いつも有難うございます。 「逆修」で生前に戒名を授かることになりました。 (真言宗です) 戒名を「逆修」で授かったかどうか、 御坊様から見て判断できる点がありますか? 死後に授かった戒名と特に変わりは無いですか? 今度の日曜日に自分の戒名が分かるのでドキドキです。 本当は「慧」という字を入れてほしいなと思っていたのですが、 ご住職様から、入れてほしい字はあるかと聞かれなかったので、 自分から入れてほしいとは言えませんでした。
私は家が曹洞宗の息子です。 大悲心陀羅尼というお経ですが ネットで曹洞宗青年団というサイトでは 聖観自在菩薩よ と訳されています。 しかし、他のサイトでは 千手千眼観世音菩薩という説明がほとんどで 千手観音についてのお経と思っていましたが 実際はこのお経はどの菩薩様についてのお経ですか またこの功徳は、私たちが生きる上で内を伝えているのでしょうか? よろしくお願いします。
私が仏教の入門書で最初に目にしたのは「仏教の目的は輪廻転生からの解脱である」ということでした。 外国の仏教では輪廻転生が信じられていますが、日本の仏教ではその話は殆どおこなわれていません。 その理由を知りたいです。死に対する最も重要な事項だからです。
非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。
軽く気になってみたこの二つについて、否定された物が分かりにくくお聞きしたいと思います まず、有我説における我とはなんでしょう?「不変の物」と言う意味なのでしょうか? ここが「不変の物」と言う意味であれば、五蘊が我である・我は五蘊を有す・我中に五蘊があるは大体理解が出来ると思っています 「それは不変ではない」はすぐに分かります 最後に「五蘊中に我がある」これが例え「不変の物がない」と言う意味でもいまいち理解(イメージ)出来ません。どう言った事を語っているのでしょう?各々の要素がそれぞれいずれ変化すると言うような事を語っているのではない様に感じます まぁ、それを言い出すと五蘊が我であるもいまいちイメージが一致しないのですけど… この辺りはどう理解されている物なのでしょうか?
仏教の修行で家でもできるものはありますか?
瞑想をしようとすると、またしていると、右頭のこめかみらへんがピリピリと神経痛のような痛みを感じてしまいます 瞑想をしていて、頭にピリピリ感を感じていたお坊さんはいらっしゃらないでしょうか 質問受付数も制限されている今に聞く質問ではないとずっと考えていたのですが、 自分にとって瞑想(サマタやヴィッパサナー)ができないということは、生きるという行為が無意味と感じてしまうほど 大きなことなので、質問させていただきました
いつも お世話になります。 私は今日一日 行きつけのお寺で座禅を組んだのですが お坊さんからなるべく何も考えないように言われたので 何も考えないように頑張ってみたのですが、雑念だらけでどうしても 無 になれなかったので 諦めかけた時 昔 母から 楽しいことだけ考えて生きよう と言われたことを思い出して これだ!と思いました。 これが 答えだ! って思いました。 これは ある意味では 悟りに準じているのでしょうか?
色々な宗派に興味があります それは非難される事ですか? たとえば臨済宗のお経が好きですが、曹洞宗の永平寺の修行にも興味があります また、いつか宿坊に行ってみたいと思いますが煙草やお酒を飲むのでこんな人間が宿坊になんて行けないと考えてしまいます 幼稚園、高校と仏教系で仏縁はあると思っています
おはようございます。仏教について 考えていました。 お釈迦様の教えが根本であり 原点でございますね 教え通り 生きたら人じゃなくなる気がします。 人間で生まれた以上 人として人らしく生きることが 素晴らしいとも思うのは よく 言われるのは タオルはタオルとして使われるのが幸せである とも言いますよね 仏教の教えは 人でなくなり 仏様のようにいきる 事ですよね 仏教の教えを 根本として 自分達が 幸せに 生きる知恵となればいいとは思うんですが 煩悩を断ち 執着を無くしとは 人じゃないよな、、、と思ってしまいます。 お坊様方は お釈迦様や空海様と同じ土俵におられますが お坊様として生きるいじょう 仏様を 目指されるのでしょうか?
私はよく神社やお寺で、その日のご縁を頂いた事にお礼を言って「遠く離れた家族がいつまでも元気で長生きできますように」と祈ったり「自分と神様と仏様とで良いご縁で結ばれますように」と祈ったりしています。 その御利益か、願い通りに電話で家族の元気な声を聞けたり、胸がワァーっと熱くなるような神仏との良いご縁を頂いたり、特に頼んでもいないのに「思わずニヤけるようなラッキーが舞い込んだり」しています。とっても嬉しいです。 ただ、それらはあくまで「私の幸せ」です。 そういった「利己的な事」とは別に「神仏の為の事」をしたいと思ってます。 というのも私はいつも神仏に「何か“してもらう”側」だと日々の参拝の中でフと気が付きまして、流石にそれだけでは申し訳が無い。 私も日々、世話になっている神様と仏様の為、私なりに「何か“してあげる”側に」なりたいと思い始めました。 …ってのは良いのですが、具体的に「神様や仏様はどうすれば嬉しがる」のかがサッパリ分かりません。 シンプルに参拝の際に「神様と仏様が幸せになりますように」と祈れば神仏は私の時と同様にその願いを叶え、神仏自身が幸せになって歓喜しますか…? …いや、そもそも“ヒト”ごときが“神仏”に対し「○○してあげる」って発想がおこがましかったりするの…?って考えが頭を過る事もあります。 あ、ちなみに最初に書いた「家族の健康」や「神仏とのご縁」といった利己的な参拝はこれからも続けるつもりです。 それと並行して神仏を喜ばせる為の事をしたいって事です。 私自身どれだけ利己的で欲深くなろうが思われようが別に構わないので自分と同じように大好きな神様と仏様にも胸が熱くなるような喜びや幸せを感じて欲しいです。 読みづらかったらすみません どっちか片一方だけに偏らない、私も神様も仏様もみんなでハッピーラッキーになれる道、或いは行動を知りたいです。 どうか回答よろしくお願いします。
妙音菩薩品第二十四で 「聲聞の形を以て得度すべき者には、聲聞の形を現じて爲に法を説き…」と、ありまして 観世音菩薩普門品第二十五 「聲聞の身を以て得度すべき者には、卽ち聲聞の身を現じて爲に法を説き…」と、ありますが 「形を以て」と「身を以て」で、うん?どう言うこと??似ているようで全く違うものだし、この違いはなんなのかな?と。 すいません、まだ二十四を数回しかあげたことしかないのでまだまだわからない部分が多々ありますし、理解力が及んでないのも十分に承知しております。 もし、教えて頂ければ幸いです
また、よろしくお願い致します。 私達夫婦は、後継者が、いない為、 寺院の境内にある「永代供養付樹木葬」の 見学を始めました。 候補が、二つに、しぼられて どちらも格式高い、お寺様で、二つとも気に入って 本当に、どちらにしようか真剣に考えております。 二つとも「永代供養墓普及会」の紹介なので、 形や値段は全て同じです。 ただ、一つは「浄土宗」の寺院、 もう一つは「真言宗」の寺院です。 樹木葬墓地は宗派は問わないのですが、 納骨する時は、その寺院の御坊様に拝んで頂くことになります。 私は、戒名は頂きたいので、やはり選んだ寺院の宗派の 戒名になると思います。 そこで、 「浄土宗」と「真言宗」の考え方が、 どのように異なるのか教えてください。 できれば、 「浄土宗」の御坊様と、「真言宗」の御坊様の 双方の立場から教えて頂けると有難いです。 よろしくお願い致します。
今晩は、質問させていただきます。 仏教には悪因悪果、善因善果とありますが 世の中には嘘で人を陥れ、貧しい者から富を搾取し、 人種、民族を差別し、暴力を行い、戦争を扇動し なんの生活に影響なく生きている人たちがいます。 彼、彼女らはむしろこの世では成功者、勝利者といわれているようです。 (無論、仏教でいう成功、勝利者はそんなものではないということは承知しています) しかしそのような人々が現世で行っている数々の悪行為が何の報いもないということは甚だ疑問です。 それはつまり自らが行ったかもしれぬ過去世の善業によって現世の悪からある意味その人は守られているのでしょうか? また、その逆も然りであり善行を励む人が無残な結末に遭うことも珍しくありません。 それも過去世の善業が切れてしまった証拠なのでしょうか? いかんともしがたい不公平が生まれるのも業によるものでしょうか? 私は悪因悪果、善因善果について誤解をしている可能性があります。 それについて詳しく教えてください。 とりとめない乱文申し訳ありません。 よろしくお願いいたします。
子供を亡くして 私も毎日をやっと過ごす日々ですが、 夫がとても参っていて心配です。 夫の仕事中に電話をかけると、 元気のない声で 泣いてばかりいる と言います。 私よりも 夫の方が毎日泣いていると思います。 あと、昨日 子供の姿が一瞬見えた気がした という話や、 夜 目が覚めたら黒い渦が見えて 窓の方に消えていったから 子供が来てくれるかと思って 起きて少し待っていたけど 戻って来てくれなかった、と聞かせてくれました。 俺 頭いっちゃってるのかな?と… 夫は会えるなら会いたいと思っているそうです。 でも話を聞いて、夫が心配です。 心を病んでしまうのではないかと… 私は自分はなんとか頑張って 家族を支えていきたいと思ってます。 お坊さんがたは どう思われますか…
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
仏教とは思考停止を勧めているのですか?
小さい頃、「三途の川を渡ると死んだ人の世界」(うろ覚え)という話を聞いて以来、「三途」という言葉自体が怖いものだと思っていました 曽祖母の法事などでも小さい頃は「三途の黒闇ひらくなり」という部分が近づくと耳を塞いで目を閉じていました 大人になって、黒闇を開くのだからむしろ怖くないのでは? と思うようになりました。でも気づくまでその部分のお経を唱えられずにいました それ以来大好きだった曽祖母に対して今までひどいことをしていたような感覚が消えずにいます。(友人が出版した本を「絶対買うね! 応援してる!」といいつつ実際は買わずにいたことに気づいたようなそんな感覚です) どうしたらいいでしょうか
ブッダの教えを一言でまとめると何ですか? hasunohaや本で読んでもイマイチピンとこないというか、分かりづらいというか、自分でまとめてもモヤモヤするので質問してみました。