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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 死 不安」
検索結果: 1433件

写経の目的とタイミング

はじめて利用させていただきます。 写経のタイミングにつき、ご教示頂きたく質問させて頂きます。 現在92歳になる祖母がいます。 昨年膀胱がんが発覚し、手術したものの取り切れず、闘病しながら生活しています。 とはいえ病の影響はなく、足腰も丈夫で、ゆっくりではありますが自分で歩いて出かけることも出来るし、飲食にも支障なく、至って元気に過ごしています。 わたしが生まれた時から同居しており、共働きだった両親に代わり、ほとんど祖父母に育てられたわたしにとっては祖母以上に大切なひとはいません。 両親は昔から不仲でいまだに喧嘩が絶えず、仲裁するわたしとは反対に逃げてばかりの妹とは仲の良くないわたしは、常に祖母と一緒でした。 祖父は18年ほど前に亡くなっており、以降ずっと祖母に寄り添い生きてきました。 今でもどこに行くにも一緒で、お互いが一番の理解者です。 いまは祖母も病の影響も少なく元気ですが、やはり年齢のせいで身体的に弱っているのは目に見えてわかります。 祖母が亡くなったらわたしは生きていかれないかもしれない、そう友人にも心配されるほどとても仲が良いです。 だからこそ、亡くなってからわたしは自分に何が出来るかわかりません。 本当に何も手につかなくなってしまうのではないかと思っています。 けれど、わたしから出来ることは最期の瞬間までしてあげたいと思っています。 数年前、祖母の姉が亡くなった際に、写経したものを親族が棺に納めていました。 祖母の姉も信心深い人で、その人に倣い、わたしの祖母も朝晩毎日親族の供養に読経しています。 そこでわたしも同様に祖母の棺には自身で写経したものを納めたいと考えています。 けれど、それほど依存していた存在が亡くなってから、火葬するまでの短い時間ではとても手につかない気がしています。 かといって早いタイミングでそのような意図で写経をするのは死を待っているようで良くないのではないか、とも考えました。 このような意図で写経をする場合、いったいいつのタイミングで行えば良いものなのでしょうか? 写経会などに参加すると、納経を行うとあり、納経してしまうと棺に入れてあげられないため、納経せずに持ち帰るということは出来るのでしょうか? それとも、こういった際には自宅で写経するのが良いのでしょうか?

有り難し有り難し 8
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亡くなった祖父と、遺されたわたし

 こんばんは。  母方の祖父が亡くなってしまいました。幼い頃からいろいろな場所を一緒に歩き、人生の節目節目で思い悩む私を励ましてくれた祖父は、言葉では言い尽くせないほどかけがえのない存在でした。最晩年の数年は記憶力が著しく衰えてしまいましたが、最期まで身の周りのことは自分でできていました。こうした祖父の生きざまは、私にはとても理想的で自然な老い方に見えました。一方で歳を重ねていく祖父を見ていて、祖父がいなくなることは私の最も恐れるところでしたが、現実は受け入れがたい悲しみがあります。  これから順を追ってお通夜とお葬式に臨むことになっているのですが、さて自分は祖父ときちんとお別れができるのか?、これから生きていく気力を保てるのか?、ということをとても不安に感じております。私にできることと言えば、悲しむこと、祈ること、偲ぶことくらいですが、喪失感が大きいゆえに祖父が安らかな眠りに就くことへ本当につながるのかどうか、何をしても虚しい気持ちがしています。亡くなった人の「存在」はどうなるのでしょうか。私たちの身近なところで見守ってくれているのでしょうか、それとも新しい生を受けて、全く違った形で次の命をつないでいるのでしょうか。御礼や悲しみの気持ちを、どう伝えたらよいのでしょう。  さらには、これほど大きな存在であった祖父を喪い、生きていく希望を持てない身の上となりました。私の周りには近しい親族もおりますが、祖父のいない人生を考えると、すぐにでも死後の世界へ行けるならどれだけよいだろうという気持ちを持ってしまいます。現実には不孝なことはしたくないという自覚があるものの、喪失感は如何ともし難いです。  かけがえのない肉親を喪った方は、皆さんこのような思いをお持ちになることと思いますが、この世で一人しかいない祖父がいなくなってしまったことは只々悲しく苦しいです。これから直面することになる故人とのお別れや、故人を喪った人生の意味についてお教えを願いたく存じます。乱文で、身勝手な相談とも思うのですが、何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 13
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好きであるとは、心に懸けるとは

失礼致します。先日はご教示ありがとうございました。 このたびはご質問をさせていただきたく存じます。 生活していると、ある物や趣味、またある人間に対して「好きである(好きになる)」という表現が用いられることが多々あります。 この「好き」という言葉につきまして、自身の中で不安定な部分があり、お伺いする次第です。 自身にも少ないながら趣味があります。ただ最近、その「好き」が趣味そのものではなく「趣味を嗜んでいる自身」に向かっていることに嫌悪感・罪悪感や不安を抱かずにいられません。 自らの存在価値がないと感じられた折、「趣味を嗜んでいる自身」にすがって心を保った経験があり(自死などを選ぶよりは遥かにマシである、といった風に)、そのような場合にはある程度有益な見方では、とも考えられました。 ですが、精神的に最悪の状況から少しなりとも抜け出してなお、その見方がなされてしまうのは、いかがなものでしょうか。趣味に対する冒涜のように感じられる部分が拭いきれません。職業でこそないにしても、自身にその道を歩む資格があるのかと疑われ、真に心を入れて取り組んでいる方々を思うにも不甲斐なさが付いて回ります。 人を好きになることについても似たように考える節の無いこともありません。 正常な形とは言えない執心を断ち切らんと、なぜ自身がその人に執着しているのかを自問したところ、その理由は一つではなく、過ちを謝罪したいと思っていたことなどいくつか考えられました。その中にはやはり「彼女を好きである自身」に拘っていた部分も見出され、これは単なる自惚れではないかと気づいた次第です。 純粋にその物事や人を「好きである」と言い、心に懸けるとは、少なくとも現在の自身にはたいそう難しいことのように感じられます。 ただ、趣味・人のいずれにしても、関わっている自身を心のうちで称揚することは、一方では対象への敬意・感謝であるとも解釈できるのではないでしょうか。それがあってこそ、その人がいてこそ自らの心身が救われたという具合です。 「好きである」ということはどうあるべきか、そもそも「どうあるべきか」という基準を意識する必要はあるのか。 ご意見をお伺いしたく存じます。よろしくお願い致します。 長文失礼致しました。 ご高閲ありがとうございました。

有り難し有り難し 13
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余命宣告された叔母に心穏やかに過ごしてほしい

私には母の妹の叔母がいます。 子供の頃から近所に住んでいて、従姉妹とも兄弟のように育ちました。 5年ほど前に癌がわかり、それからずっと闘病中でしたが、この度、次の治療がうまくいかなければ、余命3ヶ月と宣告されました。 ところが、叔母は癌になってから、(なる前から嫉妬深くて、いつも人の悪口ばっかり言っていたのですが…)自分が癌になったことが、我慢ならないらしく、すごく我儘になり、私の母とも喧嘩して、1年前位に、一方的に絶縁してしまいました。 でも、従姉妹から余命の話を聞き、私はすごく会いたいと思っています。ただ、叔母は娘である従姉妹たちにも、仕事の合間をぬって、精一杯看病してくれているのに、非常に我儘な態度で、余命を知ったら、手がつけられなくなるのではないかと、従姉妹たちも心配し、余命の話はできていないようです。 私は母とともに敬遠されてしまっており、今わざわざ会いに行くと、何かあるのではないかと叔母に勘ぐられてしまうので、行きたくても行けない状況です。 また、そんな状況で久しぶりに会っても、何を言っていいのかもわかりません。 私は叔母に最期の時間を心穏やかに過ごしてほしいと思っています。 いつ会えるかわかりませんが、会えた時に、叔母に何を言い、してあげればいいでしょうか。 とりとめのない質問ですが、おこたえ頂けますと幸いです。

有り難し有り難し 24
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忘れられる恐怖とどう向き合えばいいのでしょうか?

数年前のことです。 父方の実家に(十年ぶりくらい)里帰り旅行をし、ご厄介になった夜でした。 実家にはもう90を超えた父の実母がおり、体も弱く痴呆もかなり進行していました。 それでも寝たきりではなく、ゆっくりと歩くこともできるほどでしたが。 親族の宴会も終わり、居間にて私は横になりながらうつらうつらとしていました。 そこに、祖母がゆっくりと顔を出し、まだ居間で飲んでいた父と話を始めました。 内容はあまり覚えていません。 ただ、夢半分の頭ながらも次の会話がずっと頭に残っています。 ~なにか兄弟たちのことを話していた気がします~ 父「俺のことはまだわかんべ?」 祖母「ん?あ~・・・」 父「○○よ、△兄ちゃん□□と☆☆・・・で、俺の。」 祖母「あ~・・・ん~・・・○○?・・・・・・ん~○○?」 父「だから末っ子の○○だぁ・・・。息子忘れちまうだ?」 祖母「んん~~こう・・・□□(長女:実家住まい)と△はわかるんけだども」 父「・・・(昔の思い出や自分の昔の特徴などを聞かせている)」 祖母「ん・・・わかんべ・・・・」 確かに父の家系は大家族で兄弟姉妹は多かったです。 しかし私は、半分眠りながらも父の冷静を装う口調から滲み出る必死さ、悲しさを感じ、横になりながらも自然と目から涙が溢れてしまいました。 年とはいえ自分の母親に存在を忘れられてしまった父の深い悲しみが流れ込んでくるようでした。 1年程経った日、祖母は他界されました。 お葬式には私は行けませんでした。(予定的にではなく、心の方が) 葬式で悲しむ父を見たくなかったのかもしれません。 あの夜の会話は私自身が受けた言葉のように今も胸に刺さっています。 私も母や父の記憶からいつか消えてしまうのでしょうか? 大切な家族や人から忘れられる恐怖とどう向き合うべきなのでしょうか?

有り難し有り難し 12
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2025/07/14

友達が死んでしまったかもしれません

SNSで5年以上付き合いのある同性の友人がいます。 何度か会って楽しく遊んだこともありますし、お互いの家に行ったこともあります。彼女が遠い県に引っ越してからも、リプライなどはたまに送り合う仲です。 そんな彼女ですが、ずっと精神的に不安定で、数年前からたまに命を絶とうとしてしまいます。 最期の挨拶めいたものを投稿することは何度かありましたし、実際に行動に移して緊急搬送されたりもしているので、狂言ではないようです。 友人としてやりきれない気持ちにはなるものの、彼女が今どこに住んでいるのかも分かりませんし、分かったとして家に押しかけてまで何かできることもないだろうなと思います。理由も分からないので……。 わたし自身もメンタルが強いとは言いがたく、職場での人間関係が原因でメンタルのバランスを崩し、休職したりもするような人間です。正直に言うと、自分の精神状態を守りたいという思いが強いです。 そして最近、彼女の未遂の頻度が増えてきました。 SNSなのでタイムラインには彼女の投稿が自動的に流れてきますし、非表示設定にするのも少し気が引けます。 彼女の投稿を見るたびに「よかった、まだ生きてた」「今度こそこれで最期かもしれない」と肝をすり減らすのが辛いです。 先日も仄めかす投稿をしており、それ以来まだなにも投稿されていません。 見殺しにしたとまではさすがに思いませんが、不安な気持ちになっています。 自分でも冷たい人間だなと思いますが、別に何ができるわけでもないし、してあげようともあまり思えていないので、完全に自分の気の持ちようの問題かなと思っています。 できれば彼女の言動に左右されず、気持ちを上手く切りかえて淡々と過ごしていきたいです。そのためのコツや考え方があれば、教えていただきたいです。

有り難し有り難し 4
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謝罪は断られているのにお叱りを受けます

ご不快になられるような相談かもしれませんが、よろしくお願いします。 お恥ずかしい話ですが、実は一年前に事故を起こしました。私が車で、お相手は自転車です。 お相手の肋骨を複数骨折させてしまいました。 完全に私の不注意で、深く反省してます。 自分の落ち度だったので、事故直後から2ヶ月の間に、5回ほどお電話し「直接謝罪に行きたい」と申し出たのですが、毎回「今はいい」「保険会社を通じてやりとりしましょう」と断られました。 やりとりをしているのはお相手本人ではなく、お相手の旦那様です。 お相手の方が海外出身の方で、日本語がまだうまく喋れないという理由で、旦那様とやりとりをしています。 私の方は、逮捕はされてないのですが、略式起訴で罰金刑になりました。 当然のことだと思って、罰を受け入れました。 年明けにお相手のリハビリが終わったと、保険会社から連絡があったので、お電話をし、謝罪しました。 その際も、直接謝罪お伺いしたいと申し出ようとしたのですが、旦那様がすぐに電話を切られてしまって、できませんでした。 なので、お相手の旦那様は、もう謝罪もされたくないのだと思って、保険会社に任せていたんです。 そうしたら、一昨日の早朝(7時ぐらいです。6時半に一度お電話があったのですが、眠っていて取れず、折り返ししました)にお電話があり、旦那様より「保険会社から提示された慰謝料が少なすぎる。俺がどれだけ辛いと思ってるんだ。弁護士に相談する」とお叱りを受けてました。 お辛い気持ちは当然ですし、私が許されるとは思っていないです。 しかし、何度か謝罪をしたいと申し出ているのを断られてしまっていた手前、今までの自分の対応の何がいけなかったのか分からず、混乱してます。 この先どうなってしまうのか、また、以前お電話いただいた際に「お前の家を知ってる」というようなことを言われたので、加害者である手前、申し訳ないのですが、旦那様のお怒りが収まらなかったら何かされるのではないか、という不安を覚えてしまいます 加害者である私が不安を覚えるのはいけないことでしょうか? 失礼ながら、ご連絡のたびに旦那様に怒鳴られるのが怖く感じます。 また、私の悪い癖なのですが、最初は被害者である奥様の心配をされていたのが、だんだんと「俺が」と言われるようになり、金銭の話をされ始めたのが気になってしまいます。

有り難し有り難し 32
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私の行動で亡くならなかったのではないか

私は30代女性です。 私にはスポーツ自転車を通じて仲良くなった50代の男性がいました。 面倒見の良い方でいつも遠方に行く時もよく誘って車を出してもらい、とてもよくしてもらいました。 この週も、私の彼氏とその男性(以後Aさん)と自転車で遠方まで走りに行く予定でした。 ですが、今週は雨の為、遠征での自転車は延期になり、前日にたまたま私がAさんと彼氏の連絡先を互いに教えたところ2人で山に自転車で走りに行く予定を立てていました。 私は辞退した為行ってなかったのですが、当日いつもは昼には帰って来るのになかなか彼氏から帰宅の連絡がなく心配していると山の中でAさんが心肺停止を起こし緊急搬送されましたが亡くなってしまったとの事でした。 その訃報を聞いたときショックで涙が止まらなかったのです。 彼もAさんに初めて連れて行ってもらった山の中と言うことで、自身のいる現在地も分からず、救急隊員の方ともなかなか会えないという不安で心細い思いをさせてしまいました。 ご家族は救急隊員の方からはよくやってくれたと感謝されたらしいですが、やはり彼も最近とてもよくしてもらっていたAさんの訃報にはショックで落ち込んでいます。 彼氏は私と付き合い初めてからAさんと知り合ったので、互いに会うのは指を折る程なのですが、そんな彼に、急性の心肺停止とはいえ、誰かが亡くなる直面に居合わせてしまったのがとても後悔しています。 Aさんも苦しかっただろうな。 彼も目の前で人が動かなくなってどうしていいか分からずに心細くさせてしまった後悔とで涙が止まりません。 勝手にその場をイメージしてしまいます。 何も知らず、何も出来なかった自分が悔しくて、申し訳無くて、自己嫌悪になってしまうのです。 その日は彼氏と一緒に居てあげると、心細かったからありがとうと言ってくれました。 私のこの罪悪感の気持ちは伝えてないし、もっと大変だったのは彼なのでとてもではないですがこんな私の後悔なんて伝えることは出来ませんでした。 今更となっては遅いのですが、私も一緒に行ってあげれば良かった、とか。 私が連絡先を教えていなければ2人で自転車に乗りに行かなかったのではないかとか、Aさんも自転車に乗らず運悪く亡くなることも無かったのではないかとか、私も一緒に居てあげれば良かったと『たられば』の後悔ばかりで自分を責めてしまいます。

有り難し有り難し 15
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働いて苦しむだけの人生が辛い

 四月に就職、社員寮で暮らしています。平日は5時に起きて20時前後に帰宅、金土日は就職以降うまく行っていない彼氏にギクシャクした時間を使う生活です。  職場の人間関係も今のところどうにかなっていて、仕事も肉体労働で今も辛いですが入社時よりは慣れと成長を感じています。一人暮らしは家族に負担をかける後ろめたさが無くなり快適でホームシックと無縁ですし近所トラブルもありません。給料は安いですが自炊等で節約して多少(20万くらい)貯金できたので飢え死にすることはないでしょう。頻度は減りましたが友人との交流もあります。趣味の時間も毎日2-3時間無理やり捻出しています。  一般的な新卒が直面しそうな大抵の悩みは自分の力で解決済みです。しかし今後のことを考えると辛くて仕方ありません。普段は考えず目前の仕事、家事に没頭しますが今後の問題は何も解決していないため気を緩めた瞬間に迫ってきます。  ゲイの将来なんて若くなくなったら孤独か差別しかない碌なもんじゃないので考えたくないです、今の彼氏と長く続いたとしても年齢差のため彼氏が先に死んでから孤独死でしょう。(そもそも彼氏とは私が働きだしてから今まで許容できた様々な相違点を許容する余裕がなくなりギクシャクしています。)それに会社の先輩方からの結婚圧が嫌です。  これから仕事に慣れてくると長時間残業、土日片方潰れて実質週6勤務、お客さんに怒られる日々が待っていることが分かりきっているのも気が重いです。給料が安い問題点が残業代で解決しそうのは皮肉ですが。  趣味は色々あるのですが(ゲームとか)どれも最近心から楽しむのが難しく、平日は特に趣味が無理やり気力面を保つためのものになりつつあります。趣味に時間を割くより8-10時間寝た方が仕事中の身体の調子だけは断然良くなるのが非常に腹立たしいです。  仕事も生活上の問題もとにかくやらなければならないことは全て対処します。怠けも逃げもしません。ただ、やらなければならないことをひたすら対処していった果てが苦しみと絶望だけというのは何なのでしょうか?  私よりずっと困難な状況にいる人が世の中にはウジャウジャいることは理解しているので普段は口にしませんが、延々と苦しみ続けることにウンザリしています。最終的に絶望して終わるために苦しみ続ける日々の繰り返しをなぜ続けないといけないのですか?

有り難し有り難し 13
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「感情を感じること」と「物事を評価しないこと」

以前にも質問にお答え頂き、その節はありがとうございました。 hasunohaで日々仏教の教えを学ぶ中で、どう考えて良いものかわからない点がありますので、質問させてください。 私は今、うつ症状等ため精神科に通院しています。 その治療の一環として、カウンセリングも受けています。 その中で、臨床心理士より「感情を抑制していることが無気力や不安感に繋がっている」とのことを言われました。 感情を感じて表に現すことが、治療方法のひとつであると言われました。 私は確かに、自己犠牲的な考えや自分に自信がない部分があり、素直に自分の感情を出せるようになれたらいいなと思いました。 と同時に、仏教では、物事を評価しないでありのままを見ることが大事だと学び、それも確かにそうだなと思いました。 私にはどちらの考え方もとても納得のいくものなのですが、 自分の感情を感じることと、物事を評価しないことは両立し得るのでしょうか。 例えば、私が今寂しいと感じることは、評価していることになるのでしょうか。 仏教の教えでは、寂しいと感じてはいけないのでしょうか。 どのように考え、どう自分の心を扱えば良いのか、お教え頂ければ有難く存じます。

有り難し有り難し 49
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