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今回で6回目の質問になります。 私の事情や性格などは、プロフィールや以前の質問、頂いた回答へのお礼文などから推測してください。 お手数をお掛けして、申し訳ありません。 皆さまのご協力で、少しずつですが、現在の自分の不安や心配の解明に努めて来ることが出来ました。 本当にありがとうございます<(_ _*)> 今までの皆さまからの御回答を参考にさせて頂き、ようやく、やっと。 父や家族に、弟の結婚式・継職表明への自分の参加の難しさを伝えることが出来、欠席の意志もきちんと定めることが出来ました。 深く御礼申し上げます(。-人-。) これで当座の 寺族関連 での問題は回避出来ることでしょう。 父からは詫びの手紙までもらってしまって(謝罪や反省の言葉が欲しかったのではないのです。その点では、まだまだ相互理解が必要だと思います)今はむしろ、父のメンタルも心配です。 が、今の私では、それらを上手く伝えることは難しいでしょうし、特にメンタル面などは、結局は自分でなんとかしていくしかありません。 私の実生活への自主リハビリでも“切り替え”は重要課題の一つです。 今回は、視点を変えて、質問致します。 [質問] 現在、私の中では、菩薩修行の知識に非常に興味があります。 そこで、現住職として長きに渡り全国で布教師として活動をしていた父にも、質問などをしてみて、自分の見識を深めたいと思っています。 こちらで学ばせて頂いたことの中には “回答者にも質問者にも、相応の基本知識と共有出来る言葉が必要だ” というものもありました。 ですので、父には及べませんが。 質問する以上、必要となるであろう。 修業中の菩薩のこと,また菩薩五十二位・六波羅蜜・十波羅蜜・方便波羅蜜などについての入門書,専門性はあるけれども分かりやすい指導書(私は学ぶ側なのでなんと言えば良いのか…)などの、書籍を御紹介頂けると幸いです。 書籍にこだわるのは、私の今の状態と父母などもインターネットには不慣れなのとの理由です。 宜しくお願い致します。 文字数が少しあるので余談を…(ここまで回復してきました!) 私は、質問の冒頭にもきちんと記載して… プロフィールなどでの私の現状の確認をお願いしてきたつもりですが… 果たして何人の方が【高次脳機能障害】という病気を、認識・確認、してくださったのでしょうか…
ある仏教は、踊って念仏を唱えれば極楽往生ができるとかなんとか。 ある仏教を考えた人は苦行をするなといってるのに、ある人達は千日回峰◯をやり。 ある仏教を考えた人は欲を断念してこのクソ(この世界はクソです死も欲も病も苦しみも弱肉強食というルールもうえつけたクソな存在が作ったクソな世界)にまみれた世界から逃れようと考えた。 しかし今いる仏教の人達は、結婚もして死んだ人にお経を唱え、大金をもらい。 そして無知な人達は、それをありがたいと思い仏教をますます勘違いさせる。 仏教は政治に使われ、金儲けに使われ。 ナンジャコリャって感じ。 いや仏教道を貫いたとして、この世界の理をわかる仏教の偉い人はいないし、みんなを幸福にしてくれたり教えたりする仏教の人もいません。 例えば、説教みたいな形で君は考えが甘いとか言われてしまいます。その甘い考え(脳や思考回路の伝達物質やらなんやら)を作ったのはその仏様じゃね?と思うのです。 またじゃあ知能が低くて仏教すらわかんない存在に生まれた健常者って苦しむだけ?人間界に生まれたのに解脱できずに苦しむの?って感じです。 私は仏がもし存在するのなら私の全存在をかけて恨み通します。それだけ極悪非道な存在だと思います。 結局仏教って、一部の恵まれた人しか心理には辿り着けず、一部の生まれてきた親が仏教系の人が金儲けのために仏教を難しいことにして他人を説教して世の中のおかしな所をみてる若者に対して考えが甘いとかいって批判するのが仏教?
この世界が嫌いで嫌いでしょうがないです。 私はこの世界の苦しみを毎日毎日受けています、 しかもそれが誰かから受け入れられる事もなく私は誰1人悩み相談せず宮沢賢治の雨にも負けずのような生き方をしています。 毎日、理論物理学を勉強して本気でセルンに協力してミニブラックホールなどで宇宙や遺伝子がなくならないかなと考えたりするほどです。 この宇宙や生物の仕組みが神秘的とは反対でクソほど汚らしいものにしか思えないのです。 この世界を作った何かはおそらく最悪な存在です。 このクソ世界から逃れるには解脱しかないと言われてますが、その解脱は、なんとくだらない仏教の何かを追求しないといけないそうです。 しかもそれはある所では踊りで、ある所では念仏で、ある所では修行とかで笑ってしまいます。 それって仏教の悟りは客観的なゴールがないということではないか!? しかも悟るには時間かけないといけないし、仏教を理解できる知能が必要。 輪廻転生のルールを作った奴って意味不明じゃない? 悟れねえよ、人生苦しんでる時にどう仏教の追求すんだよ、どう修行とかするんだよ。ふざけんなよ。 私は仏教の矛盾に対して質問しましたが、"万人は信仰の自由がある"と言われました。 という事は結局は、仏教はみんなに取っての客観的な答えがあるものではないということですよね。キリスト教を信じてる人はゴッドを信じていて仏教の人は別の概念を信じていてそれは結局相対的でこの世界の後の世界は誰も説明できないという証拠ですよね。 結局解脱する方法はきちんと仏教を勉強できる恵まれた人、知能が高い人、仏教系の子息に生まれた人、時間が取れる人、人生に苦しんでない人という多大な時間を取らないといけません。 それならやはり解脱できない不幸な人間は自殺しかないのではと思います。 このクソルールを作った世界のゴッドだかアッラーだか宇宙だか何だか知らんがクソ制約を個人にてるくせにクソみたいに恵まれた人しか得れないシステムを作るゴミが設計してる。 さあどうすればいいのだ? 恵まれない奴はどうすれば解脱できる? どうこの苦しみをコントロールできる? それが輪廻転生のゴールと言われたら誰もゴールできねえし満足するわけねえだろ全知全能とは思えんしクソだろ。
因果応報について質問です。 お釈迦様は悪業は悪の結果しか残さず、 善業は良い結果しか残さないと言われていますが、 簡単な例として泥棒が人の金を盗んで豪遊し良い思いをする、と言うような内容は金を盗むという悪業に対してまだ結果に到達してないということですか? この場合の豪遊して良い思いをすると言う結果は過去の善業のものという理解で良いのでしょうか。
はじめまして。 人との関わり、生きること自体が苦しくて…苦しくて、色々と考え、悩み…答えを求めて色んな本を読みました。それでもどうしても答えがわからず、こちらへたどり着きました。 話せばとても長くなってしまうので、要約します。 私の両親、特に母親はいわゆる毒親です。毒親だと気付いたのは5年くらい前で、それまでは、違和感を感じつつも、私は母の愛を求めていました。 私は母に手をつないでもらった記憶がありません。物心ついた時から孤独で…愛されていると実感したことはありません。 親を変えるのは無理…私の想いをわかってもらうのは無理だと諦めようと、やっと自分の人生を、自分自身を生きることに一歩踏み出そうとしてもがいているのですが… あるお坊さんが執筆した本を読んだところ「仏教は先祖への感謝が基本」というような内容がありました。 母は今、要介護状態ですが、私は母に触れることができません。触れることができないどころか、母から出てきた自分に嫌悪感を感じることもあります。 般若心経に興味を持ち意味を調べ、仏教をもっと勉強したいと思っていたのですが、「ご先祖様への感謝」が壁になっています。 あの母の考えや生き方は、そのまた母(祖母)に影響を受けているようで… 私はどうしても「ご先祖様に感謝」という気持ちが持てません。 本当に辛くて苦しい人生でした。今まで生きていてよかったと思えたことは一度もありません。 ただ、いま、親への執着を捨てて、少し楽になったところなんです。。これからは自分を生きてみたいと少しずつ行動しています。 仏教の教えを支えに生きていきたいと思ったら「ご先祖様への感謝」は必要なのでしょうか…
いつもお世話になっています。 「分別」 南伝 相応部経部45-8 阿含経典 比丘たちよ、いかなるをか正見というのであろうか。比丘たちよ、苦なるものを知ること、苦の生起を知ること、苦を滅することを知ること、苦の滅尽にいたる道を知ることがそれである。 比丘たちよ、聖なる弟子たちは、この縁起および縁生の法を、正しい智慧をもって、あるがままによく見る。 「比丘たちよ、色(肉体)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有にあらず、わが我にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧をもって観るがよい。 阿含経典の中の「分別」という中に、「苦なるものは無我である」とありますが、どのような体験によってどのように理解すればよろしいでしょうか。 御教示お願いいたします。
こんにちは。 仏教を勉強するうちに今まで誤解していた色々なことが明らかになって、例えば、今は無我もちょっとだけ納得できるようになりました。だいぶ落ち着いてきたのですが、実は因果応報について気になっていることがあるんです。よかったら、お暇な時に教えてください。 因果応報とは、良い事も悪い事も自分がやった事の結果が出て来るということなのですね。親や祖父祖母、そのまた上のご先祖様の代の因縁を自分が背負うなどということはあるのでしょうか。 借金など明らかなものではなくて、例えば何代も前の先祖の行いが悪くて人を泣かせていたから今度は子孫が泣かされるめぐり合わせになるとかそういうことです。そういうのは何代も前になれば事実関係を確かめられなくなっていきますし、気にしないで自分がしっかりしていれば大丈夫だ!と思うようにしてはいるけれど....でも、いかにも血のつながりで受け継がれていきそうな気がしないでもないんですよね。お坊さんのような人で先祖の因縁の話をする人がいたので、今でも時々ちょっと気になります。 因縁が受け継がれて子孫に因果応報が出て来るということはあるのでしょうか。 追伸 因縁を断ち切るお祓い数十万円とかいきなり言われたらさすがに怪しいと思うのですが、仏教の話もちょこちょこ入ってくるともっともらしく見えたりもするから....人の心って、もう大丈夫だと一度は思ったつもりでも迷ったりする頼りにならないものですね。自分で自分のあやふやさに笑ってしまいました。
13宗派は本当に仏教の教えに沿っていますか?
いつもご回答ありがとうございます。 スッタニパータの中の理解できない箇所の一つに 以下の箇所があります。 お坊さんの御教示お願いいたします。 873で「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか?楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。」とあります。 次の874で「①ありのままに想う者でもなく、②誤って想う者でもなく、③想いなき者でもなく、④想いを消滅した者でもない。──⑤このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである。」 註では、①を凡人②を狂人③を滅尽定④を四無色定とありますが、873で修行した者について問うているのに①、②は修行者の範疇ではないようです。また、③が四無色定で④が滅尽定のように思われます。 勝手な考察ではありますが、 ①ありのままに想う者は、 ・概念で構築された言葉と一体となっている形態(個々の対象)をそのままに想う者 ・名称と形態は、妄想の元であると理解に至っていない修行者 ②誤って想う者 ・形態によって迷うのではないと想っている者 ・諸行無常を理解していない者 ③想いなき者 ・形態に対して想いをめぐらさない者。 ・想わないようにしている者 想わないようにしただけでは形態は消滅しない。形態には実体が無く、妄想(=苦)の元凶であると理解していない者。 ④想いを消滅した者 ・形態に対しての想いを想いで消滅させている者 ・想いを想いで取り扱っているかぎり想いはなくならない。 ⑤理解した者の形態は消滅する。 ・消滅させる(人為的)ではなく消滅する(自動的に消滅されている) ・想いなく形態が消滅する者でなくてはならない。 名称と形態が分離されたものと理解しなくてはならないのではないでしょうか。 名称は社会生活のために便宜的に付けられたものでしかありません。 例:お金(お金という名称)の本質は印刷されたただの紙。為替交換のできない国に持ち込んでも交換価値はありません。使用価値としては火をつけるときに使える程度のただの紙でしかない。 「私」というのも「私」という概念に付けられた名前だけであって、想いが続くことによって「私」が存在していると勘違いしているのではないでしょうか。 よろしくお願いいたします。
最近仏教を知り、勉強している者です 疑問がありますので、お教えください 1諸行無常や一切皆苦など、真理のことばであって絶対に変わらない正し ことであるとみたのですが、それとは裏腹に正しいと思ったことは正し くないという真理があると思いますが、でしたら真理は正しいのでしょうか 2涅槃静寂、悟りの境地は安らかである、とのこですが その状態で認知症や記憶喪失にあえば、悟りは消えますかね? もし消える可能性がある以上、涅槃静寂だとは思えないのですが... それと悟りを得ていない者は、認知症や記憶喪失を恐れ、健康でいる ことや記憶をなくさないことに執着してしまうのではないでしょうか 支離滅裂な質問で申し訳ないです 理解できた部分だけでもいいのでご回答待ってます
本を読んでお経に興味を持ったのですがお経とは何のために存在しているのでしょうか?
仏典についての質問です。 正式に仏教の知識を学んだこともありません。 己の体験と仏典を照らし合わせて仏道に勤しんでいます。 浅学でお恥ずかしいのですがお答えいただければ幸いです。 感興のことば第26章 安らぎ(ニルヴァーナ)の13です。 僧侶であればだれでもが親しんでおられる仏典だと思われます。 「13 ①前にはあったが、そのときには無かった。②前には無かったが、そのときにはあった。③前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」の内容をお知らせください。 個人的な一考察ですが、 ①「前にはあったが、そのときには無かった」とは、 A:前には「認識している私」という意識があったが、そのとき(=安らぎ)ではすでに「私」というものは無い。 B:前には「渇愛」があったが、そのとき(=安らぎ)では「渇愛」はない。 ②「前には無かったが、そのときにはあった。」とは、 前には「智慧」は無く「無明」であったが、そのとき(=安らぎ)には「智慧」があった。 ③「前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。」とは、 前にも「魂」は無かったし、のちにも「魂」はないであろう。また今も「魂」など存在しない。 という勝手な考察ですが、お坊さんの体験された内容をご伝授いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
まず、hasunoha運営様、回答僧侶の皆様、 そして、僧侶俗人とわず敬虔に教えの道を歩む仏弟子皆様方。 先般はご厄介をかけてしまい大変申し訳ございませんでした。 これもすべて私の自己管理能力の不足が原因です。 今回の一件は本来であれば、疲れていた、とか、 ひどいことを言われて悲しくてつい八つ当たりしてしまった、 などの理由では済まされないことだっだんですね。 私は本格的に、仏様に嫌われてしまったんでしょうか。 阿弥陀様、お不動様… 他の仏様ももう私を受け入れてはくれないんでしょうか。 厚かましいと叱られてしまうかもしれませんが、 どうかご意見をお聞かせください。
祖母が、私が写経しているときに、コバエを写経用紙の上で潰してしまいました。祖母は軽度の認知症なので、写経しているという認識もなかったのかもしれません。止められなかった私が悪いのですが、この写経用紙をどうしたらいいのか考えあぐねています。 捨てるのも良くない気がするので、全て書き終えてから、お寺に納めることを考えています。その方が虫の供養になるのではないかと…。 ただ、元々、祖父の病気平癒の祈願を込めて写経を始めたので、殺生したくせに、安易な気持ちで納経できないとも思ってしまうのです。 アドバイスをいただきたく存じます。
偶然にお話しした子供さんから大変ショッキングな事を聞きました。小さな頃から虐待され続けてきたそうで、その悲惨な状況の事をあるお寺の方に話した所、前世で悪行積んだからだ。因果応報だ。本人の責任だ。と言うようなお話しをされたようです。分かりやすくする為、端的に記載してます。実際はもっと柔らかな言い回しのようでしたが内容はそのままです。虐待に関しては沢山のご相談わたし受けておりますが、ある程度、乗り越えよう、乗り越えてきた、大人の方であっても、何の仏教の予備知識もない方に対して、そんなこと言ったら相当ななショックを受けると思います。それをまだ小さな子供さんに対して言うなんて! 透視させて頂いたら子供さんが言うその通り、こちらまで吐き気が止まらなくなるような、まだ赤ちゃんのような頃からの酷い虐待の姿が沢山とれました。それもまだ現在も続いていました。本当にガムシャラに頑張って頑張って、その子なりに今できる事を精一杯やって、ご両親に嫌われないよう怒られないよう必死に生き抜いています。そんな子供さんに対して仏教を学ばれた方がその様な事を言ってしまう。そんな事言われ子供さんは未来に希望持って生きていけると思うでしょうか?子供さんは、あまりのショックで、心臓が打ち抜かれたような精神状態になっており、未来、自殺へ向かうところまで視えてしまいました。相談所への誘導と出来る限りの修正いれましたが。精神的虐待、暴力的虐待、性的虐待、アルコール依存性や、精神疾患をもったご両親で家庭崩壊、荒れた家庭に生まれてきた子供さんは、仏教の観点からみるとそのような家庭に生まれてくる事自体が、本人の過去の因果関係が影響して本人の責任となるのでしょうか? 虐待受けてきた子供さんに対し、前世だの、ご先祖さまがどうだの本人の意識にもないような話をして、悪人かのように話すことに関して憤りを感じます。一度この件に関して質問したいと思っておりました。この様なご質問あった場合、仏教学ばれた方はどのようなお話しをされているのか様々な児童虐待死亡ニュースありますがそれをどう感じるのか、上記の話でなくても、虐待に関して色んな宗派の方からのご意見を伺えたらと思います。自身、霊能に関して批判非常に多く口閉ざして生きています。こちらの問題に関してどうしてもご意見伺いたく記載しております。ご批判はご遠慮頂けますと助かります。
個人的に仏道に勤しんでいます。凡夫の一考です。 お釈迦様は、思考して達成されたのでしょうか。それとも、言葉で表現できない「体験」で真実を感得されたのでしょうか。 特定の人しか「体験」できない事を伝えたのでしょうか。誰もが「体験」できること伝えたのでしょうか。 過去から現在まで数えきれない人が存在しました。もし、「言葉」を使い、思考するだけで達成できるのなら、ほとんどの人が達成できないわけがありません。日々だれもが思考におぼれるほど思考にお世話になっています。思考によって達成することが正しければ、お釈迦様の達成された過程を「知識」として教われば、だれもが達成できるはずです。 「教外別伝」「不立文字」と言われるように教えはすべて「体験」してもらうための方便だと思います。「知識」と「体験」はまったく異なります。思考して導き出された答には千差万別があり、どれが正解なのかは個人にゆだねられています。一つしかない「真実」にいくつもの答えがあるはずがありません。思考して達成できないことは我々が身を持って実証しています。 静寂とは思考する必要のない状態であり、あるがままを感受して分別を持ち出す必要のない状態、問題がつくられない状態であると推察できます。 そもそもあらゆる対象は「言葉」による「名前」などついていません。「名前」をつけることによって自分と切り離され差別・区別・区分する対象となります。一切は「それ」や「これ」でしかありません。 「名前」をつければ個としての存在を認め個として識別可能なものになります。認識対象となれば、所有の対象としたり、得失や好き嫌いの対象となり、苦しみの種となるだけです。 「真理」という言葉は「真理」ではありません。「真理」という言葉を見たり聞いたり読んだりしても真理を理解することは無理だと思います。 我々の素は、「言葉」など持っていません。だれもが素になることができます。「言葉」を離れた真実と共にあります。
私の実家は、曹洞宗のお寺さんの檀家です。 そのお寺さんに、私自身の戒名をお願いしようと考えています。 しかし、周りから「まだ早い」と言われました。 (私は37歳の既婚です) (主人と、私の実家の家族に「まだ早い」と言われました) 私が戒名を今お願いしようと思ったのには 2つの理由(タイミング)がありました。 ・母の三十三回忌が今年である ・母が亡くなった年齢と同じ年齢になった ちなみに、主人の家族には戒名の話(相談)はしておりません。 30代で戒名をお願いするのは早いのでしょうか? そして既婚であるが故に悩んでいることがあります。 それは、 実家の菩提寺(檀家であるお寺さん)は 私が小さい頃から仏教のことを教えてくださった 大切な存在なので、 ・戒名をお願いする事 も、 ・亡くなった時のお墓 も、そのお寺さんにしたいのです しかし、私は嫁です。嫁ぎ先ではなく、 実家のお寺さんにお願いすることは いけないことなのでしょうか? 拙い文章で申し訳ありません ①戒名をお願いする年齢 ②嫁の立場で実家のお寺さんにお願いする事 についてご教示いただけると幸いです よろしくお願いいたします
お坊さんにおかれましては、一年で一番お忙しい時に恐縮です。いつも具体的で親身な回答ありがとうございます。アドバイスよろしくお願いいたします。 宇宙は「無」から生じたという物理理論があります。宇宙の一切も遡れば所詮は「無」でしかない。 宇宙の一部である我々も「無」ではないでしょうか。 地球においても、創成期から多様な生物が存在していない。単純な単細胞生物から、多様な生物が進化したようです。地球の生命の源を辿れば、一つに繋がっている。気の遠くなるような年月を経て、生存競争を生き抜いた最強の遺伝子を携えた生命が今ここに生きています。 今の我々が、より恵まれたいとかより充実して生きていたいと個々に願うことは、遺伝的な本能から湧き上がる自然の衝動のように思われます。あらゆる生命の刹那の反応は、あらかじめ生命にインプットされた生存欲による自動的なものであると思われます。 我々人間は、生命として生きるために我に固執する「小さき心」が休むことなく働いていることに気づかされます。 「無」から生じた宇宙の一切は無限に広がり、「本来の心」も無限であり穢れのないものと思われます。我欲に縛られた「小さな心」は自由で無限である「本来の心」の一つの現れであると思われます。 「小さき心」が幻であると気づくか、「本来の心」と一体になれば、今まで対峙していた「対象」と「我」という二元の境は無くなると思います。個ということをあまりに重視した生命の本能から脱し、分離など無いとの気づきが訪れるのではないかと思います。 各宗派によって異なると思いますが、全体と一体になるような具体的な修行を教えてください。
いつもお世話になっております。 ここのところ、仕事の関係で4時半起きが続いています。 窓を開け放ち、心地よい朝の風を感じ、薄暗い朝が明けてゆく風景。 お日様が上ったら手を合わすととても気持ちがいいです。 毎朝、雀にパンや米粒をあげていたら、網戸を開ける音で分かるのか、どこからか数羽やってきて、チュンチュンと催促をするのが何とも可愛らしくて。 仕事に行く前に最低限のニュースだけ観てゴシップ系が始まったらTVを消す。 あーだのこーだの余計な情報は要らないのです・・・。 毎日拝読しているhasuhohaお坊さま方のご回答と、 繰り返し読んでいる一冊の禅宗老師の本が私の仏道の全てです。 こんな私も苦労はしています。いろいろあって給料は右から左。 でももう物欲もありません。すっきりとした感覚です。 一日一日、丁寧に過ごせて、ご飯食べれて、 みんなが安寧で過ごしていてくれたらそれで幸せです。 hasunohaの常連様方にも一喜一憂したり。 あー、帰ってきれくれた!(涙)とか。 でも、それはそれ。 このサイトに出逢わなかったら「人のしたことしなかったことを見ないで、自分がしたことしなかったことを見なさい」というお言葉を知らなかったかもしれません。 私にとっては、人生において非常に大きなお教え(教訓?)なのです。 さて本題ですが、この間キーマカレーを作っていたらトントントンという音に合わせて般若心経が何度も頭の中で流れてきました。 しんむーけーげーむーけーげーこー・・・この部分からばかりなのですが。 (何年か前までは普通にJ-POPが流れてましたが(笑)) 時々キッサコさんを聴いていた影響もあるのでしょうかね。 こんな時は流れに乗せて料理を作りながら唱えていたら良いのでしょうか?たぶん延々ですが・・・。 お盆前のお忙しい時節に、お気楽極まりない質問で大変恐縮です。 お手隙の時にお教えいただけると幸いです。 あ・・・仕事・体調不全・恋などに悩んでいる我が娘に、 「こだわりが過ぎると苦しみが大きくなるよ~」とメールしたら、「悪に対しては復讐しかない」と返事がきました。 囚われずに生きていければ少しは楽になるのになと思いながら娘の中にはまだまだマーラが住んでいるようです。 困ったものですが、流れにそってボチボチやっていきます。 (余談になっちゃいました。すみません。)
色々な宗派やお寺(センターも含)に通いましたが、それぞれ、念仏・座禅・護摩壇といったその宗派が継続されているやり方や修行法は知らしめてくださいます。 ただわたくし本人の救い(それ以前の個人の癒し)に関しては、全く触れられません。いや説法(説教)はなさいますが、個人までには掘り下げる法や仕様は皆無でした。 これは、わたくしの経路が特殊すぎたのでしょうか?それとも日本の仏教の特性なのでしょうか?