日光の神橋の話で、蛇王権現が出てたので、気になります。どんなご利益があるんですか?あと、妖怪の説も、ありますが、どう思いますか?
最近思うのは、 「仏教は科学を補完するのではなく、包合するものだ」ということ。 科学は森羅万象を解き明かしますが、森羅万象は既にそこに存在し、極めて柔軟かつ精緻に動き続けています。 例えば、未踏峰に初登頂しても、既にそこには太古より山はあり、命名する前から、山なるものは山であり続けたはずです。 人間は、人間が生命として「生き延びる」為に、「生命に必ず備わる生の渇愛」という衝動を原動力に科学を発展させ、生命力の強い種に進化しました。 ただ、進化と言えるか怪しいのは、科学は「外部的要因(環境、自然)」に手を加えて、人間に利するように、供する為の手段と言うこと。 人を支配するのは心ですが、その心を軽視したが故に、あるいは物質科学と心の科学のバランスを軽視した故に、様々な問題が起きているのではないかと思います。 本題ですが、では心の科学の仏教ですが、お釈迦様や南方仏教、明治以前の多数の僧侶は結婚していませんでした。 非常な覚悟、決意のもと、正師の導きで修行しても、「お釈迦様でも七回生まれ変わって漸く…」と言われるように、医王釈尊の入滅後、人は悟りが難しくなりました。 そうした中、結婚せず、子孫も残さずというのは、「虚無」に陥り易いのではないでしょうか。 生命として、子孫を残したいという衝動は根元的なもの。 インドにあるような、人生を何期かに分けて、「林遊期」に仏教を真剣に学ぶのが、生物としての人間に無理が無い気がします。 突き詰めれば、人類という種が滅する、結婚しない生き方が良いのか、囚われずに生きた方が良いのか、どうなのでしょうか?
ここでは様々な悩みや苦しみの相談が満ち溢れていますが、最大の苦しみは「生老病死」の四苦だろうと思います。 これは全人類に共通で、生きている限り解消不可能な宿命的な苦しみです。 般若心経の冒頭には「照見五蘊皆空 度一切苦厄」とありますが、一切苦厄には当然四苦も含まれているはずです。 そうすると度一切苦厄は、生きている間は実現不可能であるということになります。 従ってその機会は死後にあることになります。 もし死後が無ければ、「死」即「度一切苦厄」が成立します。 こんなたやすいことを釈尊が大発見のように語るでしょうか? 即ち死後が無ければ、仏教はその必要性がないことになります。 仏教成立の要件は、輪廻転生が真実であることが大前提であります。 従って自殺は、苦の清算ではなく、苦の上塗りで、死後にもっと悲惨な苦しみを受けなければなりません。 この論理を広めて、自殺を食い止めることが仏教の必要性の一つではないかと思います。
こんにちは。 いつもお応えいただき感謝です。 私は今、日蓮宗で先祖供養をしています。 しかし、出身が香川でもともと真言宗、というわけではありませんが、なんとなく真言宗が好きです。 最近ご縁があり日蓮宗のやり方で先祖供養を始めたのですが真言宗のように般若心経を読みたいなと思っています。 そこで質問です 【質問】 ・ふたつの宗派で先祖供養するのはいけないことですか? ・真言宗はどのような方法で先祖供養しますか? ・合わせる場合どのような方法で行えばいいでしょうか? 先祖供養は家で毎日できたらと思っています。 今度高野山に行く予定です。そこで先祖供養に必要なものを買えたらと思ってます。 よろしくお願いいたします。
皆さんいつもありがとうございます。 ① 如来行とは 辛く苦しい時も、自分と周りを認めて許し、全ての人に徳を積んでもらうよう感謝し続けています。 この行動は何かお地蔵様に尋ねてみたら 「如来行」と答えをいただきました。 生きて仏に成ると 如来様同様に慈悲などを感謝の気持ちで永遠に伝える修行があります。 ② 如来行と神様仏様 すべての物事は神様仏様という成分でつくられてます。 自分自身も神様仏様でできていますし、がん細胞も、嫌がらせをするという行為も神様仏様でできてます。 全てはいただきものです。自分の身体、悔しい、死にたいという感情さえいただきものです。 何かもらった時は何と言いますか? 「ありがとうございます。」です。 自分とはこの世の時空間では点です。位置を示す座標です。あとは全ていただきものです。 如来行は一神教、多神教、あらゆる宗教宗派を超えて行うので、ご本尊も、教祖様も、経典も、総本山も関係ないです。 時間場所を選ばず自由気ままに修行ができます。 お金がかからないので助かります。 修行は簡単で、目に見える見えないに関係なく「おかげさまでありがとうございます。」と思うだけです。(陰徳) この世では声をかけた方が良いこともあるので「ありがとうございました。」と言っても良いです。(陽徳) 如来行をして感じたのは、神様業仏様業はとても辛いということでした。 敵も味方も善悪関係なく、分け隔てなく平等に愛情や慈悲を注ぐことは、この世(人間社会)では全てを敵に回す覚悟が必要です。 心から感謝されることはあまりなく、「なぜ私の願いは叶わないのか」「自分はどうして苦しく死にたいくらい人生なのか」というクレーム処理に追われます。 見事なまでの「ブラック業界」です。 でも、神様仏様は皆さんのすぐそばで、一喜一憂せず穏やかな心で労わりや慈しみ、愛情を注いでいます。 そばにいることに気づき、「ありがとう」と言えば、何とかしようとします。努力の仕方とかそっと教えてくれます。 神様仏様は森羅万象の一番下にいらっしゃいました。とても謙虚です。 万物を頭の上に持ち上げ、感謝とともに愛情や慈悲を注ぐ方が良いそうです。「頂戴する」の原点です。 これからはもっと謙虚に森羅万象の下を目指し「おかげさまでありがとうございます。」を気軽に言えるよう精進したいと思います。
これまで色々お答え頂きありがとうございました。 お医者さんもカウンセラーさんもお坊さんも、考えてベストだと思えてる方法を教えてくれますが、でも届きませんでした。 自分はただ一緒に遊んでくれるだけで十分だったのだと気が付きました。でも自分には友達が元から少なく、40歳(プロフィール欄はなぜか30代で表示されてしまいますが)になってしまいましたので今から増やしていくのも簡単では無いと感じています。 後白河院の編纂した梁塵秘抄に有名な「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けばわが身さへこそゆるがるれ」というお話がありますが、何やらしみじみと沸きいってくる情動に「ああ自分の中にも遊びたい気持ちがあって抑圧してたんだな」と感じ入ります。 真面目に求道されている方々には若干心苦しいですが、今度は一応ゆるめのものを選んで仏教イベントに遊びに行ってみたいと思います。
こんにちは。 前回質問で、輪廻思想がどうも腑に落ちない、と主張した者です。 ただ、輪廻に限らず、事物が「ある」とも「無い」とも断定するのは中道の教えに反すると感じるので、輪廻思想の側からも質問させてください。 輪廻転生があるなら、私は六道あらゆる世界を見て、生きて来た事になりますよね。何しろ仏教の宇宙観は無数劫の時間スケールで成り立ってるのですから。 また、私は、いわゆる地球外生命というものも、必ずどこかの惑星で誕生し生を営んでいると信じています。 そうなると、私の魂(?)は天上界のめくるめく壮麗な世界も体験して来たし、地獄の底の恐ろしい責め苦も受けて来た事になりますよね? また想像を絶するような異星の光景も目の当たりにしてきたのではないでしょうか? 輪廻転生が教えているものって、 「そういう一切合切の有情は、別個に生きているのでなく、過去、現在通して、物質から魂のレベルまで、密接に繋がって生きてるんや。天人も地獄の衆生も、あらゆる命も決して他人事じゃおまへんで。なにせアンタがそれ自身だったんだからな。」 と言っているようにも思えるんです。なぜか関西弁ですが。 そういう所から、いわゆる慈悲って生まれるのでは無いでしょうか? 生前や死後を無記とするのは「智慧」ですが、また輪廻をわが事として受け止めるのは「慈悲」の根源なのかな?とも思います。 この2つの考えは矛盾するものではないとも、私には思えます。 お坊様方は輪廻と言うものをどのように受け止めてるのか、気になったので再び質問させて頂きます。 お考えを聞かせて頂ければ嬉しいです。
初めまして、クラウディアと申します。 私の悩みは、果たして神という存在はいるのかどうかと言うことです。 実は別の宗教にも勉学的関心があるのですが、仏教とも共通することはやはり神の存在です。 私は信じたいのです。しかし同時に信じることができないのです。 目に見えるものしか信じられないという非常に残念な性格が影響しているのかもしれませんが、とにかく神の存在を疑ってしまうのです。 例えば仏壇にお線香をあげる際、それは亡き人に向かってです。亡き人というのはもうこの世にはいません。灰になってしまったのですから。魂はあると言われていますが、どうも私には信じられません、 そうだとすると、お線香をあげる意味はあるのでしょうか? そこで、神はいるのか、またいるのだとしたら何を根拠にいると仰るのかをお尋ねさせていただきたいと思いました。
座禅をしたいので詳しいやり方を教えてください。 一日何分くらいやればいいですか?
お世話になっております。 いつも精神的に幼い私の怒りに任せた質問に懇切丁寧に答えてくださってありがとうございます。 皆様のおかげで仏教に興味が湧いてきたので、一から勉強してみたいと思っているのですが、どんな本を買えばいいかわかりません。 この本が面白い、わかりやすい!というおすすめがあれば、是非教えてください。
Eu herdo a personalidade do vovô 私はおじいちゃんの個性を受け継いでいます Vovô nasce no Brasil おじいちゃんはブラジル生まれ Dormir não é nem japonês nem inglês 寝言は日本語でも英語でもなく O mais frequente foi o português 一番多いのがポルトガル語でした Meu vovô bilíngüe バイリンガルだったおじいちゃん Que língua é falada no outro mundo? あの世では何語を話しているのでしょうか? Uma pergunta… 質問は… Quantas línguas o chefe conta uma história? お坊さまはいくつの語学で法話されていますか? Que tipo de atração do budismo japonês você quer transmitir? 日本の仏教のどんな魅力を伝えたいですか? Com isso ... それと… Existe algo que você vai usar outras palavras dormindo do que japonês? 日本語以外の寝言を使ってしまうことはありますか? Os Jogos Olímpicos de Tóquio serão realizados em 2020 2020年には 東京オリンピックが開催されます Muitos estrangeiros vêm para o Japão たくさんの外国人が日本に来ます Talvez… もしかしたら… Pode ser uma oportunidade para espalhar o budismo japonês para o mundo 日本の仏教を世界に広めるチャンスかも知れません Gentil para o Japão 日本にやさしく Fácil para todos みんなにやさしく Claro que é fácil para estrangeiros もちろん外国人にもやさしく Eu quero interagir com o coração da hospitalidade おもてなしの心でふれあいたいですね
いつもお世話になっております。 医師の勧めで、毎日、祈願寺の写経道場に 通っています。 その後、護摩でお経を上げ帰宅します。 祈願寺は距離もあるので、規則正しい生活 の基盤、また学びの機会にもなっており、 色々な人も来るので、軽い訓練にもなって いる…気がします。 医学的にも、写経行には集中力を高め、 認知症の予防にも…と聞きますが。 そこで数点疑問が生じました。 写経には大きな功徳が…と聞きますが、 そう言われても、いまだピンときません。 また、我が祈願寺の宗派は実践的な修行に 力を注いでおり、 本山には信徒向けの水行、登拝行、断食行 などのプログラムまで存在します。 まさに、「道場」といったところです。 ご詠歌もあった気が。私もたまに参加 しています。個人的にもやりたいので、 道具を揃えるか思案中です。 とくに断食行に関しては、 「治療目的での入堂はお断りします」 と注意書きがあります。 写経や信徒参列型の護摩と、断食行は やることが根本的に違う、また、前者には 治療云々…の記述はありませんが、 私の場合、認識のズレから誤解を生じ、 お坊さんから顰蹙を買っていないか不安に なってきました。 今までも、あらゆる場面で認識のズレから トラブルを作っていたので…。 関連して、最近になって、お坊さんから 行儀に関して指摘される事が増えました。 たとえば、 「トイレに入る前に輪袈裟を外して」 など…引き締めを図る時期が来たか? とも思います。 ほんとうに、無知で申し訳ない…。
私は、一年間浪人後、行きたくなかった大学への進学となり、1回生を全て受験に捧げてきました。 しかし、今日までの合否発表ですべて落ちました。 たしかに、息抜きに遊んだ時もありました。しかし、受験が頭から離れたことはなく、限界の精神状態の時もここから抜け出せると思って頑張って勉強してきました。 家の神様、学問の神様、一願成就のお地蔵さん、うちの近くの神様、地の神様、友達も有名な学問の神様へ私の合格を願いお願いしてくれました。 しかし、どれもダメでした。 私は神様やお地蔵様からも見放されているのでしょうか。 この先学歴コンプを持ちながら生きていくことが決定し、今まで高校受験もすべて第一志望に落ちてきたので自信を持てるものがありません。 どんなに頑張って勉強しても、どんなに願っても叶わないものは叶わない。そう思うと、もう自信も、自分を信じることも、未来への希望もなくなりました。
私は趣味でお寺や美術館、博物館などに行き、御仏像を見るという年に合わないような密かな趣味があります。 ここで質問なのですがhasunohaのお坊さん方のイチオシ、もしくはオススメの御仏像、仏様を差し支えなければ教えて頂けますでしょうか? 地域の指定などは特にありません。 御仏像は石仏、木彫、乾漆など材質等の指定も特にありません。 よろしくお願いします。
こんにちは。 私は曹洞宗の檀信徒です。 が 密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。 密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが 曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。 お経でもでできませんし、 ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。 あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか? よろしくお願いします。
先日、祖父が亡くなりました。 去年の夏頃に祖母が亡くなり、死後の世界について漠然と考えていたのですが、今回の祖父の死でより具体的に考えるようになりました。 死期は自分で分かるものなのか、死んだら魂はどうなるのかなど、色々知りたいと思っています。 ぜひ教えてください!
私は、とある事で大王様(つまり、閻魔大王様)に、興味があります。そういうことで、文献を読んでたら、優しい事をしてる文献が3件も、有りました!でも、そんなに優しくしてるのに、嫌われて、怖がられてるのが、可哀想に思います。何だか、私にも、似てると思います。皆さんは、どう思いますか?
仏教の宗派の違いを教えてください。
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。