こんにちは。 天台宗寺院にも阿弥陀如来が祀られていることは多く、天台宗でも念仏(南無阿弥陀仏)を唱えるかと思いますが、 天台宗ではどのように念仏を唱えたら良いのかお教えください。 浄土宗のお十念と同じやり方で良いのでしょうか。 天台宗には天台宗の唱え方がありますか?
私は今年の五月友達を亡くしました。 その友達はまだ私と同じ高校生。 亡くなった理由は突然死であり不明です。 彼女はとても明るく、活発で、 太陽の様な人でした。 私は今日まで彼女のことを考えなかった日はありません。 なんで彼女でなければいけなかったのか。 どうして助からなかったのか。 毎日考えてしまうのです。 学校で保健で心肺蘇生の授業を受けている時に 私は彼女を思い出し、 遂に泣いてしまいました。 最近彼女のことを考えると、 涙が出てしまうんです。 こんなに泣いていたら彼女は悲しむでしょうか。 なんであの時喧嘩しちゃったんだろう。 なんであの時彼女に会ったのに、もっともっと話さなかったんだろう。 会いたいなと思った時に会えばよかった。 どんどんと悔やんでも悔やみ切れないとても 深い後悔が押し寄せます。 気持ちのやり場がなく、 この気持ちをどうしたらいいのかわかりません。 相談に乗っていただけないでしょうか。
人に生まれた意味って何ですか? 人に生まれて良かったと思いますか?
40歳男性です。既婚ですが、子はおりません。妻は出産が不可能な身体です。 妹が2人おり、両名とも既婚でそのうち1人は出産し子がいますが、我が家を継いでもらうことはできません。 妻の身体のことは私も両親も承知の上で結婚しましたので、両親は妻に対して何も言いません。実家に尽くしてくれますので、大変喜んでいます。 私も妻と相性が良く、妻との時間は大変楽しく安らぐものです。 ただ、両親も年老いて、いざこれから先のことを考えると、ふと私の代で我が家を終わらせてしまうことに罪悪感を覚えることが多くなり、夜もぐっすりと眠れなくなってきました。妻は私が悩んでいることやその原因にも気づいていると思いますので、早くこの気持ちを昇華して前を向いて生きていきたいと思います。 我が家の仏壇や先祖代々の供養、お墓の管理は私がきちんと処理をするつもりでいます。 このご先祖様に大変に申し訳なく思う気持ち、これをどう処理すれば良いか、ご助言いただければと思います。
私はイラストを見る事が好きで、イラスト投稿サイトをよく拝見するのですが、その際あるイラストを見つけ、少し気がかりに思ってしまいました。 仏画風のイラストと言うのでしょうか。漫画のキャラクターを仏様になぞらえて描いているようです。これは問題ないのでしょうか。拙い質問で恐縮ですが、ご回答頂けますと幸いです。 参照 https://drive.google.com/file/d/1FU0_Wh_x8-5QxLFdiqBIuzj5Pbpq45FO/view?usp=sharing ・上記リンク先のファイルに、問題のイラストへのリンクを記載してあります。 ・イラストを描かれた方へのご迷惑、又は晒し行為にならないよう、このような形を取らせて頂きます。お手数をお掛けしてしまい申し訳ございません。 ・ご回答を頂けましたら、この質問からイラストにアクセスできないよう、上記リンク先のファイルは削除致します
私の父方の宗派が浄土真宗です。私は浄土真宗の教えをよく、「これは心改めた死刑囚に対して最も有効な教えかもしれない」と思うことがあります。他の宗派では、仏性には思考・言葉・行動の全てが揃っていなくてはならないなら、せいぜい世界の幸福を祈るという「思考」しかできない檻の中の死刑囚に救いは無い…というような見捨てにも解釈できる説法をされたことがあります。私は身内に死刑囚が居るわけじゃないのですが、「心改めた檻の中の死刑囚でも罪を償う方法があるかどうか?」が、それが本物の宗教かどうかをジャッジできると本能的に予想したのだと思います。 さて、阿弥陀様はよく他の宗派では悪者扱いされています。「あのお方はあの世の管轄者だからこの世のことは救ってくれない、功徳も利益もない、阿弥陀様にすがることはただの来世に託した人生の諦めでしかない」などと言われます。 阿弥陀様は、この世でも大衆を救ってくださる方なのでしょうか? 無量寿経などの聖典にはなんと書いてあるのでしょう? 回答よろしくお願い申し上げます
あと1ヶ月ほどで子どもが生まれます。 性別は男の子です。 わが子にどうしてもつけたい名前があります。 いわゆるキラキラネームや流行りの感じではなく、どちらかと言えば古風な名前です。 しかし、なぜその名前にしたいのか、どんな思いが込められているかを問われると、うまく答えられません。 その名前にしたいと思ったのは、全くのインスピレーションだからです。 ある日突然その名前が降ってきて、わが子をこの名前で呼びたい!と思いました。 もともと物事を決めるのに、そういう感覚的なものを大事にする方なので、今回もできれば変えたくありません。 夫も気に入り、賛成してくれています。 しかし、名前は一生背負うものなので、もっと真剣に、意味合いや画数を考えてつけたほうがいいのかとも思います。 一方で、子どもはどうせ親の思い通りになんかならないのだから、あまり色んな思いを背負わせすぎるのもな…とも思います。 その名前につけられている漢字の意味は、もちろん知っています。 決して人の名前としておかしなものではありません。 また、強いて言えば歴史上の人物と同じ名前なので、その方にあやかって立派に育って欲しいと言うことはできます。 わたしは、わたしの思いや感覚に捉われすぎでしょうか。 子どもの立場に立った名付けとは、どのようなものでしょうか。
死んだらどうなるのでしょうか。 地獄や天国に行くのでしょうか。 それとも、輪廻転生して、人間や、動物に生まれ変わるのでしょうか。 仏教的にはどうなんでしょうか。
以前、被災した義理の両親との同居を解消することに悩み相談させていただいた者せす。同居して2年が経過しようとしています。相談させていただいてからも、主人とは何度も離婚の話をしてきました。お互いこのストレスに疲れてしまっていたのです。そんな不仲の私達のことをみて、義理の両親がなぜか私達のことで結婚後過去最悪の喧嘩したそうです。 そして、この家からは出ていき、シングルマザーで2人の子供を育ててい る義理姉のことをサポートしにいくことときめたようです。 そこで、ご教示いただきたいことがあります。 彼らがこちらに来る時に、代々祀ってきた観音様を我が家敷地内に、被災地から持ってきました。観音様と呼んでおりますが、どうやら昔の誰かのお墓らしいのです。主人のひいおじいさまの夢に、出てきて「掘ってくれ」とお告げがあり、掘ったらでてきたそうです。それから、その観音様は震災でなくなってしまった自宅近くの山に祠を建て祀られており、代々引き継がれていたようです。 こちらに持ってくるという話の時、私は「海を眺める場所にあったものだし、観音様はあの場所が好きだろうから動かすべきではない。」と言い、また、正直、新しい住宅地なので周りも若い家族が多いため気味悪がられたりされるのではないか、という気もして反対してました。 今、観音様は庭にあり、ホームセンターで購入した物置小屋を祠のようにして祀り、義理母が毎日お水をあげています。 これから家を出で岩手県に戻るとのことで、私は上で申し上げた理由2点から、あちらに戻して欲しいと思っています。 しかし、主人も含め、こちらに置いておきたい、といっていますが私は、義理の母ほど、その観音様に愛着が持てず管理ができる自信もありません。主人は週1くらいであればお水とご飯を供えそうですが、今までの仏壇へのお供え状況を見ていると私より頻度が少いので怪しいです。 こんな雑な夫婦のもとに観音様を置いておいて良いのでしょうか。 それで観音様は幸せでしょうか。 昔、観音様のお供え等をサボっていた時期に義理父が仕事で指を切断したそうで色々と怖いです。 今後どのようにしたら観音様は幸せですか? ご教示ください。
これは私自身が生きる中で抱いた怒りや悲しみではなく、hasunohaで数々の質問を目にする中で生じた仏教への一般的な関心に基づくことを最初にお断りしておきます。 H.S.クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』(齋藤武訳)を既にご存知かもしれません。この本は、私の理解する限りでは最後の章で次のような普遍的な問いを扱っています。 「なぜ、善良な人が(あるいは私が)不幸にみまわれたのか」 「私の苦しみが単なる不運であるなら、私が苦しんでいることになんの意味があるのか」 「正しい人も悪い人も同じように苦しむのだとしたら、だれが宗教なんか必要とするだろうか」 諸行無常、諸法無我、一切皆苦。「それはわかっているけれど……」「死んだあとのことを今いわれても……」というのが、これまた雑な理解に基づく感想で申し訳ありませんが、仏教徒にとってもまた正直な反応ではないかと感じています。一例として、ターミナルケアの現場において、死後の世界に関する教義が死への恐怖を有意に和らげているとはいえなかったという話をどこかで耳にしたことがあります。 これらの問いに対して、皆さんは時に誰かの、時にご自身の問題としてどのようにお考えになるでしょうか。あるいは宗旨の違いにより、そもそも仏教ではこうした問い自体が前提から不適切かもしれません。そうであれば、仮に目の前の方がこのような疑問や怒り(たとえば病気について)を投げかけてきた時、その方に対してどのようなお話をされるでしょうか?
先月、母が病気で亡くなりました。 私の弟(母からすると長男)が 数年前に自ら命を絶ってから 母はずっと泣いていて辛そうだったし 精神的にも不安定でしたので 私はとても心配で悩みでもありました。 亡くなった母は、今は哀しみや苦しみから解き放たれて、天国で安らかに眠っている……と思うと安心した気持ちになるのですが、 安心した気持ち=母が亡くなって良かったという事なんだろうか……と、 自問自答しております。 どのように、気持ちの整理をしていいか 教えてください。
こんにちは 初めて書きますので漢字とか間違ってたら暖かい目で見てください。 初めてなんでどうしたらいいのかわからないんですけど、最近祖父をなくしたばっかででも特に祖父とは別々に暮らしてていつも日曜日になると介護しに行ったんですけど昨日その祖父が夢に出て来てこう言われました。 お前は近いうちに足を壊すだから連れていくと言われ、こわくって体が震えてますこれはどうしたらいいんでしょうか間だ死にたくありません。どうかいい答えを待ってます。
はじめまして。 何年か前に結婚したのですが、私の実家は浄土真宗だったのですが、嫁いだ先は曹洞宗でした。 私の地元が浄土真宗と縁のある場所だったこともあり、個人的には浄土真宗に親しみを感じていました。 ここで質問なのですが、結婚したらやはり、改宗するのが一般的なのですかね。 義祖母のお葬式の際にお経も全く違い、もし私のお葬式で曹洞宗のお坊さんだったら違和感があるな。と思ってしまいました。 年齢的にも考えるにはまだ早い気もするのですが、義父義母の手前、私だけ浄土真宗で。というのも申し訳ないし普通はどうなんだろうと思っております。 ご回答のほどお願いします。
なぜ死ぬことが悪いのか未だに理解できません。 周りの人たちが悲しむのはわかります。私は一般的に幸せな子だから。 でも、本人にとって生きることが死ぬことより辛いとはどうしても思えません。 楽になりたいとは、どうして思ってはいけないのでしょうか。 10年以上考えています。 お坊さんの考えを教えてほしいです。
12歳の女子です。 私は最近死がすごく怖いです。いろいろと死後の世界について質問があります。 ・宇宙や人類が滅亡したら天国はどうなるのか、輪廻転生はそこで終わりなのか ・あの世はどうやってできたか、魂はどうやって生まれたのか ・あの世に終わりはあるか ・輪廻転生卒業後どうなるのか ・死んだら今の家族とは何も関係が無くなり、転生したらもう2度と会えないのか ・魂の死はあるか ・死んだあとこの世に様子を見に行くことはできるか ・天国ではテレパシーでつながっていて会いたい人にはすぐ会えると聞いた事があるが本当か などです。私は家族が大好きなので離れたくないです。一緒にいる時間が限られていると思うと本当に辛くて呼吸困難になります。 それに死ぬのも怖いしずっと生きてるのも怖いです。 本当にしんどいです。 助けてください。
生きる意味って何なのでしょう? 私はもう生きる気力が尽きかけようとしています。体を動かす気力もなくなってまいりました。 人生辛くて辛くてたまりません。いっぱい傷つけられて立ち直って、その繰り返し。色んな人から心に包丁を刺されているみたいです。受け流すのも、受け入れるのも疲れました。 人に頼れば、立ち向かえ、頑張れと言われますが、もう立ち上がる気力すらありません。 生きる意味って何なのでしょうか?
今日、ふっと思った事の答えを教えて欲しいです。 この世には色々な宗教、宗派がありますが、基本的には人々を幸せに導く為や心の拠り所として神や仏というものが存在しているんだ思います。 しかし、事件や事故に巻き込まれて突然命を奪われて亡くなる人もいたり、生まれつき障害や病気を抱え生涯苦労したり生まれてすぐ亡くなる子供がいたりします。 また、生まれ育った環境で心に傷を負ったまま生きていかなければならない人達もいます。 第三者は同情したり励ますだけで終わってしまいますが、当事者やその家族は「なぜ?」「どうして?」と言う疑問や悲しみだけしか残りません。 人は神や仏に助けを求めたり幸せになれる事を祈り信仰してるんだと思いますが、なぜこの様な差と言うか違いが生まれるのでしょう? 当事者や家族にしてみれば祈りや信仰は何の意味も無いし、悲しみを癒してくれるものでもないと思ってしまうのではないでしょうか? そう思うと神や仏とはいったい何の為に存在してるのでしょうか? 私の友人の奥様は5歳の子供を事故で亡くし、その後生まれた子供もわずか6ヶ月で病気で亡くしました。 奥様は廃人同然の様になり今も精神科で入院しており、友人も以前とは見る影もない程落ちぶれてしまいました。 きっと幸せな生活を夢見てたと思います。 ニュースで土砂崩れに巻き込まれて21歳の女性が行方不明になっているのを見て、その女性もこれからの人生に夢と希望を持ってたはずだろうなぁと思っていた時、神様って何なんだろうとふっと思ってしまいました。
ここで苦しみについての皆様のたくさんのお答えを拝読しました。 苦しみは妄想である、頭が作り出す幻であるというお答えに関して私はなるほどなと思いました。 だけど私にはこの苦しみが私が作り出した幻だとはどうしても信じられません。幻にしてはあまりにも強く、実体があり、私の力をはるかに超えていて抗いようがあません。 いくらお前は幻だと言っても、いつもそれは過去から私を追いかけてきて、私をあっさり捕まえてねじ伏せてしまうのです。なぜ私が作り出したはずの幻が、現実に生きる私よりも強い力で私を傷つけるのでしょうか。
人間とは偽善と悪の塊だとは思いませんか?
真宗大谷派の門徒です。 仏教に興味があります 法蔵菩薩は、48の誓願をかがえて阿弥陀如来になったと言われてますが、最後に誰を救って如来になったのでしょうか? 人や菩薩は次々と生まれ、南無阿弥陀仏と唱えていくので、終わる事のない営みの中で、「これでよし如来になれた‼」と言うタイミングは何時、誰を救った時なんでしょうか? それと すでに阿弥陀如来に救われているとよく法話で説かれてますが、「救われている」自覚ないのは信心がないのではと思います。 救われていると言う感覚(自覚)はどのように感じるのでしょうか?