自分は何をやっても集中力に欠けているような気がします。勉強や仕事などももちろんですが、好きなこと(たとえば旅行とか好きなアーティストのコンサートとか)をやっている最中にも別の事を考えてしまうことが多く、素晴らしいはずの時間の記憶も曖昧になってしまう事が多いです。すすめられてやったことがある座禅ではそれなりに集中できたような気がしますが、普段の生活ではすぐに注意散漫になってしまい,なんか人生を無駄にしているような気がします。集中力を保つコツなどがあれば教えて頂きたいです。
見つけて下さり、ありがとうございます。 私は発症前までは、神や仏、ご先祖様や霊魂など、色んなことを信じていました。 母の教えで、特にご先祖様を大切にし、常に手を合わせていたと思います。 ところが発症後、何もかもが信じられなくなりました。 もしもそういったものがあるなら、兄弟姉妹の中で、1番ご先祖様を大事に思い、遠くのお墓にも毎年お参りしていた私が、何故こんなに苦しい思いをしなくちゃいけないのか? 同じ血の通う兄弟姉妹を、どうしてこんな形にしたのか?(プロフィール参照) そんな思いばかりになりました。 母の教えに対する反抗心ではなく、あまりにも酷いと思われる人間からの仕打ちや、物語の様な自身の病気に、あらゆる『人間に関すること』を、心から信じることができなくなったのです。 そうしている内に、ここを拝見し、何度かご質問させていただき、写経や座禅をしてみたい…という気持ちが湧いてきました。 こんな私が、そういったことをさせていただくのは、良いことなのでしょうか? また、それでも良いと言って下さるのなら、何に良いのか?、また、どこでどんな風に行えば良いのか? 教えていただきたく思います。 宜しくお願い致します。
こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?
明日の花祭に関することで、大変急で申し訳ないのですが、どなたか見かけてくださいましたらお知恵を拝借できれば幸いです。 花祭にお寺に行ったことがないので、明日伺うことにしました。 私はそのお寺の檀家ではなく、座禅や写経に参加させていただいたり、ご住職とよくお話したり仏教について教えて頂くくらいのお付き合いです。 ご住職にもお誘い頂き、お寺に問い合わせたら檀家以外でも参加歓迎とのこと、ただお寺からお土産を用意されているそうで多少のお布施は常識としてお持ちするつもりです(対応された方はそういうニュアンスでした)。 檀家として法要の際の額はわかるのですが、こういう場合の具体的な額がよくわかりません。 お賽銭箱ではなく受付でお渡しするようです。 2000円ほど?では失礼でしょうか? 様々だとは思いますが… ご教示お願いいたします。
やっぱり、頼りにさせていただく事が多く困りものです。 夜更かししないコツを知りたいです。 仕事上、頭と気持ちを悩ませることも多く、ありがたいことに家でも朝晩子供たちが元気です。(しばしば妻が、、、) ようやく独りの時間、あの事が、あの調べものが、と夜も遅くなることが多いです。 現実逃避と知りつつも、冷静になりたいと夜更かししてしまいます。 次の日にさわったり、健康上も良くないのですが。 以前お答えしていただきましたように、格好つけず、相談や気持ちを出すことは出来るようになってきました。 少しの運動や座禅、ストレッチ色々続けたり、ただ考え過ぎだろうなあとも思いつつ。 ご助言をいただけますようお願いいたします。
こんにちは。 私は、高校・大学と仏教(曹洞宗)の学校を卒業しております。 高校卒業時には禅師様直々に戒名を頂いたりと、かなり本格的な学校でした。 社会人になってからも仏教に関する本を読んだり、時には座禅会に参加したりと、仏教については興味を失わずに来ました。 しかし、先日インターネットで 「在家僧侶養成講座」 という、初めて目にする通信講座を見付け、これが仏教に興味を持つ方に役立つ物なのかどうか全く分からず、頭の中が「?」だらけになってしまいました。 どなたかに 「僧侶って通信教育でなれるの?」 もしくは 「仏教の修行は通信教育でできるの?」 と質問されても、今の私には答えられる自信がありません。 実際、通信教育で「在家僧侶」と認定されているお坊さんもいらっしゃるのでしょうか?
私は毎日祈ります。手を合わせ、座禅をし、写経します。 虐待を受けてきた時も、差別や偏見で区別される時も、私の中の煩悩のせいでそう感じるのだと、言い聞かせてきました。ですが、無くならないのです。 私は、悲しいです。なぜいつも差別され偏見を持たれ区別されるのか、わかりません。 僧侶になろうとも思いました。しかし、その世界にも様々なことがあるのを知って、とても悲しい気持ちになりました。誰でもなれるわけではなく、檀家でもない、大学で専門的なことを学んでからどこかで受け入れてもらいなさいと言われたこともありました。 私の親族のお葬式でいろいろなことをたくさん経験しました。 お経を読んでいただき、ありがたい気持ちでいっぱいでしたが、額が少ないとお礼を返され、やりなおされたこともありました。 なぜなのか、この仕組みはなんなのか、教えてください
質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教の学びから、観音さまの慈悲の心に感銘を受け、慈悲の心を身に付けたいと思っています。 しかしながら現実の私の行動を鑑みるに、慈悲を実行できてるとは到底思えません。 それは慈悲に対して、概念的な理解だけにとどまり、エゴ(自己中心的な考え)を離れる事が出来ないためだと考えています。 とある座禅会に参加した際に、和尚さんにそれを質問したところ 「体験を通して学ぶことです」 という有り難いお言葉を頂きましたが、何をどう体験すれば良いのか分からず進歩がありません。 慈悲の心を身に付けるための体験とはなんでしょう。 また考え方の上の事でも構いません。慈悲を身に付けるためのご教授よろしくお願い致します。
タイトルに書いてある通りお坊さんが何かハマっている事はありますか? 私は多趣味なのですが、ミニ四駆、スパイスだけでカレーを作る、ドライブ、キャンプ、料理、精進料理(昨日は精進うどんを作りました)、座禅、YouTubeを見る事(こばしりちゃん、まこみな、URA-KISSが好きです)、ゲームをする事、パワースポット、将棋、オセロ、カラオケ、盆栽、古武術、手品、音楽鑑賞、映画鑑賞、野菜育て、物作り(小2年生の時に段ボールだけでパチスロ等々を作っていました。)、お茶の飲み比べ等々です。他にもあります。
瞑想?というべきかわかりませんが、無になりたく練習してますが、なかなか上手くいきません。 座禅も同じようなものかと思いますが、何も考えず、感じず、何も騒音が耳に入ってこないような無の状態(表現がおかしかったらすみません)はどのように練習すべきでしょうか? 今は肩の力を抜き、良いこと悪いこと全ては無の中に帰るとイメージしながらしております。 どうしても無の状態になりたく、アドバイスがあればぜひ教えてください! 練習中に関係ないイメージが勝手に浮かんだり、いい感じになれても持続できなかったりです‥‥。 どうしても無の状態になれるようになりたいので、おすすめ練習方法をアドバイスいただけませんでしょうあ? よろしくお願いします。
師僧が、ヘンです。 お目にかかってもお金の話か、ほかのお坊さんの悪口ばかり。お経を唱えても何の役にもたたないとか、座禅を組んでも集中なんかできるわけないとか。一体どうされたのか、、、。 壮大な、でも怪しい事業プランに取り掛かっておられ、周囲は困惑。副住職さんのお諫めの言葉も耳に入らず逆効果で余計にいきりたたれます。 老人性鬱?認知症? 感情的、突発的な言動の奥に何か大切な教えがあるのかな?と、思ったりもするのですが、どうもそうではないみたい。 なにか、寂しいのかな?とか思ったりもします。 師僧として尊敬できない、、、。辛いです。どうしたものでしょうか。先輩がた、アドバイスお願いします
ここしばらく頭の中にこういうおじさんが出てきます 西洋風のほりの深い外国人顔 茶髪でロン毛、ひげは口を覆うほどで鎖骨に届く長さ 座禅を組んで手を結び、目を閉じて苦悶の表情をしている けどその人は悪い人が来ると僕の代わりに怒って追い返してくれます 僕の心の奥底をわかってくれてるような人です 正直とてもいい人なんですが、僕の頭というか心は大丈夫でしょうか その人にいなくなってほしくはないんですが。 たぶん聖書を読み始めてからこういう人が出てきたと思うんです
最近、仏教について勉強しています。 座禅の仕方や四法印の意味など、知れば知るほど『なるほど』と、思うことが多く、大変勉強になっています。 私にとって特に影響力があったのが、小池龍之介先生の考えない練習です。 心の扱い方や感覚に意識を向けることなど、試してみたところ集中力ものびたし悩みもずいぶんと減りました。 仏の教えは、心の教育にすごく役立つと思ったのですが、私の個人的な実感としては、今の日本にはあまり広まっていないような気がします。 これは、個人の興味の有無の問題なのですが、仏の教えが伝わりづらい理由は何か別にあるのでしょうか? 先生方の実感としては、どのようなところに伝わりにくさがあると思いますか?
新しい場所や職場などに行くと プライベートなことなど根掘り葉掘り 一方的に聞いてきて噂を流す人がいます。 私は親しくない方に 自分の事を話すのは好きではなく、 しつこく同じ質問されると 何度もかわせず無理して話してしまったり 答えないようにしていても陰口を言われてたりして 後々後悔し嫌な思いをします。 職場などで後から入る立場だと どう上手く返せば波風立たずにいられるでしょうか? あと昔から 人と関わると話した内容などを ひとりでずっと頭の中で反芻してしまいます。 後でこう言えば良かった こうすれば良かったなど マイナスに考えてしまうこともあり、 人と接するのが疲れてしまいます。 座禅など行ったり 考えるのをやめようとしますが、 なかなか続けられずにいます。 考え事を切り替えるコツはありますか?
よろしくお願いします。 お坊さんのあたたかい言葉で少しずつ回復してきましたが、今日はまた朝から考え事が止まらず落ち着きません。すごい勢いで次から次へといろんな事が出てきます。 睡眠も2時間ぐらいで目が覚めて眠れなくなりました。 そのせいか体もあんまり動きません。 この前、自分の思いをhasunoha で吐き出してから、どんどん聞いて欲しいことも溢れてきました。 何でもかんでも人に聞いてアドバイスをもらえばいいってものではなく、自分で解決しなければいけないのは分かっているのですが、押さえられなくなってきています。 明日は絶対に行かなくてはいけない所があって、その後も今週は少し忙しいので、ちゃんと回復したいです。 坊さんがお経を読んだり座禅をしている時のように、頭の中を静めて心を穏やかにしたいです。 そしてしっかり自分の頭で考えられるようになりたいです。 力をかしてください。お願いします。
適応症がいで職場を辞めてから3年、いろいろな仕事を短期離職して転々としています。親しい人がおらず孤独で…いくつかボランティアも試みましたが、体が重くて行けなくなってしまいました。 休養が大事と思って仕事をせずに一人で過ごしていると、だんだん息が苦しくなって涙が出てきて叫び出しそうになります。 病院で薬は処方されていますが薬は効かない…です。 家で座禅をしたり、 ペットを飼ってみたり、 医者から勧められたことは色々やってみたのですが 辛くて どうやって過ごしたらいいのか、わかりません。 自分が何が辛いのかも、よく分からなくて、自分の考えに耳を澄ませようと思っても、何も聞こえません…。 どうしたら、いいでしょうか。
生涯ひとりと考えるようになり、葬式や埋めてもらう時の宗教を決めておきたくなっています。そもそも誰か私の葬式を出すのかが不明ですが、子供の頃から自分はたぶん宗教というものを好きな人間だと思っています。 しかしどうも宗教‘’団体‘’、‘’組織‘’が好きでないとか合わないと感じていてどこにも属していません。 仏教への気持ちとしては、高校生くらいで般若心経を読み、「かっこいい!」と感動してたものです。 しかし自分がいいと思った面を、日本にある宗派の短い説明を読む間に、全部の宗派が持ち合わせていない気がしてきます。 他には強いて言えば慧能の言葉も「おおおかっこいい!」と感動したのですが、では禅宗かというと般若心経に私が感じた内容と違う気がしてきます。 そのうちだんだん、感動して感じたところと宗派の説明に感じる差の離れ度で考えれば、シントーの方が身近な価値観に思えてきています。 いっそ日本の仏教なしにしてシントーかなと考えはじめています。 墓考えなくていいんじゃない、でも何でも構いませんので、ご回答頂けると嬉しいです。 (大勢いると苦手なのと、たまたま話した事があるお坊さんのふたりが、ふたりとも長く関わりたくないと思ったので、どこにも行きたくなくなりました。 ひとりは不倫を勧めていて、もうひとりは座禅会だったんですが、同僚を悪く言って(私には根拠がない話に聞こえました)「あっちの座禅会より自分の方が良いですからね」と話していました。 特に不倫の人からは話を切り上げて一刻も早くここを離れなきゃと怖くもあったし、もうこれ以上お坊さん知り合いたくないわ、と思っていました。でもそういえば幼稚園が仏教だったと思い出しました。家族が冷たかった私には、その時栗をくれたお坊さんが、子供時代に会った最も情がある人だった気がします)
15歳の頃からキリスト教会に通っていましたが、30半ばで鬱を患い「天国を目指して迫害にも耐える信仰を持つ」というあり方についていけなくなり、仏教に心の平安を求めました。 高野山の宿坊に泊まったり、近所のお寺で座禅を組むうちに、それまでひどいときは数分ごとに波のように押し寄せてきていた攻撃的な苦しみが和らいできました。 それからも落ち込んだり、辛いことは多々ありましたが、苦しみが襲ってきて一晩中眠れないようなことはなくなりました。 相談というのは、思春期に受けた洗脳のような教えがまだ恐怖として根深く残っていることです。 ほとんどは健全なキリスト教会なのかもしれませんが、私の通っていたところでは、「伝道しないことは人殺しに等しい」「教会に来ないと悪い事が起こる」と、今思えば子供だましのようなことでも、当時の私にとってはありありと描写される死後の裁きの事や、来るべき世の終わりに大きな艱難が起こり、迫害を受けるのだという恐怖がしっかり植え付けられてしまいました。 それでいまだに教会に行かなくてはならないという強迫観念から抜けられないのです。本当に行きたくて行くのなら問題はありませんが、根底に恐怖があるのです。 実際にまた教会に行き始めたところ、また心がざわついて、イライラしたり、不安で眠れなくなったりしてしまうのです。 教会自体には問題はなくても私の抱えているトラウマが重くて、まともなメッセージも恐怖のフィルターを通して見てしまうのかもしれません。 教会に行くにせよやめるにせよ、恐怖から解放されて正しい判断をしたいのです。座禅をして心に平安を得ても、これでいいのかと罪悪感のようなものを覚えてしまいます。 仏教にしろ、キリスト教にしろ、どちらが正しいとか、教義的な事とかはわかりません。どちらにしても心がざわついたままでは一生迷いを抱えて生きていくことになりそうです。 とりとめのない質問になり申し訳ありません。 恐怖から解放され冷静な判断ができるアドバイスをいただきたいのです。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。お世話になっております。僕は真理を求めて仏法を学び、座禅の修行も行っている在家信者です。 僕は印可を受けたとされるお坊さん(名前は書きません)の本や法話を聞いたことがあります。 ※この方は禅宗の方です。 僕は、そのお坊さんの言っていることを「なるほど」、「たしかにそうだ」と深く納得することができます。僕が悟りを得ていると言うと、明らかにおこがましいお話です。 ですが、個人的には若干な手応えがあります。 これは曹洞宗でのお話ですが、「修証一致」という言葉、これは「修行させてもらっている」と言えると思います。なぜ修行できるのか、それは生かされているから。修行していることが仏法の中に生きている何よりの証拠、ということから修証一致思想が出来たのだと思います。 だとしたら、草木国土悉皆成仏も理解できます。草木や国土さえも、仏法の中にある命そのものなので、仏そのもの。成仏は仏に成るというよりも、仏に成っている、ということだと思います。これが「無功徳」や「無智亦無得」だと思います。自己そのものが仏法なのだから、得るべきものがない。 この身心さえも、自己を超越している。眼耳鼻舌身意、これら全て苦です。見えるというより、見えてしまう。聞こえるというより、聞こえてしまう。意識だって、考えたくなくても座禅をしていると勝手に雑念が出てくるものです。「自己」と定義できるものはどこにもない。このことから、自己(妄想)と法を分けることができないのは明らかです。自分の五感を通して物事を認識していると考えますが、事実はその身心も仏法の働きです。 ですが、ここからがよく分からない。僕のは結局、理屈に過ぎないんじゃないか?と思っています。もちろん、理屈では自分は仏だということは分かります。しかし、それを実感できていないのです。現段階では、「自分が無い」というより、「今まで自分自分って言ってたけど、自分って何?」 「自分」というものが分からなくなった感じです。ここからが本題ですが、悟りというのは本当に実感として自分が無くなる感覚になるのか?ということです。つまり、悟りというのは「境地(特別な心境)」なのか、ということです。 仏教に詳しい方、ぜひ教えて頂きたいです。
私は、結婚前からお寺巡りを趣味にし、法話会や特別拝観などを楽しみにしている年齢の割に合わない趣味をしていました。 京都、奈良は年一回、普段でも休みの日は鎌倉等に出かけていました。 私は、見た目を若く見られる傾向がいまでもあるか、年齢のわりに幼い所を見過ごされるのかはわかりませんが、お寺に行って拝観料、拝山料を収める時や写経して納経帳をお願いする時に(拝観時間や常識のある時間にに行ってます)お坊さんやお寺の人に私からすれば面倒くさそうな顔をされたり、あんたに何がわかるの?的な顔をされたりされた事がたたあります。 仏教に興味があり、座禅会に行ってたお寺でまだまだわからない事もありあってお坊さんにもっと知りたいのでオススメの書籍はありますか?と相談したら、煙たがられ座禅会を辞めた事もあります。 写経して行っても、あんたが本当に書いたの?と疑われたり、写経会で一番に書き上げたらビックリした表情されたりと、時々不愉快になる事がありました。 お寺は誰が行ってもいいんですよね? 得に忙しい時期に行ったわけでも、法要等のある日に行ったわけでもありません。 なのに煙たがられました。若いから行ったら行けないんですか?年寄りなら歳相応でいいのでしょうか? 受け入れてくれる所には何度も足を運び、法話会にも毎月行ってました。 そりゃあ、来る人の中では若いので多額のお布施はできませんが、見た目で判断されても嫌です。(ハデハデしい今どきファションでお参りに行った事もありません。) カバンから数珠やお線香を出してお参りしている時でも、檀家さんでもないから?か嫌な顔されたり、イヤイヤ納経帳を書いているように見られます。 ハッキリ言って一度くらいそのような態度をとった人に理由を聞いてみれば良かったと本当に思います。