに、気を使わなくていいよって言うあの言葉が腹が立つ。 私が毎日御見舞に行っているのに私の所にはお礼の電話もない。散々迷惑かけておいて。 私は退院の日は行かないから。」 その言葉に私は怒りが込み上げてきました。 私からすれば大事なお婆ちゃんですが、伯母からすればたった1人の母親です。血のつながった親子です。 とても1人で退院できる状態ではないですし、ゆっくり歩くのが精一杯。 迷惑かけているのはお互い様、今そう言うことを言っている場合なのか。心が狭すぎる。 いつ亡くなってもおかしくはない状況なのに、そんな言葉が何故出るのか私には理解できません。 そして追い討ちをかけるように、伯母の旦那が「何も持って行かなかったらご飯食べるよ。こっちが色々持って行くから食べないだけ。」 そんな事をよく言えたなと思いました。 癌のせいで食欲も落ちてしまい、体重が35キロしかありません。なので少しでも体力がつくように、体重が増えるようにと思いお婆ちゃんが好きそうなものを持って行っています。 そんな事も分からない伯母の旦那にも腹が立ちます。 私が文句を言いたいのですが、お婆ちゃんの病気の事もあるので今は我慢しています。 ですが人として伯母夫婦の事を許せません。 顔も見たくないぐらいです。 こう思う私の心が狭いのでしょうか。 長文になってしまいすいません。 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。 ご回答お待ちしております。
3つ年上の彼氏と付き合って2年で「別れてほしい」と言われ、好きだったのですが仕方なく別れました。 その時彼は余命宣告をされていたのですが、私は何も知りませんでした。 彼が病気でもうダメかもしれないと友人に聞かされ、彼に会いに行った時に彼に「別れてからも好きだった。でもこれからは新しい人と仲良くしてね」といわれ、心が激しく動揺しました。 その後、彼はすぐに亡くなり、私は精神的に不安定になってしまいました。 それから一年が経ち気持ちの整理がついたと思っていたのですが、命日が近づくととても苦しくなって突然泣いたりしてしまいます。 これから好きな人をつくって付き合ったりしたいし、結婚だってしたいです。 でも人と付き合うことを意識した瞬間に、元彼に申し訳なく思ってしまいます。また、お付き合いする人に対して失礼なのではないかと思ってしまいます。 そして、彼の病気をしり現在医療職を目指しています。しかし、彼と同じような患者さんと出会った際に自分が動揺してしまうのではないかとものすごく不安です。 これから新しい人と付き合うため、また医療職として病気の方と接するため、彼を思う気持ちを忘れた方がいいのでしょうか?
愛犬が末期の腎不全を患っており、余命も長くない状態です。 昨年12月に腎不全となり、様々な治療をしていますが、他の病気も見つかったりと、中々進行が抑えられず辛そうにしていることが多くなりました。 愛犬は、職場で迷子の所を保護し飼い主が現れなかった為そのまま里親となった子です。 いつどこで産まれたのかもわからないのですが、本当に優しくて聡い子です。 一日でも長く生きて欲しいと思う半面、苦しい日を送らせることへの申し訳なさもあり、毎日泣いてばかりです。 今の私にとって彼女は生きるすべてであり、彼女がいなくなった先の事を考えるだけで、いっそ一緒に死んでしまいたいと思ってしまいます。 頭では彼女は十分頑張っているし、人も犬もいつかは命が終わることは避けられないとわかっています。 けれど、彼女がいない日々を思うと、不安で死にたくなります。 彼女の前で泣かずに、笑顔で頑張っていることを褒めてあげたいのですが彼女を見ると涙がとまりません。 どうしたら、彼女の今の状態を受け入れられるようになりますか? やがてくる彼女の死に接したときにどうしたら、死にたい気持ちを乗り越えられるのでしょうか。 まとまりがなく、長々となってしまい申し訳ありません。 宜しくお願いします。
昨年の秋頃に、NHKのドキュメンタリー『ありのままの最期 末期がんの“看取り医師”死までの450日』が放送されました。医師で僧侶の田中雅博さんが、末期がんとなり亡くなるまでを記録した番組です。 田中さんは「死ぬのは怖くない。看取った患者から死に方を学んだ。」と語っておられました。 とはいえ、現実には思い通りにはいかないこともあり、言葉を失うくらい壮絶な内容でした。 私にも一応、理想の最期のイメージはありました。誰でもいつかは死ぬのだからじたばたしても仕方ない、自分らしく生き、寿命が来たらそれはそれで受け入れるだけだなと。 でも、実際にそれを間近に感じた時には不安だらけ。じたばたしまくり。私はこんなに弱かったのかと愕然としました。 この時は単なる体調不良でしたが、現実は自分が死ぬなんてそんなに簡単に割りきれるものではないことを経験し、分からなくなりました。 「死に行く者の死に方から学べ」と田中さんはおっしゃったそうです。 “人の生き死には思い通りにはいかない。それでも、なるべく冷静に過ごすにはどうすればいいだろう” 今度は慌ててしまわないようにと、以来ずっと考えていますがまだ答えが出ていません。 お坊さんはたくさんの方の最期に向かい合っておられるので、ご自身に関しても既にイメージがあるのではないかと思います。 例えば病気で余命宣告されたとしたら、暫くの間は痛みや不安など心身の変化に耐えることになりますよね。 今回お尋ねしたいのは「最期の、耐えて待つ生き方」です。どのような心境で、どのように過ごしながらその時を迎えようと思いますか? お坊さんとして、でもいいですし、一個人としての思いがあれば教えていただきたいです。参考にします。 よろしくお願いします。
転職・引っ越しによる環境変化と母の死が重なり心身ともに辛いです。 先日、母が癌で亡くなりました。1年前から入退院を繰り返しており、余命が短いことは覚悟していましたが、やはり悲しいです。母が病気の苦しみから解放されたのは救いですが、この先母がいないと思うと人生がつまらなく感じます。まだまだ母とやりたいことがたくさんありました。 母の死は時間が癒してくれるのを待つしかないのですが、ちょうど転職と引っ越しをした直後に母が亡くなったため、新しい仕事を頑張れる気がしません。一人暮らしでホームシックにもなっています。まだ結婚もしておらず、一人っ子でもあるので孤独感が大きいです。 新しい仕事は私が目指していたことで、母も生前応援してくれましたが、母が亡くなった今となっては前向きになれません。これから新しい仕事のためにたくさん勉強しなければならないのに、無気力で頑張れる気がしないです。 母の癌が発覚した1年前から精神的にしんどく、診療内科に通うほど体調も崩しました。そのような状況下で頑張って転職し、これからというときに訪れた母との別れは新生活の不安と二重の苦しみで耐えられる気がしません。これからどうやって日常生活を送り、前向きに人生と向き合えばよいでしょうか。
はじめまして。 私の実の父親が現在入院していますが、先日、命の期限が残りわずかであることを担当医から聞かされました。 私自身、覚悟はしていましたがかなりショックでした。 母親は持病があり、父親の突然の急変に戸惑いも大きいため、重要な場面でのやりとりは全て私が請け負い、母親の負担軽減をしています。 私には自死した弟がいます。その傷も癒えないうちの父親の余命宣告は、母親には酷過ぎて…とても悩みましたが伝えないと決めました。 父親の容態からも先を感じ取っているようにも見えるので、わざわざ期限を伝えて悲しみをより深くする必要はないと考えました。 この選択が正しいのかどうかは分かりませんが…。 弟の時は突然だったので何も出来ませんでしたが、父親には思いを伝える時間があります。 限られた貴重な面会時間を大切にしようと母親と話しました。 先日「お父さんの娘で良かったよ」と笑顔で伝えたら喜んでもらえました。 意思があるうちに伝えることが出来て本当に良かったと思いました。 この瞬間を宝物にしようと思います。 泣きたいくらいの毎日ですが、私は持病の関係で泣くと発作を起こしてしまうため、泣くことはあまり許されていないのです。 教育関係という仕事柄、笑顔でいることも重要です。悲しみに蓋をして子どもや父親の前では笑顔を見せています。 弟の悲しみの経験があるから、今頑張ることが出来ています。 現在、父親は意思の疎通が難しくなってきており命の期限が近いことを感じ、本当はとても不安で怖い気持ちです。 しかし、早く痛みや辛さから解放してあげたいとも思っています。 私自身、辛くて悲しいのですが頑張らなくてはなりません。また、頑張ろうと思っています。 今後、どの様な気持ちでいたら良いのかを教えていただきたいと思います。 よろしくお願いいたします。
初めまして。 実は我が家におこる様々な災い?について、不安で仕方がありません。 十数年前に父が経営していた会社が倒産し、家も車も貯金も全て失いました。 やっと苦しみから脱し、普通の生活が送れるようになったのに、三年前に父親が癌である事が判明... 余命二年と言われ、未だ抗がん剤治療を続けております。 父が旅立ってしまったら、気丈に振舞っている母親の事が心配で堪らず、兄と二人で支えていこうと話してました。 その矢先、その兄が鬱病を発症してしまいました。 責任感の強い兄なので、今後長男である自分が何とかしなきゃと奮い立たせていたのですが、仕事のストレスもあり、限界を超えてしまったようです。 私も昔心疾患になった事があり辛さは痛いほど分かるので、そんな兄を見ていても何も出来ない自分に不甲斐なさを感じます。 私の主人も体調を崩しており、あまり心配掛けたく無いので、明るくつとめてますが、私自身も精神的に限界近くなり、そろそろ心が折れてしまいそうで怖いです。 今後家族とどのように向き合い、子供として妹として妻として、何をどうしていくべきなのでしょうか。 何故こんなにも辛い出来事が次々とおこるのか... 私の何がいけないのでしょうか。
主人が白血病になり、年明けに9ヶ月の闘病をへて旅立ちました。それから5ヶ月、小2の息子と2人で生きています。私の父も義父もすでに他界して、母と姉は主人の発症から1ヶ月で鬱になり、義母と2人で何とかやっていました。元気な頃からも、失礼な言い方ですが癖のある義母とは距離をおいていましたが、発症当初から生存確率の低い遺伝子の種類の白血病と言われていたので生活面での相談など、夫婦している時も、あなた何を言っているのか!と言われたり、一時退院のたびに主人は大好きな酒とタバコで、夜中に帰宅する主人のことを困り果てて相談しても、それじゃあ離婚すれば良い、あなたが決めればよいでしょ?と投げ捨てられたり、本人に余命が伝えられて明日退院したいと主人が言い出した時、息子との生活があり明日はできないけれど1日2日待ってくれと言っても、命のない息子の言うことが聞けないのか!と怒鳴られたり。言い訳すると、あークラクラする、と倒れるふりをしたり。余命を知らせるのもどうしますか?との医者の話に、私が、知らせたら主人の心が折れてしまうのか心配な反面、これから息子と2人の生活もあるので、伝えてもらって本人の言いたいことを聞きたいとも思うと私が言おうとする途中で、この人はどう思ってるのかわからないが、私は余命を伝えるのは許さない、と周りに投げ捨ててさっさと行ってしまったり。主人の親戚にも治る病気と最後まで嘘をついていて。聞かれて何できちんと伝えないんでしょうか?と言っても親戚がかわいそうでしょ?と言われ。おかげで、亡くなった翌日から、おばは、主人に渡していたアレは知らないか?だとか、四十九日は少し立派な食事会場でないと良くないだとか、口だけ出すだけで今まで一度も大丈夫?と電話は一本もしてきません。義母は葬儀の食事の際も、目の前の息子をさておき、義弟の子供にこれあげるとデザートを渡していたり。2人になった今関わることは無く、辛いけれど平和です。ただ、その義母が隠していたおばから毎週のように電話があります。息子だけ遊びによこせと。おば夫婦には子供がいなくて、主人が可愛がられていたようですが、生前から義母と同じく困らされていたので、連絡とりたくありません。亡くなった後も、私は全て投げ出したい中、礼儀として現況のお手紙は何度か出させてもらってますが無視されていました。心が壊れそうで息子にあたってしまいます。
二年前に父が余命宣告を受けました。 「話がある、早く帰って来い」 ぶっきらぼうなメッセージだと思いつつ、それに従い、いつもより早く帰宅した私。 ドアを開けると誰も死んでいないのにリビングはお通夜状態で、目に涙を浮かべながら強がる父と、すすり泣く母がいました。 膵臓ガンだと、完治する可能性は低いと、医者曰く余命は3ヶ月か半年だろうと。 母にどうしたいのかと聞くと「一緒にいたい」というので、父も母も仕事を辞めることに。 それから父と母はいつも一緒でした。 どこにいくのにも。 なにをするのにも。 「新婚みたいだね」とからかうと母は嬉しそうにしたあと、少し辛そうに笑ってました。 母は父のためになんでもしました。 外に出るときは父の荷物を母が持ち、支払いは母がして。 父が「あれが食べたい」と言えば作ったり、買ってきたりと。 そんな最後の新婚生活を送っていた時間だけはとても幸せだったのだと思います。 半年を過ぎたころ。 父の体調は一気に変化しました。 歩くだけで疲れるようになり、ベッドで横になっている時間が長くなっていき。 そして余命宣告から一年後に亡くなりました。 棺に入った父から 「お母さんがいたから半年も長く生きれたんだよ」 「ありがとう」 そんな言葉が聞こえました。 父を亡くした母はその後、大変でした。 葬儀中は気力で耐えてたもの。 昔の職場にも戻れるような精神状態でもありませんでした。 精神科にいくことを勧め。 私は普段の生活リサイクルを続けていました。 そんな、ある日。 母が亡くなりました。 脳梗塞だったと。 私が仕事に行ったあと、脳梗塞で倒れ、助けを呼べず、そのまま亡くなったのだと。 父が亡くなってから三か月後のことでした。 父の側にいた母は 父を最後まで救けていたのに 母の一番近くにいた私は 母になにもしてあげていなかった その事実だけが今も胸に残ります 母は生前から「人を騙したり、貶したり、憎んだり、憎まれるようなことはやめなさい」と言っていました。 母は自分のことを後回しして家族を愛していましました 母は私のことを愛していたのに、私は母を愛してあげれてなかった 私みたいな親不孝は生まれてくるべきじゃなかったと 母のことを想うと 自分の不甲斐なさで嗚咽がとまりません 私は生きてていいのでしょうか?
先日 叔父が亡くなりました まだ60代と若く 病気が発症してから1年という短い期間でした 私の仕事柄 叔父は冗談の様に 俺が病気なったら頼むなと言われてました 去年までは手術をしながらも まだ歩いたりする事は出来ていました 今年頭に手術後からは状態も悪くなるばかりでした 私は姪という立場でしたが相談され 節目節目に立ち合わせて貰えました 叔父に何か伝える時も 家族と相談し話しを決めてきました 余命宣告され 私は叔父の気持ちが一番だけど家族はどうしたいかを聞き総合的に判断しました 結論を出すのは家族です ただ こんなに身内に対しては動揺するのだと実感しました まさかという思いで受け入れることが中々出来ませんでした 家族から 余命宣告は伝えないで欲しいと言われたので担当医にも伝え 現状を伝えることにしましたが本人は分かっていたみたいです 深くは聞かず話しを聞いてました 色々あり 暫く会いに行けず 間を空けて会いに行くと 叔父は沢山話してくれました ○○は可愛い姪っこだよと まだまだ頑張るよ ○○の事信じてるから大丈夫だよ ○○は人の事より自分の事を考えてと言われました 私は泣きながら会話をしていました 苦しかった筈なのに逆に励まされました 仕事柄もっと何かしてあげることが出来たのではないかとただただ後悔しています 危篤状態となり 私はただただ ずっと手を擦り 温かいタオルで手を拭いてあげることしか出来ませんでした もっと話しておけばよかった もっと元気なうちに沢山会っておけばよかった 余命宣告より数ヶ月も早く亡くなりました 気持ちの準備も整わないまま まだまだ一緒に居られると思っていたから凄く自分を恨みました もっともっと ありがとうと伝えればよかった 可愛いがってくれてたのだから 素直にありがとうと言えばよかった 当たり前が当たり前ではない事 今更知りました あの光景は一生忘れられないと思います ただただ後悔だけが残りました
尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。
今月の12日に母を末期癌で亡くしました。ステージⅣで抗がん剤も効かず6月の段階で余命1ヶ月の宣告を受けていました。母には癌の事は知らせましたが、余命の事は知らせませんでした。 母は自宅で死にたいと希望しており、7月に退院してからは在宅医療を受けていました。私は母に心配ばかりさせていた親不幸娘だったので、母のサポートを通して、親孝行しよう!と思っていました。 母は亡くなる直前までトイレは自分でやりたいと強く思っていました。胸膜へ転移していた事もあり、動くと辛そうでしたが、私は母の思いを尊重しトイレ介助をしました。容態が急変する前日もトイレ介助したのですが、母はもう呼吸が荒々しく本当に辛そうでした。 その翌日容態が急変し、夜中に母は眠る様に息を引き取りました。最期を私が看取りました。耳は最期まで聞こえていると教えてもらったので、私は母に「ありがとう」と伝えるつもりでした。しかし、「お母さん…」としか話しかけられませんでした。 息を引き取る時に何故、感謝を伝える事が出来なかったのか強く後悔しています。 これからもっともっと親孝行したかったのに何も出来なかった後悔もあります。私が母に出来た事はシャワー浴をして全身を洗ってあげた事くらいです。本当はもっと親孝行したかったのに…。 私は最期に親孝行出来たのでしょうか?母は喜んでくれたのでしょうか?毎日そればかり考えています。
母を亡くしたのは7年前です、余命が付いた末期の乳癌でした。 告知をするか迷い、悩み、家族で話し合い決断したのは伝えないで、希望を捨てず治療していく・・・今思えば母は気付いていたと思います。 旅立ってから周りの親族から母の生き様について色々な話を耳にしました、私が子供の頃の父との関係や経済状況、両親はとても仲がよく私は幸せなんだと感じていました。 しかしながら金銭的な面でも制限され、日常の買い物も行く場所を制限されとても大変だったと聞かせれました、母は本当に幸せな人生だったのか・・・ 病気療養中も私自身仕事が忙しく、母の所へは休みの日に1、2時間顔を出すぐらいしかしていませんでした、死は必ず訪れるもの、忙しさを言い訳にしていた私は冷たい人間です。もっと一緒に居てあげるべきだった、何処かに連れて行ってあげればよかった、本当はあの時余命を教えてあげた方が残りの時間を有意義に使えたのかもと、ずっとその答えが見つからず今に至っています。 このまま答えを見つけ続ける事が何もしてあげられなかった私の償いになるのでしょうか?
今付き合って半年になる彼氏がいます(人生初めての彼氏です)。 その彼氏と今日(日曜)会う約束でした。 本当は土曜がよかったのですが、彼の祖父が退院してくるというので日曜にしようとなりました。 そして会う日の前日、祖父の退院が1日遅れる、と連絡が来ました。つまり私と会う日に退院してくるのです。 祖父からの電話では「退院が遅れるよ」、ではなく、「大丈夫やと思うで」と言ったのだそうです。 彼の祖父は余命宣告をされています。余命がわかっているのに、含みのある言い方さらに退院が遅れる、それだけで何かよくないことがあったのでは、と心配になりました。 もちろん会う約束はなくなりました。 そして今日、祖父は大丈夫だったのか彼に連絡しました。すると 「大丈夫、ただおじいちゃんが退院する日を勘違いしてただけでなんともない」と返ってきました。 私は安心しましたがそれと同時に悲しくなりました。祖父の勘違いで今日会えなかったのか、と。 今日会えなければ次会うまでに3週間あきます。たった、3週間とみんな言いますが私にしたらとても耐えられません。電話じゃなくて会いたいのです。 そう考えてしまい、彼の祖父を口にはしませんが頭の中ですごく責めてしまいます。 会いたいという気持ちが強く、本当は会えたのに祖父のせいで、とどうしても考えてしまいます。 どうすればこの苦しみが和らぎますか
以前にも相談し、温かいお言葉を頂戴しまして、本当にありがとうございました。 私の母は髄膜腫を患っているのですが、先日医師より余命2〜3ヶ月と告げられました。 父が3年前に60歳で癌で亡くなり、その後家も火事で失くなり…途方に暮れながらも母や姉弟と何とか3年間やってきました。 歳を追うごとに母の病状が悪くなっていき、先が長くないということは理解していたつもりですが…いきなりの医師からの宣告に、目の前が真っ暗になって毎日泣き暮らしています。 母も日々意識が保てなくなっていることに恐怖を抱いているのか、たまに自我がはっきりしているときはひたすら呻き泣いています。 既に動けず、話も出来ませんが、恐らく自身がそう長くないことも感じ取っているようです。 なるべく自我がはっきりしているときには傍にいてあげたいと思い、余命の宣告があってからは毎日病院まで通っているのですが… 母が呻き泣いていても「頑張って元気になって家に帰ろうね。皆で頑張ろうね」としか言ってあげられず… どうしたら母が心穏やかに最期の時を迎えられるのか…私がしてあげられることはありますか? 祖父母も亡くし、父も亡くし、家も失くし、自身ももう10年以上病と闘ってきました。まだ母は64歳です。 いつでも明るく前向きだった母が、痛み苦しみ絶望しながら最期を迎えるなんて余りに酷すぎます。 死の淵で絶望に覆われている母の心を、何とか救ってあげることは出来ないでしょうか。
今年の8月30日に父が癌で他界しました。 享年60歳でした。 今年の初めより余命宣告を受けており、亡くなる2ヶ月ほど前から看取りの方針で同居することになりました。 私は看護師をしているのですが、現在育休中で他の家族より長い時間共に過ごし、点滴等の介助、病院の付き添いも行っていました。 入退院を繰り返してきてた父でしたが、 他界する数日前に「しんどいから病院へ行きたい」と口にし、入院となりました。 点滴加療で身体のしんどさは軽減し持ってきた梨まで食べてくれるまで元気になっていました。 早く帰ろうな!また来るわ!と言ったのが 最後2日後に危篤状態になって亡くなりました。 余命宣告を受け医師から何度も話をしてもらい 看護師をしている上で経験上他の人よりわかることも多かったのですが、いざ本当にいなくなってしまうと受け入れれない自分もいます。 その反面淡々と葬式の準備や、死後の身辺整理等を行っている自分もいます。 現在子育て中ということもあり、哀しみに浸るということはなく、父がいなくなっても当たり前の日々を過ごしています。 時間がある時に父との思い出を 思い出そうとすると頭の思考が拒絶して 亡くなる前のことも考えることを自己で阻害してしまいます。 悲しんであげるのを父は望んでいるのではないとは思いますが、淡々と法事をこなし、 日常を過ごすことにすごく嫌気がさしてしまいます。 忘れてはいません、しかし具体的にこう話したりこんな様子だったということを振り返ろうとしても考えられません。 こういう時はどうしたらいいですか。
今日、母が亡くなりました。死因は癌です。 年内と余命宣告されていたためか、または心が麻痺してしまっているのか 現実味が湧きません。 ただ後悔の気持ちに押しつぶされそうです。 突如真っ暗闇の中に放り出された気持ちです。 明日からは数日間、葬儀などで忙殺されるでしょうが 終わってから普段通りの日常に戻ってからが怖いです。 母の居ない日常は想像できません。 母の介護に時間を費やしてきたため生き甲斐になっていました。 特に親しい友人もおらず、独身なためもう自分の役割は終えたような気が します。 生き甲斐を亡くした今、どう、すればよいのでしょうか。