初めまして。 生きがいというものを求めています。 大学に入ってから考えつづけていたのは、自分の人生に意味などなく、どうせ死ぬのになぜ勉強し、働くのかという問いです。 ほとんどの宗教では、生きること自体を肯定しているように見えますが、 それは人間が脳内で作った勝手な理屈で、何だかよくわからないけど怖いからそれらしい理屈をつけて、人生に納得しようとしているようにしか見えません。(宗教をバカにして言っているわけではありません、一連の『物語』を信じ、神や仏に帰依することができないんです) 「生きがい」で検索しても出てくるのは、怪しい宗教のサイトや高齢者福祉施設ばかりです。 どうしたらいいんでしょうか?
仕事が毎日忙しく、自分の時間が持てない日々。 来る日も来る日も仕事に追われて夢の中でも嫌々仕事し、怒られて、悪夢を見続け追い詰められます。遊びに行くような友達も1人もおらず、相談できる人も身近に誰もいません。家族にも毎日八つ当たりして、もう長生きしたいとも思わないし、別にいつ死んでもいいと思っています。 私は世の中お金が全てだと思っています。お金がないから働き、お金を自分で生み出す才能がないからこうして嫌々やりたくもない仕事をやり、働いてたいしたお金も貰えずストレスまみれのつまらない日々を送るしかないのだと思います。自分には何もない、才能もないからこのくらいのつまらない人生を送るしかないのです。 小さな楽しみや幸せを見つけなさいとよく言われますが、私にはただ日々がそうできている程度にしか思えません。そんな気休めもう充分だと。 とにかく毎日辛く、楽しいこともなく、さっさと死にたいという気持ちしかなく無気力で悲しいです。こんな不愉快な考え方の私にもうお言葉も頂けないかと思いますが、最後の助け船だと思い投稿しました。
父が亡くなって一か月です。 不器用だったけど優しくて、大好きな父です。 もういないと考えると寂しくて悲しくてたまらなくなります。 毎日のように骨壺をあけて骨を触ってしまいます。 いなくなったのを納得したい気持ちと、父がいたことを少しでも覚えておきたい気持ちで触ってしまいます。 もう少ししたら納骨することになります。 そしたらもう触れないと思うと、寂しいです。 でも母や兄たちには言えません。 家族みんな寂しい気持ちを乗り越えようとしてるのは同じだとわかるから。 でも、寂しい。 誰でも大切なひとを亡くす経験をすると思いますが、どうやって気持ちに折り合いをつけているのでしょう。 悩んだときにいつも話を聞いてくれたのは父でした。 父に会いたくてたまりません。
こんにちは。 私は現在生まれ育った町に戻ってきています。 留学に近いことをしていて、 一度親元を離れて暮らしていました。 休みなので帰ってきましたが、 もう残り僅かの時間が悲しくて仕方ありません。 留学へ行くときはさほど寂しくありませんでした。 親ともまた会えるし、いつでもここへ戻ってこれ ると思っていたからです。 今ではそんなこと思えません。 一度離れた、慣れ親しんだ町へ帰ってくると いかに思い出があるか、いかに愛着があるか、 いかに家族といたいかということを痛感してしまいます。 その上、父の仕事の関係で家族全員が会えることが滅多にないなかで、 いま一番好きな場所で会えてしまっていることが 幸せすぎて 本当にこの時間が終わって欲しくない。 次いつ会えるか確実でない家族と離れることが 違う場所で暮らすことが、そばにいないことが、こんなに悲しいなんて知りませんでした。 誰かと本当に会えなくなってしまうのではないかと不安でたまりません。 母は重めの体調不良で 「もしかしたら病気なのでは、」 という考えが頭をよぎるし、 父だって、 不規則な生活をしていて、年齢のこともあります。 どうしても笑顔でまたねと言える気がしないのです。どうしたらこの不安でたまらない気持ちを取り除けますか。どうしたら泣かないでいられますか。どうしたら留学先に明るい気持ちで帰れますか。 どうか教えてください お願いします。
仏教、特に最近では浄土真宗に関心がある者なのですが、「阿弥陀如来とは何か」「(阿弥陀仏を)信じるとはどういうことか」という疑問が拭えず、調べていくと、こういう文章に出逢いました。 〈親鸞聖人のおすすめ下さる信心は、「思い込み疑わないこと」という意味ではなく、「疑いがなくなって帰依する」という意味であります。「疑いがなくなる」とは「明らかになる」ということです。 では、何が明らかになるのかと言いますと、縁にふれたら、どちらへ転んで行くか解からないような危なっかしい自分の相が明らかになると共に、「あなたがどちらに転んで行こうがほっておく事はありません」と、私をしっかり抱きしめて下さる確かな阿弥陀如来のお心が、明らかになるのです。〉 阿弥陀仏が他の宗教でいう絶対神(創造神)ではないことは聞いたことがありますが、こういった文章を読むと、多分にそういった要素があると感じてしまいます。上記引用の阿弥陀如来をイエスに置き換えればそのままキリスト教ではないでしょうか? 仏教は、釈迦が無記を説いたように、形而上のことは判断しないとする極めて理知的な宗教だと思うのですが、浄土真宗のお坊様方はは、いつも傍らにいて下さるイエス様を信じるように、阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。そうでないならば、どのような形で阿弥陀仏を信じておられるのでしょうか。 不躾な質問の仕方になってしまい大変恐縮ですが、御回答いただけると幸いです。よろしくお願いいたします。
はじめまして、ちぃすけと申します。 私は、2ヶ月前に彼氏を自殺で亡くしました。 ご両親には勿論、友人や私にさえ相談せず、仕事で数ヶ月悩んでいたようでした。 亡くなった翌日(私が彼氏が亡くなったのを知った日です)、すぐに彼氏と生前、一番仲良かった友人に報告しに行きました。 すると、その日の夜に友人の夢に彼氏が夢で謝りに来たようです。 そして、亡くなって翌々日、お通夜の日に斎場で彼の遺体と同じ部屋で眠っていた時に、ふと目が覚めると、私の隣りで彼氏が寝ていました。 お葬式の日は、彼氏のご実家に泊まらせていただいたのですが、夢を見ることはなく、そのまま翌日、ご両親と彼氏のマンションの遺品整理に出掛けました。 遺品整理が一段落し、ご両親と別れて、一人で歩いていたところ、背後に気配を感じたので話しかけてみましたら、全身に鳥肌が立ち、彼氏が私の後ろにいる!と感じました。 そして、その夜、夢に彼氏が出てきました。 特に何か話してくれることもなかったのですが、、 私が疑問に思っているのは、彼氏はご両親の夢には一切出てきていないようなのですが、 ご両親も仏壇に「一回話しにおりてこい!」と話しかけたり、私も「ご両親には今回のことでいっぱい迷惑かけたんやからちゃんと謝りに行きなさい!」と遺影に話しかけてはいるのですが、、 四十九日を過ぎても全く私の夢にさえも出てこなくなりました。。 こちらが夢枕におりてきてくれるのを望んでいましても、 あちら側がこちらに未練が無ければ、出てきてはくれないものなのでしょうか?? 私も彼氏に一言言いたいことはあるのですが…… 彼氏が自殺する直前に私に 「こんな情けない奴のことは早く忘れて幸せになってくれることを祈っています。」 とメッセージを送ってきているので、 私のことはもう彼氏の中では終わったのでしょうか。。 何だか納得のいかない別れ方で忘れるに忘れられなくて、最後に一言ぐらい言いに来てほしいです。。 どんなお答えでも結構ですので、どなたかアドバイスを下さると嬉しいです。 よろしくお願い致します。
死のうと思います。 幼い頃から親と親族に虐待されて育ちました。学歴もまともな職歴もない33歳です。 物心ついたころから色々なことにチャレンジしますが、全て失敗してきました。20代は医学部へ行こうと隠れ浪人を続け、叶わずただ貴重な20代を潰しました。 その後派遣を転々としましたが、いつも能力無しとして1ヶ月で派遣切りに合います。 高校生のころから鬱病と摂食障害を患っています。今は寝たきりで働けません。 風俗で働こうとしましたが、出来ませんでした。 色々なところに相談しましたし、病院も転々としましたが話を聞くだけだったり暴言を吐かれて終わりです。 日本人が嫌いです。 こんなはずじゃなかった。外に出るとしっかり働いてる人が羨ましくて情けないです。生活保護を受けようかとも思いましたが、公務員相手になんとなくみずぼらしくてなさけなくてやめました。 ずっと味方になってくれてた叔母も、孫ができてから私を捨てました。 友達もたいしていません。 疲れました、死のうと思います。でも首吊りしたら一人暮らしの賃貸だから親に迷惑かかると二の足をふんでしまいます。虐待されてきたのに洗脳されてるんです。 樹海で死ぬことを考えましたが、そこまで行く体力も気力もありそうにないです。 でも首吊ることにしました。もう疲れました。 情けないみっともない。 高学歴な親からすれば私は失敗作なんです。 長く申し訳ありませんでした。
30代未婚です。 親とは離れて暮らしています。車で五時間くらいの距離のため、 盆、正月に帰るくらいです。 関係は良好で、一人でいる私を心配しながらも、 温かく?見守ってくれています。 身近に友達もいますが、結婚してそれぞれの家庭をもっているため、 相手をしてほしい、一人で居たくないときに、わがままを言える状態ではありません。 最近、孤独感が半端なく押し寄せてきます。 自分が一人ぼっちのように感じて、誰かと話したいと思うんですが、 つい家に引きこもりがちになっており、 満たされない心とどう付き合えばよいか悶々としています。 どうしたら孤独感を取り除くことができますか?
私は今大学生で、血縁のある母とその再婚相手と暮らしています。 この生活が始まったのは小学校高学年の頃です。 最初はその生活もなんの苦もなく送れていたものの、段々と家での生活がしにくくなっていきました。 それが決定的になったのは中学一年生の夏休みです。家庭科の宿題を手伝って貰おうと思っていたのですが喧嘩をしてしまったので、その宿題は祖母に手伝ってもらおうと思い祖母と一緒に進めていました。宿題が終わり家に帰ると、継父は機嫌が悪く、その理由は「なんで自分の家で宿題ができないんだ」というものでした。その時には既に嫌いという感情はあったものの普通に接することはできている時期でしたが、その日首を締められた事を機に全く話さなくなりました。 3日前、大学の教科書等が家に届き、夕食後にそれを整理しようと思いリビングでテレビを見ながら整理していました。 すると突然、「邪魔。部屋でやれよ」と私が座っている椅子ごと蹴られました。もちろん、教科書の整理以外何もやっていないし、通路を塞いでる訳でもない。整理をする前に何かをした訳でもありません。 母には謝られ、「○○のことが1番だよ」と言われました。 正直、そんなことを言うのだったらさっさと別れて欲しいと思います。それに「結局別れない。私も大事だけど、あっちだって大事。」それって結局1番大事なのは母自身で、何も失いたくないだけなんじゃないかと思ってしまいます。 なんで自分の家で、しかも後から来た人の為に自分がこんなにも神経をすり減らして生きていけなければいけないのかが全く理解できないです。 継父を自分で殺す事も何度も考えました。ただそしたら自分が継父と同じ土俵に立ってしまうし、法律にだって反している。自分を余計に生きにくくしてしまうだけです。 だったら、もう自分が死んで後悔させてやりたいです。母はきっと後悔するでしょうが、継父がどう思うかはわかりません。ただ少なくとも生きにくくはなるだろうと思います。 私の周りの人たちはみんないい人だから余計にそうだと思います。 そんな人たちに多少なりとも迷惑をかけてしまうのは重々承知しています。 でも、もう本当に自殺する以外に楽になれる方法がわかりません。
中学生の頃から生きている意味について考えていました。長く生きることは凄いことと多数の方が思っていると思いますが、最近そう思わなくなりました。年を重ねるごとに醜い人間になっていく人が沢山います、何故そうなってまで生きることに執着しているのかと思ってしまうのです。 生きることより死ぬことの方が楽なのではないか、私はなるべく世の中の汚れを知る前に自分が傷つく前に、上に挙げた人たちのようになる前に人生を終わらせたいです、そしてそれは寿命でもなく病気でもなく自分の手で死ぬことが一番素敵だと思っています。 自殺する人は精神力が弱いという人も多数いました、ですが他人の意思で生まれてきた生を自分で終わらせたいと思うのは当たり前だと思いませんか。 稚拙な文章で読みにくいかと思いますが、このような場でしか質問できないと思いました、ぜひ色々な考えを教えていただきたいです。
執行草舟という方をご存じでしょうか。 この方は「絶対負」という概念を提唱されて、思想家として活動しておられる方です。 また、武士道を中心として禅やキリスト教にも造詣が深く、3万冊もの本を読破された読書家でもあります。(YouTubeで動画を公開されています。) この方は、現代の既成の宗教を批判されており、 「今の宗教は良いことしか言わない、死に体」 「本来、坐禅などの宗教的修行は『死ぬために』行っていたものなのに、今や『良くなるため』(成功するため、健康のため等)の修行になってしまった」 (江戸時代までは修行で死人が出るのは当たり前だったのに、今や千日回峰行でもドクターストップがかかる時代) と言っておられます。 また、ホモサピエンスの将来にも極めて悲観的であり、 「ホモサピエンスは滅びて、AIの家畜になる」 「我々は滅びるのは『きっとまだ大丈夫だ』、『未来はなんとかなる』という人々の『希望』によって滅びる」 (この『希望』は悪徳だけではなく、宗教家も『希望を失ってはならない』と言っている) 等とおっしゃっています。 私は、執行氏のこのような思想に非常に感銘を受けました。 以前、禅寺で修行をしていたのですが、堂頭さんや先輩の言われることは、どうも仏教の枠組みの中で閉塞しており、現代の時代状況から解離していて、救いにならないように私は感じていました。 その違和感が、執行氏のお話によって氷解いたしました。 そこで、お坊さま方にお伺いしたいのですが、 ①執行氏の既成宗教への批判について、どのようにお考えですか。 ②執行氏の批判が正しいとするならば、現代においてきれいごとではない本当の仏教を信仰することは可能でしょうか。 以上、二点をお伺いしたいと思います。 よろしくお願いします。
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
死にたい。 自分のことが嫌い、許せない。 だから自分を殺したい。
いつもありがとうございます。最近良いことがありません。 兄の退院が決まったら入院費を払わなくなるので少し家庭が楽になるかなと思ったのですが、別の施設にいくらしく、入院しているときと変わらない料金が毎月かかり、2年はずっと払うらしいです。 苦しい生活がまだ続くのかと絶望しました。 二つ目は、イベントのチケット関係で友人を一人無くしました。完全にうちのことを嫌いになったなと思う文面がきて、ポッカリと穴が空いた気持ちになりました。不快な思いをさせたので必死に謝ったのですが、もう友達に戻ることはできないんでしょうか。 三つ目は、今転職活動をしているのですが連敗中です。厳密にはまだ一社だけ面接いっただけですが、今までの不採用を思い出しては落ち込んでます。面接受けたところ、今日も連絡がこなかったので落ちてるとおもいます。 「一週間以内に連絡します」は不採用フラグだし、何より面接終わって今日で3日目ですが合格だったらもうとっくに連絡きてますよね? 経歴もズタズタなので、もうどこも受からないとおもいます。真っ暗です。 趣味も捨ててから、生きる気力もないし働く気力もありません。 家にいても迷惑だし親からは金づる扱いだし、友達はいなくなったし、もう自殺しようかなとおもいます。 中学時代の時も自殺図ったのですが、自殺するとまた同じ人生を辿ると聞いてから生きようと思ったのですがもう限界です。これから良いことあるわけない、もういきたくありません。 来年の最後の楽しみであるイベントに行ったあと、家で自殺したいのですが、痛みなく楽に自殺できる方法はないでしょうか。苦しみながら自殺するしかないんでしょうか。 もう本当に、絶望で前が真っ暗です。 なんも見えません。 今日のバイトも行けるか不安です。 こんなクズ、早く死んだ方がいいですよね。 でも自殺、ちゃんとできるか不安です。 すみませんが、なにか回答、どうかお願いします。
こんにちは。 自殺しようか悩んでいるものです。 辛くて辛くてたまりません。 でも自殺してもなにも終わらないのですか? 仏様は罰としてわたしを地獄に送るのですか? 死後の世界が怖くてたまりません。 死んだおばあちゃんのところにはいけないのですか? 教えて下さい。
初めまして。 私は、横浜で会社員をしている伊藤と申します。先日、テレビでこちらのサイトが紹介されていまして、仏教の教理に関して長年疑問に思っていたことがありましたので、質問させて頂こうと思い書き込みを致しました。 私は、大学生のころから仏教に興味を持っておりまして、仏教に関する本をいくつか読み、修行の真似事もさせて頂いたことがあります。仏教との出会いは、私の人生の中で非常に貴重なものでした。これからも、修行を重ねていきたいと思っています。 ただ、その中で未だに釈然としないことがあります。それは仏教の説く「死後の世界観」がなぜ宗派によってここまで大きく異なるのか、ということです。 仏教では、もともと「輪廻からの解脱」が一番の目的であったと聞いています。それが、現代の仏教では死後の世界観について「極楽浄土で仏弟子となる」といった立場や、「死後のことなど考えず、今を生きる」といった立場など、様々に分かれています。 私は、どうしても理屈っぽいので、このように死後の考え方が異なっていることに疑問を感じてしまいます。例えば、「極楽浄土に行けるなら、今は努力せず楽をしていた方が良いではないか。」と思うこともありますし、「死後の輪廻転生を否定するなら、そもそも修行する必要さえないのではないか」と思うこともあります。 先日、上座部仏教のお坊さんの著書を拝読して、私の考えに近いことが書いてあって共感を覚えました。そのお坊さんは、「死んですぐ極楽浄土に行けるのなら、どうして早く自殺しないのでしょうか。」といったことや、「輪廻転生が無いなら、どうして修行する必要があるのでしょう」といったことを述べておられました。 もし、輪廻転生があるのであれば、私もなるべく善行をしようと努力すると思います。逆に、輪廻転生がないと考えると、やる気を削がれ厭世的な気分になってしまいます。 人間がこのような気分になることを見越して、お釈迦様は死後の輪廻を説かれたのかもしれません。しかし、今の私にはそれ抜きで前向きに生きる心構えを持つこともまた難しいです。また、死後の輪廻を否定するならば、自殺を否定することもまた難しくなるのではないでしょうか。 こういった点を、お坊さんはどう考えているのか、どうしても気になったので質問させて頂きました。失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません。
先日も相談させていただきました。 なんとか相談機関をさがしたりしましたが、いろんな悩みが入り交じっているので、どこに相談すればいいのかわからず、夜になると相談機関も終わってしまう。 親も友人も唯一なんでも聞いてもらおうとくれていた人は引き離され、かわいいペットに癒されてみようとしていました、 子供も反抗期に入り、唯一の相談相手を引き離したこども支援センターには相談できず、もう何もできません。支援センターにメールしてみましたが、折り返しの連絡すらもらえません。 実家にお墓をたててあげられないでいる祖父のお骨が仏壇の横におかれています。 もしかして、きちんと供養できていないのかと、それが私たち家族の離婚続きや、父の病気、私の病気、父との不仲など、全てにかかわっているのかなとおもってしまいました。 でも、ご先祖様のせいにはしたくないのです。 母方のお墓参りにもなかなかいけません。 亡くなったご先祖様や生きているまわりの人達がみんな離れていきます、 相談相手もとられ、もう気力はほぼありません。 こどもが寝たら死んでしまおうとおもいます。 こどもだけが気がかりですが。 自殺してもこどもを見守れたらいいなとおもっています。
僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。 それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。 しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。 僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。 またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。 浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか? それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。 僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。 僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。 僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。 長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...
半年前に、子どもが二十歳で自ら命を絶ちました。 『生きづらい』と言って命を絶ちました。 お坊さんは『もうお浄土に行かれたので今は苦しがってはいませんよ』と仰いました。 でも、この世では生きるのが苦しかったのです。 我が子は苦しむために生まれたのでしょうか。 苦しむために生まれたのだと思うと、私は、生んだことを申し訳なく思います。 私がいなかったら子どもは苦しむために生まれなかったと思います。 私が存在する理由が分からなくなりました。
今の日本社会を見ていると、日本の将来が不安になります。自分の問題ではないので、今は深く考えていません。しかし、何か手を打てないかなと思っています。 今、心身の調子を崩して休んでいます。その間、多くの時間、読書に費やしました。機会があって、公立の精神科病院に行ったり、内科的な問題で入院したりしました。精神科のデイ・ケアにも通っています。 この一年の中で仮説を立てました。 (1)今の日本の現状、貧富の格差は仕方ない 地球上の化学元素の数は、あまり変わらず、一定です。富を集めるということは、必然的に富を吸いとられ貧困に陥る人がいるということです。大昔は、物々交換で自分が必要なものを交換していたようです。その時に、感謝の言葉も交わされたかもしれません。それが、一部の人が欲を持ち、物を集めるようになったため、貧困層が生まれ、不満や恨み、怒りを買ってしまうのだと思います。寄付という自主的な社会貢献は、寄付した人の満足感と寄付された人の感謝の心が生まれ、お金も循環し、良いことがあると思うのです。心の寂しさや自己顕示欲をお金や物で示しすぎるので、まずいと思っています。 (2)家庭教育力や地域教育力の低下 今の大人は余裕がありません。また、少なくとも私たちの年代は、学校名のブランドや数字の成績に注目し、教育の質や中身について軽視された教育を受けてきたと思います。外見は華やかに飾って、中身がしっかりしていない。だから、精神を保てず、自殺や引きこもり、殺人が起こるのかなと思います。たぶん、「人を虐めるのはダメだ」「人を殺すのはダメだ」「挨拶をしましょう」とかって分かっているのだと思います。精神的に耐えられない状況にあるのだと思います。それは、様々な宗教や先人の教えを軽視した結果だと思います。子供が変わったのではなく、大人が変わってしまったと考えます。まず、大人の認識を改めることが先だと思います。 この現状を打開するのは教育。でも、学校教育はもはやもぐらたたき状態で対処していくしかない現状。私自身は、これからどのように行動していこうか考えている状況です。 何か仏教の知恵はありますか?