ニュースを見たくありません。 最近は見れば死体が見つかりました。 死後○日はたっています。殺人のようです。 こんなニュースがここ最近毎日流れ、はっきり言ってなぜ簡単に殺してしまうのか解りませんが、悲しくなります。 数日たつと犯人は身内や昔付き合ってた人や昔同じ職場だったりと逆恨みが多いんですよね。 もう、こんなニュースは沢山です。
最近、テレビでぶっちゃけ寺というお坊さん出演者が仏教についてぶっちゃける番組が流行っていますが、お坊さん的にはこういった番組についてどのように感じるのでしょうか? ためになるので毎週見ているのでしょうか? それとも、バラエティー番組だからけしからんとでも思っているのでしょうか? ぶっちゃけ寺に対するお坊さんの意見を聞きたいです。 よろしくお願いたします。
いつも有り難う御座います。お坊さんの回答、楽しみにしています。目に止めて頂き嬉しいです!お坊さんは幽霊を信じますか? 私が今まで体験したのは、小さい頃に母親を見つめる女性が現れたり、髪の毛を引っ張られたり、頭を撫でられたり、夜中に起こされて女性が叫んでる姿を見せられたり。こんなものです。不思議な体験をしている時は、時間が止まってるかのように、会話がなかったり、体が動かなかったり、「あー」と思ってる間に終わってしまうものです。ある時、全然知らない人に「会ったばかりでこんなこと言うのも悪いんだけど、憑かれやすいから塩を持ち歩いた方がいいよ」と言われると同時に、私の性格も当てられました。その人は霊感が強いみたいで、気を付けなよと言われました。最近では、よくデジャブ?が起こります。「あれ、このシチュエーション前もなかった?」というのが2度はあります。動作や、時間、場所なども全く同じです。笑ってしまうほどです。パッと時計を見るとゾロ目?ということも何度もあります。携帯で調べると霊感が強くなってきてるのかも知れないとありました、因みに私の母親は霊感が強いです。対処法などありますか?やっぱり塩を持ち歩いたりですか?乱文ですみません!
家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。 しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。
解脱は最高の「涅槃」から最低の「浄土」までレベルがあるようですが、日本の仏教は、目指すレベルに従って多宗派に分かれたようですね。 最初日本に齎された仏教は解脱の実践方法だったようです。 仏教の基本は真理の「般若経」、真実の「般若心経」、そして論理の「阿含経」で構成されていると思いますが、「阿含経」は南伝だったので、日本ではなじみが薄かったのでしょう。 これらを基本とする根拠は 金剛般若経の次のような記述に依ります。 説法の本質 「それはなぜか。スプーティよ。如来は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 ところで、「阿含経」には解脱の処方迄示されています。 有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 如実知見→厭離。厭離→離貪、の意識が芽生えれば、 離貪→解脱、に至ります。 厭離は徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」の事ではないでしょうか? この世が「穢土」であることの認識が重要です。 これによって衆生は「浄土」、菩薩は「涅槃」を求めることになると思います。
24年前に娘を幼稚園入園直前に亡くしました。入園するはずの幼稚園はお寺でしたので(浄土真宗)そちらで葬儀やら法事やらをお願いしたり遺骨は本堂の方で納骨して頂いていました。その間、諸事情がありまして私は実家の近くに転居しました。 実家には菩提寺がありましたのでそちらのお墓に初めて遺骨を埋葬しました。ご住職様は宗派が違っても特に問題ないとおっしゃって下さいましたが位牌の戒名だけは少し変えて頂き祀ってあります。現在でも浄土真宗の作法をベースに曹洞宗も少しですが取り入れながら(お盆の迎えや送りなど)供養しています。今更ながら大変、お恥ずかしいのですが曹洞宗は仏像を祀るようですが私の所の仏壇には浄土真宗に乗っとった掛け軸のみしかありません。仏像はお祀りした方がよろしいのでしょうか?
人生は同じ事に繰り返しに思います。落ち込んで、元気になって頑張って、俯瞰して頑張る事に疑問になって、答えを出して、でもまた落ち込んで。私はずっとこの繰り返しで、趣味や興味があることに熱中したり自ら足を動かして行動する方ですが、人生はずっと同じ事の繰り返しだと感じます。 ネガティブなことの押し付けで申し訳ないのですが、この事を最近ずっと思います。 そして、同時に十分であると感じています。たのしい思いも、悲しい思いも、悔しい気持ちを一通りしたと思います。すごく幸せだと思います。でももう十分なのです。 今20歳です。これからの人生を生きていくのが大変だと思います。アドバイスがありましたら教えていただきたいです。
死後の世界では、私が産まれる前に亡くなった祖父や、亡くなった曾祖母や、御先祖様に会えるのでしょうか。 また、私の事知っている・覚えているのでしょうか。。。 ご回答よろしくお願いします。
自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。 もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。 釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請) 仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。 まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。 輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。 釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。 「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。 我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。 寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。 私はその修行の厳しさに初めから諦めています。 「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。 しかし通常の自殺は防止しなければなりません。 何故なら心が死んでいないからです。 六道輪廻で脅しをかけるのです。 それも真実の脅しですから遠慮はいりません。 この自殺対策は有効だと思います。 ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。 輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、 NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。
10代、20代の時は「今」を生きていたので死について深く考えてきませんでしたし、死ぬことは怖くありませんでした。 しかし、身近な人が亡くなるにつれて死後について考えてしまうようになりました。 大事な人はいずれ死にますし、いつか会いたいと思っていた人もいつの間にか死んでしまいます。 子供の頃の友達、近所のおばさん、世話になった先生、みんなに昔の姿で会うことはできませんし、次会ったとしても当時のように話はできないと思うと苦しくなるのです。過去には絶対に戻れないこと、死はせまってきていることを実感していく感覚。 この感じはみんなにもあるのでしょうか? また、お坊さんに対して愚問だとは思いますが死んだ後人はどうなると思いますか? 個人的な意見をお聞きしたいです。 ①輪廻転生 ②天国、地獄 ③同じ人生を繰り返す ④無 ⑤その他 私の今の考えとしては希望も含めて③だと思います。 長文をお読みいただきありがとうございました。 皆様のご意見をお聞かせください。
タイトルの通り日本の社会が狂っていると感じます。 過労死、自殺、いじめ等この日本の社会で生きていて異常だと 感じる事が沢山あります。 何だかこの社会に追いつめられてる感じて、胸が苦しくなる時もあります。 しかし、この事を他の人に伝えても理解をしてくれません。 「みんな苦しいのは一緒だ」と言われ こんな事を言う自分は他人から「甘い人」と思われています。 私はどうやってこの社会で生きていけばいいのでしょうか?
無分別智をわかりやすく教えて頂けませんでしょうか? 特に蹴落とし社会における無分別智の実践をお坊様はどのようにお考えなのでしょうか? お忙しい中、恐れ入りますが、ご回答を宜しくお願い申し上げます。
私の地元に全国的に有名なお寺があるのですが、そこのお坊さんが超高級車であるフェラーリやマクラーレンを長年所有していると知りました。最近は中古価格が1億円を超えることもあるマクラーレンを所有しているそうです。親に聞いて見たところ、昔から地元では有名だったそうです。 私の中でお坊さんと言えば質素な生活をするのが当たり前?だと思っていたので大変驚きました。超高級車を乗り回すなんて煩悩の塊ではないかと思うのですが、お坊さんが超高級車を所有することは仏教の教えやお坊さん達にとって問題のない事なのでしょうか?
而今とは今を生きることだと認識しています。 しかし、どんな人でも何かを思い出したり、予定を立てたりすると思います。 そして、記憶や予定は、過去や未来そのものだと思います。 刹那に生きることと上記のことが矛盾しているように感じます。 この矛盾はどう解いたら良いのでしょうか? よろしくお願いいたします。
私は、「がんばって」と言われるとうれいし、がんばろうと思います。 しかし、人によってはそう言われる時点ですごくがんばっていて、そう言われるとよけいに負担に感じてしまう人もいるのではないかと思います。 相手の人を応援したい気持ちがあっても、「がんばって」以外のことばが見つからず、何も言えないことがあります。 そういう時、どんなことばをかけたらよいのでしょうか?
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
私は小学生の頃、大阪のUSJ近くのホテルで恐らく心霊体験をしました。 それ以来、私は今でも霊の存在を信じているのですが私個人としては、どちらも科学で証明できると考えています。 よく霊や死後の世界は非科学的と世間でも科学の世界でも言われていますが、その多くはしっかりと調べもしないで根拠も無いものばかりです。 そもそも非科学という言葉が非科学的ではないのかと私は思ってしまいます。 死後の世界や転生に関しては近年、量子物理学の学者が科学的に存在する可能性を真剣に研究しています。 私は霊や死後の世界などが今まで立証できなかったのは科学が未熟だったからではないかと考えているのです。 ですので、将来、立証できる日が来るのではないかと私的には思います。 そこで質問です。 お坊さんは、霊や死後の世界をどの様な存在だとお考えなのでしょうか? また、もし、今後この分野に科学のメスが入る場合、お坊さんとしては、どの様に思われますか?
こんにちは。 今年、「私はこのために生まれてきた」と思えるような大きな仕事を、文句のつけようがないほど良い形で果たすことができました。自己満足だけでなく、社会にも大いに役立つ仕事です。この社会に生を受けた責任も、果たし終えたといえると思います。 だから30代半ばにして、私にとってはこの先は「余生」という感覚で、もういつ死んでもいいと思うようになりました。 生きていることが、絶対的に幸せだとは私は思いません。生きていれば、「知らなければ幸せだったこと」を知ってしまい、絶望に苦しまなければならないこともあります。生きるためにはお金が必要ですが、そのためにあくせく働いて「何のために生きているのかわからない」と思ってしまうのでは、目的と手段が入れ替わっているようにも思えます。 それに、今の私は人生の目的を最良の形で果たし終え、幸せの絶頂にいます。もし今、人生の最後の時が来たら「私の人生は最高だった!」と笑って死ぬことができるでしょう。それはある意味、理想の死の形ではないかとも思います。 親はいますが、伴侶や子どもはいませんので、「この子の行く末を見守るまでは死ねない!」というモチベーションもありません。フリーランサーなので、組織に対する責任もないです。親や友人は私にもしものことがあれば嘆き悲しむでしょうが、志半ばではなく充分に人生を謳歌し、社会にも確かな礎を遺して生き切った私を、誇りに思ってくれるのではないかとも思います。 でも、そんな縁起でもないことを考えてはいけない…という風潮もありますし、「長生きしたいと思わない」なんて生物としておかしいのではないか、そんな考えを口に出すことは人としてタブーなのではないか…と我ながら思ってしまうこともあります。 一方で、死生観は人それぞれ、一般論に振り回されても意味がないのではないか…と思う自分もいます。「逆縁なんて親不孝」「生きたくても生きられない人もいるのに」なんて定型文もありますが、そんなのはケースバイケースだと思います。 もちろん、私は「自殺したい」と考えているわけではありません。ただ漠然と「今お迎えが来てもいいな、そうなっても全然『死にたくない』とは思わないな」…などと思っているぐらいです。 私の考えは誤っているのでしょうか。誤っているとしたら、なぜなのでしょうか。 こんな私に、有り難いご教示をいただけたら幸いです。
こんばんは。先日は私の質問に真摯にご回答下さりまして、誠にありがとうございました。こちらで質問させていただいて、お坊さま方の回答から今後の生活のヒントになることを沢山学ぶことができました。本日は、さらに質問したいことがございますので、ご迷惑かとは存じますがご回答頂けますと幸いです。 私は、仏教について勉強していく中で、日本では仏教と神道が結びついて独自の文化を形成してきたということを学びました。それは、ヨーロッパのような激しい宗教対立ではなく、大乗仏教の柔軟な教えがあったがゆえに土着の信仰を包摂できた結果生まれたものであり、世界の中でも珍しい信仰体系であると思います。 しかし、仏教の教えと神道の教えは相容れない所があるようにも思い、そこが自分の中で考えの整理がつかない点でもあります。例えば、先祖崇拝はもともと仏教の教えには無かったと学びましたし、神道の荒魂・和魂といった概念も仏教の教えとは異なるもののように感じます。この両者の教えの違いをお坊さまはどう整理されているのでしょうか。 なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、私の実家の信仰と上記の問題が関連しているためです。私の実家の宗旨は浄土真宗なのですが、仏壇の他に神棚もありますし、両親は仏壇の他にも調理場や庭石などにお供えをしています。また、お寺にも神社にもお参りに行きますし、お墓へもお参りに行きます。これまではこれらを当たり前のこととして受け取っていたのですが、仏教を勉強していくうちにこれらの習俗に対して疑問が湧いてきてしまいました。 浄土真宗を信仰する家庭では、神棚は基本的には置かないと伺っております。また、死んだら即成仏という考え方であるため、位牌も必要ないと聞いております。しかし、私の実家には神棚もありますし、黒塗りの位牌もあります。この両者の間の矛盾をどう整理すれば良いのでしょうか。菩提寺の住職様に質問はしてみたのですが、曖昧な答えで納得のいくものではありませんでした。私は、人生を生きていく上で道標となるものを得たいと思い、仏教の勉強をしてきたのですが、現実の生活に活かせるように整理しようとすると、矛盾点が多く悩みはむしろ以前に比べて増えてしまっているような気がします。 お忙しいと思いますが、お坊さま方のご意見を伺えましたら幸いです。よろしくお願いします。
浄土宗を信仰していますが、先日ショックな文献に出会ってしまいました。 二祖・聖光房弁長上人の念仏名義集に 「臨終行儀と申すは一期の大事是に過たる無きたり。世の中の人の往生したるぞ、悪道に堕たるぞと申す事は、此の臨終にて知るなり。臨終の吉き人は往生したると知る、臨終の悪しきをば悪道に落ちたりと知るなり。」 とあります。 これはどうしても納得できません。日頃念仏をしているのにろくでもない死に方をした人が一人でもいたら、「念仏すれば阿弥陀仏は救ってくださる」という教えが崩れてしまいますし、現実的にそういう人が今までに一人もいないとは思えません。 念仏していたって死ぬ時に正念を保てるとは限らないし、保てていたとしてもこの目に来迎を見ることができるかはさらに自信がありません。来迎を見れなければ浄土に往けないと思うと、物凄い恐怖の中、死んでいかなければならないのではないでしょうか。 弁長さんなんでこんな暴言吐いちゃったの!?って気持ちです。 そんな疑問を抱えたまま時宗を勉強していたら、時宗では臨終とは死ぬ時だけを指すのではなく一瞬一瞬を臨終と心得、今この時に唱える平生の念仏がすなわち臨終の念仏である。 来迎が見えなくても三界虚妄のこと、惑障が邪魔をして見えないことだってあるが気にしなくていい。必ず往生できる。という教えに出会い、これだ!と思いました。 じゃあ時宗に改宗したらいいじゃんと言われそうですが、この弁長さんの発言以外は浄土宗が好きで、敬愛する徳川家康公と同じ宗派ということに魅力を感じています。時宗総本山清浄光寺より知恩院の方がずっと近くて行きやすいですし、何より近くに時宗の寺院がありません。 そこで、浄土宗檀信徒のまま、都合のいい所だけ弁長上人の言うことを無視して一遍上人の思想を取り入れるということをしてもいいでしょうか? それでも浄土宗檀信徒を名乗る資格があるでしょうか?