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hasunoha 問答検索結果 : 「自分 悟り 」
検索結果: 1761件

輪廻転生について

 こんにちは。昨日は私の質問にご回答頂きまして、誠にありがとうございました。非常に勉強になり、今後の参考にしたいと思いました。  立て続けで申し訳ありませんが、輪廻転生について、あと一点だけ質問したいことがございます。この質問で最後にしますので、ご回答頂ければ幸いです。  日本の仏教関係者の中には、和辻哲郎博士など輪廻転生を否定する説を述べられる方もおられます。その一方で、魚川裕司氏は著書「仏教思想のゼロポイント」で和辻哲郎博士の説を批判し「無我輪廻説」こそがお釈迦様の説かれた教えだ、と主張しております。先の質問で、お坊さまがおっしゃっておられた輪廻の本意はこのことなのかな、と思っております。  そこで、さらに疑問が湧いてしまったのですが、チベットやブータンでは、「輪廻転生による生まれ変わり制度」が存続しています。上記の解釈ですと、生まれ変わりを認めることは難しいように感じるのですが、この制度は民衆を導くための方便ということになるのでしょうか。  このような知識欲自体が煩悩なのかもしれませんが、どうしても知りたいと思ったので質問させていただきました。お暇なときで結構ですので、ご回答頂けるお坊さまがいらっしゃれば幸いです。よろしくお願いします。

有り難し有り難し 31
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人は死んでも見ていてくれるのでしょうか

人は死んだら無になるのでしょうか。仏様になって私たちを見てくれてはいないのでしょうか。 幼い頃から大好きで大切だった祖母が最近、亡くなりました。私の家には仏壇が無いため(親戚の家にあります)、祖母の写真を置き、その前にお供え物をしています。祖母は亡くなるまでの半年間は食べ物や水を一切口にすることができませんでした(病院から飲食を禁じられており、栄養はカテーテルで摂っていました)。しかし本人はずっと「食べたい」「水が飲みたい」と言っていたのにそれが叶うことなく亡くなってしまったため、あまりにも哀れで、せめて天国ではたくさん食べてほしいと思い、お供え物をたくさんしています。けれど、ふと思うんです。こんなことをして、祖母は食べてくれているのだろうかと。人は死んだら仏だのあの世だの霊だのそんなものはなく、完全に無になるだけなのではないかと。だとすれば、毎日あれこれと飲み物や食べ物をお供えしているのは、単なる私の自己満足に過ぎません。それを考えると、虚しくなります。仏もあの世もなく無になっているのなら、お供え物もお墓参りも完全に意味の無い行為と言えます。ネットで色々と検索してみたら、霊感のある人は「ちゃんと食べてくれている」という意見を述べていたのですが、私には霊感がないので何も感じ取ることができません。 それに、祖母は20年以上前に亡くなった祖父のお墓参りをずっとほぼ毎日やってきましたが、祖父が見てくれていたようにも思えないのです。なぜなら、祖母は長年、体の不調に苦しみ続けていましたし、長文になるので割愛しますが最期の時もあまりにも惨めなものでした。よく「故人を思ってお墓などを大切にすると幸せになれる」ということを聞きますが、祖母は最後まで哀れでした。このことを考えると、やっぱり人は死んだら無になるだけで、それ以上は存在しない、つまり私たちを見てくれてはいないのかなと思えてしまいます。 難しい質問かとは思いますが、回答、宜しくお願い致します。

有り難し有り難し 86
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この世で生きる苦しみは学びでしょうか

いつもたくさんの相談と回答を読ませていただき、学ぶことや気づくが多くありがく感じています。 今回2度目の相談です。 前回娘が亡くなったあとの心の持ち方についてご教示いただき、それまで苦しみで澱みきっていた心が浄化されました。ありがとうございました。 あれからも娘のことを思わない日はなく、 でもあちらの世で仏様のお導きのもと、生前抱えていた深い苦しみや悲しみがない在り方(過ごすや暮らすという表現は違うと思いこのように表しました)をしているものと考え、娘の肉体はなくなったけれど存在は私にとって永遠のものになったと感じられるようになりました。 いろいろ考える中で思ったのが、人はこちらの世界で様々な煩悩や苦しみを抱えながら生きていますが、それは学びであって、亡くなった後あちらの世界で仏様になり、生きている人たちの心のよりどころ(?)救いとなるための修行のようなものなのではないかということです。つまり、生きることは決して楽ではないけれど、その経験が輪廻転生の中のどこかで人を救う力になるのではないか…そんなことを考えました。 仏教のことは深く学んだことはなく詳しくわかりません。感じたままのことですが、お坊様方のお考えや仏教の正しい教えをお聞かせいたたければ嬉しいです。

有り難し有り難し 13
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2024/10/31

夫の浮気に不信感が募り敬う心が持てません

結婚25周年目にして夫が15年以上も浮気していた事実が発覚してどう心を落ち着かせて再構築していけば良いのか悩んでいます。 浮気と言っても男性で俗に言いう『女遊び』なのですが、長年パートナーを騙し続け売春行為(パパ活)をしていた事とそれがバレた時の主人の対応に不信感と拒絶感が生じてしまい今までのように敬う心が消滅してしまいました。 夫は家族思いで優しい人で経済的にも不自由する事なく生活ができ、周りからも仲が良い夫婦と言われるくらい行動を共にする事が多かったです。 でも仕事柄夜勤が多く、活動拠点の事務所を持っていて週3回程はそちらに寝泊まりするのがここ10年くらいの生活環境でした。 多数の女の子とのLINEトーク履歴と動画を偶然見てしまったことで浮気事実が発覚しました。その内容の生々しい会話から手当たり次第何人も囲っていた事実が判明したのです。 しかも長女はその事を数年前から偶然知ってしまい口止め料としてお小遣いを与えていたのでした。 本人も始めは申し訳なさそうにこれからの生活を改めると今までの清算をしてくれたのですが、何かの時に私がその話題に触れると『謝って誠意を見せたのに過去の事を言うな』と罵倒するのです。 そして浮気は男の甲斐性、仕事上のストレスを家に持ち込まない為に必要だったと開き直るのです。 塞ぎ込んでる私にある方のアドバイスで誓約書を交わす事になり、私が作成した文面を見せた途端『俺はEDで不貞行為はしていないからこの誓約書にはサインできない』と嘘をつき逆ギレしたのです。 再構築する為に誓約書を交わしたい私ともう済んだ事なのにする必要がないと言い張る主人とで何日も話し合いが続きました。結果主人が作った誓約書にサインする事になりました。その内容は不貞行為があったことは認め今後は性交をしない。そしてその代わりに主人の行動をいっさい詮索しないと言うものでした。そして性交に至らないの不貞行為は仕事上の付き合いもあるから約束できないと言い放ったのです。 一歩も引かない主人を見てそもそも貞操観念の価値観の違いがある事に気づき、夫への愛情が消えた瞬間でした。 家族としては尊敬できる部分もあるので離婚までは考えていませんが、家の雰囲気が最悪です。このままでは次女にも悪い影響だと思います。どうしたら咎めず穏やかに夫に接する事ができるでしょうか?

有り難し有り難し 17
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幸せになることと、真実を知るということ

真実を知る!ということと、幸せになれる!は必ずしも一致しないと思います。 何故なら幸せとは不幸せと裏表のような関係であり、どちらか一方のみでは成り立たないからです。毎日が幸せだとしたら、それは幸せではなく当たり前に。^_^ 真実とはなにか、と言ったときに、それはあまりにも平凡で何も高尚なことはない、そのままの剥き出しのままのこと。。幸せとか不幸とかの判断もそこには介入しません。介入したとしても、それもまたよしですが。 真実を知ること=幸せになることだったら素晴らしいとは思いますが、イコールではないと私は思います。 これを綺麗すぎる言葉であたかもイコールしているかのように言ってしまうとスピリチュアルな探求へ陥ります。 (真実を知ることが愛であり究極の幸せだ、、みたいな) そして別に衆生はそれ(真理)を求めていないと思います。 もっと、単純に、幸せになりたい。ただこれ一点かと。 そこのところ皆様はどのような視点をお持ちですか? 楽になりたいのなら沢山の手段があります。セラピーでもカウンセリングでもヒーリングでも。 思い込みを外すワークや、思考を客観視するワークなどなど。。 仏教はそういったアプローチも含んでいるように感じているのですが違いますか? 癒しと真理探求は逆のベクトルを指しているように感じたので疑問が湧きました。 どうぞよろしくお願いいたします(*^_^*)

有り難し有り難し 11
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「般若心経不信」になってしまいました。

こんにちは。 何か心の拠り所が欲しいと思い、仏教の勉強を始めました。般若心経を読む宗派・読まない宗派あると思いますが、皆様の解釈を教えてください。 私が読んだ本に依ると、 ブッダは五蘊や十八界、十二因縁は存在するが、その「持ち主としての私」という確固とした存在は錯覚だ、「空」だ、と説いた。大乗仏教ではそれすら錯覚で、「空」という法則のようなものがあると説いている。 ブッダは「世の中はこのように構成されていて、だから生きることは苦しいのだ。ひたすら瞑想をして煩悩と戦いなさい」、 大乗仏教は「今見ている世界は全てが錯覚だから、思い悩むことはない。ひたすらお経を唱えれば、必ず救われる」という教えだ、と解説されていました。大乗仏教が「宗教」であるのに対し、ブッダの教えは「思想」であるとも書いてありました。 科学が進歩しておらず世界が何も解明されていなくて、生まれた環境を受け入れるしかなかったような時代、貧しい庶民の心を救ってきたのは大乗仏教に他ならないと思います。今でもそうです。私はお経にある呪術的な力も信じています。 でも、大乗仏教の僧侶の皆さんには大変失礼なことを申し上げるようで、申し訳ないのですが、般若心経を読むと全てが幻だと言われているようで、納得できません。現代社会においては、ブッダの考え方の方が合理的で理にかなっているような気がするのです。 それに般若心経は、ブッダが瞑想している間に、そのすぐ隣で観音様が舎利子に対してブッダの説を全否定して新しい呪文を教えて、それにブッダ自身にその通りだと言わせる、という舞台設定ですよね。それは、大乗仏教が原始仏教を越えようとしてできたものだからだと学びました。「日本人として般若心経を心の支えにしたい」という気持ちと、「ブッダの説の方が自分は納得できる」という気持ちが自分の中で葛藤してしまっています。 先日も、近所のお寺の座禅会に参加し、全員で般若心経を唱和しました。ブッダが推奨していた座禅の前に彼の教えを否定する内容のお経を読んで、裏切っているような罪悪感にかられてしまいました。 (私が読ませていただいた本は、仏教系の大学で教えていらっしゃる権威ある先生の本です。以上の解釈は私独自のものではなく、その方の受け売りです。) 私のこのような理解はものすごく偏っているのでしょうか? 皆様は般若心経をどのようにお考えですか?

有り難し有り難し 184
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