大学で仏教の事を学んでいる真宗の信徒です。先生には質問しづらい内容ですのでここで質問させてください。 大学で四諦の教えや空の思想を知り、苦しみの生まれるプロセスを理解しました。 ただ私は意思が弱い凡夫ですので、渇愛煩悩を絶つために修行し自力で悟りを得られるような人間ではありません。 やはり阿弥陀仏の本願に縋るしかないと考えております。 しかしながら、偽経について学び、同時に観経が偽経である事を知ると疑いの心が生じてきました。 信じたいと思っているのですが、釈尊が説かれた教えではないものと知ってしまうと、阿弥陀仏は本当に自分を救ってくださるのかどうしても心配になってきます。 この心にどう折り合いをつければ良いでしょうか?
私の父は僧侶をしていました。 真宗の小さなお寺で、職業とは別で兼業していました。 でも、父は酔うと人に暴言を吐いたり、よそで女の人つくったり、言えないくらい、家族に迷惑ばかりかけていました。 私は母と家を出て、今は嫁いで家庭を持っています。 そんな父が急に亡くなりました。 僧をしていたので、父は「仕事」としてお経はあげていました。 悪人正機というのは、悪人であることを自分で認めた凡夫だからこそ救われると聞きました。 悪人であることを最後まで認めなかった父も、救われて仏さまになっているのでしょうか。 でも『地獄と極楽』という絵本を小さい頃読みました。 あの絵本では、生前ひどい人は地獄で苦しんでいました。 もう一つ、仏さまになったとして、その後どのように生活?するのでしょうか。 よく、私たちを見守って導いてくださる、と言いますが、この世でのつながりが深かった人のところに行き導くのでしょうか。 もし私が往生したら、父と同じ世界に行き、また娘としてくらすことになるのでしょうか。 とりとめなくすみません。 父の死も、生前の行いも、もう昔のこととして受け入れていますが、仏教の教えでは、このあとどのように生きているのか気になりました。 よろしくお願いいたします。
黄檗宗について調べているのですが、参考資料が少なく中々進みません。 寺院関係者ではない一般の人の書いた本で、黄檗宗についてのオススメの資料をいくつかご教示願えませんか。 手に入りにくいものでも構いません。高いものでも大丈夫です。ただ、20世紀以降に書かれたものでお願いいたします。
聞きかじりの知識なので正確さを大きく欠いている可能性が御座いますがご了承下さい。 仏教においては輪廻転生が唱えられてはおり、目指すべきは解脱であるため、本来仏教に天国や地獄といったあの世観は存在せず、日本内での布教の際に付随したという話を以前聞きました。 しかしいざ調べてみると、仏教にもあの世観(前世、来世での意味でなく、天国や地獄の意味で)は存在しているという記述を見つけました。 実際に仏教ではどのように考えられているのでしょうか? また、仏教の成り立ちや変遷について学べる読み物が御座いましたらお教えください。
昨年より般若心経を覚えようと、無理のない努力…しいて言うならば覚える過程を楽しみとして過ごしていました。 意味と漢字を意識しながら、通勤途中に「今日はここまで覚えれると良いな」とぼんやりとした目標を決め 仕事中に集中力が切れた際などは、覚えている箇所までを思い出しながら空想にふけり、頭のなかだけで気分転換の世界に入れる為ある意味生活のツールとしても勝手に役立てておりました。 「空」や宇宙のこと、そして色んな事に縛られない、とらわれないという事が仕事等の失敗を小さく感じさせてくれ、非常に日々のストレスを和らげてくれました。 しかしながら、順調に楽しく覚えていったのは良いものの どうしても引っかかるというか覚えられない、身につかない箇所があります。 無有恐怖 から 即説呪曰までがどうしても覚えられないのです。 冒頭から「無罣礙故」までは気が向いた日、時に楽しく覚えていたので1ヶ月半程でおぼえられたのですが、その後が詰まってからそろそろ1年が経過しようとしています。 その部分の意味の内容が自分にとって感銘を受ける度合いが低いのか、はたまた(自分の中で)読みのテンポの雰囲気が変わるからかは解りませんが 何か良い覚え方、考え方はないでしょうか? こんな事にとらわれている事自体がそもそも苦を産んでいるのかもしれませんが…
私は仏教系の学校に通っておりまして学校でいただいたブレスレットのように常につけておける数珠を常につけているのですがその一つが欠けていました そういうものがかけるというのは何かの予兆とかいろいろ聞いたことがありますがどうなんでしょうか? また、高校時代も同じ数珠をもらっていたのでそれを最近引き出しから見つけ2つ数珠をつけていたのですが数珠は1つにしておくべきでしょうか
よく、「お経や真言は修行してない人が唱えてはいけない」とあるのですが本当ですか?
仏画や仏像によくある、仏菩薩の頭上にまた仏菩薩?がいる状態にを何と呼び、また何の意味があるのでしょうか?
お世話になります。 お題目の なむみょうほうれんげきょう と、 なんみょうほうれんげきょう の違いを教えてください。
こんばんは。 以前よりこちらのサイトにお世話になっておりますゆうでございます。 さて、在家出家はずっと思っていたこともあり、そして長年悩み続けた悪縁とも縁がきれ、最小限の浮世のつながりとなりました。今もっとも心は自分が出家するタイミングなのではないかと思っています。 いっそ本当であれば何もかも捨てて、出家をしたいとは思いますが、まだ子供が幼いために、在家での出家を望んでおります。 私の実家の菩提寺は臨済宗ですが、なぜか小さなころからご縁があるのが真言宗です。臨済宗、真言宗、どちらも素晴らしい宗派と思っております。 真言宗とのご縁をとるか、臨済宗の教えをとるか悩んでおります。 この時点で悩んでいる私などが在家出家する資格があるのかとも思いますが、どちらかを選ぶ手段と在家出家の仕方など教えてください。
悩みが多かった時、お釈迦さまは静かに座り自分の心の隅々まで不安を追い掛けて徹底的に潰していったと聞きました。 具体的には、どのようなことをしたのでしょうか。 同じようなことをしようとは思ってはいませんが、知識として気になったので、投稿しました。
お寺の雰囲気や、そんなに詳しくは無いけれど仏像が好きで、時々京都の街を徘徊❓しています。 写経をしたり、とにかくあの空気が大好きなのですが、あちこちの宗派が入り混じってしまって、ふと、いいんだろうか……❓と思ってしまいます(-。-; 気にし過ぎですか❓
この前はいいへんじをもらい誠に有難うございます。 この前の話と言っても夢の話で そのこの前の話の内容がじいちゃんが夢に出て来てお前は足を壊すからあの世に連れていくと言われました。 するともう一回じいちゃんの夢を見て、じいちゃん本体は出てきてないんですけど父さんが急に自分の部屋に上がってきて父さんもおなじ夢を見たってゆったんですよそうすると父さんよりも速く階段をおりようとすると変な力で体が浮いて見たことのない縄が天井につけられてて、首をつったんですよ 死んだじいちゃんに殺される夢を2回見てしまってこれはおかしいぞと思って書きました。 いいへんじをまってます。
初めましてどうぞ宜しくお願い致します。 私はこの世の苦しさ不条理を思い出家したく思いますが、神様が居るとは信じておりません。 また仏教の輪廻転生などは心より信じたくないです。 出家をするにあたり釈迦の言った教えに近い宗派はございますでしょうか? また剃髪をしなくても良い宗派はございますでしょうか? ご回答宜しくお願い致します。
私は特に何かの宗教、宗派に属している訳ではありませんが、初詣などは神社に行くし身内のお墓はお寺にあるし、クリスマスは何となく特別な感じがしてケーキを買ってきます。 こういう状態は海外の人には驚かれるみたいですが、お坊さんから見ても変なことだとかけしらかん!と思うのですか? 私は正直あまり宗教は詳しくないですがそれぞれの考えを聞くとなるほど、と思うこともあってどれか一つに絞って信じるのは出来そうにありません。これっておかしい、いけないことですか?
こんにちは 初めて書きますので漢字とか間違ってたら暖かい目で見てください。 初めてなんでどうしたらいいのかわからないんですけど、最近祖父をなくしたばっかででも特に祖父とは別々に暮らしてていつも日曜日になると介護しに行ったんですけど昨日その祖父が夢に出て来てこう言われました。 お前は近いうちに足を壊すだから連れていくと言われ、こわくって体が震えてますこれはどうしたらいいんでしょうか間だ死にたくありません。どうかいい答えを待ってます。
独坐しています。そのため、修行に確信が持てません。 現在住んでいる場所は、土地がら坐禅会などの機会があまりなく、 正師を得るには県外の坐禅会などに参加するしかありません。 道を得るためですから、その機会を作ろうと思っています。 ただ、経済的な事情もあり、そうそう師を尋ね歩くこともままなりません。 何よりも、大した境涯でもない自分が、師の力量をはかれるとも到底思えません。 そのような私が正師を得るにはどうしたらいいでしょうか。
毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。
まず、煩悩を極力減らしていくこと、苦を滅することが仏教のお教えですか? だとすると、「人」である限り煩悩や苦しみを完全に滅することは不可能であります。 何故なら、自分と他人、自分と世界は分かれたものであるという分離感こそが個人の正体だからです。 個人=分離した存在、なので苦しみは必ず存在します。 (本当は分離していないので、見かけ上の苦しみですが) では仏教のお教えのゴールとしては「人でなくなること」なんでしょうか。。
五蘊という言葉を聞いたことがあります。 これらの要素が「私」を構成しているものだとしても、これらを「私のもの」としてリンクさせる力はどこから来るのでしょうか? 例えば「私の思考」「私の感覚」「私の体」というように、なんでも個人的にしてしまう力です。 もちろん人間の発達した脳のせい、とも言えると思います。 では、脳に損傷を負ってしまった人や、痴呆が進んで自分のことがわからなくなってしまった人は、いわば悟りに近い状態ということ? 自分のことがわからない「自分」、が残るので、違うんじゃないかと思いますが、皆さまはどう捉えますでしょうか? 科学的なことはさっぱり分かりませんが、脳の仕組みとはまた別に「経験を個人的に所有する力」について、仏教の視点からご教授いただきたいです。 よろしくお願いいたします。