hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧
検索結果: 2038件

由来について質問です

仏教は面白い。 インドから北周りに来日した文化ですが、 その途中で、様々な宗派がありますよね。 ○○仏教とか、○○教とか。 あ、日蓮大聖人を正当と見ている学会もそうですか。 私の名前は、数ある仏教の中でも密教に由来します。 「強く、賢くあれ」という願いが込められたものです。 「弘」の字が含まれていますから。 名前負けしないような生活を送りたいと思っています。 公開しても私自身はかまわないのですが……やめておきます。 何をもって強くありたいのかがよくわかりませんが、少なくとも1分野で力をつけたい、強くなりたいと思っております。 何をもって賢くありたいかは、よく分かっています。私の外見、すごく賢く見えるそうです。なので、目標は「自分の外見に負けないくらい」です。 賢さは表情に出るので、終わりのない戦いになるでしょう。それは百も承知です。 内向的、と言えば聞こえは良いですが、心療内科で「うつ傾向」と診断されています。 だから、することがない時はひたすら何かしらについて考えております。 自分自身の弱さは勿論、自分を取り巻く社会のことも。 さて、自分の姿勢は曲げないつもりでいますし、曲げるのも難しいのですが、ふと、疑問に思ったことがあります。 ・神仏習合前の仏教において創世記とは、ガウタマ・シッダールタ王子を出家に導いた四苦でしょうか。 ・王子が悟りを開く直前に悪魔の囁きがあった、とありますが、仏教における悪魔とは何でしょうか。 不躾ではありますが、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 16
回答数回答 2

プライドの煩悩と能力を反比例させるには。

1、これまで出会ったデキル人達は、在家も出家も 男性も女性も 総じてプライドの煩悩も強かった気がします。他を見下している人も多かったです。攻撃的な性格の人も多かったです。 有能、優秀で、実績もあり、容姿も優れ、尚且つプライドの煩悩もない、もしくは平均よりだいぶ少ない人物を ご存知のかたいましたら、ぜひ教えてほしいです。こっそり尊敬してお手本にします。 2、読み物を読む限りは、お釈迦様はプライドが高いように感じられるのですが、皆さんはいかがお感じですか? 実際にはお釈迦様は無上の悟りを得ておられるということは、プライドの煩悩も皆無ですよね? プライドが高いかのように描かれているのは書き手の技量不足によるものですか?  3、プライドの煩悩を弱め、最終的には消すための具体的方法をご存知のかた居ましたら、教えてほしいです。 また、実際にプライドを弱めることに成功した体験者のかたいましたら、ぜひ体験談や修行方法を教わりたいです。私も修行に励みたいです。毎日の八正道の実践は正直難しいなぁと感じていますが、難しいなりに心がけてはいます。私は怠け者なので、正精進するだけでも、プラスの効果を感じております。アドバイスくださったお坊さん、有り難うございました。

有り難し有り難し 23
回答数回答 2

六波羅蜜の1つ、「忍辱」とは?

 いつもお世話になっております。  忍辱行とはどんなお行なのでしょうか?辞書や仏典によると、 「つらいことがあっても耐え忍ぶこと」とあります。  これは危険な目にあっても、たとえばいわゆるイレギュラー な事態、突然の誹謗中傷やその他の犯罪に繋がりうる行為を 受けた場合であろうとその行為を笑って受け入れろ、 ということでしょうか?  それとも、その行為を受けることによって高ぶってしまう 自分の感情を落ち着け、落ち着いて距離を取りなさい。 という教えでしょうか?  後者が当てはまるとすれば、  例のお嬢様の件。最近は私が時間をずらし、彼女はしばらく 堂内にいるので接触しないよう待機、  立ち去ったら私は私のお参りに入ります。  ほかには、レストランの入れ込みで不快な会話をしている 一団が隣になってしまい、我慢してそれを聞きづけるのではなく 席を変えていただき、食べ終わって下げてくれたら店員さんに 「お手数をおかけしてしまってすみません。 おいしくいただきました。ごちそうさまです(^^)」 と言ってお支払いをしてお店を出た…とか…  いまだにこの点が理解できておりません。お知恵をお貸し いただきたく存じます。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 62
回答数回答 4

葬式のお経

何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。

有り難し有り難し 578
回答数回答 7

【神仏を欺く事】自分本位に生きる事【疑城胎宮に留まる事】

ご縁欲しさに神社仏閣に参拝している者です。 それだけに満足出来ず家でもネットや書籍による独学、或いはお寺のお話会イベント(?)で得た知識で祝詞やお経を唱えたりしています。 …はい唱えているだけなんです、仏教の戒律は守っていません。かつては戒律を守る為、このサイトを熟読したり、実際に質問をさせてもらったり、僧伽を探し回ったり、本気で出家を考えたりしてました。 十善戒、…どころか五戒すら守れない、なかでも「邪淫」「飲酒」「瞋恚」「妄語」どうしてもコレらを抑える事が出来ませんでした。 全て過去の“あやまち”やトラウマ、自身の力の無さからくる今の自分の境遇に激しい怒りを覚えたり、酒を飲みながらノリノリで真言を唱えたり、お経を唱え終えたら邪淫を始めたり、邪淫の後にお経をしたり… いつもがいつもこうではありませんが、こんなバチ当りな日があります。 もっと正直に書くと私は“悟り”になど興味が無く、全ては神仏とのご縁が欲しいから参拝、真言お経をしているだけなんです。 当然大乗の仏教、他者の救済にもあまり興味なく自分や家族にさえ幸があれば他者などどうでもいいとさえ思っています。 しかしそんな私にもバチなど当たらず、それどころか神仏から驚くべきご縁を頂いたり、望み通り幸を頂いたりしています。 …そんなんだから【今のままで良いか】とさえ思い始めたりしています。 仏教には厳格な戒律や崇高な思想がありますね、それが真言やお経の中でも書かれていたりしますよね。「○○に帰依したてまつる」「衆生と共に○○」みたいな。 仏教の戒律は“約束”なんて軽々しいものでない、中でも真言を唱え心に描く仏様には“誓願”とまで言いますね。 “悟り”を拓く気など無いのに、衆生を救済する気など無いのに、ただ仏様が好きだからって理由で、お経や真言をする自分が好きだからって理由で仏様を欺き心地の良い疑城胎宮の中で“仏教ごっこ”を楽しむのか… それとも…?どうすればいいですか? 私のようなロクでなしでも今こそが真剣に人生、そして仏教を考える上で一種の“ターニングポイント”のように感じられたので質問させてもらいました。 興奮故に支離滅裂で読みにくかったらすみません。 仏様に直接教えて頂き、直接罰を与えて頂けたら一番ラクなんですが…私自身ハッキリとモノを言われないと分からない者なのでよろしくお願いします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

死と宗教について

私はキリスト教と仏教のもとで育ちました。 学校はキリスト教で、お葬式などは仏式が多かったです。 ハスノハは、非常に説得力がある意見もあり、頼っています。 仏教の話もキリスト教と同じかそれ以上好きです。 しかし、キリスト教的な祈りが一番馴染むのです。 古典的な宗教は、同じこと、人間の本能に従って考えつくされたもので、共通するものがたくさんあると思っています。 天の国を悟りと考えたいのかもしれません。 邪道と言われる方もいると思いますが、 父母もキリスト教を信じていた時期もあるので、 僕がキリスト教で育つことになったのですが、 今の両親は、無宗教に近いです。 既存宗教に疑念を感じ、個人の問題と考えている感じで、 ぼくも似ています。 しかし、葬式をどうするかという話がずいぶん前に出たのですが、 家族の意見ががバラバラだったのです。 親も老いてきて考えると、 仏教を信じて、「悟りの中に救われて」亡くなっていく人と、 キリスト教に肩入れしながら、天の父に迎えられると思いながら去っていくことが、 違うものであってほしくないと思ったのです。 母は、無宗教で、自然に返るかのように楽になりたいと思っています。 父も、曹洞宗に肩入れしてますが、似た感じだと思います。 キリスト教に肩入れしている自分だけべつな場所に行くような気がして非常に寂しいです。 これをどう思われますか? これからも続く人生、いつ死ぬかわかりません。 死んでも共にいられる・・・というような安心感が欲しいのかもしれません。 それは、宗教的な問題ではなく、日常で考えるべきことで、いま寂しいだけかもしれません。 考えて行こうと思いますが、 何度か考えたことなので、ご意見を伺ってみたいのです。 1人の凡夫として諭していただけたら 本望かと存じます。

有り難し有り難し 26
回答数回答 2

釈尊の教えについて疑問があり悩んでいます

人生がつらいので少しでも楽になりたくて仏教の勉強をしているものです。 お釈迦様の説いた教えについて質問です。 最近、初期仏教の経典スッタニパータを読みとても感動しました。 その結果お釈迦様はこの世の全てが縁起によって繋がっており結局は全てが同一の価値ある存在である事を理解すれば最終的には自己に囚われることもなくなり現世の苦しみをなくすことができると説いているのではないかと自分なりに解釈しました。 しかしそう考えるといくつかの疑問が浮かびました。 スッタニパータでは父母や我が子に対する愛執を捨てる事を悟りへの道とする一方で、父母に従うことが幸せであり老いた父母を養わない者は卑しいと書いてあります。 しかし無我の境地を目指すのであれば血縁関係に固執してはいけないのではないでしょうか?何故父母に限定して言及したのでしょうか?目の前で父母と知らない人が同じ様に病気や貧困や老いに苦しんでいてどちらかにしか手を差し伸べられない状況の時、知らない人を切り捨てて親子だからと特別扱いして父母に手を差し伸べるのは果たして正しいのでしょうか?両親が仏法を汚す人間であってもそれに従うことが幸せなのでしょうか?  私の父親は酒に溺れた非常に暴力的な人間で犬や猫に対して無益な殺生もしていました。母も暴力的な人間でしたし噓つきでした。私はこの両親に従うべきだったのでしょうか?老後の面倒も見なくてはいけないのでしょうか? また怒りや嫌悪についても疑問があります。 スッタニパータでは怒りや嫌悪を煩悩とし捨てることのできないことをなまぐさと言い汚らわしいことだと言う記述があります。 しかし世の中ではしばしば想像を絶するほど卑劣で残忍な事が起こります。  例えば女子小学生に乱暴して殺害した犯人をたまたまニュースで見て犯人に怒りや嫌悪感を覚えるのはなまぐさなのでしょうか?実際に知り合いの僧侶はその事件について犯人を殺してやりたいとまで言っていましたが彼は僧侶失格なのでしょうか? 自分の周りでより強いものによって不当に傷つけられている弱者を見ても怒らず苦しみも感じないことが美徳なのでしょうか? 他の記述が自分の人生価値観を根本から変える素晴らしいものだっただけに、私はこの二つの疑問に苦しみ悩んでいます。 悟りを目指す僧侶の方々にお話を聞きたいです。

有り難し有り難し 43
回答数回答 3

「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

死んだら輪廻転生しないですよね?

先程、寒いのに蚊が飛んでいたので殺してしまいました。菩薩心を持ちながら感謝の気持ちを持ちながら申し訳ない感情で、手を洗剤で洗い手に付いていた細菌を信じられない数で殺してしまいました。しかし人生上手くいっている人は細菌など意識すらしないでしょう。感謝や申し訳ない気持ちすらなく手を洗い成功しています悟りに近いのでしょうかね。 はてさて、これらの生き物は輪廻転生するのでしょうか?  私にはお婆ちゃんがいましたが、認知症になり自分すら認識できていませんでした。 お婆ちゃんが亡くなりましたがお婆ちゃんという根底の存在?アートマン?それってなんだったのでしょうか。自分すら認識できない彼女の根底の意思とはなんだったのでしょうか? ISISというテロ組織が色々ロケットランチャーで1人を殺害する動画を作っていました。 ロケットランチャーで跡形もなく粉のようになっていました。 死んだ彼はなんだったのでしょうか?原子が組み合わさった物としか思えませんでした。 私が輪廻転生して、また再び人に生まれたとします。それは私ではないのでは?私とは?今の私というのも曖昧です。記憶を喪失したら私? もしそれも私なら今IQが高い人のみ輪廻転生できて、自分すら認識できない人間は輪廻転生してまた人間になったら自分すら認識できない存在? 少子化とは言いますが70億人に人口が膨れています。 さて、それまでの輪廻転生があるとしたら60億人ほどの魂はみんな人間界に一斉に来れたの? 死というのは、ただ肉片になるだけではないでしょうか?そうとしか思えない感情が湧いてきます。 踊って唱えるだけで悟りを得れるのなら、知能の低い人や認知症もそれができないとおかしいでしょう。 やはり救いはなく、死という拷問に近い形の苦しみを受けて全てが抹消されて苦しい気持ちを得たという事実だけが残るのではないでしょうか。 もちろん人生楽しんだ恵まれた人は生まれつき遺伝子や環境に恵まれてるので、仏教も興味なくて人生に何の疑問も持たなくてただただこの世界は楽しみだったという感情に溢れてるんじゃないですか。(それこそもはや輪廻転生のせいというか生まれつきの条件を輪廻転生側が選ぶという暴挙) まあなんであれ死んでも輪廻転生なんてないし素粒子になるだけだよね。

有り難し有り難し 14
回答数回答 1

仏様を欺くという事

・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。

有り難し有り難し 11
回答数回答 1

読経が何故供養になるのか教えてください。

お経を読むことがなぜ先祖や自分に関わりのある仏様の供養につながるのか? 大変罰当たりながら、そのような疑問を抱いてしまいました。 仮に例をあげますと、日蓮宗では法華経を読んで先祖供養などをされると思います。 法華経は釈迦が悟りを開いて亡くなられる前に最後の教えを説いたもので、 数ある経典の中でも最上の教えとされていると聞いたことがあります。 その素晴らしい教えを守り、帰依しますと宣言する=「南無妙法蓮華経」と題目を唱える。という事になるのでしょうが、なぜそれが供養につながるのか疑問です。 自分は先祖や仏様との何らかのつながりがあるから、その自分が題目を唱えることで先祖や仏様の過去の罪が軽くなり救われる。=先祖や仏様も成仏できるという考え方も確かに一理あると思います。 しかし、お経というのはただ聞いたり意味を知らずに読んだりすれば、まるで呪文のようでいかにも効果がありそうに思いますが・・・。 現代語に訳して意味を分かるようにしてみると、一つの物語をただ読んでいるにすぎないように思えてしまいます。 とてもありがたい教えが書かれていることは理解していますが、客観的に考えれば子供に絵本を読み聞かせているようなものではないかと思ってしまうのです。 子供ではなく対象が先祖や仏様へ、絵本がお経という物語へ変わっただけではないでしょうか・・・。 物語を読み聞かせる行為がなぜ供養につながるのか? 先祖供養のためによくお経を読む者として、大変疑問に思っています。 どうか教えてください。

有り難し有り難し 101
回答数回答 5

相談カテゴリ
-四苦八苦 SickHack!▼ 全カテゴリを見る

お坊さん33秒法話ピックアップ