正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。
今も、心の支えとして仏さまのお人形を持っています。 これは信じる心ではないんですね。なんだろう……持っていたところで何も奇跡はないけど、自分が少しでも変われたら嬉しいです。自分を変えるのは難しく簡単にできたらみんな苦労しません。これからは、「自分の取扱説明書」というのをつくり、自分の決めたことはやりとげることを続けたいです。 別の話になりますが、今でも心に乗っている「痛いこと」は、太っていることに恥ずかしくないの?と言われたことです。自分が痩せたことは一度もないし、食べるイベントてきなものがあるとそれに流れて乗ってる自分……好きなことで頭一杯にすれば少しは、楽なのになーと思っています。
いつもお世話になっております。プロフィール通りのことを しでかして、デーケアは1ヶ月間の休養を余儀なくされました。 病院に行って、 「怖くて道もまともに歩けない。医者や支援者、坊さん、 警察官や保健師といったお役人しか信じられない。 これ以外の人たちはみんな、パソコンやスマホのウイルスや ランサムウェアーと同じで、一見いい顔をして『その機会』 を狙ってる、泥棒や痴漢やテロ犯だ!」と溢したら、 「さすがにその状態は危険です。直ちに修正をする必要が あります。カウンセリングや入院治療も視野に入れるとして、 せっかくお経が読めるなら、その手の状態を解決するヒント的な 経典はないのかしら?」 「実践プログラム的な修行や法語みたいなの、あるんじゃない?」 と言われました。 しかし、経典は数がありすぎて探し方すらわかりません。 浄土宗の教義については理解しているつもりですが… 密教と顕教の違いすら理解していません。 どこからどうやって、何を目安にしてお経を学べば いいんでしょうか?
最近お坊さんに相談したい悩みが出来ました。出来れば、自分の足でお寺に行って話をしたいのですが、私は大学進学を機に実家を出ています。 近所にあるお寺は実家が信仰している宗派とは違うようなんですが相談できますか?
以前は念仏を度々行っていたのですが、次第にめんどうになりすっかり幽霊念仏員と化してしまいました。 ところが久々に思い出して行ってみると読みながら自分の抑揚や音読速度を感じて、「オレ、別に焦ってないと思ってたけど、何か急いでる感じするし焦ってるんだろうな」とか「何か妙に抑揚強くてアピってなくね?もしかして飢えてるの?」 などと、どこか俯瞰した目線でまだ意識に登っていない無意識下の悩みと言いますか、或いは自分の中の別の自分の愚痴を聞くと言いますか・・・くすぶりだした欲求不満の様なものをある程度察してあげられる効果がある事に気が付いて驚いています。 仏教と言いますと、何かドグマチックな信仰や仏教哲学から入らなければならないという気がしてしまうのですが(勿論仏教には素晴らしい教えが沢山有る事は承知しています。本棚には半分くらいに栞が挟まった仏教の本が沢山有ります!)、なにせズボラなもので・・・単に健康に良いからとか、メンタルケアをモチベーションとして関わっていくのはイケない事なのでしょうか?
私の祖父は非常に信心深い人でした。 毎日かなり長い時間、仏壇と神棚、信仰している仏像におつとめをしておりました。内容は家族の平和でした。 そのためか、問題のない家ではありませんでしたが、平穏だったと思います。 ただだいぶ前に祖父が亡くなってから熱心に祈る者はいなくなりました。 最近は家の中でいろいろ問題がおきることが増えてきたように思っています。 祖父のようにはできませんが、自分ができることはないでしょうか?
こんにちは なつと申します。 今回は宗教を信仰する意義についてご相談したいです。 私は祖父母の代から信仰を持っていて、仏教徒です。とても熱心に修行をしているとはいえないですが、少し修行に参加しています。 しかし、最近信仰することに対して疑問を持つようになりました。 病気、失業、お金のトラブルと悪いことが続き、信仰していても仏様は守ってくださらないと思うようになってしまいました。 辛いことが起きたら、それは仏様がくださった試練ですよ、と一緒に信仰をしている信者さんにご助言いただきました。 しかし、その理論でいくと信仰をしていると試練が下されて辛い思いをしなくてはならなくて、信仰していなければ試練もないということになり、信仰していないほうが幸せなのではないか、と思うようになりました。 信仰している意義がわかりません。 私は生まれたときには親のはからいで入信していたため、自分で信仰したいと思って信仰し始めたわけでもありません。 なぜ信仰するのでしょうか。 わかりません。 よろしくお願いします。
生きるのがつらくて、阿弥陀様になんとか救って頂きたくてお縋りしています。 でも阿弥陀様が約束された救済は死後の救済、今生ではありません。なので阿弥陀様を拝んで顔を見上げる時に「死んだ後と言わずに今救われたい…」と思ってしまいます。 阿弥陀様に良くなりますようにと祈っても現世利益はないと言いますし、私はどんな気持ちで阿弥陀様と向き合えばいいのでしょうか? とても恥ずかしいし苦しいし、阿弥陀様に申し訳なくてご本尊の前にいられません。私は地獄に落ちるのでしょうか。
はじめまして 最近、正信掲、歎異抄、大無量寿経、スッタニパータを読んでいます。 読んでいて、不勉強ゆえ以下の疑問が湧いています。 子供を作ることは、愛すべき我が子を、厭うべきこの世に呼び出す行為とも思われ、子を思えばこそ作るべきではないように思えます。以下、詳述しますのでどうかご指導ください。 ブッダは、欲望の支配からの自由、ひいては輪廻転生からの解脱を説かれます。 その前提として、人(を含む生き物は)煩悩具足の凡夫であって、他の生物を殺生し食べねば生きられず、醜い体をもつ哀れな存在だと捉えられていて、「再び母胎に入ることのないように」と仰います。 つまり、私達が子供を作ると、上記の哀れな存在を生むことにはならないでしょうか。子供を作らねば、輪廻転生の苦もなくなるのではないか、と思えているのです。 しかも、子を遺して自分が世を去る時後ろ髪を引かれ、絶つべきこの世への執着が、子供の存在によって強まるようにも思えます。 確かに、「人身受け難し 今既に受く」「大海に浮かぶ板の節穴から盲た亀が顔を出すより難しい」とも言われます。しかし、これは、どうせ生まれるなら、他ではなく、仏法を聞ける人身に生まれることの有難さを説かれたものであって、生まれること自体の素晴らしいとのお考えでないようにも思えます。 また、生まれることの幸不幸は本人の捉え方次第とも思われます。しかし、もし子が生まれ、「生まれたくなかった。なぜ厭うべき仮の世に産んだのか」と言われたら、答えに窮してしまいそうです。 この問に答え得るブッダのお考えをご指導ください。できれば、それが書かれている文献の名前と場所(第何章のどの辺りか)もお教えくだされば幸甚です。 どうか、宜しくお願い申し上げます。 (以下、ご参考です) 一五二 さまざまな欲望の対象への、深層の欲望から超脱するようにせよ。そうすれば、もはやふたたび母胎へ入って輪廻転生することはなくなるであろう。(スッタニパータ 荒牧典俊著) 二三五「過去の業は絶えた。未来の業もあり得ない」と、賢者は、来世に執着せず、種子を絶やし、自己存在の芽を未来にまで伸ばしたいとの願いを捨て、油の切れた灯のようにふっと消えてしまう。 三三九 二度と輪廻の世に舞いもどってはならぬ。 三四〇 たえず身体に注意を向けて、その醜さを思い知れ。厭い離れる心に満ちてあれ。
大忍貫道 様 釈尊の言行(その1)で追記 を見逃して大変失礼致しました。 回答の締め切り通知を変更通知と間違えて調べて、追記があったのを知りました。申し訳ありません。 重要な問題なので、再度質問を立てます。 我々の出来ない体験を、釈尊が代わりになさって伝えて下さったのが仏教です。 「輪廻転生について」のお礼欄で、私は 「如来(釈尊)は真実を語るものであり、如来は真理を説くもの、ありのままに語るもの、誤りなく説くものだからである。如来は虚偽りを語るものではない。」 との金剛般若経の引用をしています。 輪廻は信じる信じないのレベルではなく、真実か虚偽かの問題なのです。 そこが仏教が宗教か否かの判断になると思います。 金剛般若経の続きで「前世、現世」が出てきます。 釈尊の語りですから、これは真実なのです。 これが輪廻転生に他ならないのではないでしょうか? 因みに仏教が信でなく真実であることは、仏教の基盤である「般若心経」が科学的真実を語っているので明白です。 詳細は省略しますが、ヒントは「諸法」の「空」が「不増不減」であるのは、諸法が自然界の中で唯一「閉じられた系」であるからです。
仏教の地獄には色々あるのは知っているんですがお坊さんや仏教徒の方達はその数多くの地獄の名称を全て言えたりするんですか?
姉が自殺して、はや2ヶ月になりました。 この間、姉が初めて夢に出てきてくれました。 夢の内容は 姉のお葬式をしていて、その後、場面が変わり 病院のベッドの上に姉と家族がいて、姉がビデオカメラを見ながら私に「これ見て」と言いました。 それからまた場面が変わり 私の家で私が料理をしているところに姉がいつも使っているカバンを持って「もう行かないといけない」と何処かに行こうとしていたので私が何処に行くのか、行かないでと言ったところ 困ったように笑っていました。 なんで自殺をしたのか聞いたのですが、口は動いていても何を言っているのか分からず、そのまま目が覚めました。 目が覚めて、一人で大泣きしました。 ビデオカメラを見てと言った意味は何だったのか… 行かないといけないと言う姉の言葉は何だったのか… 困ったように笑った顔が頭から離れません…。 生前の姉を思い出し、会えて嬉しいけど思い出したら涙が出ます。 今日まで夢のことを考えても答えは出ませんでした。 夢の意味はなんだったのか、教えてください。 よろしくお願いします。 カテゴリ違いでしたらすみません。
私の家は団地の4階建ての1階です。 ご先祖様の仏壇もあります。 最上階ならまだしも、1階に住んでいることから その上には人も住んでいるので、仏壇の上に 天、空、雲などの言葉の紙を貼った方がいいと思うのですが、どうなのでしょうか? 貼った方がいいのであれば、それはどこで手に入りますか? 無知で申し訳ありません。 よろしくお願いします。
こんばんは。 おみくじの学問の欄に信仰心を持って勉強に励むように書いてありました。 これはどのように受け取り、受験に向けて頑張れば良いのでしょうか? ご回答よろしくお願いします。
想像しただけでその想像した罪と同罪なのか。 ご回答をください。助けてください。悩んでいます。 私の母と私でドラマを見ていた時、親が子を殺すみたいな場面があったんです。それで「私はお母さんを殺さないよ」と伝えた時にふと、 「でももし、母がゾンビになって殺すべきだと判断した時とか、母が病気になって楽にしてあげるために薬とかで安楽死にして殺すことはあるかもしれないな。」 と考えたんです。でも、それっていくら母親のためと思っていることでも罪は罪なのかなという思いと、それに続いて私が母親を殺すなんてことを考えてしまった、という思いが出てきたんです。 そこでネットで調べてみると、「罪は想像した時点でもはやその罪を犯したのと同じ」みたいな内容を目にしまして、とても怖くなっています。無間地獄の罪状に「母親を殺すこと」というものがありますが、それに私は当てはまってしまったのでしょうか。実際に私は母親を殺したわけではないですし、そんな特別な場合ないと思っていますので殺すつもりもありません。今もキッチンで夜ご飯を作っています。 改めて質問をまとめると、 「私が母親を殺すことは、母のためになる場合ならあるかもしれないと思ってしまった。このように『母を殺す想像』をしてしまったことは、実際に母を殺した罪と同罪になり、私は無間地獄に落ちてしまうのか。」 ということです。本当に怖いです。ご回答何卒よろしくお願いします。
自分の周りの人々に、また、その他の全ての生命に自分の功徳を分けることはできるのでしょうか(自分に功徳があるのかすら分かりませんが)。 頭の中で念じるだけで回向していることになるのでしょうか。 それは先祖にも届いているのでしょうか。 実感がない、確認できないことなので、これでいいのか、と首をかしげながら念じています。 また、どんな言葉で念じるのが良いのでしょうか。
なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。 なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。 なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。 自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。
梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。