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hasunoha 問答検索結果 : 「 地獄 」
検索結果: 2117件

死の苦痛が怖くて仕方ありません

死の間際に感じているであろう苦痛が怖くて仕方ないです。 最近、ときどき「死ぬ間際の苦痛」がどうしようもなく恐ろしくなってしまうことがあります。 多くはフィクション作品やドキュメンタリーを鑑賞している際に感じています。「死」や「病」に関する描写が出てくると、ふと「死ぬ間際にはどのような感覚なのだろう」と想像してしまうのです。 例えば病であれば、病床で満足に動くこともできず逃げられないまま病による苦痛を味わい続ける日々を想像し、気分が悪くなってしまいます。 フランス革命の話題であれば、「ギロチンにかけられた場合でも間髪入れずに死ぬのではなく、一瞬は生きているだろうから、その際に激痛を感じているのだろうな」などと考えてしまいます。 それ以外にも、例を挙げれば枚挙に暇がありません。 調べてみれば、やはり「苦しまない死」を享受できる可能性はそれほど高くないとのこと。 私はこの、「人生の終わり間際に大きな苦痛が予約されている」という状況そのものに耐えがたい恐怖を感じてしまいます。 思えば、私は「予定された苦痛」というものが非常に苦手です。 以前、微熱と悪寒があり「もしかしてインフルエンザかも」と思った瞬間に、来たる高熱での苦痛への恐怖で血の気が失せて吐きそうになったこともありました(ただの体調不良でした)。 コロナウイルスのワクチンを接種した際も、注射そのものではなく、ほぼ確実に発生するという副反応へかなりの恐怖を覚えていました。 死の苦痛も、私の中では同じです。 死ぬことそのものにはそこまでの恐怖を感じてはいません。 ですが、そこに至る過程である「苦痛」の存在が、私は恐ろしくてなりません。 夜遅くや、朝起きたとき、ふと浮かぶその恐怖に押しつぶされそうになってしまいます。 こうした「来ることが確約されている痛み」への恐怖を和らげるためには、いったいどのような心構えでいればいいのでしょうか?

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生き物殺してしまった

始めて相談させていただきます。 私は、小学低学年頃だと思います。 猫を殺してしまったんです。 小猫です。自分と遊んでいたときです。人間と猫ましてや小猫、身体の大きさから違うのに自分と同じくらいの人だとでとも思ってたんでしょうか、今でもその時を鮮明に思い出すときがあり、すごくなんていうのかぐちゃぐちゃした感情でいっぱいになって泣きながら後悔します。 他にも、祖母が猫が増えるのを嫌って産まれたばかりの赤ちゃん猫を母と一緒に捨てにいくことが何度もありました。 何もできずに家にいた猫を抱えながら赤ちゃん猫の声を聞きました。呆れることですが半ば諦めもあったと思います。救えなかった、最初に書いた事もですが、生き物を飼う、世話することへの責任を持てていなかったと苦しい気持ちでいっぱいになります。 一ヶ月程前に、家の猫が育児放棄してしまった赤ちゃん猫を頑張って面倒をみることがありました。しかし、小猫はみんな死んでしまい、そのことで自分が悪いと、もう少しちゃんと面倒をみていたら…と何度も泣きました。 そのことを心理的なカウンセラーの方に聞いてもらい、家の仏壇でお参りすることを習慣にするようになり、その時、先の書いたことで「ちゃんと面倒見てあげれなくて、責任をとってあげれなくてごめんね。無事成仏してくれますように、少しだけど一緒に生きてくれてありがとう。」とお参りすると、少しぐちゃぐちゃした辛い気持ちが楽になるように感じます。(こんなこと自己満足にすぎないと思いますが)。 猫ちゃん以外にも、たくさん虫、きちんと飼えなかった金魚などの私が命を奪った生き物たちに許してもらえるとは思いません。 けれど、今ここまで生きてきて大きな怪我、病気などしなかったのはハスノハで他の方への、回答で見た見守っていてくれているという事なんでしょうか。 ただ、罰があるなら私が受けます。と思いながら仏壇でお参りするのは良くないんでしょうか。  長々すみません。誰にも言えなかった事を吐き出してしまいました。今も泣きながら文字を打ちました。 我儘だとは思いますが、怒られるのはとても怖いです。  私の相談を見たというだけでも返信いただければそれでも嬉しいです。ありがとうございました。

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どのようなお寺または仏様に会いに行けばいいでしょうか

私には昨年末に別れた相手がいます。10歳年下の遠距離恋愛でした。別れたのは縁が無かったのだと思っていましたが、実はずっと裏切られていました。 相手の女性は自分の両親に対しても平気で嘘をつき、ご両親はその言葉を信じて娘を庇って第三者が聞いても理不尽な内容でも僕へ向かって言葉を発してました。 しかし年が明けて全てが嘘偽りだったことが少しづつ明らかになってきました。そして相手の親御さんも一時は謝りたいという話まで行きましたが、急にまた一切連絡が取れない状態へなりました。 最後の最後でまだ「謝りたいから会ってください」という言葉や、親御さんも一緒に謝ると言っていた事までが全て無かった事になってます。 こんな嘘に嘘を重ねられてもう人間不信です。ここまで相手の心を裏切る事や自分の過ちを謝る事も出来ないものなのか。 約束を平気で覆せるものなのか。 もう何を信じればいいのかわからなくなってしまいました。 最近はお寺へ行って仏像やお不動さんに手を合わせてどうすればいいのかと話してますが、、、 何もかもが怖くて人を信じるのも怖い状態です 今はとにかく休みの日には仏様へ会いに行って少しでも気持ちを軽くできるように手を合わせています。 相手の事に対しての気持ち、今後出会うであろう人への心構えなども自分で全くわからなく制御できません。 恨み心、不信感、怖さというものが渦巻いている状態です 夜も寝れないのがますます精神的に悪いんだと思いますが・・・ 何かアドバイスお願いします。 ※乱文雑文申し訳ありません。

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2023/11/23

現代社会と本来の豊かさについて

悩みというよりは漠然と考えてしまうことがあります。        私は会社を起業し10年ほどになります。     会社とは何か?という本を設立当初に読み、 そこには『社会に必要とされているもの。人の役に立っているから存続が出来、人の役に立たない会社はなくなっていく』と書かれていました。     右も左も分からない中での起業でしたが、自身にそのような志が強くありましたし、その本に書いてある言葉に納得し、一生懸命頑張ってきました。     設立前から準備していたことや、業界を分かっていたこともあり、心身の苦しさや辛さはありながらも、経営は順調に右肩上がりで伸びていきました。 しかし、何処かでとても苦しさのような葛藤がずっとあります。     社会がいかに利益追求型の仕組みで弱肉強食であることを肌で感じること、それでも日々闘い続けねば生き抜けない。 競争社会、資本主義社会という中では当たり前のことだと理解すればするほど。 中小企業の社長さん達も皆んな日々闘い続けているんだなぁと思いながら。     そういう渦中で、自分の心身はいつも振り回され乱れるばかり疲弊する日々が数年続き、 自身を見つめ直したり心を丈夫にする為に色々と模索してきました。     そうした中で見つけたものは、お釈迦さまの教えや禅的な考え方でした。   日本では宗教にハマると聞くと直ぐに悪い意味で捉えられることが多いですが、 何か目印になるような共感できたり学べるような考え方というものに救われることに有り難さが溢れてきて泣きそうになります。   自身が人の為になることを〜と思い起業しましたが、会社を通して社会を知り、そこに向き合った今の時点で想定もしていなかった答えがあったように感じています。   知り合いに若いお坊さんがいますが、もっと遊びましょう、もっと休んでください、自分は人生遊んで過ごします。とよく仰っています。実際夜遅くまで飲みに行ったりしていて、誘ってくることも多いです。(行きませんが) そのお話しも極端に思えて、私には失礼ながら浮世離れしすぎていてついていけません。   長くなってしまいました。 文章がまとまっておらず伝わっているか不安ですが、 お坊さん達は今の資本主義社会と仏教の教えに乖離を感じますか? 感じられる方はどうバランスを取られていますか?

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老いて死に向かう事

介護の仕事をしています。 そして家では相棒の20歳の猫が弱っていく様を目のあたりのして、 人間も動物も歳をとり身体が思うように動かなくなり肉体的にも精神的にも痛く辛い思いをするように思います。 なぜかはわからないけれど命には寿命があって、皆いずれ死なねばならない。なのになぜ命は、わざわざ苦しみやすく出来ているのか、 脳ミソが、老いて寿命が近くなったら自動的に幸せホルモンのようななにか痛みを緩和させて穏やかになるような麻薬物質でも分泌すればよかったのに(そういうものがあるかもわかりませんが)、なぜそのように進化せず、やはり苦しみがちになるのだろうかと疑問に思っているのです。 また、相棒の猫は確かに20年いっしょに暮らしてきた家族だけれど、言葉を通してなにをしてほしいか、なにが食べたいかを迅速に伝えられない訳だから、きっとひとりぼっちで寂しくて、体も痛かろう、初めて老いて初めて死に向かうのに淋しかろうと、100%助けてあげられなくてすまなくて悲しくて眠れません。 やはり施設で暮らす高齢者の方々も寂しい思いで暮らしているだろうと思います。猫と比べるなと言われるかもしれませんが、同じように思ってしまいます。 道元禅師の生死の巻で、薪と灰の話、 前後裁断があったかと思いましたが、 今の私には死はやはり老いた先にあるもののように思えてなりません。身体の細胞ひとつひとつが活動できなくなった先にある死で、やはり苦しまずにはいられないんじゃないかと感じてしまいます。 あのお話だったか、生と滅にそれぞれ“さきありのちあり”とあった気もしますが、なにか私が今目の前にしているものの解釈のヒントになりそうなのに、いまいち理解ができません。 わかりにくい質問で申し訳ないのですが、ようは、なぜ命は苦しまなければいけないのか、なぜ苦しむのに生まれてくるのか、そしてそれをずっと繰り返してきたはずなのに、脳ミソが苦しみを除外するよう進化しなかったということはやはり必要があっての苦しみなのかしらと素人考えをしているわけです。かといって私の相棒の猫さんが死に向かって1人老いて苦しむのは切ない事です。。。それらが不思議で切なくてならないのです。 自然の摂理だから仕方がない事なのでしょうか?

有り難し有り難し 37
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人から鬼になってしまいました

人間の気持ちに戻りたいです。 私は中学の時に両親が離婚しています。 高校の時に母が自殺、葬式の日に父から紹介された女性が今の母親です。 継母は「私の為だから」と作った料理を気に入られなければ捨てられ(例:鍋物のウインナーが多かった、餃子が少し焦げていた等)、冷蔵庫の食材の使用や、指定された時間外での洗濯機・お風呂の使用はお金を払わなければならず、私の下着や服、母が生前作ってくれた服も「使えなきゃゴミ」と捨てられたりしました。父は「お前が悪い」と笑ってるだけでした。 こんな家庭環境なので、ずっと私の恨みの対象はこの二人だと思っていましたが、最近自殺した母に対する気持ちが悲しみから怒りへ変化して戸惑いを覚えています。 ずっと母の事は大好きだと思っていて、後追いも3回して全部失敗してきました。でも最近思い出してきた記憶があります。 昔冗談で「家が火事になったら私の事助ける?」と聞いた時に「当たり前よ、あんな痛い思いして生んだのにアンタが死んだらまた生み直さなきゃいけないでしょ、もう痛い思いしたくない」と言われた事。 「もう生みたくないけど子供は欲しい。その辺のおじさんでいいから捕まえてとっとと子供だけ作って生んでお母さんに渡して」と高校時代言われ続けていた事。 この2つを思い出した時、父と継母よりもマシだっただけでこの人の事も私は好きじゃないんだ、と気付いて腑に落ちてしまいました。 あんなに成仏出来たかな、とか苦しんでないかな、と心配していた気持ちが嘘みたいに怒りと恨みしか湧いてきません。 一度、知り合いから宗教勧誘され、その際に「貴方の母が苦しんでいて宗教に入って欲しいと言っている」と言われた事があります。その時も死者への冒涜に対する怒りより、自殺未遂を繰り返していた時に散々止めたのに勝手に死んどいてどんだけ身勝手だよ、勝手に苦しめよとしか思えませんでした。 これを皮切りに、自分の人間らしい心がどんどん腐っていくように感じます。 嫌な事があれば自殺して自己完結したがっていたのが、他社を殺してやるとさえ思います。心の中にいつも穴がぽっかり開いていて辛かったのに、今は大きくなった穴で逆に満たされて何も感じません。きっと私も碌な死に方しないんだろうな、と思います。 自殺から10年経つのに気持ちの整理も出来ない。私は鬼のような今の気持ちから人間に戻れますか。

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仏様とご先祖様の関係性等をお聞かせ下さい

私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。

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悲しい予感を初めて当てた日のお話をさせてください。

初めまして。 私は生まれつき霊感があるので幼い頃から不思議な体験談には事欠きません。 そんな私が毎年、今の季節になると思い出す出来事がおります。 当時、まだ小学2年生の私が人生で初めて経験した「悲しい予知」のお話です。 私の自宅の隣には祖母の従弟にあたる伯父一家が住んでいます。 そのお家のお兄さんやお姉さんも優しくて、私達やんちゃ盛りの兄妹とも遊んでくれました。 「和兄ちゃん」と呼びなついていたお兄さんは毎日遊んでいました。 宿題を孟スピードで終わらせ、おやつを握りしめて和兄ちゃんと遊びに兄妹仲良く外へ飛び出し、看護師の母が仕事を終えて帰宅する18時まで遊んでいました。 私に自転車の乗り方を教えてくれたのも和兄ちゃんでした。 花火や缶けりや鬼ごっこやサッカー…自宅下の小川で魚釣りやメダカ取りやバーベキューに焼き芋…。 幸せな楽しい記憶は今でも大切な御守りです。 私達兄妹は和兄ちゃんが大好きでした。 しかし、悲しいお別れは突然でした。 その日は何時も通り兄妹と和兄ちゃんと遊び、母が帰宅して家に帰る…そんな何時もの光景でした。 けれど、その日は綺麗な夕陽に照らされた和兄ちゃんを見ると、突然悲しくなり和兄ちゃんは2度と会えない遠い世界に行ってしまう…と、無意識に感じてしまい、和兄ちゃんから離れませんでした。 「お兄ちゃんはどこも行かないよ?しおりは明日はお母さんと病院に行くんだよね?帰って来たら遊ぼうね。」 …そう、優しく笑い遊ぶ約束をした和兄ちゃんはその日の夜中から朝方に自ら命を断ちました。 あの日は私はてんかんの治療の為に脳波の検査を受けている最中に夢をみたのです。 真っ暗闇の空間に居ると、和兄ちゃんがいました。 悲しそうにニッコリ微笑み、手を振ると光の中に消えていきます。 家を出るときに和兄ちゃんを見掛けましたが、普段は優しい母が強い口調で私をバス停へ促すんです。 後から聞くと、あの時に会った和兄ちゃんはこの世の人間ではないと気が付いたそうです。 亡くなった時間を考えると…あれは…。 検査が終ると、祖母から連絡が有り折り返した母は和兄ちゃんの命が終わった事を告げました。 今でも誰かが亡くなると知らせは有りますし、予知夢を見ます。 人の寿命は、どれだけ大好きな人でも変えることは出来ない。 そんな事を今の時期に思い出します。 3日後に和兄ちゃんの命日です

有り難し有り難し 57
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【お嬢様】あの…そろそろチクってもいいですか?

 いつもお世話になっております。もう、我慢の限界です。  道が一緒になりゃ固まられ、頭下げりゃガン飛ばされ、  知り合いにゃ私の悪口三昧。  地下回廊で道が一緒になって固まられた時は本当に鬼みたいな 顔で怖かったです。「どうぞ」と促したら頭下げて通って くれましたが。  ちょうど本尊とお嬢の間に私がいた時、それから、寒くて身体を 折った時にちょうど柱の陰からお飛び出してきて、ぶつかりそう だったので謝罪の意味も込めて笑顔で頭下げたら睨まれるし。  お経終わって皆さん帰って行く時、距離は置いているけど 直線上に私がいると睨んでくるし。  経卓や地下回廊の壁面に偶然ぶつかってしまい音を立てて しまった時など、2回も3回もチラチラ睨まれて!  親戚のおっさんに相談したら、「知らん奴が絡んでくるって 坊さんにチクれ。抑もそいつがなんの病気かもわからんだろ」 とのこと。ちなみに、どの事象もかなり時間が経っています。  「なんであたしなのよ…若くて目立つから?」 「そういうこと。お前だからお前なの!」と言われました。  お坊さん、修験行者の先生がたは、時にはからかって笑わせて くれたり、あちらから挨拶をしてくれます。  結構可愛がって貰っています。  ちなみに一番最近の事象は、地下回廊での硬直、 本尊前でのガン飛ばしです。  「こう言う人からこう言うことをされて驚いた。以来、私も ビクビクしながら参拝してます、どうしましょう」と報告しても 大丈夫でしょうか?  ご意見お待ちしています。

有り難し有り難し 39
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閲覧ありがとうございます

初めて投稿します、ゆきと申します。 3、4ヶ月前から仕事にいこうと考えると動悸吐き気がしたり、涙が出てきたりしました。そんな時は、頑張ろう、頑張ろうと言ってこれまでの自分を奮い立たせてきました。しかし、最近は体調を崩したりして身体が思うように動かなくなり休みがちになってしまいました。 以前楽しめていたことも楽しめなくなったり、でかけることも億劫になったり、人の話を聞いていても上の空になってしまったり、ぼーっとして動けなかったりと私生活にも影響が出てきています。 辞めるという考えが浮かんでしまうこともありました。 しかし、そうしたら自分は何も続けることができず、ただ逃げるだけの人間になってしまうのではないかと思いました。 子どもの頃は1つのことを長く続ける事ができたのに、大人になるにつれて続けることができなくなってしまいました。このため仕事はなんとか続けるために自分に耐えろ、と言ってきました。最近では心が限界まできてしまい、今後続けていくことに不安が出てきました。 根性がない自分に嫌気がさして、周りの人にも迷惑をかけてしまう。こんな自分がただただ情けなく、毎日鬱々とした気持ちが続いています。 鬱々とした気分が晴れて日々穏やかにすごしていきたいです。 悩んでいる内容も情けないと思い誰にも相談できず、hasunohaのサイトを見つけ投稿しました。 最後に自分の煩悩を聞いて下さりありがとうごさまいました。

有り難し有り難し 19
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