hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
hasunoha 問答検索結果 : 「悟り」
検索結果: 2103件

非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

有り難し有り難し 32
回答数回答 5

修行の道を選ぶことは社会の弱者より自分を優先すること?

(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?

有り難し有り難し 86
回答数回答 4

感情移入し過ぎずに働くには

質問させて頂きます。 私は集中治療室で看護師(2年目)をしている者です。  先日私が連日担当していた患者さんが脳死になり、亡くなりました。 今まで亡くなる方は沢山見てきましたがそこまで感情移入せずに振り舞うことができていました。 しかし今回は、連日ご家族とも親しくさせてもらっていた事や急な病状の悪化もあり、寄り添う事が大事とは知りつつも辛く苦しく自分への無力感も強かったです。 何か出来たのではないかと後悔する事の連続でした。  また今回の事を経験した直後、自身に病気が見つかりました。手術により一命はとりとめ今は入院し傷が治るのを待ちながら、今後薬物療法を続けていく予定です。 今回自分が絶望的な痛みを経験した事で他人の気持ちを安易に分かると話すのは人を傷つけるのではないかと怖くなりました。寄り添うと言葉では簡単に言えても極めて難しい答えが無いものだと思いました。  また、自分がなかなか手を抜けない性格であり忙しくなると自分を蔑ろにしてしまうため、自身の働き方を模索している最中です。 今の職場はスタッフも優しく働きやすいと思います。 少しでも感情移入しすぎず、悩みすぎず働くにはどのような心構えを持てば良いのでしょうか。  最終的には自分が判断しなければという心づもりではいます。稚拙な文章ですが、ご意見いただければ幸いです。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 12
回答数回答 1

救いとは何か

自分が考える救いとは、無感覚になることです。 迷いを引き受けるとか、しっかり迷うとか、答えは自分のなかにある(道を探求する、道を歩む)とかしんどいのでどうでもいいと思います。 念仏を唱えるのも違和感があるし、修行は無感覚になれるわけではないので無意味です。 悟りの段階が上がると無感情のように見えると聞いたことがあり、憧れますが仏教の悟りは廃人化ではないらしいのでこれも救いとは違うのでしょう。 世間一般的にある努力や苦労をたくさんしろという風潮や、自分の本能的な?遺伝子に組み込まれている?より良くを求める脳の神経の反応(これが仏性的なものか?)もどうかと思います。美しくなければ生きていても仕方がないです。 感覚を断ち切るには死しかないのではないか? と考えますがそこまで思い切れる力もないので、無感覚者として浮遊しているのを夢想します。何か感覚を断ち切れる良い薬があれば欲しいです。ぶらぶらさすらっていてもなんの解決にもなりません。 これまでこれからのいいことよりも、隅々まで行き渡った平穏が楽に簡単に苦行なしで欲しいです。 心境を述べているだけで、一体何を期待しているのか? よくわからないですがよかったらなにかコメントよろしくお願いします。

有り難し有り難し 17
回答数回答 2

やる、とやらない、ということ。 個性と自我について

こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。 やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。 これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。 これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。 相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。 自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか? できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか? よろしくお願いします。

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
回答数回答 14

執着がないのはまずいのか?

物心ついた時から執着がありません。 田舎暮らしで店もなく物があまりない環境で育っていて、物やお金に溢れた暮らしを経験したことがないからかもしれません。 別に愛情に飢えたことも溺愛されたこともないし、無理やり恋人が欲しいともあまり思ったこともないのですが何となく彼女はいることが多いです。 恋愛は相手がいる話なので多少は思い悩みますが。 それとお金や性欲の強さゆえに色々問題を起こして堕落してしまった人が周りに数人いるので、ああはなりたくないな、と思って我欲を出すのは良くないな、とも何となく感じているからでしょうか? お金にも執着がないし、権力なんか持ってもめんどくさいとか思えてしまいます。特にスマホを手に入れてから、物を持つのがますますめんどくさくなっています。 あまりにも執着が無さすぎて、相手を束縛しなさ過ぎて元カノは他人に寝取られたのですが、彼女を責める気持ちにもなれません。彼女に執着しなかったから新しい今の彼女にも出会えたし。 同世代の人間とは経済的な話とかが合わず、話が合うのは物欲が薄いさとり世代の若者ばかりです。 釈迦が全てを捨てて悟りの道へ進んだのは物心両方とも満たされてその状況に満足しなかったからだと聞いております。 出家前の釈迦ほど恵まれた境遇ではないのですが、足るを知っているから今の境遇に不満はありません。 もちろん今から向上心を持ってお金や権力を取りに行けば自分のキャパシティを広げでいくという生き方もあるのかもしれませんが、何かそれは虚しいなぁ...とも思えます。 やはりこの考えは変なのでしょうか?

有り難し有り難し 14
回答数回答 2

仏教に様々な宗派がある理由

いつも拝見し、様々な方のご質問やお坊さん方のご回答を読ませていただいては多くを学ばせていただいており、ありがとうございます。 初めて勇気を出して質問させていただきます。。。 少しずつ本を読んだり話を聞かせたいただいていますが、まだまだ初心者です。 本来ならばいずれかの宗派に特化して学ぶべきなのでしょうが、まだそこまで絞れておりません。 少し学んだレベルなのですが、自力の仏教も他力の仏教も頷かされることが多々あります。 どちらの仏教も並立するんやないかなと思うこともあるくらいなのですが、他方、それぞれで相反する考え方もあります。お経さんでも同じです。 元はお釈迦様から始まった同じ根っこなのに何故なんやろう…と不思議でした。 これは、対機説法、応病与薬が具現化した結果だと理解するべきものなのでしょうか? そうであるとするならば… 浄土真宗では、煩悩はなくならず、自力では決して救われず、悟ることはできないと聞かせていただいています。 他方、禅宗では、煩悩を減らして行き修行を重ね悟りに至ることを目指すものと認識しています。 ということは、人それぞれによって(対機)、自力で救われる人もいれば他力で救われる人もいる、 煩悩のままで救われる人もあれば、煩悩を減らして(なくして)救われる人もいるということでしょうか。 どの様な人に、どの様な説法=教えが適切なのでしょう⁇⁇ 屁理屈の様な、ド素人の、アホな質問で大変恐縮ですがご教示頂けますと有難いです。 もしかして過去にどなたかが似た様な質問をされて回答がある様でしたら申し訳ありません。 宜しくお願いいたします。

有り難し有り難し 37
回答数回答 3