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観音経を唱える前後の願意の唱え方

延命十句観音経について とても丁寧なご解説をありがとうございました。よくわかりました。自然界の道理を小さな人間の念仏ごときで動かすなど不遜と言うほかないと気づかせていただきました。今後、観音経を唱えるときは、観音様に「奇跡を起こしてください」ではなく、「今度の手術がどうなろうともこれが娘に良いことになりますよう」と念じることにいたします。 実はこのたび観音経を始めましたのは、「景清」という落語に感化されたからです。 昔、平家に仕える悪七兵衛景清という武士が、源頼朝の命をつけ狙い、捕えられたときに、源氏の世を見るのは忍びないと自分の両目をくり抜き清水寺に奉納したことから、ある全盲の男が眼病によく効くと聞きつけ、十句観音経を100日唱え満願の日に観音さまが現れて、景清の目を貸し与え目が見えるようになる、というお話しです。 昔からこのような観音信仰があるのですね。わたしは藁をもつかむ心境から始めたことですが、今後は娘が全盲になったとしても前向きに生きていけるよう祈り、智慧を出してやろうと思います。 それから、観音経を唱える前後の願意の唱え方がわかりません。定型の唱和文などあればご教示くださいませ。

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浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?

父方は浄土真宗、母方は浄土宗、当人はキリスト教カトリックという宗派宗教ごちゃ混ぜのからすたろうと申します。また、ご縁があり法相宗薬師寺に何度かお世話になっています。(ややこしくてごめんなさい。) 昨年、母方の祖父と父方の近い親戚が亡くなったことから仏教に興味を持ちはじめ 法相宗薬師寺にて少しながらご奉仕をさせていただいたりしています。 法相宗では般若心経を1日に何回も読経するので自分にとって般若心経は暗唱できるほど一番身近なお経です。奉讃文に 「神前にては寶の御經、佛前にては花の御經。 況して人間の爲には祈念祈禱の御經」(引用) とあるように祖父(浄土宗)の仏前では読経させていただいています。 さて、父方の仏前でも親戚一同からお前の読経は声が良い。染みる。なんて囃し立てられまして何度か般若心経読経させていただきました。 しかし、先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。 ・やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか? ・浄土真宗の仏前にてお唱えするときは何というお経が良いのでしょうか? ・浄土宗では南無阿弥陀仏を十念4+4+南無阿弥陀仏+南無阿弥陀ぶー とお唱えしますが、浄土真宗では「なんまんだぶ」と聞こえます。どのようにお唱えすれば良いのでしょうか。 長くなってしまいましたが3点、よろしくお願いいたします。

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お盆のお経や法事などは菩提寺以外に頼めますか?

うちには菩提寺があります。お付き合いはもう大正の頃からになります。 菩提寺は大きなお寺で、住職さん以外にも若いお坊さんが数人おり、近隣のお寺から勤めに(?修行に?)きている環境です。うちへお盆のお経などにはその若い方(A和尚)が日頃よりきていただいており、法事でお寺に伺うと住職さんとA和尚が勤めてくれます。 しかし、最近住職が変わり、次の住職さんになると体制がかわったようで、そのA和尚がやめられてしまいました。幸いに菩提寺の近くのお寺にA和尚は住職としていらっしゃるのでなにか相談があれば電話や直接伺って悩みを聞いて貰っています。 A和尚はとても人気があり、お壇家はみな、菩提寺をやめてA和尚のお寺に移りたいと言っている人もいるくらいです。 さて、伺いたいのは、お盆などのお経を菩提寺ではなく、今まで相談にのってもらったり、お経に来てもらっていたA和尚にお願いしてもいいものでしょうか? もちろん法事や葬式は菩提寺にお願いしなければならないと思うのですが(本心はA和尚にお願いしたいところです)。 私をはじめ、家族皆、A和尚のお経や話や人格に惚れてこんでおり、是非お願いしたいのです。しかし、私が菩提寺に頼まずにA和尚に頼むことで、菩提寺とA和尚との関係が悪くなったらと心配でもあります。 どうしたらいいでしょうか?

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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

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