最愛の彼が他界しました。1月中旬に体調不良をうったえ、病院に行ったところ、そのまま入院となり、2か月間の闘病のすえ、残念ながら、3月末に亡くなりました。 17年ともに暮らし、亡くなる3日前には病室でプロポーズをしてもらいました。 彼は、いつもそばで支えてくれて、ともに笑い、涙し、一緒に夢を描いていました。 純粋で、穏やかで、優しくて、ユーモアがあって、強くて、とっても愛がある彼はたくさんの人に愛されて、可愛がれていました。 辛くて、不安で、こわい闘病中も、周りを気遣い、冗談を常に言い、病棟でも看護師さんたちの人気者でした。 入院中は家族のみの面会でしたが、特別に許可をもらい、毎日病院に通い、時間をともに過ごしました。わたしの訪問をいつも楽しみに待っていてくれました。遠方にお住まいのご家族はなかなか病院に来ることもできず、親友にも会うことができず、、、 最期の最期まで、絶対に復活することを信じて、辛くても、苦しくても「大丈夫、大丈夫」「OK、OK」「想定ない」と常に強気に言っていました。 一緒にこれからも生きることを描いて、一日、一日、必死に生きていました。病床では、退院したら、あれをしよう、これをしようといつも話していました。残念ながら、ひとつも叶えることができず、この世を去りました。 本当に死の直前まで、彼は生きることしか考えておらず、、、彼の想いを考えると、涙が溢れて、とまりません。 彼の仲間から、「たくさんの人に愛されて、趣味に生きて、最期は1番大切なあなたに看取ってもらえて、彼は『楽しい人生だった!』と絶対に言ってるよ」と言葉をかけてもらうのですが、彼はいまも悔しさでいっぱいなのでは?と思い、本当に苦しいです。 また友達から、「唯一の心残りは、あなたのことだから、ずっとそばにいて、見守っているよ」、とも言ってもらえるのですが、明後日はもう四十九日の法要です。彼はわたしのそばを離れていってしまうのでしょうか。 彼の人徳のおかげで、わたしの友達だけでなく、彼の友達もわたしを心配して、気にかけてくれて、いろいろ支えてくれています。 また坐禅を何度か試みたのですが、彼への想いが強くなり、涙がとめどとなく溢れてきます。 彼はいま何を想い、何をしたいのでしょうか。 どうやって2人の想いを整理して、前を向けばいいのでしょうか。 まとまりがなく、すみません。
この度、競馬時代から応援し、引退後引き取っていた馬が、26歳で天に召されました。老衰の自然死でした。 馬の耳に念仏といいますが、般若心経と馬頭観音様のご真言を唱えております。最近はペットのお墓もあるといいますが、なにぶん馬ですので処分し、たてがみだけを残しました。 今流行のアパート式の墓を持っておりますが、たてがみを入れたいと言ったところ断られました。動物は畜生、地獄の畜生道につながるという話は聞いていました。それで難色を示されるお寺があることも聞きました。 うちには子供がいなく、この仔が唯一の息子でした。犬猫は葬祭の商売があって、お祭りもしていますが、馬はありません。 この仔は供養もされずに放っておくしかないのでしょうか? 自分なりに何とかするしかないのでしょうか。 ご教示願います。
お世話になっております。 以前病院へ行き、内臓が下がって体外へ出てきてしまう、骨盤臓器脱の存在を知りました。今は何ともないですが、私もいつかなってしまうのではないかと、怖くてたまりません。 予防のストレッチなどを毎日していますが、怖くなくなる方法はありますでしょうか? 少しおかしな質問ですが、ご回答お願い致します。
もう10年以上も前になりますが、母の命日が近付くと、色々と考えます。 不治の病を宣告された母。いわゆる「手かざし系宗教」の信者である叔母(母の妹)から勧誘され、藁にもすがる思いで行った本山で「あなたには助からない相が出ている」などと訳知り顔で告げられた母。 同行した父親も勧誘されましたが、断ったとの事。 (父も母も、元々は徹底した無宗教、無神論の人でした) 母は闘病中も死の間際も、「私が死んだら○○を宜しく」 なんて言葉は一言も言いませんでした。 私は、人の思考は死を思う為には出来ていないと考えます。 脳はあくまで、身体を効率よく動かし合理的に生き延びる為に、進化の過程で生物が獲得した器官であり、「死」なんて抽象的な思考を弄ぶ為のものではないと思うんです。 死んで肉体の機能が停止すれば、感覚器官(眼や耳、肌など)も停止し、仮に死後が存在するにしても、想像を絶する世界を見て、感じるはずです。軽々と「死後の世界」なんて言えるはずが無いです。 生物の脳も身体も、ひたすら生きる為に作られています。死ぬためにつくられてる訳じゃないです。だからこの脳、この身体で死について考えること自体ナンセンスで、飛ぶ為に作られていない私の手で、鳥のように空を飛ぼうとするようなものです。 お釈迦さまが死後を無記とした真意は… 私は、死後が浄土であれ輪廻であれ、あるいは本当に恐ろしい事ですが正真正銘の「無」であっても、仏教の救いに変わりはないと言う事ではないかと考えます。 人は死なないです。死の間際でも、風邪をひいたように、一晩明ければケロリと治ってると心の奥底では信じて最後の日まで生き続けるのではないでしょうか。 母は死の間際まで死を考えませんでした。少なくとも、口には全く出しませんでした。何かを悟っていたのか、一片の悟りもなく生にしがみついていたのか今では分かりません。 ただ、母の姿を思うと私も生の続く限り全力で生きたいと思うばかりです。 「生きてる時は死んでいない、死んだら生は無い、だから死は存在しない。死を恐れず、生を全うせよ」と言ったギリシアの哲人に、私は賛成です。 こーゆー考えもまた、妄想でしょうか? 「これだけ問答を重ねて、君はまだ何も分かってない」とお叱りは覚悟の上です。 日々、人の死と向き合っているお坊様方の実感を聞かせて頂ければ嬉しいです。
前にも質問にご回答頂けたのに再び質問することが恐縮ですが、質問させていただきます。 死後自分はどうなるのかをずっと考えてしまい、ここしばらく心穏やかではない状態が続いています。 その中でもし死後の世界があるのであれば、出来る限り死後が良いものになるように私は努力をしたいと思いました。ですが、死後を良いものにするために何をすればいいのか、何を信じればいいのか分かりません。 この死後の問題に対して様々な宗教が答えを出していますが、言っていることは宗教によって異なります。(様々な宗教の説く死後の世界の様子を見てますます、死後が怖くなりました。) 仏教の中でも宗派によって死後の考え方は異なることが分かりました。 どの宗教の教えで考えても救われるような生き方をするのは不可能ではないかと思いました。 このような質問をすでに仏教を学ばれているお坊さんの方々にぶつけるのも申し訳なく思いますが、一体私は何を信じて、何をすればいいのでしょう。 正直なところ、もう何かを信じて楽になりたい気持ちもあります...
私は、幼い頃から母子家庭で 共に歩んできた母をも中学生の時に自殺で無くしました。その後、祖母と伯父に育ててもらい20歳になりました。母が私に託してくれた遺産で母と約束したとおりに留学をして大学へと進学しました。伯父への恩返しとして、伯父が務めている塾で講師としてのアルバイトもしています。 長年、共にしてきた祖母なのですが近頃は体調が優れないことも多く少し心配です。そんな祖母も83歳になりました。祖母は曾孫を見るまで生きるんだ、長生きするんだと言ってくれています。 ここで、相談なんですが私は家族の生活のためにしているアルバイトと大学の兼ね合いで平日は外に出ているため祖母を家に1人にしています。ふとした時に、寂しいなあと祖母が言っているのを聞いて、私は自分が何をしたらいいのか分からなくなってきました。祖母は、毎日近くのスーパーへ買い物に行き昼寝をして食事を作ってテレビを見て愛猫と戯れるの繰り返しで寂しいのかな、私が家にいないせいかなと自分をどうしても責めてしまいます。 もう、そんなに先が長くないというのも分かってるんですが、この先私が就職をして結婚をしたらもっと祖母が寂しくなるのではと思ったら何だか自分の人生に前向きになれません。どうか、何かアドバイスなどありましたら教えてください。
こちらhasunohaには何度か書かせていただいた通り 私はここにいないことになっています また両親は私=精神障害者という現実を受け入れられないまま隠し続けています 両親は団塊世代であり 私は団塊ジュニア世代 まさに今社会問題となっている「8050問題」に差し掛かりつつある状態です では「8050問題」とは何なのか? 簡潔に言えば80の老いた年金生活の親と50の引きこもりの無職の子が同居し生活苦の中でさらに孤立を深めていくという社会問題 で 私と言えば精神疾患は長く患っているけれども 精神障害者認定を受けて障害者年金を受給し始めて只今3年目になります そうせざるを得ないと思ったのはやはり年金生活を送る両親の負担軽減の為 で 私が今思っていることは 私は単なる「引きこもり」じゃない!ということ 障害者年金の中から税金や生活費を支払いながら病気と闘っている最中である!ということ 私は決して隠れているのではなく 引きこもりたくて引きこもっているのではなく 両親が私の存在を隠したがるから仕方なく息を潜めて生きているだけのこと だから私は「引きこもり」じゃない! 「うちは深刻な8050問題に直面している!」という両親の考え方は筋違いというもの 自分たちが娘を「引きこもらせている」という事実を忘れてしまっているのではないか?と思うのです 「現実逃避」「障害者偏見」がたまたま「8050問題」とシンクロしてしまった状態が今の私の真の家族の問題ではないでしょうか? 中高年の引きこもりは確かに大きな社会問題となっていることでしょう それは分かります 何とかしなければならない問題だと私も思います でも私の家族の問題とは少し違うのではないでしょうか? 私は家族親族の冠婚葬祭に参加したこともありません たった1人の兄の結婚式にも参列できませんでしたし 祖父母や親戚のお葬式にも参列できませんでした 精神障害者の私を近親者には会わせたくない 恥ずかしい みっともない 世間体が保てない 自分たちは完璧で理想的な家族と思われたい 「8050問題」のニュースや新聞記事を視ながら嘆く親の姿を見ていると 何だか問題が摩り替えられているような気がしてしまうのですが… それでも私は「8050問題」の「引きこもり」だと思われますか?
私は心が弱いです。 病気になる位なら死んだ方がましだと考えてしまいます。 私は視力がかなり悪く 眼科に行ったら病的レベルと言われショックを受けています。 今は問題ないが、将来病気になる可能性が有るとの事。 中には一生付き合わないといけない病気も有ります。 怖いので今後は定期的に検査をする事にしました。 気が緩むと、つい将来について悲観してしまい 失明するのではと考えてしまいます。 そして、今までケアしてこなかった自分が情けないのです。 もっと苦しい思いをして生活をしている方もいるのに こんな私なんか生きる自信も無く 情けなくて消えたくてたまらなくなります。 婚活もしていたのに、これが原因で異性に受け入れられないのではと 不安でも有ります。 仮に病気になったとして、 今の私には病気と共に生きる勇気が有りません。 どの様な心構えでいたら宜しいでしょうか。
死ぬことがとても怖いです。 死んだ後、こうやって今文字を打ってる、自分という存在はどうなるのかと考えると、怖くて仕方ありません。 死は逃れられないのだから、どうにか死を受け入れられるように、死というものに悲しいイメージを抱かないようにと、お釈迦さまの考えや、聖書など様々なものを読みました。 ですが、いざ死について考えた時、魂という存在や天国、地獄など、それらのものが無かったら?と考えてしまいます。 最近はニュースなどで殺人や自殺など誰かが亡くなってしまう内容を見ると、死は突然訪れるのだと強く感じ、とても苦しく、死にたくないと叫び泣いてしまいます。 こういう話を周りに相談すると、後悔の無いように生きることを全うする、考えても仕方ないのだから考えないようにするなどアドバイスをいただきます。 ですが、後悔の無いように生きても、私は死にたくないんです。死ぬ前に生きてて楽しかったな、なんて思える気がしません。 不老不死でいいのかと言われたら、それで構いません。私という存在が無くなることの方が怖いです。 死からは逃れられないという気持ちと、死ぬことが怖いと思う気持ちどちらも交互に出てきて、また教えやアドバイスを受けても、実際はどうなのか分からないじゃないかと考え受け入れることが出来ない、そんな自分はどうすればいいでしょうか。 まとまりのない文章となり申し訳ございません。お願いします、助けてください。
おはようございます 無量寿経を読んでいたところ、41願からの「他方国土の菩薩」という表現が気になり、蜂屋賢喜代という方の本で調べたところ、この方は他方国土の菩薩を念仏者と説明しており、信心を頂くと、41願の功徳により、現世でも身体が壊れなくなると説明していました 私の祖母は、熱心な念仏者でしたが、晩年は目(眼根)が見えなくなりました。これは信心が決定していなかったという証拠なのでしょうか? 私もいつ目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったりするか分かりません 身体の障害は信心を頂けてない「証拠」になるんでしょうか 41願の「たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 」という願は、本当に信心決定した者への願なのでしょうか?そうすれば、身体障碍者は救われないという結論になると思うのですが… 他方国土の菩薩とは誰のことなんでしょうか? 知恵をお貸しください
この歳になって色々考えさせられました。自分が老いていく事等。今までに必死に生きてきた。人が大っ嫌いだった。子供も3人。上の2人は私を知らん顔で出ていき1人残った子はまだ中学3。今の旦那は再婚でまた子供を殴る人。また失敗した。 私は現在、未破裂脳動脈瘤3mmいつ破裂するかわからない時限爆弾と、子宮頸がん異形成。いつガンになるかわからない。そして、心臓神経症であちこち痛くて寝るのままならない状態でうつ病再発。占いの人に今年は入院するとか、手術するとか言われて余計に不安になった。旦那と7年、5年前から家庭内別居、面倒見てくれてるのは子供。可哀想で。 でも、私は何もできない。体が痛くて時々死にたくなる。いつも子供が傍で見てくれてる。旦那はうつ病に金かかると。私がしっかりしたいのに何も出来ない。何故こんな理由のわからない病気ばかり。いつ死ぬかばかり考えて怖くなる。生きたい。でも、痛みで死にたい。仏様やご先祖さまに怒られる。早くに亡くなったお父さん。お父さんの愛情だけ知ってます。今は兄妹との連絡も繋がらない。母との連絡も取れない。友達はいない。孤独だ。子供しかいない。孤独だ。 誰も答えてくれない…… なんだよ……もういいよ さよなら
先日、父(5年前に母と離婚)が亡くなったと連絡を受けました。 私は離婚前から、母に苦労をかけていた父をあまりよく思っておらず、また思春期でもあったためあまり会話はしていませんでした。 また、離婚後は一度も連絡をとっていませんでした。 そんな父が孤独死しました。誰にも見つからず10日以上が経った状態で部屋に倒れていたそうです。 心不全とのことなので、はっきりした原因はわかりません。 3日がお別れの日ですが、10日以上倒れたままだったので、顔や身体はあまり綺麗な状態に戻らないそうです。 私には兄がおります。兄には父と連絡するように言っていました。 兄と父は離婚後数回会い、最近は連絡をとっていなかったと思います。 ずぼらな二人の縁が切れぬよう日にちを設定してあげようと考えてもいましたが、いつのまにかそんなことも忘れて過ごしていたところに届いた訃報でした。 ずっと話さず、離れて暮らして長いのもあってか、父の死自体は案外受け入れられてはいます。 ただ、父は人生の終盤、孤独に埋もれて亡くなったのではないか。私がもっと大人になって連絡を取り合っていたらもっと生きられたのではないかと思いを巡らせています。 実子がいるのに孤独死…仲良しとは言えない関係ではあったけれどもあまりにも親不孝なことをしてしまったと、なんとも言い表せない気持ちになります。 それも結果論であると冷静な部分もあるのですが、やはり私はあまりにも冷たすぎ、人ひとりを苦しめ、悲しすぎる最期を迎えるようにしてしまったのだろうと思います。 私は父にどうしてあげたら良いのでしょうか。 どうしたら父は孤独だったと自分の人生を悲しいものだと思わず、清々しい気持ちでこれから過ごせるでしょうか。 父に多少恨まれていても良いですが、自分の人生に誇りを持って過ごしてほしいです。 まとまらない文章で申し訳ありません。お返事いただき導いていただけたら幸いです。
私自身精神疾患により、希死念慮に悩まされています。 ただ、幼少期に母親を病気で亡くしているので自傷、または自分から死へ向かうことは母に申し訳なくてできません。 (錯乱状態になったりした場合はわかりませんが。まずそうはならない疾患です) 長患いの中で、とても澄んだ心を持つ友達ができました。 彼女は自分だけを責めて、病気のせいなのに「こんなこともできない自分はダメだ」との思いを抱えて自ら旅立ちました。 私個人の考えでは彼女は自殺というより「病死」だと考えています。 身体的疾患での死は仕方ないととらえられますがやはり自死というのは公にするには憚れることもあるようで私が彼女の死を知ったのは旅立ってから3か月ほど後のことで、もちろんお葬式にもいっておりませんし、ご両親が特殊な宗教をなさっている関係からお墓参りもさせてもらえません。 「霊能者」というような人は「自殺した霊魂は救いがない」とか「ずっと真っ暗闇をさまようだけ」などと言う人が多いようです。 そんなのひどすぎる。あんなに苦しんだ挙句、誰も責めず自分だけを責めて、精神疾患による考え方の歪み・・あまりこの言葉使いたくありませんが・・もあっていってしまいました、あんなに苦しんだのにまだ苦しまねばならないなんて・・・ 自らいのちを絶つということをよしとしているわけではないのです。 ただ、精神疾患(心の病気≠精神疾患)によりこのような結果になった方々にも救いはないのでしょうか。 もう一度申し上げますが、彼女が生きていた頃を知っている私は 彼女のことは今でも「病死」ととらえています。
はじめまして。 仕事の時も休日も毎日一緒にいた大切な恋人が、苦しむ事なく眠ったまま突然亡くなってから2ヶ月が過ぎました。 彼に心配かけないようにと毎日頑張っているのですが、彼がお守りと言って私にくれた指輪が未だに手離せません。 私は毎晩、彼の写真に向かって日々の出来事を色々と話しているのですが、彼は聞いてくれているのでしょうか? 不思議な話ですが、写真に向かって話していると彼の返事が時々心の中に浮かんできます。まるで会話してるかのような時もあります。 これは私の思い込みなのでしょうか? 私は死後の世界や生まれ変わりなどを信じているので、私に寿命がきたらあの世で彼に会える、会って彼に褒めてもらいたいからそれまでしっかり頑張る、と彼が亡くなって数日後に心に決めました。 生まれ変わってもまた出会って、出来なかった事を二人で出来たらいいねと写真に向かって話す事もあります。 私の想いが彼に届いてるといいなと思っていますが、想いが強すぎると良くないとも聞きます。 私はこのままでもいいのでしょうか? できれば彼のためになる事がしたいです。
初めて質問をする者です。 よろしくお願いします。 当方、大学4年生で就活活動中です。 タイトル通りなのですが、 いわゆる自分はタナトフォビアなのだと思います。 きっかけは恐らく 幼稚園の頃に経験した祖母の死 小学生の頃に経験した祖父の死 高校生の頃に経験した母親の死 だと感じています。 身の回りにこれだけの身内の死を経験した人がいなく、あまり共感はされません。 仕方のないことだと分かっています。 避けられないことだとも分かっているのです。 しかし、怖いのです。最近時間があるせいか、毎日のように死んだらどうなるのか、これからの別れに耐えられるのか、生きる意味とは何なのか、そういうことばかり考えています。 何も手につかなくなってしまいます。 周りの人たちは、こういうことを考えず前向きに将来のことを語っているのに、今の私にはそれが出来ません。私も前向きに将来を語りたいです。 心配性なところもあり、果たして自分はいつまで生きることが出来るのか、考えても仕方がない未来のことを心配してばかりいます。 周りからは明るい人間だと言われるのですが、今はとてもそんな状態ではありません。 きっと母親の死が大きすぎたのですが、高校生活が忙しく、適切に処理出来ていなかったのだと思います(泣いたら駄目だと思っていました) 同じように悩んでいらっしゃる方をここのサイトで知ることが出来、私だけではないのだと感じることが出来たのですが、やはり心配性、恐怖は改善されませんでした。様々なQ&Aを見てきた中で、なぜ仏教を学ばないのかと不思議に思うことがあるという回答をしていらっしゃったお坊さんがいたのが印象的でしたので、初心者にもおすすめな本などがあれば教えて頂ければ幸いです。 避けられない運命を、せめて受け入れられる考え方、心得を教えてほしい、助けてほしい。 以上、長文にお付き合いいただきありがとうございます。
以前も質問させて頂いて沢山力をもらえました。ありがとうございました。 いよいよ来週、乳がんの全摘手術を受けます。 病気がわかってから様々な本やサイトを読み、以前より覚悟はできたものの 少々混乱してきてます。 人は必ず死ぬのだから何がなんでも生に執着するのは良くない、と頭では思うのですが、実際自分は病気を治療して生きたくて病院に通っていることに 矛盾を感じてます。 病気の治療をすることは、生の執着になりますか? 私は本音はやっぱり死にたくはありません。母子家庭なので娘が成人するまでは働かなければいけないし、何より娘の成長を私が見たい。せめてあと10年は生きて働きたいです。 未来に何が起きるかわからないことはわかっているので、そう願っても絶対叶うはずがないとは思います。ですが、生きていたいと願うのも執着になりますか? 手術に、どういう心境で臨むべきなのかわからなくなってしまいました。病気が治ってまた働けますように、と願ってもいいですか? 乱文で申し訳ありません。 どういう気持ちを持って手術や治療を受けていけばいいのか、ご指導いただけたらありがたいですm(__)m
ご丁寧な回答もいただき、温かなお言葉もかけてくださいましたのに、本当に申し訳ありません。 私一人の都合で周りに迷惑をかけるわけにもいかず、かといって今の状況に耐えることはできなさそうです。 弁護士やその他のプロも私のために動いてくださっていますが、私の恩師に紹介してもらった方々なので、私が辛いからと調停を休ませてもらうこともできません。 私は、ただしたかったから母の介護をしていただけです。 誰かに評価されたり、ましてや姉夫婦に理解して欲しかったのでもありません。 ですが、介護の事実などなかったことにされて、母の元に泊まり込んでいた期間の家賃を払えなどと、理不尽なことを要求されたり責め立てられるのに、心がもう持たないのです。 ごめんなさい。本当に罰当たりなことだと思います。 でも、楽にさせてください。 少なくとも私がいなくなれば、もうこれ以上「○ね」とも言われないので、今よりは遥かに極楽だと思います。 一秒一秒が、身を引き裂かれるように辛いのです。 自死することで頭がいっぱいです。 ごめんなさい。でもどうやっても耐えられません。
ちびまる子ちゃんのような姉妹が、50代になっても続いておりました。 そのまま年を取り、旅行や山登り等したいことが沢山ありました。 その姉が突然私の目の前で、脳出血の為倒れ5日後息を引き取りました。元気そのものの姉が・・あまりにも突然過ぎて、まだ信じられません。死亡手続きやお葬式の準備等淡々としておりましたが、現実ではないという思いが強く心の整理が出来ません。 意識不明になった時、又、今姉はどう思っているのかを知りたいのです。 これから、私はどう生きていこうかと模索する日々です。 どうか、この押しつぶされそうな胸の内をお察しください。 姉をこんなにも慕っていたのだと、改めて感じております。
祖母の面倒見るの辛いです。 母がなくなってから私一人。頼れる人も 愚痴れる人もいません。 ケアマネさんにも 市役所の相談窓口にも 自殺防止の窓口など あらゆる所に相談しました。 でもどうにもなりません。結局私がやるしかないんです。 電話がかかってくるだけで 声を聞くだけでイライラが止まりません。 心理的虐待してます。 ケアマネさんも知ってます。 私自身も病みすぎて死にたいと 毎日思います。 昔言われた傷ついた事とかどうしても 許せないんです。 早く死んで欲しいと毎日思います。 分かってます、私が死ねばいいことくらい。 でも飼ってる猫を看取るまでは 責任があるので死ねません。 福祉サービスは利用した上での話です。 施設入るお金もありません。特養でも無理ぽいです。 イライラどのように心の中で処理したらいいのでしょうか…
薬の副作用で死にかけて入院しました。 死ぬことに恐怖を感じました。 それから死ぬのが恐ろしくなりました。 今まで鬱を患ったせいか、死に対してあまり恐怖を感じたことが無かったのですが、今は怖いです。 これは普通の感情ですか?