チベット仏教と涅槃、輪廻について
チベット仏教のゲルク派によるともののあり方には2つ有るそうです。
1.自性によって成立しているもの
2.何らかの効果を生み出す能力のあるものとしてのもの。言葉に仮設されたもの。
自性によって成立している物は世俗、涅槃の両方の世界において成立しないとするのがゲルク派の教義の特徴とされています。
また、事物の存在を全面的に否定している訳ではなく、言葉によって仮設された縁起によって成り立つ物として存在しているとされています。
釈尊は悟りを開かれた後も、救済の為に衆生の話に耳を傾け、粥を飲み、説法を説かれるため足を運ぶ
といった事をされている事から、仮設された知識や善悪の価値観、法則、事物は涅槃の世界でも縁起に依るものとして存在する事が分かります。
もし事物が全面的に失うのであれば虚無主義と変わらない事になります。
しかし、それならば一つ重大な欠陥が残ります。
世俗の真理として仮設された輪廻転生はどうして解消されるのでしょうか?
ゲルク派は言説有、つまり自性に基づかない物としての輪廻転生を前提にします。
それらは言説有として仮に存在する物であるから存在を認める事が出来るからです。
であればどうして釈尊は輪廻から脱したと言えるのでしょうか?
もし輪廻転生を世俗の真理だと仮定するなら、釈尊は妄執を消しただけで、
縁起としては今もなお輪廻転生を繰り返していることになります。
縁起によって成り立つ事物は涅槃の世界でも残るからです。
では涅槃に入る事で仮設された真理も消えるとします。
それならば何故衆生を救う必要が有るのでしょうか?
自己が輪廻転生を繰り返す妄執が消えたのに、どうして他者が輪廻転生を繰り返すという妄執は残っているのでしょうか?
涅槃の世界に輪廻転生を繰り返す事物は存在しない筈です。
また、そもそも世俗真理としても否定されるという事は
すなわち科学的認識、日常感覚としての「無い」と同じですから、我々も輪廻転生から脱する必要すら無くなります。
ここのサイトが「神父さんがこたえるQ&Aサイト」ではないのと同じように。
大上段から釈尊を否定する書き方をしましたが、私は今の自分の考えを必ず正しいとは思っていませんし
お坊様方から間違いを指摘して下さる事を通じて学ばせて頂きたいと思っておりますので何卒宜しくお願いします。
有り難し 13
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