初めて質問をします。よろしくお願い致します。 先日、祖母が亡くなりました。それをきっかけに浄土真宗の教えを(ネットの情報からではありますが)学び始めました。 妙好人について書かれていることを読んで思ったことがあります。 他力信心を得ると言うことは、仏の悟りには至らなくても高いところの悟りに達しているように思い、阿弥陀様のお力を気づかせて頂くのは、簡単なことの様に説かれているものの難しいなと思っています。 他力信心によって死への恐怖や不安がなくなるのは、頭では理解できたかなとは思っています。しかし日常生活生活における死に直結しない様々な不安があります。なぜそれらも気にならないようになれるのでしょうか? ご助言をよろしくお願い致します。
こちらで色々アドバイスを頂き執着を捨てる事にしました。 心はあまり楽にならないですが続けています。 いろんな事を諦めるたびに人生生まれつき決まってるんだなと確信したと同時に、殆ど諦める人生に何の意味があるんだと思いました。 それから殆ど生きる意味が皆無だという事を科学的に物理学、生物学の知見から考え自殺意欲が促進するようになりました。 深淵な仏教徒以上にこの世界の虚無性を理解してる私ですが、皆さんはこのような状況になったらどうしますか?
私は浄土宗の檀家です。 お仏壇も阿弥陀様を主役におまつりし、毎日「阿弥陀経」を読誦し、発願文を読み、お念仏を100回唱えております。 しかしお不動様と大黒様も大好きで、阿弥陀様とは別に個人的な持念仏として、毎日勤行しております。 浄土宗のお寺にもお不動様をお祀りしている寺院もあること、個人的に尊敬している祐天上人がお不動さんと縁のある方であったこと。 またお不動さんを開眼してくださった密教系のお寺でも「阿弥陀様と共に信仰しても構わない」とアドバイスをいただいたことから、問題無いと考えていたのですが・・・ しかし法然上人のご著書を読んだところ、専修念仏では雑修(お念仏以外の仏道修行)は行わない方が良いと書かれていました。 阿弥陀様以外の仏様に浮気をする雑修は、往生の妨げになると。 (真宗では特に厳しく、阿弥陀様以外の仏様は、原則祀らないと聞いております) しかし家の菩提寺の浄土宗のお寺では、お地蔵様や聖観音様、馬頭明王様も祀られています。 (菩提寺とは遠方に住んでおり、ご住職とはほとんどお話しできません) 浄土宗は、本当のところ、雑修をどう考えておられるのでしょうか? ご意見をいただけましたら、幸いです。
人生が上手くいかず、悩みます。 男性に告白してもふられ、仕事も叱られてばかり。人間関係もうざがられ、親も呆れて果てて。 自分は生きる価値がない人間です。 甘えもひどいし、周りの人は私のこと嫌いだと思います。 事故でなくなったりする人の身代わりになりたいといつも神様に願っています。 優秀な美人で仕事がばりばり出来る人に生まれて来たかった。 もう40代も後半で生きる希望が見えません。 他の人のように人生順調に行きたかったです。 諦めて悟りを開くにはどうしたら良いですか?教えて下さい。よろしくお願いします。
浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。
分別(ふんべつ)やその分別から生ずる苦しみも悟りの現われであり、禅宗における“仏性”の一様であるのでしょうか? また、もしその通りであるのだとしたら、それを疑いなく自覚するためにお坊さんである皆さまは、日々どのような修行を行ってらっしゃるのでしょうか?
十年ほど前に、作家の玄侑宗久さんの般若心経の解説本で、初めて仏教的な物の見方を知りました。 息苦しい日々に、涼しい風が吹き込んだ様な気がしました。以来、少しでも仏教的な悟りや心の安心に近付きたく、仏教書(仏教関係のエッセイなど)を読んだり、座禅に通ったり、欲を捨てる事を心掛け、諸行無常、諸法無我を心に留めてきましたが、相変わらず心弱く、煩悩に振り回され続けてます。 心の安心を仏教から得るには、どのようにしたら良いのでしょうか?座禅会では、座っていれば自然に気付くと聞きましたが、何も分かる気がしないのです。信仰ではなく考え方としてしか仏教を見ていないからでしょうか?
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
質問させて頂きます。 私は集中治療室で看護師(2年目)をしている者です。 先日私が連日担当していた患者さんが脳死になり、亡くなりました。 今まで亡くなる方は沢山見てきましたがそこまで感情移入せずに振り舞うことができていました。 しかし今回は、連日ご家族とも親しくさせてもらっていた事や急な病状の悪化もあり、寄り添う事が大事とは知りつつも辛く苦しく自分への無力感も強かったです。 何か出来たのではないかと後悔する事の連続でした。 また今回の事を経験した直後、自身に病気が見つかりました。手術により一命はとりとめ今は入院し傷が治るのを待ちながら、今後薬物療法を続けていく予定です。 今回自分が絶望的な痛みを経験した事で他人の気持ちを安易に分かると話すのは人を傷つけるのではないかと怖くなりました。寄り添うと言葉では簡単に言えても極めて難しい答えが無いものだと思いました。 また、自分がなかなか手を抜けない性格であり忙しくなると自分を蔑ろにしてしまうため、自身の働き方を模索している最中です。 今の職場はスタッフも優しく働きやすいと思います。 少しでも感情移入しすぎず、悩みすぎず働くにはどのような心構えを持てば良いのでしょうか。 最終的には自分が判断しなければという心づもりではいます。稚拙な文章ですが、ご意見いただければ幸いです。 よろしくお願いします。
おはようございます! いつもちょっと暗い相談ばかりなので 明るい相談をしたいと思います。 蓮の花を見たことないのですが いつ頃咲くのでしょうか? それから 蓮の花と仏教は何か繋がりがあるのでしょうか?
五蘊という言葉を聞いたことがあります。 これらの要素が「私」を構成しているものだとしても、これらを「私のもの」としてリンクさせる力はどこから来るのでしょうか? 例えば「私の思考」「私の感覚」「私の体」というように、なんでも個人的にしてしまう力です。 もちろん人間の発達した脳のせい、とも言えると思います。 では、脳に損傷を負ってしまった人や、痴呆が進んで自分のことがわからなくなってしまった人は、いわば悟りに近い状態ということ? 自分のことがわからない「自分」、が残るので、違うんじゃないかと思いますが、皆さまはどう捉えますでしょうか? 科学的なことはさっぱり分かりませんが、脳の仕組みとはまた別に「経験を個人的に所有する力」について、仏教の視点からご教授いただきたいです。 よろしくお願いいたします。
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
自分が考える救いとは、無感覚になることです。 迷いを引き受けるとか、しっかり迷うとか、答えは自分のなかにある(道を探求する、道を歩む)とかしんどいのでどうでもいいと思います。 念仏を唱えるのも違和感があるし、修行は無感覚になれるわけではないので無意味です。 悟りの段階が上がると無感情のように見えると聞いたことがあり、憧れますが仏教の悟りは廃人化ではないらしいのでこれも救いとは違うのでしょう。 世間一般的にある努力や苦労をたくさんしろという風潮や、自分の本能的な?遺伝子に組み込まれている?より良くを求める脳の神経の反応(これが仏性的なものか?)もどうかと思います。美しくなければ生きていても仕方がないです。 感覚を断ち切るには死しかないのではないか? と考えますがそこまで思い切れる力もないので、無感覚者として浮遊しているのを夢想します。何か感覚を断ち切れる良い薬があれば欲しいです。ぶらぶらさすらっていてもなんの解決にもなりません。 これまでこれからのいいことよりも、隅々まで行き渡った平穏が楽に簡単に苦行なしで欲しいです。 心境を述べているだけで、一体何を期待しているのか? よくわからないですがよかったらなにかコメントよろしくお願いします。
1宇宙が生まれる前を神様と定義 2善神様(ルーさんと同一にも別にもなれる) ☆「1様」と「2様の分裂」がこの世あの世の全て 信じられますね? 悟りの一つは、CO2のCも水も動物も植物も光(神様)も全部が神様であり人間であり魂であり光であり光DNAである。 類魂は全てが類魂 全てが幸甚となることが目的 神様の幸甚は宇宙中の幸甚 まだまだの私です。さみしさが文章を打つことで紛れております。 ps私は前の宇宙のときもこのDNAで存在したようです。全てに感謝!
こんにちは。四海と申します。今大泣きしながらこの質問書いてます。以前悟りについて質問したときはご丁寧な回答ありがとうございます。お釈迦様の教えを身をもって理解できた瞬間は一生の宝物です。ですが私は精神疾患を患っていて最近症状がぶり返してきました。ただでさえ誰とも会話しない日々(事情は話せません)を過ごしてるのに鬱状態になったら泣きっ面に蜂です。お薬も飲んでますが効果は無いに等しいです。どうしようもないので大泣きしたりネットで死ぬ方法を調べるしかやることがありません。こうなると自分を制御出来なくなりいつ自殺してもおかしくない状態になります。過去に何度か自殺未遂してその度に生き延びてますがもうさすがに限界です。人と話すとパニックになるのでこうして文字にしないと相談できません。脈絡のない文章ですが、どうすればよいか教えていただけないでしょうか。
お念仏のありがたみは分かるのですが、どうしても「阿弥陀さまを信じてお念仏を唱えたら極楽に往生できる」ということに疑念を抱いてしまいます。疑い深い性格でして、「たったそれだけで?」と思わずにはいられません。 もちろん、「たかがそれだけ、されどそれだけ」というのはわかるのですが、どうしても信じられないというか。 信じるって難しいですね。 私にはお念仏があっていないんでしょうか?
般若心経について質問があります。 般若心経の「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は、「行ける者よ 行ける者よ 彼岸に行ける者よ 悟りよ 幸あれ」の様な意味だと、何かで聞いた事があるのですが、本当でしょうか?
大乗仏教の救いについて教えてください。 大乗仏教では出家者ではなくとも、救われるとの教えだと学びました。 では大乗仏教の救いとはなんでしょうか。 出家をしないで煩悩が消せるとは思えません。 人間はいつも何か欲しいと思ったり、仕事に不満を感じていたり、何かしらの煩悩を持っていますよね。 煩悩を持ったままでも悟れるのでしょうか。 大乗仏教の悟りとは煩悩がなくなることではないのでしょうか。
いつも お世話になります。 私は今日一日 行きつけのお寺で座禅を組んだのですが お坊さんからなるべく何も考えないように言われたので 何も考えないように頑張ってみたのですが、雑念だらけでどうしても 無 になれなかったので 諦めかけた時 昔 母から 楽しいことだけ考えて生きよう と言われたことを思い出して これだ!と思いました。 これが 答えだ! って思いました。 これは ある意味では 悟りに準じているのでしょうか?
こんにちは。 いつもHasunoha問答を読ませていただき、勉強になります。 やる、とやらない ことと、個性は邪魔になるのか、の問題にはまっています...。上手く説明できないかもしれませんが、よろしくお願いいたします。 私は自我が強いです。 そして悟りの境地までは至れずとも、煩悩や自分の、物事を苦しくしてしまう思いを改善したいと切に願っています。 これまで、自分の性格特質や内的向上として、心理的アプローチからの療法を受けていますが、やはり前にはだかるのは“手放す”ことの難しさです。 これは、やらない ことなんだとわかります。何とかしようとしない。私にとっても、ここはとても肝心な部分だと思います。(この質問書いていること自体、もうおかしいでしょうか...。)でも、やらないと、前進もない気もします。 相手も自分もない、真ん中の部分。これは、瞑想などで一体感が得られるので、何となくわかるんです。ですが、ずっとこれでいるということは、自分を捨てて(なくして)生きるということでしょうか。 自分の個性や特徴を見出し、広げ、自己肯定できるようになり、自分の人生を生きていく、ということそのものは、むしろ真ん中でいようとすることには邪魔なものなのでしょうか。相反しますか? できれば私は、どちらでもありたいのですが、これでは欲が強すぎますか? よろしくお願いします。