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問答一覧

2025/10/27

民事訴訟で慰謝料

いつも大変お世話になっております。 実家の母は物忘れはありますがまだまだ元気です。今迄の実家の家庭内で起きた事があまりにも悔しくて別件でお願いする弁護士さんにも少し八つ当たりしてしまいました。 以前の問答を読んで頂けると幸いです。姉や母の事を民事で告訴したいと思いましたがいくら医師の診断書があったとしても慰謝料請求は難しいとわかりました。私の神経性食欲不振症は家族の責任です。と母が医師に聞いた時に言われました。 母は父が亡くなった後、すぐに遺言書を書いたと言っておりました。先日銀行に行った時になんと銀行員から「お母様が作った遺言書は平等ではありませんよ。貴方が一番少ないと思います。」と言われました。別件で銀行に行ったにも関わらずそんな事を言われ怒りが拭えなくなりました。そして母の気持ちもわかりません。最後まで私はゴミ箱か!と思うと怒りと情けなさで辛くなりました。 辛い事があっても我慢して大人になったらきっと良いことかある、就職したら家を出ようと計画して自ら信じ生きてきました。 もう生きていく活力はありません。 正論を言えばそんな理不尽は無視して自力で幸せに生きて行こう!となるのでしょうが物心ついた時から怒りを押し殺し我慢ばかりしてきた私は真面目に生きて就職したい所に就職した矢先に病に倒れました。楽しい事は少ししかなかったと友人の前で号泣しました。 私の姉の様にずるくて嘘つきで泥棒して人を傷つけても笑っているような人間が得してヘラヘラなんとなく生きていかれるような事が通用するのでしょうか? 少しでも私は私の事を考えて幸せに思う事を一つでも増やそうと舵を切ろうと必死ですが力が湧きません。 お坊様どうかお助けくださいませ。

有り難し有り難し 20
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死を恐れず生きてきたことに感謝を

https://hasunoha.jp/questions/39774 の質問(2019/12/15)でこの世の終わりをお知らせしたところ 如来の皆様が仰る通り現在のような状況に至りました。 これからは新型コロナウイルスだけでなく 経済問題など人々の荒んだ心による諍いをはじめ 水害や台風、地震などの震災なども加わり 多くの人が辛い思いをし、また死を迎えます。 誤解してほしくないことは 死は決して不幸ではなく 私達は慈愛に満たされた空間に導かれ 成仏し如来に戻るだけです。 この世よりもはるかに安寧です。 安心してください。 このご時世ではとても難しいですが 森羅万象に感謝して生きてください。 この世に生きる人々のほぼ全てが 新型コロナウイルスに感染し免疫力を持つまで コロナ騒動は終息しません。 自粛行動は医療崩壊を避けるためであり 終息するにはその分時間がかかっている状況です。 終息には2~3年はかかります。 疲れ切ってイライラして自暴自棄なることは当然です。 そんな自分を自分が赦して慈しんであげてください。 さて、前置きが長くなりましたが お坊様の皆様には このコロナ騒動で全ての宗教が 救済という点では全くの無力であるということが露呈した中で 今後どのようにしていく予定でいらっしゃるのか お尋ねしたいと思います。 「死を恐れず生きてきたことに感謝を」と 説いてまわることは可能でしょうか? ハスノハは3蜜にならず 人の気持ちを優しくさせる とても良い場所です。 では、お寺は?お坊様は? 心を穏やかに保てない皆さんを救う智慧を 是非ご教授ください。 よろしくお願いします。

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子供の頃に経験した祖父の死について今でも後悔しています

私は、子供の頃毎週のように母方の祖父母の家に遊びに行っていました。とっても楽しい日々でした。 しかしある日、祖父母は離婚してしまいました。子供だった私に大人達は理由を教えてくれず、その時から何故か祖父とは疎遠になってしまいました。 それから1年くらいして、祖父が急死してしまいました。 そのときの事や、葬式のことは今でも鮮明に思い出せます。 しかし祖父と最後にいつ会ったか、最後に何を話したかなどは思い出せません。 きっとそれが最後だと知らなかったからでしょう。 祖父と疎遠になってしまったのは、 単に母が祖父の元に会いに行かなくなってしまったからで、理由はどうあれ、子供の私が「祖父に会いたい」と言っていれば会わせてくれていたと思います。 でも、私はまたいつか祖父に会えると思い、わざわざ「会いたい」と言い出すことはありませんでした。 結果、そのいつかは永遠に来ず、祖父が亡くなって14年経った今でもずっと後悔しています。 「祖父に会いたい」と言っていれば、祖父と疎遠になっていなければ、何か変わっていたのではないかと。 祖父は、孫の私をとても可愛がってくれていました。 疎遠の間もきっと会いたいと思ってくれていたと思います。 今でも祖父のことを想うと涙が止まりません。 私はこの先いつか死んだ時、祖父に会えるでしょうか。 祖父はこんな私のことでも見てくれているでしょうか。

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キリスト教と仏教の共存

大好きな実祖父が四年前に他界し、今年大好きな義祖母が他界しました。 実祖父は、真言宗を信仰していたのですが、私の母が無神論者で、葬儀にお坊さんも呼ばずでした。お墓も無ければ仏壇もありません。 義祖母は浄土宗で、本当に素晴らしい葬儀でした。 葬儀のミサに参列する事はありますが、仏教の葬儀に参列したのは初めてで、義祖母の遺言通りの、本当に素晴らしい葬儀だったと感じています。 それを考えると、実祖父の時に、母に頼んででもお坊さんぐらいは呼んでもらえばよかったなと、後悔しております。 供養の為とか、大それたものでは無いですが、実祖父の事を祈れるように、大日如来さまの豆代の掛け軸と、義祖母の阿弥陀如来さまの豆代の掛け軸を購入し、十字架の両サイドに並べています。 その人その人で信仰が違いますので、その掛け軸を見ながら、大日如来さま、阿弥陀如来さまに、平安を祈っています。 当然三位一体の神にも祈りを捧げていますが、それは、それぞれの神へ失礼にあたりますでしょうか? そのまま想いを馳せるためにも、十字架と大日如来さま阿弥陀如来さまとを一緒にしていては駄目でしょうか? それと、カトリックのように、お坊さんから、掛け軸に祈りを捧げて聖なる物にして頂くものでしょうか? 悩んでモヤモヤしておりますので、どうか、御回答して頂ければ幸いです。

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ご先祖様について

初めて質問させて頂きます。 先日、知り合いの葬儀に参列して、お坊さんのお話を聞かせて頂きました。心にしみる良いお話だなと感動したのですが、ふと一つの疑問が生まれました。そのお坊さんは「49日まで生まれ変わりを繰り返し、そしてご先祖様として私達を見守ってくれる存在になります。ご供養をかかさないようにしましょう。」とおっしゃっていました。『ご先祖様』という存在は今まで何の疑問もなく受け入れてきましたが、興味本位で色々な仏教書を読んでおりますと「人は生前の行いにより、亡くなった後何に生まれ変わるか決まる」といった輪廻という考えがある事を知りました。 もし生まれ変わり、新たな命としてこの世に存在するのならば、ご先祖様は存在しなくなるのでは?という疑問が生じて、先祖供養やお墓参りの時に誰に手を合わせているのだろう??と考えてしまいます。 「ご先祖様」はその姿形で私達の近くにいて、守ってくれているという存在だと思っていましたが、生まれ変わるのならば、何か姿形を変えて違う生命として私達の近くにいるという事なのでしょうか? 長々とまとまらない文章で質問させて頂き恐縮ですが、よろしくお願いします。

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2023/03/16

内定を辞退しました

3月の半ばになって内定を辞退しました。 しようと思っていた訳ではなく、研修が始まり、体が動かなくなり、体調不良になる日々でした。ですが、研修のない日や卒業式は問題なくいつも通り過ごすことが出来ました。恐らく、就職先の良くない噂を聞いたことがきっかけだと思います。それでも同級生が皆、頑張ると意気込んでいて、私も頑張ろうと思っていたのですか、研修の日、やはりどうしても行けず、涙が止まらず、朝から本当に失礼な話なのですが内定を辞退させて欲しいと内定先に連絡をしました。 スッキリして気持ちが軽くなると思っていたのですが、内定先の上司に「そうですか、それはじゃあまあお大事に。」とブチッと電話を切られ、怒られるのは百も承知だったのですが、怒らせてしまったこと、私の大学の卒業生もたくさんいて、大学の実習等もそこに多く行っていたり、関係が深いので、大学にまでおそらく迷惑をかけてしまうことに本当に申し訳なく、後悔しています。 辞めるにしても、もっと早く決断していればこんなに向こうを怒らせることもなかったのに、入職の説明会まで行ってしまって、本当に自分がダメ人間だと思うと、この世から消えていなくなりたいです。 今までの人生、逃げてばかり来ています。また逃げました。こんなやつは生きている資格もないです。本当にクズです。 多くの人に迷惑をかけて、本当に申し訳なくなります。 就職が嫌なのではなく、就職先が嫌だったのだと思います。 相談ではなく、長い話になってしまったのですが、どうしたらいいのでしょうか。気持ちを切り替えられません。

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自分のことしか考えてない性格を変えたい

お世話になります。結婚10年目、今の夫とは再婚になります。夫は初婚です。私は47才、夫は44才で私の連れ子(現在、大学生の女の子)と小学校低学年の息子がおります。昨夜も夫とケンカというか一方的に言われました。結婚してから何度もケンカをしていますが、いつも夫に言われるのが「他人が何を考え、そう行動しているのかを見ろ」「俺が言ったことを受信しろ(受け取れ)、俺のことを人として見ていない」主にこれらのことを言われ続けてきました。 結婚9年目くらいまでは私も夫に反発し、なぜこんなに言われないといけないのかと夫のことを嫌な人間にしか見てこれてませんでした。しかし自分の人生を振り返ってみたら、夫の言う通り、私は自己中心的な考えをしてきたばかりに前夫とも離婚、気が付けばずっと続いている友人関係もない、職場の同僚でも好き嫌いが激しい等、思い当たる節がたくさんあり、夫の言うことは正しいんだと気が付きました。気が付いてから、自分を変えようとしてきたつもりですが、夫から見ると何も変わっていないそうです。私も夫に指摘されたら「またやってしまった」と反省するのですが、でもまたやってしまうのです。また自分を至らないところを直そうという気持ちより、夫の機嫌ばかりを伺って行動してしまっている自分がいることに気が付きました。 夫の機嫌のために自分が行動するのではなく、夫が言ったように、他人の言うことを受け取る(受け入れる)、もっと周りを見れるようになりたいです。47年、この性格で来てしまってましたので、急に変われるとは思っていません(夫もそう思っています)。でもこのままに自分ではいけないので変わりたい、やはり変わるということは苦しみを伴うものなのでしょうか?自分のことがイヤでイヤでたまりません。どうしたら変われるでしょうか?

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「言葉」なしで見る

 個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。  お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。  特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。  過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。  「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。  静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。  そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。  「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。  「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。  我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。

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